施主のために『理趣(りしゅ)経』の教えを説く。
そもそも人間の一生という河は、恩愛によって深くて広い。
さとりという名の山は、福徳(善行及びそれによって得る幸福と利益)といのちのもつ無垢なる知のちからを積んで高くて大きい。
いわゆる恩とは、父母などの恩であり、愛とは、妻子などの愛である。
しかし、この恩と愛が、世俗の世界を離れようとするさとりの舟を転覆させ、煩悩という一生の網に人びとをしばりつける。
もし、この迷いを解くことがなければ、迷いの世界に溺れて、そこから逃れ出る機会はなく、さまざまな生まれ方をする動物(ほ乳類・鳥類と爬虫類・水棲類・昆虫類)のように生き、その生はさまざまな苦しみを受けることになるだろう。
父や母になるものが、それぞれの両親(の交わり)からつぎつぎに生まれ、そうして、つぎつぎに死んでゆく。
そのありさまは、河の水の絶えることのない流れのようである。
子々孫々につながるものも、(それぞれが両親の交わりから生まれ、)たちまちあらわれたかと思うと、たちまち隠れる。
そのありさまは、生じては消える空の雲のようである。
受け継ぎ、受け継ぎ、この世に身体を受け、この世に死ぬ。
しかし、何度この世に身体を受け、何度この世に身体を棄てても、人間は苦の本体である身体からは離れることができない。
苦というのは、すなわち、生まれること・老いること・病むこと・死ぬこと・憂いと悲しみ・悩み・愛するものとの別れ・怨み憎むものとの出会いなどの八つの苦しみのことである。
これらの八つの苦しみが、人の身体と心とを追い詰めて、いのちが本来もつ無垢なる知のちからとそのはたらきによる生の喜び・楽しみから人びとを遠ざけている。
もし、信仰深い男・信仰深い女があって、一生の内に起こる迷いや苦しみの根本を断ち切り、さとりという安楽の境地に至ろうと思うなら、まず、福徳といのちのもつ無垢なる知のちからとを生じさせる原因となるものを積み、その結果として、無上のさとりに到達すべきである。
そのいのちのもつ無垢なる知のちからを生じさせる原因になるものというのは、すぐれた経典を書写し、その深い意味を追求し、思考することである。
そうして、施しをすること、戒めを守ること、忍耐すること、精進すること、精神を統一すること、無垢なる知のちからを発現させることの六つの行ないをすることである。それが、福徳の原因になる。
よくこの思考と行ないの二善を修め、生を授けてくれた父母の恩と、国土の安泰を守る為政者の恩と、衣食住を生産・相互扶助している生きとし生けるもの(動物・植物)の恩と、それらの恩の根本にあるいのちのもつ無垢なる知のちからの存在(仏)・その知のちからがもたらす真理(法)・その真理の教えを伝えるものたち(僧)の三宝の恩との四つの恩に報い、そのおかげに深く感謝をし、それらを救い護(まも)り、生きとし生けるものすべてに恩恵を与えるときは、すなわち自らを利し、他者を利する恵みをともにそなえることになれば、すみやかに一切の無垢なる知のちからの中のもっともすぐれた知のちからに目覚め、そのちからを体得することになるだろう。
このことをさとりといい、このさとりを得た者をブッダ(目覚めた者)と称し、また真実報恩者(しんじつほうおんしゃ:三界の中に流転して、恩愛を絶つことあたわずとも、恩を棄てて無為に入るならば、真実の恩に報いる者なり)と名づける。
今日の施主のみなさま、
よくこの理趣(真理に至るための道筋)をおしはかって考え、亡き母のために、『理趣経』『尊勝(そんしょう)陀羅尼(ダラニ)』(延命・除災などの功徳がある真言)などを書写してさしあげましょう。それとあわせて教えを説く法会を催して、ブッダの説かれた経を講じ、その恵みをいただきましょう。
いわゆる、いのちのもつ無垢なる知のちからの大いなるはたらきによる心がけ、大いなる孝行の心の広きことよ。
どうか、お願い申し上げます。
いのちのもつ無垢なる知のちからの存在そのものを象徴する大日如来と、
大日如来を中心とする四方の四仏、アシュク如来・宝生(ほうしょう)如来・阿弥陀如来(無量寿如来)・不空成就如来によって象徴される、無垢なる知のちからの展開と、
