「即身成仏」という四文字熟語を、よく「この身このままで(この煩悩にまみれたこのままの身で)、仏になること」などという語句解説を、檀信徒の前でやらかして恥じない真言僧がいる。あるいは、「即身仏」(ミイラ化した修験僧の坐像など)に喩えて、五穀を断ち、三昧行のうちに命が尽きることを「即身成仏」だなどとうそぶいている行者筋もいる。
しかし、空海や後の真言教学はそんなことを言っていない。例えば、「即身成仏」には、「即(すなわち)身、成れる仏」(六大(体))、「身に即して仏と成る」(四曼(相))、「即(すみやか)に身、仏と成る」(三密(用))という読み方があり、また理具成仏・加持成仏・顕得成仏という言い方もある。
「即(すなわち)身、成れる仏」(六大(体))とは、『即身成仏義』の有名な「二頌八句」の最初に言う「六大無礙にして常に瑜伽なり」(体)の言い換えであり、本来の法界(サトリの智の世界)では仏も私たち凡夫も森羅万象すべからく六大(地・水・火・風・空・識)から成る法爾自然の体にて「(すでに)成れる仏」だという。
「身に即して仏と成る」(四曼(相))とは、二句目の「四種曼荼は各々離れず」(相)に当り、さはさりながら現象世界の差別相では、仏は仏、凡夫は凡夫で、森羅万象はみな四種の曼荼羅(大マンダラ・法マンダラ・三昧耶マンダラ・羯磨マンダラ)のなかにおさまっている。だから、それぞれに修行を行いその「身に即して仏に成る」のである。
「即(すみやか)に身、仏と成る」(三密(用))とは、三句目の「三密加持すれば速疾に顕わる」(用)のことで、仏に成る修行とは手に(修行の際本尊とする仏尊の)印(サイン)を結び、口に(その仏尊の)真言を唱え、心に(その)仏尊の姿を映じて、深い三摩地に入れば「すみやかに」本尊と一体になる(「仏と成る」)というのである。
しかし、空海や後の真言教学はそんなことを言っていない。例えば、「即身成仏」には、「即(すなわち)身、成れる仏」(六大(体))、「身に即して仏と成る」(四曼(相))、「即(すみやか)に身、仏と成る」(三密(用))という読み方があり、また理具成仏・加持成仏・顕得成仏という言い方もある。
「即(すなわち)身、成れる仏」(六大(体))とは、『即身成仏義』の有名な「二頌八句」の最初に言う「六大無礙にして常に瑜伽なり」(体)の言い換えであり、本来の法界(サトリの智の世界)では仏も私たち凡夫も森羅万象すべからく六大(地・水・火・風・空・識)から成る法爾自然の体にて「(すでに)成れる仏」だという。
「身に即して仏と成る」(四曼(相))とは、二句目の「四種曼荼は各々離れず」(相)に当り、さはさりながら現象世界の差別相では、仏は仏、凡夫は凡夫で、森羅万象はみな四種の曼荼羅(大マンダラ・法マンダラ・三昧耶マンダラ・羯磨マンダラ)のなかにおさまっている。だから、それぞれに修行を行いその「身に即して仏に成る」のである。
「即(すみやか)に身、仏と成る」(三密(用))とは、三句目の「三密加持すれば速疾に顕わる」(用)のことで、仏に成る修行とは手に(修行の際本尊とする仏尊の)印(サイン)を結び、口に(その仏尊の)真言を唱え、心に(その)仏尊の姿を映じて、深い三摩地に入れば「すみやかに」本尊と一体になる(「仏と成る」)というのである。
○「即身成仏」ー「成仏」と「万人救済」の両立