設立十年記念事業/ダライ・ラマ法王特別講演
仏教徒からの世界平和と人権救済のメッセージ
(同時通訳からの起こし原稿)
(着座ののち法王はチベット語の「偈」を唱える)
いま、龍樹菩薩の『中論』の中にある、仏の「慈悲」によって悪い見解を断つために、それ(悪い見解)を断たれた「世尊」に帰依します、というような「偈」を読ませていただきましたが、 日本の僧侶の皆さま、大きな宗派の管長さま、まじめに仏教の実践をされている皆さま、そして研究者の皆さまの前で、こうして仏教のお話をさせていただくことを大変うれしく思います。
われわれはみな釈尊の法灯を受け継ぐ者であります。 このように皆さまと同じ場に集まり、同じ師匠の弟子としてこのように集まることができたのは大変すばらしいことだと思います。 仏教の法友ということですが、(お互いに)一人一人の積んだ功徳というものは大変少ないと思います。 しかし、一人一人の積まれた功徳は小さなものですが、皆さま方お一人お一人の功徳が積み重ねられれば大きなものになりますけれども、それでもまだまだ足りないような気がします。 われわれは、お互いに一人一人の人間が学び合えることがたくさんあると思います。 われわれが功徳が足りないというのは、われわれそれぞれの人が行った行動や経験に限りがあるからでしょう。 ですので、こうして皆さんとお会いしてお互いに学び合うということは、学び合うことが大変であり、学び合う機会というものは大切なものであると思います。 チベット仏教側から日本仏教に対してご提供できることもあるでしょうし、日本の仏教に対してチベット仏教の方から何らかの学ぶこともあると思います。 ですから、お互いに情報交換してお互いに学び合うことが大切だと思います。
それでは、本日は最初に一時間ほど私がお話をし、残りの一時間で皆さまからのご質問を受付けたいと思います。 質問をされることを全くためらう必要はありません。 どんどん聞いて下さい。 形式ばったことは必要ないのです。 気楽に語り合いましょう。 私はもともと形式ばったことは好きではないのです。 形式ばったやり方は、私たち個人個人のちがいを消し、本当の意味での対話をすることを妨げてしまうことがあるからです。
今日のテーマは世界平和と人権ということですが、まず世界平和ということについて考えてみますと、世界平和というのはわれわれ人間だけが必要なことではなく、普通の動物たちも必要としていると思います。 平和というものが、暴力のないことを表しているとは思いません。平和というものは「慈悲」の実践であると思います。 「慈悲」を身・口・意の三つの門によってさまざまに実践していくこと、これが平和を築くものであり、なおかつ平和そのものであると思います。 「慈悲」に対して怒りや無作法によって動機づけられた行い、これが非暴力に反対する暴力的な行い、平和に反対する行いであると思います。
ちょっと明かりが眩しいので、帽子を被らせていただきます。 ( ここで法王がサンバイザーをかぶる、会場、笑)
これはチベット人の伝統的な帽子ではありません。 単なる実用オンリーな帽子です。 アメリカ人の友人が私にくれたのですが、とても役立っていて有り難い帽子なのです。
平和というのは、そのように「慈悲」の実践ということから、心の中から満たされるものであると思います。 心の中の感情、そういう平和を実現したいという強い意志、をもつこと、そういうものから平和というものが実現できるのではないかと思います。 「慈悲」とか愛といったものは、全ての生きとし生けるものに自然と具わっているものであると思います。 どんな生き物であっても自分が苦しみたくないし、ほかの人の苦しみを見ると、ほかの人に苦しみがあるのはかわいそうだと、何とかそこから逃れていったらいいなと、いう気持ちが自然と具わっているものであります。 幸せになったらいいなと、いうような気持ちが「慈しみ」といわれていますが、全ての生き物に愛や「慈悲」をもつための種(種子)が具わっていると思います。
仏教的な言い方をするとたぶん、「私である」という思いというものがある生き物には全て「慈悲」が具わっていると思います。 しかしながら、「私である」という思いをもつ生き物はすべて「慈悲」があるとはいえ、怒りや自惚れといった思いによって「慈悲」が活動しないこともあります。