さらに、その四方の仏をとりまく知のちからのはたらきを示す十六大菩薩よ、
五つの眼力(①肉眼②天の目③万象は論理によって把握できないとする目④仮象を超越し、存在の真理を洞察する目⑤以上の四眼のすべてをそなえた目覚めたものの目)をもって、世界を明らかに見させたまえ。
六つの自在なる境地のちから(①いのちあるものの行為の結末と、いのちあるものの行く末を知るちから②あらゆる音や声を遠近問わずに聞くことができるちから③他人の心を自分の心として洞察するちから④自身のルーツを遡(さかのぼ)って思い起こすちから⑤あらゆる場所に行けるちから⑥欲望・生存・無知の苦しみから解放され、今日只今に実在するちから)によって、一切の苦境から救い出したまえ云々。
(『理趣経』の正式名)
『大楽金剛不空真実(だいらくこんごうふくうしんじつ※)三昧耶(サンマヤ)経』般若波羅蜜多(ハンニャハラミタ)理趣(りしゅ)品(ぼん)
※大いなる楽は金剛のごとく不空で空しからずして真実なり。
いま、この経を解釈するのに、おおよそ四種の方法がある。
すなわち、大(イメージ)・サンマヤ(シンボル)・法(文字)・カツマ(作用)の四種のマンダラによって解釈する仕方がそれである。
1、「大」(サンスクリット:マハット)とは遍在(どこにでも存在)することを意味し、真理の教えを説く人(いのちのもつ無垢なる知のちから)も、聞く人(無垢なる知のちからのはたらきを為すもの)も、その身体をつくっているのは、万物を構成している粗大な要素(質料)と同じであり、それらの共通の質料が作り出す差別的な個々のすがた(イメージ)が集合している世界全体のすがたを指す。つまり、その無数の個としての一と、その一が相互依存しながら集まって成す包括的な世界としての一とによって経を解釈する仕方である。2、「サンマヤ」(サンスクリット:サマヤ)とはインドの哲学的概念によれば、「大」が個別的存在に内在している普遍を意味するのに対して、個別的で特殊な存在のかたちそのものを指す。そのことから、いわゆる諸尊が所持されている、金剛杵(こんごうしょ)や蓮華(れんげ)などのかたちによって、つまり象徴(シンボル)によって経を解釈する仕方である。3、「法」(サンスクリット:ダルマ)は事物(物質存在一般)を意味するが、しかしまた、このダルマは心の本体(意識や精神)をも指す。物質(色)は、意識(心)によって認識されるから、物質存在と意識の本性は同じであり、この両者を結んでいるのが言語である。言語は概念によって「法」すなわち「真理」を表わす半面、文字や声音という物質的な存在そのものによっても、直接的に「法」を示す。その物質存在と意識とをシンクロナイズさせた、広義の言語よって経を解釈する仕方である。4、「カツマ」(サンスクリット:カルマ)とは、作用・活動・動作など、動きの意味をもつ。すべての存在は、質料のはたらき(作用)によって、常にそのすがたかたちをあらわす活動体であることから、諸尊のさまざまなすがた・動作によって存在の本質を示し、経を解釈する仕方である。
(以上の四種の媒体によって、経の説く「真理の道筋」が明かされ、伝達されることになるが)真理の教えを説く人も、その教えを聞く人も、(たとえ、その真理の道筋が明かされなくても)自らがもついのちの無垢なる知のちからとそのはたらきに、始めも終わりもないことから(もともとその真理は、人自らがそなえもっているものであるから)、真理の教えの源(みなもと)があれこれと創作されたものであるということにもならない。
だから、その教えは過去・未来・現在にわたって変わることもない。
そうして、その真理は五感と思考の六つの認識の対象となる世界に広くゆきわたっていて、永久に不変である。
しかし、そのいのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきによる真理の教えは、教えを示す人がいなければ、人びとの目の前にあっても見えず、説く人がいなければ、人びとは真理が心の中にあっても分からない。
