空海年表・クウカイ クロニクル
チベット諸派と大伝法院[1000〜]

藤原氏および天皇家の帰依によって日本密教は国家事業とさらに結びついていく。大陸では天台の四明知礼、華厳の浄源、高麗僧の義天、訳経僧リンチェン・サンポらが活躍。12世紀になると、新義真言宗の祖、覚鑁と諸弟子によって根来山に大規模な堂塔伽藍が建立される。同じころ、チベット仏教の聖者ミラレパが衆生を教化し、アンコール・ワットが隆盛をきわめた。

年代
1001
菅原孝標女、石山寺に参籠(宮廷の官女の間で石山詣が盛んとなる)
1003
真興、興福寺維摩会の講師を勤める
1004
真興、一条天皇の病気平癒を祈願し[子島寺両界曼荼羅図]を賜るという
1004
紫式部、石山寺に参籠し『源氏物語』を着想するという
1004
高野山上の地理・気象の悪条件を考慮し雑役を免除、山麓に政所、経文・仏具の舎庫建造(「金剛峯寺奏状」)
1004
行円、京都一条に行願寺(革堂)を建て、以後ここを拠点として法華四十八講・釈迦講・四部講など行う
1006
紫式部、一条天皇の中宮彰子のもとに出仕
1007
道長、金峰山に埋経し、極楽往生・三会値遇を願う
1008
惟宗允亮、普光寺僧幡慶から、夢に高野に詣で生身の弘法大師に会い、大師と道真・道風は一体と告げられる
1000
旱魃が全国に広がり、四明知礼、『金光明最勝懺儀』によって祈雨を修す
1000
法賢没(『三身梵讃』『八大霊塔梵讃』『犍椎梵讃』『聖金剛手菩薩一百八名梵讃』『曼殊室利菩薩吉祥伽陀』など訳出)
1001
法天没(『文殊師利一百八名梵讃』『聖観自在菩薩梵讃』)
1001
天息災・法天亡くなり、施護、以降30年間、経典翻訳に当たる(『金剛頂経』(十八会完訳)『仏説一切如来真實攝大乗現證三昧大教王経』『仏説一切如来金剛三業最上秘密大教王経』『大乗荘厳宝王経』『六字大明咒』など訳出)
1002
遵式、東掖山に入り、益建精舎を建てて念仏三昧を修す(山家派形成)
1003
隋の智者禅師(天台智顗)の全集刊行、『天台総録』の題名を賜る
1003
日本僧寂照、源信の『法華経』に関する質問を携えて四明知礼を訪れる
1004
四明知礼、寂照に27の質問に答える手紙を託す
1004
遼の大軍の南下、真宗皇帝の親征によって互角の戦いとなる
1004
和平派の台頭により、宋と遼の「澶淵の盟」を結ぶ
1004
東吳の沙門、承天道原撰『景德伝燈錄』(法眼宗)
1004
四明知礼『十不二門指要鈔』(妄心観境説)
1006
インド僧の法護(達理摩波羅)、宋に入り梵語の解釈に貢献
1006
四明知礼『四明十義書』
1008
王欽若が画策した天書事件(符瑞の降臨によって大中祥符と改元)
1008
宋の真宗皇帝、汾陰に地を祀る儀、泰山に天を祀る封禅の儀を執行
1008
泰山山麓の天貺殿(封禅の壁画)などの宮殿造営
1008
真宗書[登泰山謝天書録二聖功徳之銘碑]
1008
燕文貴、王道真監督による玉清昭応宮建設に壁画制作([江山楼観図巻][溪山楼観図])
1008
李建中書[宝宅帖]
1008
陳彭年・丘雍、『切韻』を修訂し『大宋重修広韻』に改める
1000
占城、首都ダナンのミーソン聖域からヴィジャヤに遷都(ヴィジャヤ朝)
1000
アンコール朝ウダヤディティヴァルマン1世即位、タ・ケウ寺院建立
1000
チョーラ朝ラージャラージャ1世の援助でシャクティヴァルマン1世、チャールキア朝復活(東チャールキア朝)
1000
この頃、チベットのグゲ王朝の庇護下に訳経官リンチェン・サンポ、レクペーシェーラプとともにサンスクリット文献の翻訳に邁進
1000
この頃から、リンチェン・サンポ、「喜金剛タントラ」(ヘーヴァジュラ)や「勝楽タントラ」(チャクラサンヴァラ)などの新訳開始
1000
この頃から、リンチェン・サンポ、グゲのトリン寺、ラダックのニャルマ寺、スピティのタボ寺など、西チベットに多数のゴンパ建立
1002
アンコール朝ジャヤヴィーラバヴァマン1世即位、スピアン・トマー寺院建立
1002
越国皇帝の黎桓、運河を開鑿、全国十道を路・州・府に改める
1002
北インドのチャンダーラ朝ダンガ王、ヴィシュヌバナータ寺院、パールシュバナータ寺院建造
1002
チャンダーラ朝ガンダ王即位
1002
チャンダーラ朝ガンダ王、首都カジュラホの西部を開発、チトラグプタ寺院、デーヴィー・ジャガダンバー寺院建設開始
1004
遼の聖宗、20万の軍勢を率いて、宋の首都・開封を攻撃
1004
遼と北宋、澶淵の盟(宋は遼に年間絹20万匹・銀10万両を贈ることを約す)
1004
この頃までにパーラ朝のアティーシャ、ナーランダ大学にてバラモン教・ヒンドゥー教のタントラ、唯識・倶舎、龍樹の空論などを習得
1005
越国3代皇帝、黎龍鋌の弟、黎明提・黎明昶が挙兵し内乱となる
1006
高麗の献哀王太后、金致陽との間に生まれた男児を王位に就けようと大良院君を追放
1006
高麗の大良院君、津寛大師に救われ仏道に専心
1006
慧明大師、灌燭寺の[恩津弥勒]完成(韓国最大の石仏)
1007
高麗の真観寺九層塔建立
1008
カズナ朝マフムード、プラティハーラ朝ラージヤパーラ王と戦い、首都カナウジを陥す
1011
雅慶、大僧正に任じられ一条院で大蔵経供養、宝満院創建
1011
藤原行成、清和天皇の第6皇子貞純親王の御所、桃園の邸を世尊寺とする
1010
藤原道長の妻倫子の御願により、仁和寺の観音院灌項堂建立