そこで、私たちにはみな自分自身が生きていくために整えなければならない必要とされる条件というものがあります。 そういった必要とされる条件を整えることが重要であるとともに、また私たちが生き延びていくために逆の働きをする逆境となるような条件をなくしていくということもまた同時に必要になってきます。 そこで先ほどお話しました愛とか「慈悲」といった心は、私たちが生き延びていくために必要とされる条件に働きかけるものになっています。 そしてその代りに怒り・嫉妬そしてプライドといった悪い心は、私たちが生きていくために何らかの妨げをもたらすような働きをします。
そこで私たちは、この世界平和を成し遂げるということを考えるにあたって、私たちの成さなければならない行いというものが一体どういうことなのか、 私たちの心のなかで一体どのようなものの考え方をしていけばよいのかということを考えていかなければならないのですけれども、 そのように、もし私たち一人一人が世界平和というものを望んでいるのであれば、その世界平和に必要とされる行い、 つまり非暴力の行いということを私たち一人一人が実践していかなければなりません。 そしてその逆に、私たち自身一人一人の妨げとなってしまう、怒り・嫉妬・プライドといった心をなくすということも二面方向で同時に行っていくことが必要になってきます。
そのようなことから、われわれの心には、愛と憎しみ、このような二つの矛盾した感情が常に生まれながら具わっているのです。 愛と憎しみというのは、一つの対象を見て全く異なった対立した捉え方をする感情であります。 例えば、一つの他者というものを見て、その他者が苦しみから逃れたらいいなと、これが愛であり、他者を見て他者に苦しみがもたらされたらいいなと、いうふうに思うのが憎しみであります。 この二つの感情というのは両立しえないものなのです。
例えば、外で暑いと思う時は寒いとは思わないわけで、寒いと思うときは暑いとは思わないわけです。 そのように、愛情と憎しみというものは、一つの対象に対して、どちらかしか起らないことになりますので、例えば一つの対象を見て一つの対象に対して愛情が強まっていけば憎しみというものは収まっていく。 憎しみが強まっていけば、その対象に対して愛情というものは少なくなっていくのです。
例えば、われわれは同じ友達とか知り合いで、同じ人に対してその人が好きでありなおかつ嫌いであるということは起こらないのと同じわけです。 しかし、同じ時でなければそれは起るわけです。今日はあの人は嫌いだけど明日になったら好きになると、また明後日になったら嫌いになるということはあるわけです。
そのように、愛と憎しみというものが、二つの異なった捉え方であると、捉え方が対立していると、いうことがまずわかれば、愛情を育むために憎しみを少なくする必要があるということがわかってきます。
ですので、世界平和を実現するためには、まず我々の心のもち様を変えなくてはなりません。 人間の心の中に平安な状態がなくてはもちろん世界というものを平和にすることはできないでしょう。 私たちは世界平和を願うことによって鳩を飛ばすことがありますけれども、ちょっとの鳩しか飛ばさないとたいした平和が達成できない、その意味で私たちはいつもたくさん鳩を飛ばして大いなる世界平和が達成されるように願うわけであります。 ですので、世界平和というものを実現するためには大いなる「慈悲」の心というものが必要になってきます。 要するに私たちが心から願っている世界平和というものは、みなさんお一人お一人の心の中の内なる平和をもとにして達成されるものでなくてはなりません。
このように、平和を実現するためには「慈悲」の心が必要であるということから考えますと、平和な社会というものを実現させるためには、まず、個々の人々の心の平和や、家族の平和というものが必要になってくるわけです。そういうものから世界の平和というものが実現できるわけです。 ですので、ポイントになるということは、われわれが心の平和を実現する、心の平和な状態、つまり人に対する思いやりや愛情をもてる心、をどのように実現するかということになると思います。 もちろん、われわれの心には、先ほどお話しましたように憎しみと愛情という心が生まれながらにして具わっているわけですけれども、 ではどうして憎しみを少なくして愛情を育てていくことができるかというと、それは愛情とか「慈悲」の必要性やその根拠や理由を考え、そしてほんとに他者に対して思いやりや愛情をもてるように何回も何回もそういう気持ちになると、そういう心の修養というか修行をを積んでいく必要があります。 