完全に円満で広い、絶対真理という名の海には、常にイメージ・シンボル・文字・作用という四つの媒体によって示される存在の本質が融け込んでいて、その存在のありのままのすがたを映し出す満月のように清らかなる世界には、すべての生きとし生けるものが、常にその三つの活動性、身体行動性(身)・コミュニケーション性(口)・精神性(意)をもって、いのちのもつ無垢なる知のちからを発揮し、自らの真理を自らが楽しんでいる。
そこに、いのちのもつ無垢なる知のちからを自らもそなえる、真理の教えを説く人と、その教えを聞く人のあるがままの存在もある。
そのようなことだから、真理の教えが興廃するということもなく、教えを学ぼうとする人びとの能力・素質の差もまったく関係なく、ブッダ入滅後にその教えが時とともに弱体化してゆくという三段階の時期、
1、正法(しょうぼう):教理と実践と証悟がそなわっている時期、
2、像法(ぞうほう):教理と実践とは存在するが、証悟を得る人がいない時期、
3、末法(まっぽう):教理はあるが、実践と証悟を得る人がいない時期
の区別もまったくないのだ。(つまり、真理はもともと自らがそなえもっているものなのだから、それが興るとかすたれるとか、その人の能力・素質によって真理を得ることができるとかできないということや、ましてや教えが時とともに弱まってゆくなどということは、まったく関係のないことなのだ)
さて、ここに(人間の生の営みを俯瞰すると)
無知が起こす迷妄の風が
心を波立たせ、波濤が湧き起こり、
悪しき行為が起こす心の霧は
いのちのもつ無垢なる知の光をおおって、黒雲が盛んに垂れこめる。
(そのような中で)人生という夢に生じ・とどまる虎は
もろもろの生を執着という欲望によって呑みこみ、
一生という変化・消滅する毒龍は
自我のはたらきが起こす煩悩を無知なるがゆえに吸いこむ。
(のような状況にあって)
意識の根元である第八識(呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動など日常生活の根幹を司っている意識)の都に横行するのは、六塵(ろくじん:視覚に対する色かたち・聴覚に対する声や音・嗅覚に対する香り・味覚に対する味わい・触覚に対する感触・意識に対する思考)という名の盗賊であり、それらが生の根幹の意識をおどし奪い、のみならず、人びとの身体という城に居着く、五陰(ごおん:万象(色)を五感によってとらえ(受)、とらえたことをイメージにし(想)、そのイメージの快・不快によって判断を示し(行)、その判断が記憶されて分別意識(識)になる、それぞれの認識作用)という名の悪人は、その城内にあって、ほしいままに暴れ、心を奪い取る。
こうなると、心作用のもとになる、いのちのもつ無垢なる知のちからの天子であっても、それらの盗賊や悪人が犯す罪を改めさすことができず、無垢なる知のちからのはたらきを司る臣下の者たちも、それらの罪をひき起こすもとになる煩悩ですら退治することができない。
ついには、人びとは死しても、その身体を地獄の悪鬼たちのもつ剣や戟(げき)によってずたずたに斬られ砕かれ、煮えたぎる釜の大石が磨り減っても(つまり永久に)、灼熱の地獄から出ることができず、凍る寒さにさいなまれる苦しみは、無量の芥子粒(けしつぶ)が尽きても(つまり永久に)、極寒の地獄から逃れ出ることができない。
飢えて川水を飲もうとすれば水は火になり、食物を食べようとすれば喉が詰まる。
牛馬のごとくに大きな荷車を引いて千里の道を行けば、杖で打たれてたちまちに行き倒れ、重い荷を背負って万里の道を行けば、けつまずいて坂を転げ落ちて生命をおとす。
ましてや、法と正義によって人間界を統治するという理想の王たちや、生きているが故に起こす欲(淫欲・食欲など)をもつものの世界(つまり生命世界)・色(物質的なもの)の世界・無色(物質的なものを超越した精神)の世界の三界に住むという天人であっても、その身体は生死にしばられ、その心は愛欲の河に溺れて自由にならないという。