1010
この頃、『御手印縁起』に金剛峯寺政所として大小八宇の堂舎が描かれる
1010
この頃、紫式部『源氏物語』成る
1012
祈親上人定誉、長谷寺観音の夢告を得て高野山に登る(山上伽藍復興推進)
1012
源信、広隆寺にて声明念仏を始める
1013
宋の国清寺、入宋僧寂照の弟子念救に託し天台大師智顗の像を延暦寺に贈る
1014
薬師像開眼により広隆寺に参詣する者多し
1015
疫病流行し京の人々、花園今宮を建て疫神を祭り御霊会を修す
1015
念救、再び入宋を希望し、道長ら寂照と天台山に施物を贈る
1016
定誉(祈親上人)高野山の復興を企てる
1018
仁海、藤原道長の病に五壇法を修す
1018
仁海、勅命を受けて神泉苑に請雨法を修して大旱魃を鎮める
1018
仁海、祈雨の功により権律師に任ぜられる
1019
藤原道長出家
1019
道長、阿弥陀堂(無量寿院)建立を発願
1010
四明知礼、聖旨によって保恩院を延慶教寺に改める
1011
沙門仁編集『釈氏会要』
1011
姚鉉、唐代の詩文を集めて『文粹』編纂(宋代の古文復興おこる)
1012
施護、新約経典を「開元」・「貞元」に纏めて編集し版刻出版する建議を出す
1012
真宗皇帝、福建省の風水害に強い占城稲を江南各地に広め二毛作を推奨
1013
王欽若・楊億編『冊府元亀』完成(歴代の制度沿革を網羅)
1013
兵部侍郎訳経潤文官の趙安仁、新約経典を『大蔵経錄』として奏上
1013
勅命によって『大蔵経錄』を『大中祥符法宝錄』と題して刊行
1013
四明知礼、念仏施戒会を設ける
1013
張君房『雲笈七籤』
1014
法護訳『佛吉祥』などの経200余巻完成
1014
真宗皇帝、玉清昭応宮の大造営
1014
真宗皇帝、道士の張守真を尊崇し、翊聖保徳真君の称号を与えその像を祀る
1015
慈雲遵式『往生浄土懺願儀』
1015
第24代天師張正随が道教の最高位に就く(正一派道教盛んになる)
1015
枢密の王欽若、『老子化胡経』を古聖遺跡として残す決定
1015
宋の太宗御製『妙覚集』を大蔵経に編入
1015
曾鞏、6歳にして『六論』を著すという
1016
西土梵僧、多数訪れる
1016
宋朝、『大中祥符編勅・儀制勅・赦書徳音』を発布
1016
四明知礼、法華懺法を行じる
1017
四明知礼に紫衣が下賜される
1017
台州東掖山の智者禅師(天台智顗)の教文、教蔵閣を建てて収蔵
1017
施護、病死(死後に法護とともに訳出した『大力明王経』が世に出る)
1017
宋の政府、「民に父母を棄てるのを禁じることが僧道である」と通達
1019
真宗皇帝、宮城の大安殿に道釈の大会を開く(一万三千余人の僧尼、道士女冠に齋醮を建て、銀薬大錢を下賜)
1019
真宗皇帝、道士の免税を実施、道観の建築を支援
1019
真宗皇帝、『道蔵』の整理を完了、『大宋天宮宝蔵』と名づける
1010
遼、高麗に侵攻、首都開城に攻め込む
1010
高麗の将軍・姜邯賛、開城の補給路を断ち、遼軍撤退
1010
越国の親衛殿前指揮使・李公蘊、朝臣・僧侶に推戴されて皇帝に即位(李朝)
1010
越帝太祖、首都を華閭(ホアルー)から昇龍(タンロン;現ハノイ)に移す
1010
越帝太祖、国号を大越とする
1010
パーラ朝のアティーシャ、大衆部の戒護から得度を受け燃灯吉祥智の法名授けられる
1010
南インドのチョーラ朝ラージャラージャ1世、ブリハディーシュヴァラ寺院完成
1010
パラマーラ朝ラージャ・ボージャ即位(ラージプート文化全盛)
1010
この頃から、パラマーラ朝ラージャ・ボージャ王、サラスヴァティーを祀るボージュシャラ寺院の建設開始
1010
この頃、セルジュークの族長の1人イスラーイール、一族4000家を率いてアム川を南渡、ガズナ朝マフムードに仕える
1010
高麗の大良院君、顕宗に即位、津寛大師のために津寛寺建立
1011
遼、高麗を侵攻
1011
高麗の顕宗、国家防衛を祈願し蜀版の開宝大蔵経をもとに最初の.『符仁寺蔵高麗大蔵経』の版木製作開始
1012
この頃、パーラ朝のアティーシャ、シュリーヴィジャヤ(スマトラ)に留学、法護に学ぶ
1013
チョーラ朝ラージャラージャ1世、北宋に通商のための使者を送る
1014
越帝太祖、京府大羅城を昇竜城に改称、祥符・広福・大興・耀徳の4門を開く
1015
越帝太祖、昇竜城の内外に蔵や寺観を建てる
1016
高麗の円融国師、顕宗の命によって浮石寺再建、無量寿殿建立
1016
高麗の顕宗、慶州朝遊宮を解体しその材を用いて皇龍寺の塔を修造
1017
チョーラ朝ラージェンドラ1世、シュリーヴィジャヤに海軍を遠征させる
1017
チョーラ朝の軍勢、スリランカに常駐
1017
スリランカのシンハラ王朝、アヌラーダプラからポロンナルワに遷都
1018
遼の蕭排押率いる10万の軍勢、高麗に攻め込む
1018
高麗の姜邯賛率いる高麗軍14万、鴨緑江、亀城に遼軍を破る
1018
高麗の開国寺の塔に法会を行い、舎利を安置し戒壇を設けて僧3200余人を度す
1018
アフガニスタンのガズナ朝マフムード、インダス流域に遠征
1018
チョーラ朝ラージェンドラ1世、セイロン北部確保
1018
ガズナ朝の侵入にプラティハーラ朝ラージャヤパーラ王、首都カナウジを放棄し逃亡
1018
チャンダーラ朝ヴィディヤーダラ王、カッチャパガータ家のアルジュナに命じ、ラージャヤパーラ王を殺させる
