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第八章 大唐長安


第八章・写真1

 空海一行が赤岸鎮から大陸を縦断し、国際都市長安に入ったのは四ヵ月余後のことでした。

 長安は唐朝最後の爛熟期を迎え、外からの文化の流入が頂上に達していました。

 空海は三十年前から止宿していた日本僧永忠[えいちゅう]と入れ替わり西明寺に入ります。そこを拠点に醴泉寺をはじめ、仏教を中心とした寺々や祆教[けんきょう](ゾロアスター教)、マニ教、景教、回教など西来の異教の寺院などを見学し、護摩のルーツとして特に祆教の火をみたものと思われます。

 そのほか仏教、儒教、道教のうちの経・律・論・疏・伝記ないし、詩、賦、碑、銘、卜[うらない]、医、五明(インドの諸科学)をはじめ、およそ人々の知 識を増進し、幸福をもたらすあらゆる種類の書物美術品にもふれます。空海は、魅力あふれるこの大都市の文化を呼吸し、唐朝の招待などに酔い、宗教の坩堝 [るつぼ]、学問・人種の坩堝の中に入っていきます。そのエネルギーはマグマとなって噴出したことでしょう。

 こうした日々を送りつつ、やがて青龍寺を訪れる日が満ちて来ます。万端を整えた空海はその年の五月、青龍寺を訪れ、恵果[けいか]和尚と劇的な対面をします。

 空海はただちに、胎蔵・金剛両部密教の秘法の研鑚にあけくれ、不眠不休の学習と行動が驚異的な密教の受法を可能にし、ほどなく両部密教を正嫡恵果から相承しました。空海は真言密教の第八祖となったのです。

 このように恵果から空海に中国密教界最大最上の付法が与えられようとは、空海は予想できなかったことかもしれません。

 異邦僧をまじえた恵果の門人一千人の中から空海が選ばれたのは恵果の英断であったといわねばならないでしょう。また空海の全身から発揮する悠揚迫らぬ気配がそうさせたのかもしれません。

 しかし、空海はここに留学生として二十年間留まるところを、たった二年に圧縮して切り上げ帰国することになります。この決断こそ空海の生涯を決する賭だったのです。

 長安での成果と数々の教典、マンダラ、仏画、法具をもって、判官高階速成一行の船に乗り、橘逸勢とともに帰国の途につきます。


第八章・写真2
◎空海は醴泉寺で、華厳経を訳了した北インド出身の般若三蔵に師事しサンスクリット語や声明を学び、青龍寺の恵果和尚に会う指示を仰ぎます。

第八章・写真3
◎空海は宮廷に招かれ、壁面に著した筆跡があまりに名筆だったため「五筆和尚」の呼称を与えられたといいいます。書は韓方明に学び顔真卿の影響もあるといわれ、製筆法も学んでいたといわれます。

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