憎しみや嫉妬というものは、愛情とは異なって、理由というか根拠というものなくして人に対して腹がたったり嫉妬したりしているわけです。 この憎しみや嫉妬というものを根拠なくして起るのは悪いものの見方によって起こっているのです。 これに対して愛情というものは、よくよく他者の置かれている状況を考える、正しいものの見方をすることによって愛情というものを育てていくことができるわけです。 悪いものの見方には、何も助けになるようなことはないのですが、正しいものの見方をすることでどんどん愛情を強めていくことできると思います。
では、そのような愛情を育てていく心の修行というのはどういうふうにしたらいいかといいますと、それには大きく二種類あると思います。 一つは、宗教的な教えによってそれを実現すると、もう一つは、宗教とは全く無関係に愛情を育てていくことができると思います。 まず、宗教とは関係なくどのように愛情を育てるかということについてご紹介した上で、宗教的には仏教ではこうなっているということはもっと重要なことですので、それはのちほど説明したと思います。
私たち命ある者は、全ての人たちが幸せを望んで、そして苦しみを望んでいないわけです。 このことは、何の理由づけも裏づけも必要とせずに、自然に私たちの心の中に沸き起こってくる感情であるわけです。 そういったものはどのようにして存在してくるのかといいますと、私たちは母の子宮から生まれ落ちてすぐ、全く新生児の状態で母の心からの愛情によって母乳を与えられ、母の胸に抱きとめられることによって、この人生の第一歩を歩み始めることになるわけです。そのように母の心からの愛情というものを、新生児であってもそれを感じることによって、その新生児はほんとに心からの満足感を得て幸せに感じて、ほんとうにゆったりとしてお乳を飲むことができるのです。 そのような母の愛情というのは、私たちの人生が始まったその第一の段階からほんとうに基本になっている大切なものであったわけです。 この逆に、生まれ落ちたその瞬間から、私たちは母の愛情がない状態で育たなくてはならなかったような子供というのは、やはりその心の中に、自然に幸せな感情いうものが欠けてきてしまい、そして恐怖感のようなものが生じてきて、ひどい場合には全く生き延びることができないというような状態にも落ち込んでしまうことがあるわけです。 ですから、私たちにとって母の愛情というものがいかに不可欠な大切であるかということを理解していただけるのではないでしょうか。
最近の科学者たちの見解によれば、愛情というものがあることが、脳の働きを活性化するといわれています。 人に対する愛情を強くもてばもつほど、脳の働きが活性化され、身体も健康になると聞いたことがあります。 とくに、医学では、母親の肌の温もりというのは、子供の脳の成長に非常に役立つと言われています。 また医学では、心の平安というものが病気を早く治すといわれています。 のんびりとした状態ですごすということが、病気の治りの速度に左右すると言われています。 例えばそれ以外に、お医者さんとか看護婦さんが患者に非常に愛情深く接することによって、例えば偽物の薬、全然効き目もない薬を渡しても病気が治っていくと、 それに対して、医者や看護婦が非常につんつんして患者にたいして冷たかったと、そういうふうに接すると本物の薬を渡しても、なかなか病気が治らないと、そういうような実験をしていると聞いたことがあります。
私の知人にアメリカの科学者の人がいて、その人が様々な調査や分析を行った結果について話してくださったことがあったのですが、 たとえば小さな子供に愛情や「慈悲」の心というものに瞑想させて、3~4週間後にその変化を測定することを行った実験があったのですが、 そのような子供は、やはり3~4週間経って愛や「慈悲」の心を心の中に育んだあとでは、非常に心のなかが穏やかになって、記憶力ものびて、 非常に穏やかな子供に変ったという結果報告が出されたこともあったわけです。そして、非常に大きな煩悩の心が起きている時といいますのは、私たちの身体の中にある免疫機能も非常に低下するという報告がされています。 そしてその逆に、愛や「慈悲」の心を心の中に強く育む時、その逆に免疫機能は増長していくわけです。
