『秘密曼荼羅十住心論』(略称『十住心論』)十巻は、『秘蔵宝鑰』(略称『宝鑰』)三巻とともに、空海の主著である。古来、前者を広論、後者を略論と称しているように、内容的に密接な関係にある。『十住心論』がさきに著わされ、『宝鑰』はその厖大な引用文などの大半を省略し、叙述も簡潔である。
十住心とは、低次元の心の世界から高次元の心の世界へと次第に進展し向上する過程を、かりに十段階に分けたものである。
(1)異生羝羊心
異生は異なった生を受ける者の意で、凡夫、すなわちなみの者の別称。羝羊は雄羊。雄羊がただ性と食に対する欲望をもって生きているだけにすぎないのに喩える。
六道とよばれる迷いの世界に輪廻転生する地獄・餓鬼・畜生・阿修羅、およびひたすら悪しき行為をつづける人間の世界が、異生に属する。
(略)なお、この住心の終りで、『大日経』に説くバラモン教などの三十種外道の説を紹介している。これらは実体的な自我の存在を主張し、原因・条件(因縁)によってすべては成立していることを知らない点で、ひとしく異生とにましたものである。
(2)愚童持斎心
愚童は愚かな少年。持斎は斎を持つということで、節食して他の者におのれの食物を施すことを意味する。
(略)施与の行為が人倫の道のはじまりであり、ついで六種の善き心(六心)、仏・法・僧の三宝への帰依、五常・五戒・八戒・十善戒が説かれる。これらの儒教道徳、仏教の戒の実践が、この住心の主題をなすのであるが、さらに人間としての存在が果報として受けるものとしての国王のあり方が取りあげられる。
(3)嬰童無畏心
道徳、倫理を超え、宗教的な理想の世界に生まれることを願う住心である。いわば、宗教心の目ざめの段階である。
そこで、宗教的実践の具体的なものとして、インドのサーンキヤ哲学、ヴァイシェーシカ哲学、ヒンドゥー教の獣主派、ジャイナ教など、いわゆる十六種外道とよばれるところのバラモン教その他の宗教・哲学などが紹介される。それらは宗教的実践として何らかの瞑想を説き、天界に生まれることを願う点では共通的であるとみなしている。
(略)昇天思想に関連して、現世における行為の報いとして生まれる天界および天界の神々の重層的な世界観が説かれる。そして、これまで説いた三つの住心は、すべて曼荼羅の外金剛部に位置するものであって、いずれも大日如来の個別的な部門として開かれているものにほかならないとする。
以上は、古来、世間三箇の住心とよばれるもので、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の迷いの世界(六道)がそれぞれに当てはめられていることが知られよう。
次の住心からは仏教、すなわち世間を越えた世界(出世間)に属する。
(4)唯蘊無我心
自我の実体を否定するために、色・受・想・行・識の五つの存在要素(五蘊)のみが仮に和合したものにすぎない、とする。
これは声聞の教えである。実体的な自我の存在を否定する点で、バラモン教を越えて仏教に入る初門である。そこで、声聞のさまざまな実践修行の階梯が説かれ、一種の小乗仏教概論の観を呈する。しかし、声聞の住心とてもまた、密教の深秘の解釈によれば、声聞の真言が説かれているように、大日如来の有する万徳のなかに一つの徳性にほかならない。
(5)抜業因種心
(略)縁覚の住心である。この住心の抜業因種は、『大日経』住心品に、「業と煩悩の根本、すなわち根源的無知(無明)の種子から次第に十二因縁が生起するのを抜除する」と説かれるのにもとづく。また「(声聞はただ無明の現象を除くだけだが、縁覚はさらにその根本を断って)新しい業の生起するのを完全に除く」といわれるように、同じく小乗仏教の立場にありながら、声聞と縁覚とでは、その瞑想の浅い深いとに差があるとされる。
次に、顕密の諸経論を引用して、この住心を明らかにする。
しかし、小乗は実体的な自我を否定し得ても、またすべての存在の構成要素である法を固定的な実体として、それに執われているものである。また、自己の修行に終始するだけで、他を利益する大悲のはたらきを欠くので、ナーガールジュナ(龍樹)の『菩提心論』、同じく『十住毘婆娑論』を引用して、これら二乗を誡めるのである。
しかし、密教では縁覚の真言が説かれるように、深秘の解釈からすれば、「また法身仏の一つのものであり、宇宙に遍満する無数の徳性の一つである」。
(6)他縁大乗心
