皇位継承の呪詛事件の続くなか、新たに即位した桓武天皇は怨霊の祟りを恐れ、平城京を捨て長岡京に移します。しかし、ここでも呪いの発生のため、平安遷都という歴史的大転換を決意しました。
怨霊の時代ともいえる平安時代は呪いの時代として始まりました。従って国家成立のために、新しい強力な知識と力を持った呪術師が必要となります。
鎮護国家の主流は僧が大集合して経典を誦す「法会」に置かれ、まず最澄が重んじられていました。
次いで、唐より帰った空海が修行で獲得した呪法によって、雨を降らせ、疫病を追放し、遠方の外敵を退散、平定させる具体的な効果を積極的に説き、目的に応じた儀礼を整えました。
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折から平城上皇の寵を得ていた藤原の薬子は兄仲成と共謀し上皇の皇位復活のため、再び奈良遷都を企てますが発覚し、仲成は殺され薬子は自害、上皇は出家 しこの変は落着します。これが薬子の変です。この事件直後、空海は嵯峨天皇から高雄山寺で、鎮護国家の修法の勅許を得て実修します。
変直後のこの修法は絶好のタイミングだったといわれています。
空海は国家のために壇を建て、法を修すること五十一回に及んだといわれています。
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またこの時代の民衆がいだいた空海のイメージは呪術師として呪法のスペシャリストというものであったようです。当時は山林修行者の呪術が 現世利益として民衆に強く支持されていたことを空海は十分知っていたといわれ、密教によって当時の貴族も民衆も引きつけていたということになります。