ですから、世俗的な面から考えましても、そして科学的な面から考えましても、一般的な常識的な観念から考えましても、 皆さんお一人一人の体験を通して考えていただいてもこれはわかることではないかと思うのですが、 愛や「慈悲」の心というのは私たちに本当に必要とされている心であり、その心をもつことによって私たちがより幸せに健康になれるものであり、 これとは逆に、怒りの心といいますのは、私たちの健康をも害するものであり、社会をも害するものであり、そういった全てのものに害を与えるものでしかありません。
アメリカの大学、カナダの大学などで、このような愛と「慈悲」というものが私たち人間に一体どのような良い点をもたらすものであるかという調査があちこちで行われています。 日本社会におられる皆さま方も、ほんとうにそういったリサーチや研究に関することも非常に進歩した国であり、そして医学も非常に進歩した国であり、それと同時に仏教国であるということを考え合わせてみますならば、 私たち人間の未来ということをよりよく深く考えてみるべきではないでしょうか。 ですから、これから先必要とされてくるのが、私たちの心の中に「慈悲」を促進させていくということを教育を通して成し遂げていくことがこれから先必要とされるのではないでしょうか。
それでは、宗教的な手段で愛情を育てるということにはどういうふうなことがあるかということについて考えていきたいと思います。 宗教には、大きく分けて創造主というものを認める宗教と、創造主というものを認めない宗教とがあると思います。 まず、創造主を認める宗教、神の存在というものを認める宗教ではどうなっているかというと、神の愛情というものは究極のものであると、神というものは永遠に唯一のものであるといっています。 決して憎しみというものが究極のものであると、神というものは憎しみの究極の状態であるということは説かないわけです。 そのような宗教では、神の愛、それから人々との隣人愛、許し、寛容、といった精神を説いております。 もちろん、そういう愛とか許しというものは、創造主を認めない仏教と共通しているわけですけれども、もっと哲学的な「業」と「業の結果」を認めるかとか、前世・来世を認めるか、輪廻というもの認めるか、解脱というものを認めるかと、そういう哲学的な命題に関していえば、若干、創造主を認める宗教とわれわれとでは異なる点がありますけれども、基本的には、許し、愛情、寛容というようなものを説いている点ではわれわれと共通しているのではないかと思います。 もちろん哲学的な見解というのは、いろいろな宗教によって異なってはいますが、その宗教をどのように実践するかと、宗教的な活動をどのようにするかという意味では、人に愛情をもって困った人を助けると、そういうような同じようなことを説いていると思います。 全ての宗教が同じように愛情とか「慈悲」というものを説いているわけです。ですので、全ての宗教が愛情や「慈悲」というものをより高めるということについては同じ目的をもっていますし、その意味では協力し合えると、とくに仏教は「慈悲」というものを説いております。
それでは、仏教というものを考えてみますと、仏教の先ず神髄というものを二つの側面から考えると、仏教の思想的な神髄、これはやはり「縁起」ということにあると思います。
全てのものが原因と条件が整った上で物事が生じてくると、無から物事が生じてくるものは何もないと、全てのものが相互依存して生起しているということが仏教の哲学的な思想の神髄であると思われます。
例えば「四聖諦」というものがありますが、「苦諦」「集諦」 というものは、「集諦」というもの因となって「苦諦」というも のが果であると、それから「道諦」「滅諦」とありますけれども、 「滅諦」というものが因であって「道諦」というものが果である という「因果」というものを説いているわけです。 その四つの聖なる真理をさらに詳しく説かれた教えの中に十二縁起という釈尊の教えがあります。 この全ての教えというものは、いかなる乗物であっても仏教に一般的に共通した基本となる教えとなっている部分です。 これらの四つの聖なる教え、つまり「四聖諦」、そして「十二縁起」といわれているものは、仏教のほんとうに根本となっている土台となる大切な部分の教えとなっています。