1019
ジャワのクディリ王アイルランガ即位(ジャワ東部の統一)
1020
大僧正となった済信、僧として初めて牛車宣旨を受ける
1020
道長、法成寺無量寿院を建立
1020
道長、延暦寺に受戒
1020
道長、延暦寺に受戒
1022
道長、法成寺金堂を供養し、その功で大仏師定朝を法橋とする
1023
三条天皇第4皇子性信入道親王、仁和寺の済信から伝法灌頂を受ける
1023
仁海、高野山浄土論を説き、藤原道長を高野山に導く(摂関や院の高野詣の先鞭)
1023
藤原道長、高野山登拝の入口にあたる紀ノ川南岸を寄進
1023
道長、仁海の勧めにより高野山に登り弘法大師入定の様を拝し、金剛峰寺拝殿・橋殿を造らせる
1023
仁海を権少僧都東寺長者とする(のち東大寺別当・東寺長者)
1024
心誉、法成寺薬師堂供養の功で権大僧都に任ぜられる(のち権僧正)
1025
近江関寺の再建工事に迦葉仏化身の霊牛現れ、道長はじめ貴賎群参
1026
奈良の円成寺[阿弥陀如来坐像]
1026
法成寺阿弥陀堂を改造し真言供養を行う
1026
中宮威子御産祈のため仏師康尚・定朝・長勢らに27体の仏像を造らせる
1027
道長病み、度者1,000人を賜う
1027
心誉、道長の病の回復のための修法に専心する(薨御の15日前)
1027
道長、法成寺阿弥陀堂にて薨御(済信、道長の葬儀の導師を務める)
1027
寂照、宋より書を道長に贈る
1028
平忠常の乱勃発(開拓武士団を率いる平忠常、受領の平惟忠を殺害、東関東制圧)
1028
藤原頼通、延暦寺に薬師法を修し度者300人を施与
1029
朝廷は東海道・東山道・北陸道の諸国に平忠常追討の官符を下し討伐軍を補強
1029
この年以後数年間に「栄花物語」正編成立
1020
四明知礼撰『観経疏妙宗鈔』
1022
章懿太后、遵式に『金光明護国儀』を著させる
1022
遵式、勅によって慈雲の号を賜る
1022
宋の真宗没し、仁宗皇帝即位、〈慶暦の治〉を現出
1023
この頃、五代に名声を馳せた范寛、まだ筆を振るうという[谿山行旅図][雪山楼閣図]
1027
沙門惟淨等「大藏經目錄」を編集し、「天聖釋教錄」の題名を賜る
1029
呂夷簡、郭皇后の廃位をめぐって新興官僚の范仲淹らと対立(慶暦の党議)
1029
欧陽脩、改革派の范仲淹を弁護し夷陵県令に左遷(『新五代史』を編集)
1020
アンコール朝スーリヤヴァルマン1世即位、西パライ完成
1020
アンコール朝スーリヤヴァルマン1世、テップ・プラナム、プリア・パリライ建立
1020
タングート族の李徳明、興州に遷都(河西を開拓し、ウイグルを破って甘・瓜・涼の3州を併合)
1020
遼の聖宗、高麗の使節を受け入れ講和を結ぶ(高麗、遼に朝貢する)
1020
この頃、パーラ朝の王族ティローパ、ダキニ天の援助によって原初の知恵を教わるという
1020
この頃から、チベットのリンチェン・サンポの新訳経典を典拠とする新訳派(サマルパ)、勢力を拡大(サキャ派・カギュ派などを形成)
1020
この頃から、吐蕃の翻訳仏典に従う仏教徒、旧約古派(ンガギュル・ニンマパ)と呼ばれ、ニンマ派形成
1020
チョーラ朝、北宋に通商使節を派遣(インド・中国航路掌握)
1022
チャンダーラ朝ヴィディヤーダラ王、ガズナ朝マフムードに300頭の象を献上し降伏(多額の貢納を支払う条件で講和)
1022
遼の聖宗、亡くなった宋の真宗を弔って三京の寺院に斎を催す
1022
チョーラ朝ラージェンドラ1世の遠征軍、東チャールキア領オリッサを北上しガンジス河畔に至る
1023
チョーラ朝ラージェンドラ1世、オリッサの新領土、ガンガイコンダチョーラプラムに遷都、シヴァを祀るラージェーンドレーシュヴァラ寺院建設開始
1023
チョーラ朝ラージェンドラ1世、シンハラ王をインドに追放、マラバル太守を国王とする(スリランカ仏教壊滅)
1024
高麗の顕宗、開京に五部坊里を設定し都城整備
1024
越帝太祖、昇竜宮城(大内)を建造
1024
チョーラ朝ラージェンドラ1世、海軍をインドネシアに派遣、シュリーヴィジャヤの君主を捕らえ、マレー、スマトラの貿易拠点征服
1025
ガズナ朝マフムード、ソムナスのヒンドゥー寺院破壊(たびたび北インドを侵略、寺院破壊を繰り返す)
1026
高麗の顕宗、忠清南道の交通の安全をはかって弘慶寺建立
1027
この頃から、カズナ朝マフムード、西にブワイフ朝、北にセルジューク、東にオズク族の攻撃を受けて反乱鎮圧に奔走
1028
越帝太宗、三王の乱を鎮めて即位
1028
越帝太宗、宮殿と竜城建設開始(神竜出現の地に天安殿建設、周囲に宮殿を造営、土壁を築き竜城とする)
1030
この頃、興福寺の教懐、山城の念仏別所・小田原谷に移る(寺社復興の勧進に携わる)
1030
甲斐守に赴任していた源頼信、頼信父子、平忠常の討伐に参戦
1030
疫病により、諸国に丈六観音を図絵し「観音経」を転読
1031
平忠常、源頼信に降伏し関東平氏は源頼信に従う(平忠常の乱平定、河内源氏の関東進出)
1031
明算、定誉に師事し高野山に出家
1031
平忠常の乱平定
1032
頼通、返書を寂照に贈る
1035
園城寺三尾明神祭礼に延暦寺僧徒乱入、園城寺僧徒は延暦寺権僧正明尊の山上坊舎を焼く
1036
頼通、後一条天皇追善のため浄土寺で阿弥陀護摩を行う
1036
長元年中、長宴、皇慶(池上阿闍梨)の秘訣を筆録し『四十帖決』15巻を編集