そのようなことだから、徳の高い人間であっても生死の怖れや愛欲の束縛から逃れられず、徳の低い卑しい者は飢えと寒さから逃れることができない。
たとえ、それらの者ではない普通の人であっても、その夢まぼろしの人生において味わう、①戦争や災害による死②飢え③畜生本能④悪⑤倫理社会⑥絶対の規律をもつ天界の六つの世界にさ迷う苦しみは、それが夢まぼろしの中にあって苦しみを極め、ましてや、さまざまな生まれ方によって、異なるさまざまなすがた(ほ乳類・鳥類と爬虫類・水棲類・昆虫類)を成して生きるものたちは、その生が迷妄のあわれみをさそうことから、そのあわれみのうちにあって、なおさらに悲痛である。
ここにおいて、いのちのもつ無垢なる知のちからに目覚めた聖なる王は、慈しみという名の馬にまたがり、むち打って、①心身を悩まし乱す煩悩②身体の苦悩を生じる認識作用(万象・感受作用・イメージ作用・判断作用・分別意識)③生命を奪う死④善行の妨げという野蛮きわまりない敵を退治するためにおもむき、無垢なる知のちからのはたらきを為す賢い家来は、あわれみという名の車の車輪に油をさして走らせ、六つの迷いの世界という辺境の地の敵にむかって行く。
そのあわれみの車とは、ブッダの教えを五種類の乗り物(①倫理という人間社会の乗り物②絶対の規律という天界の乗り物③教えを聞いて、真理をさとるという小さな乗り物④自らの体験によって、真理をさとるという小さな乗り物⑤すべてのいのちがともに生きられるように慈悲を実践しながら真理を求めて行く大きな乗り物)に分けたものであり、それらの車にさまざまな生まれ方によって生を受けたものたち全員を分乗させて、絶対の真理へとおもむかせるものである。
このようなわけで、さしもの狡猾でおかしな人びとも、うしろ手にしばられるように大きな乗り物に身をまかせることになり、悪事をはたらいてきた首領たちも、その邪悪な性質を改めて、いのちのもつ無垢なる知のちからのありのままのすがたをあらわす法身(ほっしん)と、その知のちからに仕える慈悲をあらわす報身(ほうじん)と、それらの知のちからと慈悲のはたらきが、他を救済するためにさまざまな生きとし生けるもののすがたかたちとなってあらわれた応身(おうじん)との三身(さんじん)に、深く頭(こうべ)をたれることになる。
そうして、ともに貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・痴(おろか)しさという三つの煩悩を起こす源(みなもと)を断ち、みな同じく絶対の真理の世界の主人となるのだ。
ブッダの教えにいろいろな展開があるのは、思うに、以上のようなことを理由としているからであろうか。
すなわちこれは、ブッダがさとったいのちのもつ無垢なる知のちからの存在そのものを象徴する大日如来が、その知のちからをもって真理の教えを生きとし生けるものに享受させたり、その知のちからのはたらきを、生きとし生けるもののさまざまなすがたかたちを通してあらわすことによるものなのだ。
(しかし、)今ここに説く『理趣経』はこのようなものではない。
いのちのもつ無垢なる知のちからの存在そのものを象徴する大日如来が、自ら享受している五つの根本の知、
1、「生命知」:光(エネルギー)と水と大気の存在によって生存する生命の、その生命が有している広義の意味での知のちからの存在そのもの。<法界体性智(ほっかいたいしょうち):澄んだ水があらゆるところにゆきわたるように、万物の世界にゆきわたっている知。「知の自性平等」>(大日如来)2、「生活知」:あらゆる生きものどうしが、植物の光合成が作り出す炭水化物を摂取することによって得るエネルギーをもととして、ともに生きる知のちから。<大円鏡智(だいえんきょうち):澄んだ水の表面に万象が映ずるように、一切万有はありのままであるとする知。したがって、ありのままの個別の存在がすべてに普遍で平等であることを知る。「万物の平等性」>(アシュク如来)3、「創造知」:あらゆる生きものどうしが、自らが生産・取得した衣食住を相互扶助し、ともに生きる知のちから。