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第十七章 東寺の密教活動と庶民教育

第十七章・写真1

 弘仁十四年(八二三)嵯峨天皇は藤原良房を遣わし、空海に京都東寺を給与します。それから約十年間空海は、高野山に帰るまで障害のうちで最もはなばなしい活動を展開します。

 この給与の裏には空海が上代の日本人として希に優れた国際人で、外国使節を迎える公館としての東寺を任せ、新しい都、平安京に南都東大寺に匹敵する王城 鎮護の宗教的権威を必要としていた事情があったからです。また他の理由として、嵯峨天皇の特別の信任があり、満濃池を完成し、東大寺その他諸大寺の経営に も才をふるい、後の東寺五重塔建設など土木工事のすぐれた才能を発揮したことがあげられます。

 空海は、開創した高野山はあくまで修禅の道場とし、東寺は密教の根本道場として、ひろく天下のために活動する中心寺院と位置づけます。

 この東寺に空海は唐から請来した一切の仏像・仏画・経巻・法具などを移し、恩師恵果の青龍寺にちなみ秘密の道場とします。さらに講堂建 立を指導し、安置する五仏、五菩薩、五大明王、六天の二十一尊すべてを密教の儀軌[ぎき]にしたがい制作、指図します。それらはわが国最初で正式の密教像 と名付けられます。

 その他の活動も多彩で、勅命により神泉苑で雨を祈り、摂津大輪田船瀬所では別当すなわち造船長官を任じられます。なかでも特筆すべきは東寺の東隣に綜藝種智院[しゅげいしゅちいん]を開設したことです。

 平安初期の教育制度は大宝令により、平安京に大学、地方に国学が置かれ、いずれも国立の官吏養成機関でした。

 当時の教育状況のなかで、貧しく無恥な一般庶民の子弟のために機会均等を与えたいと願望する空海に、深く帰依していた藤原三守[ただもり]はこの志を知り、左京窮状の土地と邸宅を庶民学校設立のため提供し開校します。

 それまでの学校は儒教教育でしたが、この学校で儒教・道教・仏教・インドの諸科学を教授し、空海みずからも教鞭をとります。

 綜藝種智院の特徴は、教育の機会均等・綜合教育・完全給費制の三点で、一般民衆の教育機関として高い教育理想と、すぐれた機構内容から世界教育史上まったく類をみないものでした。

 空海と東寺との関係でもう一つ記念すべきことは稲荷信仰の合流があります。

 また東寺には、国宝となっている僧形八幡神像があり、密教と八幡信仰のつながりを暗示しています。


◎いろは歌も空海が児童に仏教の無常の真理を教えるために作ったという説があり、七五調の今様歌になっています。
  色は匂へど散りぬるを(諸行無常)
  わが世誰ぞ常ならむ(是生滅法)
  有為の奥山今日越えて(生滅々巳)
  浅き夢見じ酔ひもせず(寂滅為楽)
の無常偈をやさしく表現したものです。しかし、こうした文言が確立したのは、空海以降の時代だと考えられています。

第十七章・写真3 第十七章・写真2

◎当時の学校は一定の入学資格が階級的に決まっており、大学は五位以上のおよび東西史部[ふみとべ]の子弟に限られ、六位以下八位以上の子弟は、 特別の志願者のみ許されていました。地方の国学は国司または郡司の子弟のみ門戸が開かれ、このほか平安京には特殊な官職につく者の職業教育もありました。

また、貴族階級の間では、子弟教育のための多くの私立学校が設けられていました。淳和天皇の皇子恒貞親王の淳和院・和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院、大江菅原氏の文章院などで、一般市民には関係の無い機関でした。

第十七章・写真4 ◎密教活動として重要な衆生救済のため、空海は門弟を伴い、貧困な村や疫病に苦しむ村々を訪れ、困惑する衆生を救済する行脚に出たことも数多くありました。

◎東寺と稲荷信仰、この奇妙な関係は、空海が中国で稲荷明神の化身と出会い、時を経て紀州田辺でこの老翁と会い、二人はふたたび神祇と仏法の合一を誓います。つまり空海が東寺の近くにある稲荷明神を勧進し東寺に協力させ、一方で稲荷信仰の発展に寄与します。

◎八幡信仰の関係でも和気氏の高雄山寺に八幡神と重なる"互いの御影"の画像、高野山に巡寺八幡宮があり、この時代すでに八幡信仰との合一も起り、丹生明神や稲荷明神との結託、八幡信仰のとりこみは全国の天地地祇を招く空海の大作戦だったようです。

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