1037
興福寺僧徒、東大寺東南院を破壊
1037
安楽寺僧徒、太宰権帥藤原実成と前年闘争しこれを訴え推問する
1037
地震で高野山伽藍全壊
1037
長谷寺塔焼失
1037
仁海の請により醍醐寺延命院を御願寺とする
1038
天台座主慶命入寂(明尊の座主就任に反対が起こり後継決まらず)
1038
天台座主未定のために延暦寺戒壇の授戒を停止
1039
成尊、仁海から伝法灌頂を受ける(小野曼荼羅院を附属される)
1039
『仁海請雨法支度諸事口傳』成る
1039
延暦寺僧徒3千、関白頼道の高倉第に向かい、座主のことについて強訴、多勢の武士これを防ぐ
1039
教円、天台座主となる
1039
園城寺、戒壇設立を請い、朝廷、可否を諸宗に問う
1032
宋の「天聖編勅・赦書徳音・天聖令・附令勅」発布
1034
浄源、王睿・仲希から『首楞厳経』を学ぶ
1034
柳永、進士に及第(開封で遊興に耽り歌謡作家となり、詞集『楽章集』を残す)
1036
『大平興國院千人邑重建定光如來眞身』
1036
欧陽脩、范仲淹を弁護して夷陵県令に左遷(『于役志』を著し、『五代史記』『新五代史』の編纂開始)
1036
黄龍慧南、南昌黄龍山(九江市)に住す〈臨済宗黄龍派〉
1037
程顥、弟の程頤とともに周敦頤に学びはじめる
1038
呉充、国子監直講・呉王宮教授となり、『六箴』を献上
1038
民間に[佛頂尊勝陀羅尼]の経幢の建立多い、『佛頂尊勝陀羅尼經并序』流布
1038
范仲淹、李元昊の西夏建国に西方の守備に就く(塞外の民に龍図老子と慕われる)
1038
狄青、西夏と戦って常勝(范仲淹、狄青に『春秋左氏伝』を伝授)
1030
ガズナ朝の英雄マフムード没、マスウード1世立つ
1030
この頃、チョーラ朝、インド洋から中国に至る制海権を確保し貿易を独占
1030
この頃、インドに『スティラハスヤ』(性愛秘義)
1031
遼の聖宗の葬送に祭天地の儀礼執行
1032
吐谷渾(タングート)を率いる李徳明の子の李元昊、平西王を継承
1033
平西王の李元昊、宋の年号の明道を、父の諱と称して顕道と改元(宋から離脱はかる)
1033
高麗、北部国境に半島を横断する長城を築く(〜1044)
1034
高麗の僧の中廷、百済の如幻が建立した華厳宗の白岩寺を再建し浄土寺とする
1036
高麗の靖宗、4子に1子の割合で出家を許し開国寺・霊通寺・嵩法寺・普願寺・桐華寺の戒壇で受戒するよう定める
1036
平西王の李元昊、野利仁栄に命じて西夏文字をつくらせる
1036
平西王の公李元昊、宋の粛州・瓜州・沙州、吐蕃が駐屯する蘭州を制圧
1036
長らく南東インドに勢力を張ったプラティハーラ朝滅亡
1037
クシェーメンドラの説話集『ブリハット・カター・マンジャリー』
1038
平西王の公李元昊、景宗皇帝を称し、国号を大夏とする(西夏成立)
1038
西夏の景宗、首都の興慶府(銀川市)を築く
1038
西夏の景宗、官位制度の整備・軍事増強をはかる
1038
靖宗、2月の小会日に奉恩寺に燃灯会を行い太祖の霊廟に参拝(以降、恒例となる)
1038
野利仁栄、蕃学(西夏学校)を開き、『孝経』『爾雅』『四言雑字』を西夏文に翻訳
1038
ニシャプールの戦い(セルジュークのトゥグリル・ベグ、カズナ朝の軍勢撃破)
1038
セルジューク、トゥグリル・ベグ、中央アジア・東部イランを領して自立
1040
奥州の亘理地方に荘園を経営する藤原経清、修理大夫として在京
1041
園城寺の戒壇設立に延暦寺が反対(園城寺と延暦寺の対立激化)
1043
仁海『仁海請雨法壇具送進状』
1044
鎮源『本朝法華験記』
1047
長信、仁和寺観音院に性信入道親王から灌頂を受ける
1047
奥州の藤原経清、摂関家の氏寺・興福寺の再建造営に藤原一族として参画(『造興福寺記』)
1047
浄瑠璃寺建立、[九体阿弥陀像]を安置
1048
藤原頼通、高野参詣(政所河北の地を寄進)
1049
紀州に散在する高野山金剛峯寺領と紀ノ川流域の土地の交換認可
1049
高野山金剛峯寺の根本寺領(河南・河北,下方の3地域)を官省符荘と認定
1040
張士遜、太傅として致仕(『応制』『春坊』『雑文』など文集十種)
1041
慶曆年間、膠泥活字を用いた印刷術発明
1041
明義大師思斉『円覚経略疏鈔序』
1043
范仲淹・富弼ら、慶暦の新政を推進
1044
仲希『般若心経疏顕正記』
1048
曾鞏『菜園院仏殿記』『墨池記』
1049
この頃、胡瑗、太常鐘声を更新、楽事を定めて大理寺丞となる(明体達用の学を唱え、性命説を展開)
1040
この頃からパーラ朝のティローパ、師を求めて遍歴(サリヤパからカンダリ、ラワパからヨガ、スクハシッディからポワ思想、インドラブティから般若、マタンギから死の復活学ぶ)
1040
この頃、パーラ朝のティローパ、夢にナーガールジュナからプラバスヴァーラ、チャクラ・サンヴァラ、ラグサンバラタントラ、ヘールカアビダルマを受けるという
1040
ダンダーナカーンの戦い(セルジューク軍、カズナ朝マスウード1世の軍を破る)
1040
高麗に大食国(アッバース朝)の商人入朝(高麗の南海貿易盛ん)
1041
カラ・ハン国、スィル川とパミール高原を境に東西分裂
1041
儂智高、安南の李朝に反抗して挙兵し大暦国を建国
1042
遼の興宗、宣献皇后の忌日に上京の延寿寺・南京の憫忠寺・中京の三学寺に斎を催す
1042