そしてパーリ語の経典であれ、サンスクリット語の経典であれ、仏教の教えであるならば、全てはこれらの教えをもとにして全ての教義が説かれているわけです。 また、仏教には大乗、小乗という二つの呼ばれ方があるわけですけれども、そのような意味で大乗である小乗であるというような分け隔てをしたり、あるいはお互いに別の乗物、教えのことを見下したりというようなものの見方は全て誤りであります。 そしてパーリ語の経典を土台としている小乗の教え、これは全ての仏教の教えの土台となるものですが、この土台となる部分なしに仏の教えというものは成り立つものはありません。 例えば密教と大乗仏教というものは矛盾したものだと考える人がいますが、これは誤っていると思います。 例えば、何階建てかの建物があって、下の階には「上座部」の小乗の基本となる教えの伝統があり、その上に大乗仏教の「菩薩」の精神に基づく「菩薩乗」というものがあると、そしてさらにその上に密教である「金剛乗」といわれる教えがあるということであり、それは下のものをベースにして上のものが成り立つわけで、密教だけが密教と普通の大乗仏教とはちがうということにはならないわけです。
仏教の思想というのは、「縁起」というものが思想の中心でありますけれども、では仏教の実践というものの中心は何かというと、非暴力と「慈悲」ということになるわけです。 では、「慈悲」と「縁起」をもとにする「智慧」、思想というのがちがうものかというとそうではありません。 「慈悲」と「智慧」というのは非常に関係があるものであり、例えば、他者を害するということが因となって、自分に苦しみがもたらされると、他者を愛するということが因となって、自分に幸せにもたらされるということから、自分が幸せになりたいと思えば、他者に対して慈悲心を抱くということが必要になるという「智慧」が生まれてくるわけです。
先ほどお話したような、宗教とは関係ない慈悲の育て方、常識的な範囲で考えられる、科学的な範囲で考えられる愛情とか慈悲というものの心の大切さが、仏教の教えで説かれる慈悲というものの正当な根拠になると思われます。 私は科学者との対話を重ねて約24年あまり、それを続けてきております。 私には知人がおりまして、西洋の出身の仏教徒の人なのですが、科学との対話ということをやっている私に対して、「科学者との対話をするということは非常に危険ですよ、それは仏教を殺してしまいますよ」というようなことを言った人がおります。
そこで仏教なのですが、仏教というこの教えは、私たちはある種の裏づけや理由を用いることによって実際に私たちが実践していかなければならない教えとなっています。 ですから、「これは釈尊の説かれたお言葉である」ということでただ妄信するべき教えではないのです。 そこが、私たちが科学者のアプローチと非常に似ているのではないかと私は思うわけですけれども、科学者というのは、様々な調査をして、そして分析をしてある種の結果を見出すということをしている人たちですけれども、ある意味では私たち仏教徒も同じではないかと思われるわけです。私たち仏教徒も私たちに対して説かれた釈尊の教えを分析し、調べてそれが正しければ、それを自分自身について実践していくというような方法をとっているという意味で、ある意味で科学者のアプローチと私たち仏教徒のアプローチというのは似ているのではないかと思われわけです。
しかし、私たち仏教徒は私たちはどのようにしたら全ての人のためになることができるのか、他者の利益にどのようにすれば成すことができるのであろうかということを、終極的な目標、「解脱」を得ることを目的として設定することによって成しているわけです。
そして、科学者たちはというと「解脱」を目標にするということはありませんけれども、そういった最終目的のちがいというものはありますが、同じように、この人類のためを思って何らかのかたちで人間の役に立とうという心の動機によって全てを成しているという意味におきましては、やはり同じなのではないでしょうか。
ですから、そのような意味において、科学者のとっているアプローチの方法、仏教徒のとっているアプローチの方法といいますのは、やはりモノをよく調べ、そして分析してそれが正しいかどうかを見極めるというような似たような方法論をとっているのではないかと思うわけです。
そのような理由におきまして、仏教におきましては論理における経典そして「中観」の経典といったものが、非常に重要な位置を占めてくることになっているわけです。
