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019 律僧鑑真の決死の「四分律」とアジアを知る

 大学寮で人倫の道(倫理・道徳)、無為自然の道(処世の方法学)、政の道(国家・君主のあり方)、律令の道(法制の知識)、唐語(長安の地域の方言)、天文占術の道(占星方位の術)、文芸の道(漢詩文の暗記、創作)、書の道(五体の書法)に明け暮れていた時期の教海は、阿刀大足佐伯今毛人などまわりの期待に応えかなりストイックな勉学の日々を送っていたであろう。
 しかし誰でもそうであるように、青年期に向かう教海にも思春の嵐が吹いていたに相違なく、異性にめざめ、性欲の抑制とその開放の間で懊悩することがしばしばであったとしても不思議ではない。しかしその若き悩みを漢籍の勉強は何も解決してくれなかった。官大寺の僧はどうしているのか、彼らに聞いてみたいこともあった。深山や海辺でのストイックな修行の間は性欲に悩まされることはほとんどないにしても、旧都の雅な世界に戻るとそうはいかなかった。教海とて若さをもてあますことたびたびだったはずで、沙弥として沙弥戒を守るだけでも大都会では大変であった。

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 教海は、仏教に在家出家を含め「優婆塞戒」「比丘戒」「具足戒」「菩薩戒」など何種かの戒律があり、「四分律」「五分律」「十誦律」「摩訶僧祇律」「根本説一切有部律」によって修行者の守るべき規律徳目が詳細に定められていることをすでに知っていたが、依然として生身の教海は煩悩の制御と開放の間で苦悶していた。生命力に満ちた讃岐の風土に根ざした教海の体質には、まだまだ戒律に矛盾するところが大いにあった。

 教海は律僧鑑真和上のことをしばしば官大寺で聞いていた。唐の揚州大明寺に止住していた中国(四分)律宗の高僧鑑真が、聖武天皇の招請によって、使者として唐に渡った大安寺普照や弟子らとともに国禁を犯してでも日本に渡ろうとしたのだが、中国に残る弟子らの引止め工作や海上遭難で六回もやり直しし、その間に盲目になってもあきらめず、12年目にして東大寺に到着したこと。大仏殿の前に土壇の戒壇を仮設し、聖武天皇以下百官・公卿400人が「沙弥戒」を受けたこと。その後、鑑真は大仏殿西側の地に戒壇堂を建てしばらくは東大寺で受戒の法を指導したが、やがて引退をして唐招提寺に落ち着いたこと、など。

 和上がもたらした「四分律」は、いくつかの仏教戒のうちで中国で最も行われたものである。もともとはインド小乗仏教の一部派「法蔵部」が出家僧(比丘)が守るべき規則や罰則を定めグルーピングしたものの一つで、その経軌はパーリ語(インド俗語の一つ)で書かれている。和上はその漢訳をもたらした。
 「四分律」は「比丘の二百五十戒」などを規定し、その「比丘の二百五十戒」を内訳すれば、出家僧が最も犯してはならない極重罪(波羅夷法、4ヶ条)、波羅夷法に次ぐ出家僧の重大な罪(僧残法、13ヶ条)、上の二つの罪が疑われても仕方のない罪(不定法、2ヶ条)、出家僧の所有物あるいは物の所有法に関する罪(尼薩耆波逸提法、30ヶ条)、出家僧にふさわしくない行為の罪(波逸提法、910ヶ条)、食事等の布施を受けている時に犯してはならない罪(波羅提提舎尼法、4ヶ条)、出家僧の生活全般、着衣や食作法、法儀の約束事、説法方法等に関する罪(衆学法、100ヶ条)、教団内の争論・対立を収める規定や出家僧の違背行為を裁く際の裁判運営法(滅諍法、7ヶ条)というものである。

 ある日教海は、和上が没して30年を経た唐招提寺に弟子の安如宝をたずねた。和上に従って天平勝宝6年(754)に23才で来日し、東大寺で和上から具足戒を受け、一時師のもとを離れ下野国薬師寺で戒壇を守っていたが、和上の没後唐招提寺に戻り伽藍の整備につとめていた。
 安如宝は、ソグド人であったらしい。唐代中国では、中央アジア・ソグディアナ地方の中心都市の「ブハラ」(現在のウズベキスタン・ブハラ州の州都)出身の人は「安」という姓を名乗ったという。ちなみに「石」という姓はタシケント出身、「康」はサマルカンドの出身である。

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ブハラの位置(ウズベキスタン)
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現在のブハラ市街

 如宝は教海より43才も年長であった。21才の頃の教海に会ったとすれば如宝はもう64才くらいになっていた。大様で風格にみちた厳格な律僧であったらしい。
 教海は如宝から鑑真和上の渡海弘法の強固な使命感や厳格な「四分律」遵守について詳しく聞いたであろう。さらには、大安寺でしばしば耳にしていたソグド語やペルシャ語、あるいはゾロアスター教マニ教そして]など、唐に集っているアジアの異国語や異教について時を忘れて聞き入ったと思われる。教海は、仏教とアジアの地誌、仏教とアジアの諸宗教、仏教とアジアの諸人種、仏教とアジアの言語との関係について、目からウロコが落ちるような思いで聞いたであろう。

 唐招提寺は創建当時「唐律招提寺」といい「招提寺」と呼ばれることもあった。唐流にいえば官寺に対して私寺であったが、やがて官寺の待遇を受けるようになり唐招提寺というようになった。伽藍が整備されるのは安如宝の時代以降のことである。創建当初から弥勒堂・五重塔・鐘楼・戒壇堂・回廊を焼失した以外は朝廷と距離を置いたこともあって兵火にも遭わず、伽藍の保存状態は法隆寺に次ぎ良好な状態である。金堂・講堂・鐘楼・鼓楼・東室・経蔵・閼伽井などの伽藍は、今も南都の往時を偲ぶにふさわしいたたずまいを残している。この唐招提寺で芭蕉は鑑真和上の肖像を拝し、次の句を詠んだ。

若葉して 御めの雫 ぬぐはゞや

 南都官大寺の講筵に列する日々、大乗「」の真髄を極めようとしたためか、教海は名を「如空」に改めた。

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