遼の興宗、宋と西夏の紛争に介入、澶淵の盟の改定(遼への貢納の絹銀を10万上乗せ)
1042
この頃から、遼に飲茶・陶磁器の愛好広まる(遼の輸入、宋の貢納を上回る)
1042
大越太宗、占城に遠征
1042
チベットのクゲ王朝の王族コレ、師を求めてナグツォをインドに派遣
1042
チベットからインドに来たナグツォ、ヴィクラマシーラ寺院の老齢に達したアティーシャに入蔵を乞う
1042
アティーシャ、ターラー菩薩の啓示でチベットに入る
1044
大越太宗、後苑に銀漢宮を建設、宮女を居住させる
1044
高麗の顕宗、首都の開京に羅城を完成
1044
西夏の景宗、宋と「慶暦の和約」を結ぶ(宋に臣従属、莫大な歳幣獲得)
1045
この頃、チベットのグゲ王国でアティーシャ、『菩提道灯論』(ラムドゥン)を著す(戒律復興運動展開、ガダム派形成)
1045
この頃、アティーシャ、弟子ドムトゥンとともに中央チベットに移り、ニェタンでサンスクリットとチベット語の埋蔵経(テルマ)を発見するという
1046
高麗の一然編とされる『三国遺事』成るという
1048
大越太宗、後苑に瓊林・勝景・春光の三園を開く
1048
西夏を宋軍が攻撃、賀蘭山の戦いに西夏軍大敗
1048
西夏の景宗、太子の寧令哥に刺された傷がもとで亡くなる
1048
西夏に幼児の李諒祚が毅宗に即位、母の没蔵太后が摂政となる
1049
この頃までに、ジャワのクディリ王国に年代記『デーシャワルナナ』編纂
1050
この頃、高野山の慈尊院の山下政所は山上政所の統制下に属する実務機関となる
1050
奥州の安倍氏、独立を目指し朝廷への貢納停止
1050
安倍頼良の娘・有加を妻とする藤原経清、安倍軍の参謀となる
1051
陸奥守藤原登任、官兵を出して安倍氏の懲罰をはかるも敗北
1051
日野資業、法界寺建立、[阿弥陀如来・薬師如来像]を安置
1052
末法元年とされ、盛んに経塚が造営される
1052
後冷泉院の祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願の大赦(全国の罪人を許す)
1052
奥州軍を率いる安倍頼良、陸奥に赴いた源頼義を饗応(頼良は名を頼時と改める)
1053
藤原頼道、宇治の別荘を平等院に改修、[阿弥陀如来坐像]を安置
1053
源頼義、陸奥守と鎮守府将軍を兼ねる
1054
義範、成尊より伝法灌頂を受ける
1056
源頼義、阿久利川事件に前九年の役開始(安倍貞任の在庁官人、藤原光貞襲撃)
1057
源頼義、津軽俘囚と結び安倍氏を挟撃(安倍頼時、鳥海柵に敗死)
1057
源頼義・義家軍、陸奥国府より出撃、黄海(一関市黄海)の戦いに惨敗
1057
園城寺の実睿『地蔵菩薩霊験記』(六地蔵の記述)
1058
高野山龍光院蔵『大盧遮那経』(中院流の明算の訓点を施す)
1059
性信入道親王、高野山に参詣し護摩を800余日修し、高野山山上に灌頂院造営発願
1059
安倍貞任、北上盆地掌握、朝廷の赤札の徴税符を廃し藤原経清が発行した白札で徴税
1052
蔡襄、京師に戻され、知制誥・知開封府などを歴任(『茶録』『荔枝譜』『蔡忠恵集』)
1053
この頃、許道寧、宰相張士遜の邸宅に障屏画描く([秋山蕭寺図巻][漁舟唱晩図巻])
1053
浄源、蘇州万寿寺に秘思法師より、『肇論』『四絶論』を学ぶ
1054
欧陽修編纂『五代史』
1056
秘思法師没し、浄源は秘思の思想をまとめた『肇論中呉集解』を編集
1056
張載、開封に程顥・程頤と出会い、新たな儒学の構築に向かう(太虚の哲学、『正蒙』『経学理窟』など)
1057
欧陽脩、中央に戻り翰林学士などを歴任(宋祁と『新唐書』編集)
1057
進士に及第した蘇轍、枢密使の韓琦に政策提携を打診する『上枢密韓太尉書』
1057
蘇洵、蘇軾・蘇轍の二子を連れて欧陽脩を訪れ、『権書』『衡論』ほか22篇を献呈
1057
程頤、雅楽を改定、鐘律を定めて太子中允天章閣侍講となった胡安定の教えを受ける
1057
欧陽脩が主催する科挙に蘇軾・蘇轍の兄弟、曾鞏ら合格
1052
蔡襄、京師に戻され、知制誥・知開封府などを歴任(『茶録』『荔枝譜』『蔡忠恵集』)
1053
この頃、許道寧、宰相張士遜の邸宅に障屏画描く([秋山蕭寺図巻][漁舟唱晩図巻])
1053
浄源、蘇州万寿寺に秘思法師より、『肇論』『四絶論』を学ぶ
1054
欧陽修編纂『五代史』
1056
秘思法師没し、浄源は秘思の思想をまとめた『肇論中呉集解』を編集
1056
張載、開封に程顥・程頤と出会い、新たな儒学の構築に向かう(太虚の哲学、『正蒙』『経学理窟』など)
1057
欧陽脩、中央に戻り翰林学士などを歴任(宋祁と『新唐書』編集)
1057
進士に及第した蘇轍、枢密使の韓琦に政策提携を打診する『上枢密韓太尉書』
1057
蘇洵、蘇軾・蘇轍の二子を連れて欧陽脩を訪れ、『権書』『衡論』ほか22篇を献呈
1057
程頤、雅楽を改定、鐘律を定めて太子中允天章閣侍講となった胡安定の教えを受ける
1057
欧陽脩が主催する科挙に蘇軾・蘇轍の兄弟、曾鞏ら合格
1062
経範、性信入道親王より伝法灌頂を受ける
1062
陸奥守高階経重着任、陸奥の郡司は頼義に従い、源頼義が陸奥守に再任
1062
源頼義、出羽国仙北(秋田県)の俘囚の族長清原光頼・武則と連合軍を形成
1062
源頼義・清原連合軍、安倍氏の拠点、厨川柵・嫗戸柵を陥し安倍氏滅亡
1063