<平等性智(びょうどうしょうち):澄んだ水の水面が同じ高さになるようにあらゆる存在は平等であるとする知。したがって、すべての利益は等しいことを知る。「利益の平等性」>(宝生如来)4、「学習知」:あらゆる生きものどうしが、その持ち前の知覚と意識によって、対象となるモノ・コトを観察・分析・判断し、相互のコミュニケーションをはかっている知のちから。<妙観察智(みょうかんざっち):澄んだ水の水面がすべてを正確に映し出すように、あらゆる存在の差別相を正しく観察する知。その観察の結果、生きとし生けるものの自性は泥田に咲く蓮の花のように清浄であるとさとり、その清浄である存在がすべてものを教化するから、真理は平等であると知る。「真理の平等性」>(阿弥陀如来)5、「身体知」:あらゆる生きものどうしが、環境をすみわけ、その持ち前の身体能力によって、からだを空間の中で自由にうごかし、ともに生を謳歌することのできる知のちから。<成所作智(じょうそさち):清らかな水がすべてのものに浸透し、その成長を育むように、生あるものどうしが互いにはたらきかけ、あるがままに成すべきことを為し、ともに生きる知。したがって、すべての生あるものの活動は、すべての分別動作をそのままに平等であることを知る。「活動の平等性」>(不空成就如来)
(『理趣経』第二段「覚証の法門」大日如来の巻:五つの根本の知のさとり)
と、この五つの根本の知がもたらす生の究極の喜び、
1、(五つの根本の知の自他無二平等をあらわす)性交の妙なる一体感は、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<妙適(びょうてき)清浄句是菩薩位>2、愛欲のはやる思いも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<慾箭(よくせん)清浄句是菩薩位>3、愛撫し合うのも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<觸(しょく)清浄句是菩薩位>4、離れたくない愛の縛(しば)りも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<愛縛(あいはく)清浄句是菩提位>5、その身のすべてを任(まか)せることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<一切自在主(いっせいしさいしゅ)清浄句是菩提位>6、愛(いと)おしく相手を見ることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<見(けん)清浄句是菩提位>7、交わりの心地好い悦(よろこ)びも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<適悦(てきえつ)清浄句是菩提位>8、互いに恋い慕い合うことも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<愛(あい)清浄句是菩提位>9、愛の誇(ほこ)り高ぶりも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<慢(まん)清浄句是菩提位>10、その身を美しく飾ることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<荘嚴(そうげん)清浄句是菩提位>11、満ち足りて、心が愛情でいっぱいに潤(うるお)うことも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<意滋澤(いしたく)清浄句是菩提位>12、満ち足りて、心が光り輝くことも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<光明(こうべい)清浄句是菩提位>13、満ち足りて、充実した身体感覚も、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<身楽(しんらく)清浄句