(略)奈良の法相宗に当てはめられる。したがってまた、インドにおける大乗仏教で は唯識派が、これに該当する。
次に、法相宗(唯識)の五位、すなわち資糧位・加行位・通達位・修習位・究竟位を紹介し、さらに、唯識哲学の大綱が諸経論を引用することによって体系的に説かれる。
この住心は法相唯識ではあるが、深秘の解釈によれば、「上述の無縁乗(他縁大乗心)の教えは、すなわちこれは弥勒菩薩の瞑想の門である。この瞑想はいわゆる大いなる慈しみの瞑想である。またこれは大日如来の四つの行為のうちの一つである。すべての如来の大いなる慈しみが無量であるのを、ことごとく弥勒(慈氏)と名づける」として、弥勒菩薩の真言を掲げる。
(7)覚心不生心
第六住心は修行段階には五位、宗教的素質には五性(声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無種性)が隔たり分かれていることを説き、認識対象の実在を否定しながら、まだ唯識にとどこおるものである。これに対して、第七住心は心性が不生であるとさとるものである、とする。
宗派は三論宗がこれに該当するが、インドの大乗仏教では中観派がこれに当たる。
中観派の開祖ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』冒頭に示される八つの否定(八不)にもとづき、『大乗玄論』『三論玄義』『中論』『百論』『十二門論』などによってこの住心の趣旨を説明し、最後に『中論』における「中」の意味を解明する。そして、深秘の解釈によって、「いわゆる心は生起しないと覚る心のありかたの教えの門は、これは文殊師利菩薩の瞑想の門である」として文殊の真言を掲げ、文殊の説くところの般若の智慧について、「この偉大なる智慧はまた、大日如来の無限の徳性の一つである」とする。
(8)一道無為心
この住心は如実知自心または空性無境心ともいう。
一道は一仏乗、すなわち法華一乗、無為はさとりの真実の世界を意味し、この住心は宗派では天台宗に当てはめられる。
この天台宗は、中国の唐代における十三宗のうちの天台宗、ならびに最澄の開いたわが国の天台宗(新天台宗)をさす。
まず、この住心を『大日経』ならびに『大日経疏』によって説明し、次に智顗の観心門(1)観不可思議境、(2)破法遍、(3)無法愛)を紹介する。
最後に、深秘の解釈を与えていう。
(略)そして観自在の真言および『法華経』の題名の梵名について、密教的な解釈を与えている。
(9)極無自性心
この住心の極無自性の説明はとくにないので、その読み方には、「極めて自性無し」もしくは「自性無きを極む」が一つ、もう一つは「極は自性無し」という二通りが伝えられている。
第一の読み方は、この住心が顕教の究極であり、しかも一般に仏教では、条件によって生起するものはそれ自体の固定した本性がないこと、すなわち縁起無自性を説くが、その至極を説くのがこの住心である、と解するものである。この場合、華厳哲学の重々無尽の法界縁起が予想されることはいうまでもないであろう。
第二の「極は自性無し」という場合の「極」は第八住心であるが、それを至極とせず、さらに第十住心まで進展するためには第九住心が媒介となるから、そうした連続した心が生ずること(心続生)を無自性としたものである、と。
『大日経』『大日経疏』、法蔵の『華厳五教章』、『金剛頂経』などにこの住心の典拠を求め、法蔵の『金師子章』、澄観の『新華厳経疏』、杜順の『華厳五教止観』などを引用して、華厳の教義を明らかにしている。
最後に、「これまでに説いたところの極無自性住心とは、これは普賢菩薩がさとったところの瞑想の世界である。またこれは偉大な毘盧遮那(大日)如来のさとりの心の一部門である」として、普賢菩薩の真言を示す。そして最後に、『理趣経』『理趣釈経』『大乗起信論』『釈摩訶衍論』『守護国界主経』などを引用し、字義を観想すべきであるとする。
(10)秘密荘厳心
まず最初に、この住心は密教の曼荼羅の世界であることを次のように端的にのべていう。
秘密荘厳心とは、すなわちこれをつきつめていえば、自らの心の源底を覚知し、ありのままに自らの身体の数量を証悟するのである。いわゆる胎蔵海会の曼荼羅と金剛海会の曼荼羅とがこれである。
このように、秘密荘厳心は曼荼羅の世界として表現されるものであって、それは『大日経』住心品に「いかなるか菩提、いはく、実の如く自心を知る」とあるように、一言でいえば、さとりの世界であり、実の如く自心を知ることにほかならない。