源頼義、由比郷鶴岡に石清水八幡宮の分霊を勧請(鶴岡八幡宮)
1063
前九年の役終結に源頼義は伊予守に赴任、源義家は出羽守、清原武則は陸奥守となる
1063
藤原経清の妻・有加、経清の嫡男(後の藤原清衡)を伴って清原武則と再婚
1064
源義家、出羽の直接統治はかなわず在京、美濃の領地をめぐって源国房と戦う
1065
成尊、勅命を受けて神泉苑に請雨経法を修し霊験を現す
1065
この頃、山城小田原谷の勧進聖教懐、高野山に登る(日々両界法・阿弥陀供養を修し、大仏頂陀羅尼・阿弥陀大真言を誦す)
1066
長信、旱魃に僧侶20人を率いて雨乞いの修法
1066
奈良の霊山寺[薬師三尊像]
1067
仏師・定朝没する
1068
後三条天皇即位
1068
成尊、後三条天皇の即位に愛染明王法・荼枳尼天法を修し印明伝授を行う(天皇の即位灌頂開始)
1068
後三条天皇、延久新政開始、大江匡房らの実務官僚登用
1069
後三条天皇、延久の荘園整理令発布、記録荘園券契所設置
1069
秦致貞[旧法隆寺絵殿障子絵](聖徳太子絵伝)
1060
程頤、進士の最終試験に失敗、学問に専念(理気二元論、「性即理」「格物」などの革新思想を提案、南宋の朱熹に継がれる)
1061
『霊巖寺千仏殿記』
1061
梅花心易で知られる占術家・邵雍、仁宗皇帝に招かれる(『皇極経世』などを著す)
1063
仁宗没し、英宗皇帝即位
1063
英宗、対外戦費に破綻した財政再建の改革を目指す
1063
英宗の父の位をめぐる濮議(韓琦・欧陽脩・曾公亮と司馬光・范純仁・呂大防の対立)
1065
英宗の勅により司馬光、中国の通史『資治通鑑』の編纂開始
1066
蘇洵、仕官を断り、覇州文安県主簿の禄を受けて『太常院革礼』完成
1067
英宗皇帝没し、神宗皇帝即位
1067
神宗皇帝、「政・官・財・軍事」の行政改革による賦税負担軽減、国庫回復を目指す
1067
神宗皇帝、既得権益を守りたい保守派の反対運動を抑える
1067
曾鞏『《戰國策》目錄序』、『《說苑》目錄序』
1068
浄源、法蔵の『妄尽還源観』を再発見(華厳教学の再生に挑む)
1068
曾公亮、英国公に封じられる(『英宗実録』『元日唱和詩』『勲徳集』『武経総要』)
1069
密印寺宝閣講院に『円覚経道場略本修証義』を編録
1069
浄源、円覚懺法を再生し同志を集めて修習(『普賢行願修証義』を著す)
1060
この頃、チベットのミラレパ、復讐のために叔母キュン・ツァ・ペルデンから黒魔術を学ぶという
1060
この頃、チベットの旧訳古派に吐蕃に密教を伝えたパドマサンバヴァ(蓮華生)と25人の高弟が埋蔵した経典(テルマ)を発見しようとする埋蔵経発掘者(テルトン)の活動盛ん
1060
この頃、パーラ朝の修行僧ティローパ、ナーローパに具生智(本覚の智)の体得を解くマハームドラーを伝授、「勝楽タントラ」(チャクラ・サンバラ)を相承させる
1061
西夏の毅宗、国相・訛龐父子の国権簒奪の陰謀を察知し処刑
1061
西夏の毅宗、親政を開始、蕃礼を去り漢礼採用
1062
西夏の毅宗、宋に遣使し九経・唐史・『冊府元亀』などの書籍を求める
1063
チベット族の禹蔵花麻、西夏に帰属
1065
この頃、チベットのマルパ・ロツァワ、ベンガル地方に留学、ナーローパから新しい無上瑜伽タントラ系の密教を相承
1066
高麗王第4王子、義天、霊通寺の王師・爛円のもとで得度し華厳教観を習う
1066
アンコール朝ハルシャヴァルマン3世即位、西メボン、プリヤ・ヴィヘヤ建造
1066
西夏の毅宗、皇帝軍を強化、中央集権体制をめざして国力増強をはかる
1067
高麗の智光国師、法泉寺に没し鄭惟産作・安民厚書[法泉寺智光国師玄妙塔碑]建立
1067
西夏の毅宗、突然の死去、幼少の恵宗即位し母方の梁氏の専横
1068
高麗の文宗、梁州に南京新宮建立
1069
占城、越国李王朝にクアンビン・クアンチ省の3州を奪われる
1070
下野守に赴任していた源義家、陸奥国の印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえる
1070
延久蝦夷合戦(陸奥守源頼俊に北陸奥平定を命じ、津軽・下北まで朝廷の支配下となる)
1070
絹布の制(絹布の等級を定め、現物通貨としての役割強化)
1070
この頃、教懐、小田原聖と呼ばれる念仏集団形成(高野聖を束ね、高野山の維持・参詣勧誘に務める)
1071
長信、東寺内に池坊を建立し起居(後三条天皇、百官を連れて長信を訪問)
1071
範俊、成尊から伝法灌頂を受ける
1072
延久宣旨枡、估価法の制定(度量衡の統一、現物貨幣間のレート定めて物流促進を図る)
1072
明算、高野山に戻り、空海が真然に伝えた中院流の事相復興
1073
性信入道親王、後三条天皇の出家の戒師を勤める
1073
後三条天皇没(輔仁親王を皇太子とすることを約して貞仁親王に譲位)
1073
貞仁親王、白河天皇に即位
1075
藤原師実、白河天皇に白河別業献上、法勝寺の建造開始
1075
伊勢平氏の平正衡、東寺の末寺多度神宮寺の荘園を押妨
1077
法勝寺の毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養(国王の氏寺)
1077
永観、禅林寺で念仏講、永観堂の[阿弥陀如来立像](見返り阿弥陀)
1079
藤原師実のもとで京都の治安にあたった平正衡、延暦寺の僧兵の強訴を防ぐ