是菩提位>14、美しさを愛でることも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<色(しょく)清浄句是菩提位>15、心地好い声も、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<聲(せい)清浄句是菩提位>16、芳しい香りも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<香(きょう)清浄句是菩提位>17、甘美な味わいも、いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきである。<味(び)清浄句是菩提位>
(『理趣経』初段「大楽の法門」金剛サッタの巻:十七の清浄なる生)
とによって、生きとし生けるものすべてが分け隔てなく生を楽しんでいる。
この実在する生の世界と、その喜びのすがたにこそ、さとりがあると説く。
これらの生の営みは、イメージ・シンボル・文字・作用の四種の表現媒体によってとらえられ、そのすがたかたちは、帝釈天(たいしゃくてん)の宮殿の美しく飾られた網の結び目の無数の宝珠のように限りなく照り映え、その宝珠の一つひとつには、生きとし生けるもののおのおのが発揮する無量無辺の知の活動、身体行動性・コミュニケーション性・精神性が印(しる)されていて、それらが灯明の光のように相互に入りまじっている。
もし、よくこの『理趣経』をテキストとして用い、思考を重ね、学修すれば、無限に近いほどの長い時間を費やすことなく、自らのいのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきがもつ生の基本理念(十六大菩薩)、
「万物の平等性」①いのちの存在(金剛サッタ)②自由(王)③慈愛(愛)④喜び(喜)
「利益の平等性」①生産性(宝)②快適性(光)③相互扶助性(幢)④充足性(笑)
「真理の平等性」①法則性(法)②有益性(利)③因果性(因)④理論性(語)
「活動の平等性」①身体行動性(業)②コミュニケーション性(護)③精神性(牙)④身体行動性・コミュニケーション性・精神性の三つの活動がいのちのもつ無垢なる知のちからと共鳴し、一体化したあるがままのはたらき(挙)
に目覚め、それらの理念にしたがう真実の生が発揮され、その一生の内にいのちのもつ無垢なる知のちからそのもの(大日如来)と、その知のちからによるいのちの堅固な存在(金剛サッタ)を体得することになるだろう。
以上がこの経の大意である。
(追録:『理趣経』を含む『金剛頂経』系テキストが説く、存在の本質の四種の様相と、密教経典の意義)
1、真理の教えを説く人も、その教えを聞く人も、その本体はともに六つの大なる要素、すなわち、万物を構成する五つの質料(固体・液体・エネルギー・気体・空間)と意識によって成っている。そのように、質料と意識が成す存在の多様なすがた(生存・種・遺伝・個体といういのちのありのままのすがたの存在と、それらの生きとし生けるものが生活する境界、生物・環境・生態系の存在)によって、世界の全体像(イメージ)が出来上がっているので大マンダラ身(六大によってあらわれる存在の本質の様相)という。(質料と意識は、生きとし生けるものすべてが知を有しているから、互いを知覚・識別し、そのすがたかたちを分別することができることによって生じるのであって)マンダラ中央の大日如来のすがたが、いのちのもつ無垢なる知のちからの存在そのものを象徴し、その四方に配される四仏、アシュク如来・宝生如来・阿弥陀如来(無量寿如来)・不空成就如来のすがたをもって、無垢なる知のちからの展開があらわされ、さらにはそれらの知のちから(如来)のはたらき(菩薩)によってもたらされる生の理念が、金剛拳(あるがままの行為)などの十六大菩薩のすがたによって示される。2、次にサンマヤとは、サンマヤマンダラ身のことである。