(略)心の発達の順序が十住心体系で、それはまさに背暗向明のはたらきなのである。
(略)竪の構造を見ると、顕教から密教への階梯が示唆されている。十住心体系の構成からすれば、第一住心より第九住心のすべての顕教より第十住心の密教に到達するのはまさしく背暗向明である。
(略)これに対して、横の構造によると、衆生の心身の究極は無量の心識・無量の身があるとする。それは密教においてすべての顕教が包摂され、統合されていることにほかならない。
(略)横の構造は九顕十密といわれるように、第一住心より第九住心までは確かに顕教ではあるけれども、深い密教的な解釈からすればことごとくが密教であるという。
(略)竪の構造は九顕一密とよぶように、第一住心から第九住心までは顕教で、第十住心が密教である。したがって顕教と密教とは、いわば次元を異にしたものであるといえよう。
(『弘法大師空海全集』第1巻(筑摩書房、1983年)解説抜粋、宮坂宥勝)
【要文名句】
●異生羝羊心とは、これすなわち凡夫善悪を知らざるの迷心、愚者因果を信ぜざるの妄執なり。我我所の執を常に胸臆に懐き、虚妄分別を鎮えに心意に蘊めり。陽焔を逐うてしかして渇愛し、華燭を払ってしかして身を焼く。すでに羝羊の草淫を思うに同じく、かえって孩童の水月を愛するに似たり。
●愚童持斎心とは、すなわちこれ人趣善心の萠兆、凡夫帰源の濫觴なり。万劫の寂種、春雷に遇うて甲圻け、一念の善機、時雨に沐して牙を吐く。歓喜を節食に発し、檀施を親疎に行ず。少欲の想はじめて生じ、知足の心やや発る。高徳を見て尊重し、伎楽を具して供養す。過を知りて必ず改め、賢を見て斉しからんと思い、初めて因果を信じ、ようやく罪福を諾う。親親に孝し、忠を国主に竭す。
●嬰童は初心によって名を得、無畏は脱縛の約して称をたつ。
●故に仏、声聞を求むる者のために、人空法有の理を説きたまえり。いわゆる人とはすなわち人我等なり。法とはすなわち五蘊等の法なり。この唯蘊無我の一句の中に小乗の法を摂しつくす。故に今、声聞乗を唯蘊無我住心と名づくるなり。
●抜業因種心とは、麟角の所証、部行の所行なり。因縁を十二に観じ、生死を四五に厭う。かの華葉を見て四相の無常を覚り、この林落に住して三昧を無言に証す。業悩の株杌これにより抜き、無明の種子これによって断ず。
●ここに大士の法あり、樹てて他縁乗と号す。建爪を越えて高く昇り、声縁を超えて広く運ぶ。二空・三性、自執の塵を洗い、四量・四摂、他利の行を済う。陀那の深細を思惟し、幻焔の似心に専注す。
(略)等持の城築いて唯識の将を安んじ、魔旬の仗陣を征って煩悩の賊帥を伐つ。
●権実の二智は円覚を一如に証し、真俗の両諦は教理を絶中に得。心性の不生を悟り、境智の不異を知る。これすなわち南宗の綱領なり。
●一道無為住心は、これ観自在菩薩の三摩地門なり。所以に観自在菩薩の手に蓮華を執っ て、一切衆生の身心の中に本来清浄の理あることを表す。無明三毒の泥中に沈淪し、六趣四生の垢穢に往来すといえども、染せず垢ならざることなおし蓮華のごとし。この本来清浄の理を一道無為と名づく。
●この因この心、前の顕教に望むれば極果なり、後の秘心においては初心なり。初発心の時にすなわち正覚を成ずること、よろしくそれしかるべし。初心の仏、その徳不思議なり。万徳始めて顕われ、一心やや現ず。
(略)盧舎那仏始め成道の時、第二七日に普賢等の諸大菩薩等と広くこの義を談じたまえり。これすなわちいわゆる『華厳経』なり。しかればすなわち華蔵を苞ねてもって家となし、法界を籠めて国となす。七処に座を荘り、八会に経を開く。この海印三昧に入って法性の円融を観じ、かの山王の機を照らして、心仏の不異を示す。九世を刹那に摂して一念を多劫に舒ぶ。一多相入し理事相通ず。帝網をその重々に譬え、錠光をその隠々に喩う。
●秘密荘厳心とは、すなわちこれ究竟じて自心の源底を覚知し、実のごとく自身の数量を証悟す。いわゆる胎蔵海会の曼荼羅と、金剛海会の曼荼羅とこれなり。かくのごとくの曼荼羅に、おのおのに四種曼荼羅・四智印等あり。四種といっぱ、摩訶(大)と三昧耶(三)と達磨(法)と羯磨(羯)とこれなり。かくのごとくの四種曼荼羅、その数無量なり。刹塵も喩にあらず、海滴も何ぞ比せん。
【関連サイト】
【参考文献】
★『弘法大師著作全集』第1巻(山喜房佛書林、1968年)
★『弘法大師空海全集』第1巻(筑摩書房、1983年)