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三教指帰

 『三教指帰』は弘法大師空海が延暦16年(797)12月に作ったように書いてあり、空海24歳の時の作品である。けれどもほとんど同じ内容の『聾瞽指帰』も同年月の作となっている。その両者を比べてみると、その相違は序文と巻末の十韻の詩はちがうが、その他の大部分ではほんの少し字句をかえている。そして細かく比較したところ、『聾瞽指帰』が原作で、『三教指帰』はそれを書き改めたように見える。前者における誤字を後者で訂正している箇所があるから、『三教指帰』は後に修正されたものと考えてよい。

 巻上 亀毛先生論
 中国の古典に通じ雄弁である亀毛先生が兎角公の邸に来る。公の外戚の甥に蛭牙という不良少年がいる。賭博や狩猟を事とし、不道徳で酒色に耽る者である。兎角公は亀毛先生に蛭牙を矯正して欲しいと依頼する。亀毛はいう。賢者は少なくて、悪に耽る者が多いけれども、人は教えによってその性を直すことができる。蛭牙は孝行でなく、狩猟・博奕を好み、肉食し、酒を飲み酩酊する。好色であり、学問に怠惰で、信心がなく、人の悪口をいう。美食をし、ぜいたくで、親族に対して同情心がない。このような悪行を止めよ。孝行にはげめば名声を得るであろう。忠義をせよ、儒教の経典を読め、書道を習い射術を習え。戦術を学び農業にはげめ、慎み深く廉潔であれ。医術を習え。仁義礼智信にはげめよ。そうすれば名声をはせ、いろいろの方面で成功をおさめ、この世の幸福を得るであろう。そこで蛭牙公子は納得して教訓にしたがう決意を表明する。

 巻中 虚亡隠士論
 兎角公、亀毛先生、蛭牙公子の三人が虚亡隠士に天尊の隠術、養生久存の術を問う。隠士がいう。秦の始皇帝や漢の武帝は長寿不死を求めたが、一方では肉欲にふけり、女を近づけていたのは誤りであった。唾液も精液も出すな。貪欲をはなれよ、つつしめ、美食をするな。孝であれ、仁慈をもて。女にふけるな。禄を貪るな。断つべきものは五穀、五辛、酒、肉、婦女、歌舞、はげしい喜怒哀楽。大切なのは道教が教えるいろいろな薬品、食餌による養生である。そうすれば若返り、命を延ばし、また水上を歩み、鬼神を使い、天空にのぼる。命は天地日月のように長い。虚亡隠士がこれだけを説くと、三人は道教が儒教よりすぐれる所以を了解した。

 巻下 仮名乞児論
 仮名乞児は頭を剃り、風采があがらず、妙なものをもっている。山林に入って霜を払って菜を食い、雪を払って肱を枕とする苦行者である。他の人が仮名にいうには、人間の行為で最も大切なのは忠孝である。しかるに貴方が父母に仕えず乞食の中に混っているのは恥辱ではないか、という批評に対し、乞児は答える。直接両親に仕えなくても、天下のためにつくせばそれは大孝である。乞児が何処の出身であるかという質問に対し、三界に輪廻転生するわれわれは、行為の善悪によって何処に生まれるかわからないから、定まった住所や身分はないという。
 無常の賦――――また仏教の説く諸行の無常を、感動させるような美しいことばで説く。劫の終りには世界はすべて滅びる。人間の身体ははかなく空しい。四苦八苦によって心は悩まされる。煩悩はいつも盛んである。美人の婉麗な眉白い歯は落ち、花のような眼や耳はつぶれ、赤い唇やきれいな瞼は鳥についばまれる。黒髪や白い手は腐敗し、九孔から臭液が流れ出る。愛すべき妻子もはかなく消え、立派な衣も長く愛するに足らない。宏大な建築も久しく続かない。墓場こそ人間が久しく止まる場所である。無常の風は神仙を論ぜず、貴賎を問わない。誰も死を免れることはできない。
 受報の詞――――死骸は墓でくさり、霊魂は地獄におちて釜の中で煮られ、また刀で切られ熱輪に轢かれ、湯や鉄火を喉に入れられ、獅子や虎狼に食われ、朝な夕な苦しみの叫びをあげる。閻魔王に頼んでも無駄である。なんと悲しいことであろう。

 これを聞いて亀毛らは腹わたを焼かれるような悲しく痛ましい気持になり、悶絶した。「われわれは久しく瓦礫のような教えを信じていたが、今あなたの慈悲深い教えによって私の道が浅膚であったこと知った」。そこで仮名は重ねて「生死海の賦」と「大菩提の果」を説く。
 生死海の賦――――三界は極まりなくひろい。その中に万類をふくむ。その有様はまことに盛んである。その中の魚類は貪欲が限りなく、口を開いて食を求める。離欲の船も、慈悲の船もそこに沈む。鳥類は悪行が限りなく、十悪に沈み、正直・廉潔をついばみ、小動物を食う。しかし矢に当って血を流す。禽獣は憍慢・忿怒・嫉妬・自讃・毀他・放逸などの数々の悪行を行い、互いに殺し合う。このように、動物たちが、上は有頂天から下は無間地獄に至るまで櫛の歯のようにずらりと並ぶ。すべてのものは苦しみ悩む。
 大菩提の果――――だから覚りを求める心(菩提心)を起し、最上の果報を仰がねばならない。六波羅蜜を筏とし、八正道の舟にのって愛欲の海をわたり、七覚支の馬にまたがり、四念処の車にのって迷いの世界を越えねばならない。そうすれば、十地の菩薩が修行する長い道も僅かの時間で経つくし、無限に長い劫も究めることは難しくない。そうして煩悩を転じて菩提を得ることができる。

 しかし、菩薩の四つの大きな誓願がまだ成就しないのに、衆生は苦海に苦しむ。そこで仏は百億の国土に百億の応化身を出現させ、釈尊の八相成道をもって衆生を済度する。そこで一切衆生は縁に従って仏教に帰依する。天龍八部衆は仏徳を讃えて詠唱する。仏は一音をもって仏法を説き、衆生の邪見を摧き、甘露の法雨をふらして有情を救う。衆生は仏の教えを聞いて欣ぶ。以上が仏教のあらましである。神仙の小術などはこれに比すれば取るに足らない。
 そこで亀毛らは恐れ恥入り、哀しみ、また笑う。要するに仮名乞児の教えにすっかり感心して、これを受け入れ、同時に周孔、老荘の教えは浅薄であることを知った。最後に三教をまとめる十韻の詩を作って終りとする。

 『三教指帰』は六朝時代から中国で行われた四六駢儷体、または四六文の典型ともいうべきで、散文の中に脚韻をふくみ、対句が多く、ひじょうに華麗である。また三史、五経などの正統漢文の作品、多くの仏教経典などから数限りもない故事を引用し、それをはさみこんで表現するから、注釈によってその故事が何であるかを知らなければ、理解は困難である。

(『弘法大師空海全集』第6巻(筑摩書房、1984年)解説、山本智教)


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【参考文献】
★『三教指帰』日本古典文学大系(岩波書店、1965年)
★『弘法大師著作全集』第3巻(山喜房佛書林、1973年)
★『弘法大師空海全集』第6巻(筑摩書房、1984年)

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