1079
美濃で源国房と闘乱を起こした源重宗(清和源氏満正流4代)を追討
1070
王安石の新法政策開始(大商人・大地主達の利益制限、中小の農民・商人保護策)
1070
欧陽脩撰書『瀧岡阡表』
1070
程顥、中央官庁に登用されるも王安石を嫌って地方官を歴任(他者の苦悩を感じることを「仁」とする『定性書』『識仁篇』を著す)
1070
蘇軾、王安石の新法の行き過ぎを批判し左遷、地方官を歴任
1070
宋敏求『唐大詔令集』
1072
郭煕[早春](高遠・深遠・平遠の構図法を用いる)
1072
周敦頤、知南康軍を致仕、盧山の濂溪書堂に隠棲
1072
この頃、周敦頤『太極図説』(易の陰陽五行説を踏まえ、宇宙万物生成の原理を図式化、宋の新儒学の基礎となる)
1073
周敦頤没(人間の根本に太極に通じる「誠」を認め、学問の研鑽が聖人の道に通じることを論じた『通書』を残す)
1073
『煕寧編勅・赦書徳音・附令勅・申明勅』
1073
浄源、高麗の文宋王第4王子・義天、華厳経をめぐって文通開始
1074
王安石、貴族・地主・豪商の突き上げの中、財政再建・軍備増強を成しとげる
1076
王安石、宰相を辞任する
1079
蘇軾、詩文で政治を誹謗したという讒言に投獄、黄州に左遷(東坡居士と名乗って『赤壁賦』を作す)
1786
神宗皇帝の元豊の改革(財務官僚の三司解体・人事権の吏部集中・宰相職の変更・寄録官の一本化)
1078
文同、充秘閣校理・知湖州に任じられる(篆刻・隷書・行書・草書に優れ、画竹を得意とする)
1070
ユースフ・ハージブ、東カラ・ハン国王ハサン・ブン=スライマーンに『クタドゥグ・ビリグ』(幸福の書)を奉じる(トルコ語文学の嚆矢)
1070
南インドのチョーラ朝、空位となり、チャールキア王クローットゥンガ1世、チョーラ王を兼ねる
1070
スリランカのシンハラ王朝ウィジャヤバーフ1世、チョーラ朝の軍勢排除
1070
シンハラ王朝ウィジャヤバーフ1世、仏教復興のためにアルラマナ(東南アジア)に仏僧を求める
1070
この頃、ビルマ族のパガン朝アノーヤター王、南方のモン族のタトゥン王国の都モッタマを制圧(ビルマのパガン朝確立)
1070
この頃、パガン朝アノーヤター王、土着密教のアリー僧を廃し、シン・アラハンが唱える上座部仏教を本位とする
1070
この頃、チベットのミラレパ、習得した魔術で仇の叔父一家、村人35人を呪殺し雹を降らせて村を壊滅させたという
1070
この頃、チベットに帰国したマルパ・ロツァワ、パーラ朝に興ったティローパ・ナーローパの密教の教義を翻訳し実践(無上瑜伽タントラ経典の最新訳、カギュ派の所依の経典となる)
1070
この頃、ミラレパ、罪障を悔いてニンマ派の奥義ゾクチェンを成就した高僧ロントン・ラガに弟子入り
1072
遼の逍宗、戦役の犠牲者を弔って中京・南京の寺院で斎を催す
1073
高麗の義天『代世子集教蔵発願疏』(華厳の典籍蒐集発願)
1073
チベットのコンチョク・ギェルポ、ポンボ山の白い土地を吉祥と見てサキャ寺建立
1073
コンチョク・ギェルポ、兄のシェーラプ・ツルティムをサキャ派の初代座主に迎える
1174
パーラ朝ゴーヴィンダパーラ没(パーラ朝滅亡)
1075
越李朝、李常傑を総大将として水陸から宋に侵攻(越宋関係緊張)
1075
占城のハリヴァルマン4世、越国李朝の軍勢を撃退
1075
この頃、ミラレパ、罪障を消滅できず、師のロントン・ラガからマルパ・ロツァワのもとで修行するよう勧められる
1075
この頃、ロダク谷のマルパ・ロツァ、ナーローパの命で水晶の金剛杵(ドルジェ)を甘露で洗い勝利幡(ギャルツェン)を掲げると勝利の神々が祝福する夢を見るという
1076
南インドのチョーラ・東チャールキア朝の合体に反対するヴィクラマーディティヤ6世、後期チャールキア朝を立てて分離
1076
この頃、ミラレパ、マルパ・ロツァのもとを訪れ、生涯の師として仕える(マルパ・ロツァ、ミラレパを弟子と認めず、過酷な試練を与える)
1076
高麗の田柴科制、官職に応じた形に改められる
1077
マフムード・カーシュガリー、バグダードにアラビア語・テュルク語辞典『ディーワーン・ルガート・アッ=テュルク』編纂
1077
後期チャールキア朝ヴィクラマーディティヤ6世、北宋に遣使(ガラス器・樟脳・綿織物・犀角・鹿角・象牙を貢納、銅貨81.800本分を下賜される)
1078
遼の逍宗、全国諸路の36万人の僧尼に斎をふるまう
1179
セーナ朝ラクシュマナ・セーナ即位(ヒンドゥー文学興隆)
1179
ラクシュマナ・セーナの宮廷にジャヤデーヴァ『ギーター・ゴーヴィンダ』(最後のサンスクリット文学)を著す
1080
寛助、仁和寺観音院に伝法灌頂を受ける(広沢6流の祖)
1081
園城・延暦両寺の僧が争い、検非違使、源義家を園城寺に遣わし悪僧を逮捕
1081
白河天皇の春日御幸に源義家の軍団、武装して警護
1081
二十二社制が確立
1082
成尊の弟子の範俊、祈雨法を修す(兄弟子の義範の妨害に那智山に隠棲)
1083
法勝寺の愛染堂、80mもの高さを誇る八角九重塔完成
1083
性真法親王、僧侶は辞退するとされていた品位を受ける
1083
陸奥を治める清原真衡の権力集中策に叔父の吉彦秀武、弟の清原家衡・藤原秀衡反発
1083
陸奥守に赴任した源義家、清原真衡に三日厨と呼ばれる歓待を受ける
1083
