今なぜ空海なのか 内海 清美
現在、私たちを取りまく社会現象を見わたしてみますと、ことの多くがある一つの方向、一つの価値観に向き過ぎ、その結果、思いもよらぬ翳り
⇒記事を見る
第一章 空海以前
ものみなすべて、いのちをもつという多神教的自然崇拝の思想は、森と共存してきた我々の祖先の縄文時代から、わが国固有の宗教意識として存
⇒記事を見る
第二章 真魚[まお]の誕生
宝亀五年(七七四)<不空三蔵が入滅した日>四国の讃岐国多度郡屏風が浦で名門一族の父・佐伯直田公[さえきのあたいたきみ](善通)と母・玉寄
⇒記事を見る
第三章 奇瑞[きずい]--真魚の奇跡
貴物と呼ばれ神童のほまれ高い真魚少年は、七歳の時、讃岐国の、険しい山によじ登り、"私は天に呼ばれて生まれてきたのだ。だから、ほん
⇒記事を見る
第四章 奈良の真魚
この頃の奈良の都は咲く花の匂うがごとき盛りはすでに過ぎ、一部の貴族や僧侶、神官たちが国家転覆を謀る政情不安が続き、南都六宗の力も
⇒記事を見る
第五章 大瀧獄[だいりゅうだけ]
二十四歳で「三教指帰」を著してから三十一歳で遣唐船に乗るまでの七年間は謎とされ、歴史の表舞台から姿を消すことになります。
南
⇒記事を見る
第六章 室戸岬
虚空蔵求聞持法の真言は根本最勝心陀羅尼[こんぽんさいしょうしんだらに]で、
"ナウボウ アキャシヤ ギャラバヤ オン アリ
⇒記事を見る
第七章 天変−艱難[かんなん]の遣唐船
空海は仏道に入って後、三乗・五乗・十二部といわれる経典や、古密教と呼ばれる雑部密教経典をとり入れ、学びますが、心の疑念は一向に晴れません。
⇒記事を見る
第八章 大唐長安
空海一行が赤岸鎮から大陸を縦断し、国際都市長安に入ったのは四ヵ月余後のことでした。
長安は唐朝最後の爛熟期を迎え、外
⇒記事を見る
第九章 大いなる構想の時
大同元年(八〇六)判官遠成一行と共に帰国した空海は筑紫の太宰府か観世音寺に止住したといわれますが、定かではありません。帰国後の京
⇒記事を見る
第十章 即身成仏
嵯峨天皇は南都六宗と北嶺(比叡山)の高僧、および空海の八人を宮中の清涼殿に召集、それぞれの宗旨の真髄を聴聞します。これは八宗論と
⇒記事を見る
第十一章 最澄−出会いと訣別
平安仏教界宿命のライバルで二大巨星といえば最澄と空海です。最澄は平安京の北東(鬼門)比叡山をおさえ、空海は北西の高雄山をおさえる
⇒記事を見る
第十二章 怨霊降伏・御修法・薬子の変
奈良時代の末期は貴族や僧侶、神官たちが国家転覆を謀り、時の天皇や権力者を呪詛する政争が数多く発生しました。
皇位継承の呪詛事件
⇒記事を見る
第十三章 高野山金剛峯寺[こんごうぶじ]建立
空海の密教は、他の宗派と異なり教理の学習にとどまらず、修禅観法による真理の神秘直観にあるため、それに適した場所が重要になります。
⇒記事を見る
第十四章 満濃池[まんのういけ]の修復
空海の故郷、讃岐国の満濃池は日照り洪水に備え灌漑用に作られました。
周囲は山林に囲まれ、入江が多く水深もあり、水量も多いため、水圧が高
⇒記事を見る
第十五章 和と漢
前の時代から遣唐使によってもたらされた高い中国文化の移入により律令体制も整い、建築や生活にも唐風化が進みました。
平安時代初期を代表す
⇒記事を見る
第十六章 三筆鼎談[さんぴつていだん]
嵯峨天皇、空海、橘逸勢を平安の三筆といいます。
空海の青年時代に執筆した「聾瞽指帰[ろうこしいき]」には、すでに王義
⇒記事を見る
第十七章 東寺の密教活動と庶民教育
弘仁十四年(八二三)嵯峨天皇は藤原良房を遣わし、空海に京都東寺を給与します。それから約十年間空海は、高野山に帰るまで障害のうちで
⇒記事を見る
第十八章 秘密曼荼羅十住心論
日本の密教の教理は空海の教理で、空海はこの教理に関し多くの著述を残しました。
密教と顕教とを明らかにしようと説いた「弁顕密二
⇒記事を見る
第十九章 兜率天[とそつてん]へ
空海という人物を語るとき、人はさまざまに言います。
矛盾の人、闘う人、多面体の人、宇宙飛行士、行動の人と。
現実的、社会
⇒記事を見る
内海さんの略年譜
内海清美(うちうみきよはる/人形彫塑師)
1937年(昭和12年)
東京生まれ
1956年(昭
⇒記事を見る