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第十一章 最澄−出会いと訣別

第十一章・写真1  平安仏教界宿命のライバルで二大巨星といえば最澄と空海です。最澄は平安京の北東(鬼門)比叡山をおさえ、空海は北西の高雄山をおさえる構図になります。

 最澄は空海より七歳年長であり、先に社会的地位を得ていましたが、空海が唐からもたらした密教に関する「請来目録[しょうらいもくろく]」を見るに及ん で空海の存在に驚きます。そしてみずからの密教の所伝に欠けるところを自覚し、一世の師長たる身分にもこだわらず、一介の青年僧空海に教えを乞い、かれを 戒師と仰ぎ灌頂を受けます。

 空海も最澄に対し、先輩として平安仏教界の代表者としての礼を尽くし、親しく交際を始めます。

 最澄は空海に教えを乞いつつ、書物を借覧し、文通をし、この報恩として空海を和気真綱に引き合わせ高雄山寺を斡旋したといわれていま す。空海が平安仏教界の双璧の一人になれたのは、前後三回のこの高雄山寺の灌頂によるもので、最澄よりすぐれた密教の阿闍梨であることを証明できたことに よります。

 仏教界最高峰で名実ともに指導者である最澄が空海に教えを乞うことは、一般社会にはかりしれない衝撃を与えました。

 たちまち朝野の名士が空海の仏弟子となり、東大寺を中心とした南都諸大寺の名だたる学匠までが空海の下に参じます。これはひとえに最澄 の影響だったということができます。こうして空海の位置は不動となり、高雄山寺の真言教団を中心にはなばなしい活動の基礎ができ上がります。最澄はなおも 仏典の借覧、教えを受けつつ阿闍梨灌頂の伝授を申し出ますが、密教の深秘[じんぴ]に参入するには更に実修が必要であるといわれ、高弟の泰範[たいはん] を残し比叡山へ帰ります。そして最後に「理趣釈経」の借用を申し出ます。

第十一章・写真2  空海はこれをきっぱり拒絶します。これは仏教の根本理念に対する基本的態度、すなわち教法は文字、文献上で理解するか、たんにそれだけにとどまらず実修、 実践することによっても体得しなければならない、とする両者の性格の違い−典型的な求道者タイプと、たんに宗教者に収まりきれない多次元的タイプ−が表面 化したことによります。この「理趣釈経」借覧の空海の拒絶は厳めて手きびしく、また最澄の愛弟子泰範の比叡山への帰還拒否は空海が泰範に代って筆をとると いうすさまじいもので、ここで最澄との関係は決定的に終止符を打つことになります。


◎最澄は奈良の既成仏教を超えた新しい宗派を開くため、日本仏教の源流の中にある「法華経」に教学的権威を求める復古主義的態度をとりました。そして文字、文献の上に道を求めました。

しかし、桓武天皇はじめ時代が望んだものは密教であったのです。空海は奈良の旧仏教を克服する道を仏教の歴史的理論的な必然的展開の中に求め、新しい密教に統合する発展主義的態度をとりました。

密教の考え方の一つに、宇宙は地水火風空の五つの物質的要素と識という精神的要素で構成されているというのがあります(五大あるいは六大といいます)。

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