大乗経典で最も中心である『般若経』、そこには「菩提心」が説かれておりますけれども、そこの「菩提心」の説かれ方というのは、「菩提心」というものが「空性」を理解する「智慧」によって裏づけられているというふうに説かれております。その場合の「空性」というのは何かといいますと、全てのものが依存して成立していると、「縁起」していると、いうことによって、全て独立した存在はないと、われわれは他者に依存してわれわれは生きているということから起る「菩提心」、愛情・慈悲、そういうものが説かれておりまして、それが大乗仏教の「菩提心」の真髄であるというふうに思います。 全てのものは独立せずに依存し合っているという考えからおこる愛情、慈悲、こういうものが説かれているものこそが、大乗仏教の「菩提心」の神髄であると思います。
それから、「人権」ということにお話を移していきますと、一切衆生というものは苦しみを望まない、楽を望んでいると、いうことを考えれば、われわれが人間の権利という意味での「人権」というものをいっておりますけれども、一切衆生に同じような権利というものがあると思います。 仏教的な見地からいくと、人権という、人間だけをほかの生き物と区別して、人間だけがもっている権利というふうなものを考えるのは多少まちがっているのではないかと思います。 全ての生き物は同じように幸せになりたい、苦しみたくないということは同じですので、全ての生き物が同じような権利をもっていると考えなければいけない、これが仏教的なモノの見方であると思います。
それから、密教、真言密教というふうにいいますけれども、この真言、マントラというのは何かというと「心を守るもの」という意味でマントラというサンスクリットがあります。 そこで、私たちの心を一体どのようにして守っていくか、というその方法論が、私たちに説かれている「方便」の教え、そして「智慧」の教えをまったく分け隔てることなく一つのものとして修行していく道というものが私たちに説かれているわけです。
この「金剛杵」というものは「方便」を表しています。「金剛鈴」というものは「智慧」を表しています。 密教における「方便」というものは何かというと、悟りへと近づくための方策のことです。 「諸尊瑜伽」といって諸尊を「観想」すると。 「智慧」というと何かというと「空」を理解する「智慧」である、ということになります。 密教の行者がこの「金剛杵」と「金剛鈴」というものを常に二つとも使わなければいけないというのは、「方便」と「智慧」がいつも両方とも同じ力をもって使っていかないといけないということを表しています。 「金剛鈴」の音というのは「空」を説く音であると信解しなさいというふうにも説かれています。
(ここで、法王が「金剛鈴」を鳴らしてみる) 「金剛杵」には「五鈷杵」「独鈷杵」「三鈷杵」というふうに色々なタイプがあります。 こちらの左にある法具は「護摩」の道具じゃないかと思いますが、ちがうかもしれません。
あちらの(小型の「打ち鳴らし」)は、私はさっぱりわからないです。 (法王、「打ち鳴らし」を「チン、チン」と鳴らしてみる)
瞑想をはじめる時に「チン」と鳴らして、瞑想を終ったあとも「チン」と鳴らすと、そういう意味で便利なものなのではないかと思います。
以上をもちまして、私たちの心の中にある内なる平和について、そういったものを「慈悲」の心を土台としてどのように育んでいけばよいかということを世俗の倫理的な観点からお話を申し上げました。
(続いて質疑応答が行われたが、ここでは割愛する)
ダライ・ラマ法王特別講演に寄せて
密教21フォーラム事務局長 長澤弘隆(真言宗智山派、栃木市満福寺住職)
このたび、チベット国の最高指導者ダライ・ラマ法王十四世テンジン・ギャツォ様ご滞日中の貴重な時間をいただき、特別講演会を準備させていただきましたところ、日頃より法王様の教えや動向にご関心を寄せる皆様が全国各地からお集まりいただき、かくも盛大に開催できますことを心より感謝申し上げます。