生きとし生けるものすべてがもつ無垢なる知のちからによるいのちの堅固な存在そのものを象徴している金剛手菩薩(金剛サッタ)は、右手ですべての始原を示す大金剛杵(しょ)を振るい、諸法の空(一切の存在に固定的実体のないこと)・諸法の無相(一切の存在に定まった形相がないこと)・諸法の無願(一切の存在は特定の方向や目的をもたないこと)・諸法の光明(一切の存在は空であり、定まった相も、特定の方向・目的の願いもないから、自由に光り輝き、清浄であること)を説く文殊菩薩は、自らのもつ剣を振るって、すべての知の戯言(たわごと)を断ち切る。このように諸尊のもつ個別の標示(シンボル)によってあらわす存在の本質の様相をサンマヤマンダラ身という。3、次に法とは、『金剛頂経』系テキストの一つである『理趣経』は全十七段で構成され、各段の終わりにはそれぞれの内容を集約する一字(サンスクリット)が掲げられるが、この一字を唱え、意識を集中することによって、おのおのの真理の境地(いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらき)を体得することができる。このように言語(文字)よってあらわす存在の本質、つまり真理の様相を、法マンダラ身という。4、次にカツマとは、例えば、金剛手菩薩は、左手に金剛慢印(こんごうまんいん)を結び、大日如来は、胸の前で左手をこぶしに握って人さし指だけを立て、それを右手で握る智拳印(ちけんいん)を結び、降三世(ごうざんぜ)明王※は、足もとに諸魔を服従させる降伏(ごうぶく:威力をもって他を降ろし伏せること)の立ちすがたをとり、観自在菩薩は、微笑みとともに手にした蓮華を開花させるポーズをとる。このように、手足の動作・いかめしい挙動・作法にかなった立居振舞などによって、つまり身体活動の様相そのものによって存在の本質をあらわすことをカツママンダラという。降三世明王:『理趣経』全十七段の内、第三段「降伏(ごうぶく)の法門」(心身の制御)に登場する明王(心身を制御するちからのはたらき)である。初段「大楽の法門」(いのちのもつ無垢なる知のちからのはたらきがもたらす、生の普遍の喜び・楽しみ)に登場するのが金剛サッタ(無垢なる知のちからによるいのちの堅固な存在)。第二段「覚証の法門」(初段の生の喜び・楽しみにおいて、すべてのものは澄んだ水のように分け隔てなく同化し、自在を得て平等である)と説くのが大日如来(いのちのもつ無垢なる知のちからの存在そのもの)であるから、それにつづくものである。本名は、ソンバ忿怒明王という。また、バザラウンカラともいう。これはサンスクリットのヴァジラ・フームカーラ(金剛なる忿怒の音声を発するものの意)の音写である。大日如来の無垢なる知のちからを本性とする金剛サッタが、生きとし生けるものすべてのかたくなな心身を制御し、静めるために、金剛忿怒のすがたをとって、顕現したのが降三世明王である。(イ)生存欲(呼吸欲・睡眠欲・飲食欲・性欲・群居欲・情動)世界・物質世界・精神世界の三界の秩序と、過去世・現在世・未来世の三世(三界)にわたる煩悩の制御。(ロ)貪(むさぼ)り⇔飽くことを知らない集中力による、願いと行ないの達成瞋(いか)り⇔まちがいや悪を許さず、絶対に正そうとする勇猛さ痴(おろか)しさ⇔すべてのものを受け入れる寛容さの善にも悪にもなる精力の制御。(ハ)身体の成長と維持の制御。(ニ)煩悩障(感情的・肉体的な迷い)と所知障(理論的・思想的な迷い)の制御。などの心身の根幹となる事柄を制御するはたらきをする。
『理趣経』、および『金剛頂経』系のすべての経典は、始めから終わりに至るまで、みな同じ意味を説く。
だから今、普遍性をもつ四種マンダラを用いて、これを解釈した。
経典の解釈の仕方として、一般的にはその内容を大意・題目・本文解釈の三つに区別する方法を用いるが、ここでは、その方法を用いない。(なぜなら、一切の存在における個の普遍性をあらわすのがマンダラの理念であり、そのマンダラを用いて経典を解釈するのと、個別の経典ごとの文脈をその経なりに解釈するのとは、根本的に意図が違う)
この『理趣経』は、『金剛頂経瑜伽十八会(え)』の第六会の経典に当たる。
