弘法大師の文芸
(略)此の文鏡秘府論と申しますのは、勿論弘法大師が当時の漢文を作り、詩を作ります者の為に、其の規則を書きましたものであります。規則と申しましても、是も谷本博士の御講演にの中にもありましたが、弘法大師が自分で御つくりになった規則ではありませぬ。其の当時支那に於て行われて居ります詩文の法則となって居るものを集めて、いろいろ取捨をされて書かれましたものであります。弘法大師が文鏡秘府論の序文を書きますに就いても、其の事を明かに御断りになって居ります。
(略)之を作るに就いて弘法大師はどう云う書籍を重もに参考されたかと云うことは、谷本博士が苦心をされた結果、其の種本とも謂われるものを挙げて居られます。それは即ち大師の詩文集たる性霊集の中に王昌齢と申します人、盛唐の時分に有名な詩人で、絶句に巧みであった人があります。其の人の著わした詩格と云う本があります。即ち詩の格式であります。それを土台にして文鏡秘府論を書かれたろうと云う御考えであります。私も大変面白い御考えと思って、それから段々調べて見ますと、勿論此の王昌齢の詩格と云うものは、大師の文鏡秘府論の種本になって居るようでありますが、其の外にも随分いろいろな本を参考にされて居るようであります。
(略)大師の秘府論の序文の中に斯う云うことを言って居られます。
「沈侯、劉善が後、王皎崔元が前、盛んに四声を談じて争うて病犯を吐く」
ということがあります。唯だ斯う申しては分りませぬが、沈侯というのは人名であります。南朝から梁朝まで掛けての間に沈約と云う有名な学者がありました。此の人が支那で四声(平声・上声・去声・入声)と申しますものの発明者と言われて居ります。(略)それから劉善とありますが、これは劉善経の経字を略したものでありましょう。(略)此の人は伝記は分りませぬが、其の人の著述のことは分って居ります。其の人から後、王皎崔元、これは四人のことを言います。王と云うのは前に申しました詩格を作った王昌齢であります。皎と云うのは唐の時の坊さんで皎然と云う人であります。(略)それから崔と申しますのは、是は崔融と云う人だろうと思います。此の人の著述には矢張り詩文の格法を書いたものがあります。元と云うのは元兢と云う人であります。此の人にも矢張り詩の法を書いたものがあります。
(略)所で其の大師が参考せられたと云うことに就いてどう云う価値があるかと云うことであります。是は面白いことには大師が参考せられた本の多くは、今日伝わって居りませぬ。大抵は皆絶滅して、無くなって居る。それで大師が之を参考して文鏡秘府論に採ってあるが為に、其の人等の本の一部分と云うものは、幸いにして伝わることを得て居るのであります。詰り斯う云う人等の本、即ち今日無い本を、大師の文鏡秘府論で今日見ることを得ると云うことになって居ります。それが今日どう云う所に価値があるかと云うことを申して見ますと、今申しました詩の法、詩の調子、絶句なら絶句、律なら律、古詩なら古詩と云うものは、是はどう云う風に作るべき法則のものか、それからしてどう云う所を間違うと、是は詩の規則に嵌らぬものかと云うことは、これは面白いことであります。それで今日に於て、唐の時並に唐以前の詩の法則を視ると云うことになると、此の文鏡秘府論より外に、今では良い本が無いと云うことになって居ります。(略)支那は詩の本国でありすが、唐以前並に唐の時の詩の法則を書いたものは一つも残って居りませぬ。所が文鏡秘府論がある為に、それが分るのであります。
(略)それで一番最初に申しました四声のことを発明した沈約の四声に関するほんと云うものは、それは元と一巻ありまして、それが即ち隋書経籍志に載って居る。又沈約と云う名は出て居りませぬが、是は日本国現在書目にも勿論載って居る。それから其の次に申しました劉善経と云う人の四声指帰と云う本であります。四声指帰と云う本は、是は隋書経籍志にも載って居れば、日本国現在書目にも載って居ります。そうして殊に大師は此の本は余程丁寧に見られもし、又御好きであったものと見えまして、文鏡秘府論の巻一の終りに、四声論と云うことが載って居ります。是は紙数が六七枚ありますが、それは殆ど劉善経の四声指帰から全部抜書きをされたと思われるほど。悉く茲に其の文を引いてある。
(略)此の秘府論の外には王昌齢の詩格と云うものは何処にも引いてありませぬ。全く大師の文鏡秘府論に依って、此の本はどう云うものであったと云うことを想像するより外はありませぬ。
其の次には皎然、此の人の著述は新唐書の芸文志には詩式が五巻、それから詩評が三巻あるとしてありますが、今日では矢張り是も殆ど大部分は皆無くなって居ります。(略)それで皎然が書いた詩の作法は、矢張り文鏡秘府論の中に残って居る。
(略)其の次に申しますのは崔融と云う人の本でありますが、果たして崔融かどうかと云うことも実は明かには分りませぬ。併し大師の文鏡秘府論の中を繰って見ると、其の中に崔融と云う人だろうと思うことがあります。此の人には唐朝新定詩体と云う著述があります。即ち唐の時に文官試験をするのに、どう云う体でもって詩を作らねばならぬと云う規則を著述したものであります。或は之を新定詩格とも書いて居ります。大師は矢張り文鏡秘府論の中に崔氏の唐朝新定詩体と云うものを引いて居られます。
(略)其の次は元兢と云う人で、此の人には、詩體脳と云う著述が一巻あります。この本も新唐書の目録にも、旧唐書の目録にもありませぬ。(略)幸い文鏡秘府論の中に「右は元氏の體脳に見えたり」と云うことが書いてあるので、元兢と云う人の詩體脳を書いたと云うことが分ったり、又内容が分るのであります。
(講演「弘法大師の文芸」抜粋、内藤湖南、1912)
【関連サイト】
【参考文献】
★『内藤湖南』(三田村泰助、中公新書、1972年)
★『日本文化史研究』上・下(内藤湖南、講談社学術文庫、1976年)
★『竜の星座-内藤湖南のアジア的生涯』(中公文庫、1980年)
★『内藤湖南全集』(筑摩書房、1997年)
★『内藤湖南の世界-アジア再生の思想』(内藤湖南研究会編著、河合文化教育研究所、
2001年)
★『東洋文化史』(内藤湖南、中央公論新社、中公クラシックス、2004年)