ご案内のように、法王様は仏教国チベットの宗教的最高権威であるとともにチベット国家の政治的最高指導者でありますが、1950年10月の中国人民解放軍20000余の兵力による東チベット侵入、同じく1951年の首都ラサ進駐、それによる経済的混乱や国民の苦境からやむなく「チベットの平和解放に関する協定」の批准、1957年の東チベット・西チベットでの民衆蜂起、1958年の東チベットでの民衆決起、中国軍による砲撃・破壊と民衆の逮捕・拘禁、そして民衆鎮圧と混乱、チベット文化の否定と破壊が続くなかでの1959年の法王のラサ脱出、北インド・ダラムサラに臨時(亡命)政府の樹立、を経て、依然として中国による実効支配が続くチベット国の自由と独立のために仏教の教えに基づいた非暴力・非抵抗主義をつらぬき、祖国の人々を励まし勇気づけながら来るべき日のために日々つとめておられます。 パレスチナとイスラエルの報復の連鎖とちがい、いわば国家間または民族間紛争の生々しい問題を、武力によらず、非暴力・非抵抗と言論によるねばり強い運動で解決しようとする法王の忍耐強さに、世界の政治指導者は学ぶべきであります。法王の指導力によってチベット人はムダな血を流しておりません。
本日は、主催者側からの要望で、<「慈悲」-仏教徒からの世界平和と人権救済のメッセージ>と題しご講話をお願いしてございますが、現下の世界情勢とりわけ東アジアの緊迫した時勢に照らし、お話は興味深くまた有意義なものになると期待をいたしております。
「慈悲」とは、目の前で苦しむ人と「事を同じくし(同事)」「行いを同じくし(同行)」すること、つまり「悲しみを同じくし」「苦しみを同じくし」、「共に泣き」「共にそこに居てやる」ことであります。安っぽい同情ではありません。母がわが子の病気平癒のために自分を捨てて看病をするあの「自己犠牲」であります。これが大乗仏教が創案した<「空」の実践>(利他行、菩薩行)であります。仏教は、この「慈悲」の標目によって、インドの思弁哲学から人類普遍の救済の宗教に変身を遂げました。 大乗はまた、「慈悲」の実践者を用意しました。それが「観世音菩薩(観自在菩薩)」つまり「観音様」であります。「観音様」はホトケ(聖)でありながら娑婆世間(俗)の姿でいつもおられ(三十三身、化身)、娑婆世間の苦しみにあえぐ私たちを救って止まない「菩薩」であります。このホトケ(聖)でありながらその姿は娑婆世間(俗)のものとし、いつも娑婆世間にありながらホトケとして衆生救済活動に従事する、という相矛盾する二つの世界を同時的に両立させる「菩薩」というコンセプトは、まさに西洋合理主義哲学にはない東洋の知恵であります。
ダライ・ラマ法王こそチベット仏教の伝統でいう「観世音菩薩」の化身であります。「慈悲」の権化であり、非暴力・非抵抗主義はそれに基づいた行動規範であります。このお考えによって、何十万人のチベット国民の生命が守られてきたか、それこそが娑婆世間の救済活動であります。 きょうの講演は、ダライ・ラマ法王に姿を変えた「観世音菩薩」が、東京の新高輪プリンスホテルを説法処として、私たち集会の大衆に有難い説法を行うという図でもあります。法王様のお顔はいつもにこやかで慈愛に満ちています。チベットの人々が「生き仏(活仏)」として崇敬する気持がよくわかります。 21世紀は人間劣化の時代であるかのようです。まことに多事多難の世紀です。20世紀をリードした西洋合理主義(安いか高いか、損か得か、儲かるか儲からないか、敵か味方か、強者か弱者か、支配者か被支配者か、資本家か労働者か、自然か人間か、他者か自己か、男か女か、の相対的な対立主義)を越える非対立主義・共存主義による東洋のグローバルスタンダードがいよいよイニシアティブをにぎる時代です。
遠近を問わずわざわざご参加をいただきました皆様に、せめてもの記念の品として法王様の自伝を用意いたしました。こうした折に、法王様についてのご理解をより一層深めていただければ幸いに存じます。
今回主催団体となりました2団体(全真言宗国際救援機構(ASIRA)・密教21フォーラム)は、ともに真言宗僧侶有志によるボランタリーな組織でありますが、宗派を越え社会の垣根を越え国境を越え、僧侶の本分たる利他行の一環として国際奉仕・社会奉仕の活動を行っているものであります。今後ともご指導ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。
資料のなかに、私どもの会員から寄せられました「世界聖地八十八ヵ所巡礼」と題する和文・英文のレポートが添付されております。ご一読をいただき、その意味するところをお読み取りいただければ幸いです。
本日は、まことに有難うございます。