『金剛頂経』系の密教テキストには、十万の詩頌(しじゅ)と十八会がある。
これらの『金剛頂経』系の密教テキストは『大日経』とともに、龍猛(りゅうみょう)が南インドの頑丈な塔の中で感得したという「如来秘密蔵(いのちのもつ無垢なる知のちからの秘密の教え)」の根本となるものである。
したがって、人間ブッダが人びとの能力・素質に応じて説いた経と同じものではない。
過去・未来・現在にわたるすべての生あるものは、みなこの密教の説く「いのちのもつ無垢なる知のちから」によって生きているのだ。
この教えに比べれば、他が説くさとりの教えは、方便をもって、人びとを救い導くための言葉にすぎない。それらは、実在する生の真実のすがたを語ったものではない。
知性ある人は、このことを知らなければならない。
『理趣経』講話 終わり
弘法大師空海『理趣経開題』(生死之河)より
あとがき
『理趣経』の教えを、空海は恩愛をキーワードとして説いた。
「人間の一生についてくるのは恩愛である。
恩とは父母の恩であり、愛とは妻子などの愛である。
それらの恩愛があるから、生が受け継がれてきた。
しかし、その恩愛が人びとを苦しめもする。
その苦しみの本体は自我である。
小さな自我を棄て、恩を棄て、無為に入り、
自他の分け隔てなく慈悲の行ないをすることができれば、
そこに小さな自我を超えた真実の恩と愛がある。
慈悲の根元はいのちのもつ無垢なる知。
その知のちからとはたらきが仏像となった。
無垢なる知のちからの存在そのものが大日如来。
無垢なる知のちからの展開をあらわすのが各種の如来。
無垢なる知のちからのはたらきを示すのが各種の菩薩と明王と天。
それらの無垢なる知のちからとそのはたらきによるいのちの堅固な存在を象徴するのが金剛サッタ。
それらの仏像のすがたによって世界をとらえ、
永遠の恩と愛(生きとし生けるものすべての恵みに感謝し、それらを慈しむ自我、すなわち大いなる自我)に目覚めることができるならば、その境地において、生の営みのすべては清浄である」と。
空海は59歳のとき、高野の山の自然道場で、多くの弟子たちと満天の星の下、万の灯明と万の美しい花をささげ、すべてのものが、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきによって、ともに生きられることを感謝し、祈った。
そうして、その後、毎年一回必ずこの法会を催して、四恩(父母の恩・為政者の恩・生きとし生きるものの恩・仏法僧の三宝の恩)に報いることを誓った。
その祈りの言葉の最後に
「六大(六つの質料によって成るもの)の広くゆきわたるところ、
五智(五つの無垢なる根本の知)の存在するところ、
空をはらい(鳥類)、地に沈み(昆虫類)、水を流し(水棲類)、林に遊ぶもの(ほ乳類)、
すべてこれわが四恩なり。
同じくともにさとりの世界に入らしめたまえ。832年8月22日」(『遍照発揮性霊集』巻第八 所収、高野山万燈会の願文)
とある。
このように空海の説く法は、生きとし生けるものがともに生きられることへの感謝の祈りを基盤としている。
生きているからこそ、享受することができる生の喜び・楽しみ、
そこから『理趣経』が説かれた。
補記
因みに、当『理趣経開題』(生死之河)の全文の内、本論となる「今、この経を釈するに、略して四意あり(いま、この経を解釈するのに、おおよそ四種の方法がある)」から文章最後の「有知(うち)の人、知らずんばあるべからず(知性ある人は、このことを知らなければならない)」までは、『教王経(きょうおうぎょう※)開題』の経の解釈の部分とほぼ同じ文脈の文が用いられており、またその前の「諸教の興(おこり)、蓋(けだ)しこれがためか(ブッダの教えにいろいろな展開があるのは、思うに、以上のようなことを理由としているからであろうか)」までの文は、『法華経開題』(開示茲大乗経)『梵網(ぼんもう)経開題』にも同文がある。このことから、ここで説かれている内容が、密教全般の重要なテーマであるとうかがい知ることができる。
※『教王経』:『金剛頂経瑜伽十八会』の初会の経典。