後三年の役開始(清原真衡は吉彦秀武を討ち、清原家衡・藤原秀衡は清原真衡の館を襲撃)
1083
清原家衡・藤原秀衡軍、源義家軍に敗れて降伏、清原真衡は出征先に急死
1084
源義家の仲裁によって清原家衡、藤原秀衡、清原氏の所領を分割相続
1085
白河天皇の第2皇子、性信入道親王の下に出家
1085
興福寺僧徒、大和十市郡で狼藉し民家を焼く
1086
勝覚、義範より伝法灌頂を受ける
1086
清原家衡軍、藤原秀衡の館を襲撃、藤原秀衡は源義家の許に逃げる
1086
源義家・藤原秀衡連合軍、清原家衡軍を滅ぼす(後三年の役終結)
1086
白河天皇、輔仁親王ではなく、実子で8歳の善仁親王に譲位
1086
善仁親王、堀河天皇に即位し、白河上皇の院政開始
1086
寛意、性信入道親王の依頼を受けて高野山に灌頂院創建
1087
白河上皇、源義家の陸奥守罷免、藤原秀衡に陸奥の統治を委ねる
1088
寛意、白河上皇を高野山に導く(朝廷の高野山参詣の嗜矢)
1088
白河上皇の高野山行幸に御影堂を開扉
1088
白河上皇、高野山の小田原聖教懐に小袖綿衣30領下賜
1088
白河上皇、高野山最禅院の明寂に空海が書した『瑜祇秘文』を授ける
1088
良禅、中院流の明算より伝法灌頂を受ける
1088
高野聖が組織化(学生・行人に並ぶ高野山の勢力となる)
1080
米芾書[従冠軍建平王登廬山香爐峯]
1081
沈括、光禄少卿となって南京に赴任(医書『蘇沈良方』、随筆集『夢渓筆談』)
1082
蘇軾『黄州寒食詩巻』
1082
蔡確、宰相に就任(王安石新法の全国徹底実施、宋の最大国力実現)
1083
黄山谷撰書[南山順齊濟龍王廟記碑]
1085
神宗皇帝没し、哲宗即位
1085
旧法派の宣仁太后、政権を掌握し新法廃止(この後、北宋、急速に衰亡)
1085
蘇軾も中央に復帰し、効果ある新法を残すよう司馬光と論争
1085
高麗の義天、来宋、哲宗皇帝の歓待を受け、浄源の弟子となる
1085
浄源・義天、華厳学の再構築をめざす(動乱・破仏に華厳経完本、多くの論書が失われ研究渋滞)
1086
晋水浄源、慧因院(もと慧因禅院)の住持となる
1086
義天、高麗に帰国
1087
高麗から義天が送った青紙金書の晋訳華厳経三百部が慧因院に届く
1087
蘇軾撰書『宋文正司馬公神道碑』
1087
『元祐勅令式・申明刑統・赦書徳音』
1088
浄源の弟子の晋仁、慧因院を十方教院と改めることを上申
1088
章衡が『敕賜杭州慧因教院記』を記し十方教院建立(華厳経の学を賢首教とする)
1088
浄源入寂、慧因寺の西北に[晋水法師碑]建塔
1088
蘇軾『布袋図賛』
1080
遼の[太康六年尊勝陀羅尼經幢]
1080
西夏に恵宗、宋の降将の李清を重用、漢礼を採用し外戚勢力の弱体化を図る
1080
アンコール朝ジャヤヴァルマン6世即位、ベン・メリヤ建造
1080
この頃、チベットのミラレパ、師のマルパ・ロツァが罪障消滅のために与えた過酷な業に耐えられず、自殺をはかる
1080
この頃、マルパ・ロツァ、ミラレパの罪障消滅を見て、「ミラ・ドルジェ・ギャルツェン」、「ミラ・シェパ・ドルジェ」の法名を与え弟子と認める
1080
この頃から、マルパ・ロツァ、ミラレパにナーローパから相承した灌頂を与え、奥義を伝授し隠棲修行に入らせる
1080
この頃、ナンヤナ、ドラビダ語族・南方系ブラーフミー文字のテルグ語に『マハーバーラタ』を翻訳(テルグ文学おこる)
1082
高麗の『符仁寺蔵高麗大蔵経』(6000巻)完成
1084
パガン朝チャンシッター王即位、ビルマ族とモン族の融和政策進める
1085
高麗王第4王子、義天、入宋
1086
義天帰国、奉恩寺で盛大な歓迎式を開き、華厳大刹・興王寺の住職となる
1087
義天、青紙金書の晋訳華厳経三百部を宋の浄源に送る(これを収蔵する華厳閣建設のために寄付を募る)
1090
明算、高野山座主となる
1090
白河上皇、園城寺の増誉を熊野三山検校として熊野詣でに旅だつ
1091
白河上皇、金剛峯寺に安芸の能見荘を寄進
1092
覚行法親王(白河上皇の第4皇子)、寛意より伝法灌頂を受ける
1092
寛意、高野山往生院谷に隠棲し遍照光院中興(観音院流)
1092
検非違使の藤原為房の下人、日吉神社の神人殺害(延暦寺衆徒の訴えに阿波権守に左遷)
1093
陸奥守となった源義綱(義家の弟)、出羽国府を襲撃した開拓領主・平師妙を追捕
1904
源義綱、美濃守となり、義家の官位に並ぶ
1095
美濃の延暦寺荘園を宣旨により収公、延暦寺・日吉神社の強訴を源義綱らが鎮める
1095
覚鑁、仁和寺領の藤津荘(佐賀県鹿島市)に生まれる(蓮厳院の覚成のもとで剃髪)
1096
経範を導師として白河法皇御願の両界曼荼羅を開眼(寛助の住坊・仁和寺成就院に安置)
1096
永長の大田楽(市中の田楽踊に貴族の田楽踊が合流し夜を徹して踊り狂う)
1096
大江匡房『洛陽田楽記』
1096
石山寺本堂再建
1096
白河上皇、媞子内親王の病没に権僧正隆明を戒師として剃髪(白河法皇となる)
1097
平正衡の嫡男・平正盛、伊賀国山田などの所領を媞子内親王の御堂、六条院に寄進し鞆田荘とする(白河法皇の近臣となる)
1098
覚行法親王、仁和寺結縁灌頂を行い、円宗寺・法勝寺検校となる
1098
『本朝神仙伝』成る
1099
寛助、仁和寺別当となる
1099
勝覚、仁寛(村上源氏の嫡流、左大臣源俊房の嫡子)に伝方灌頂を授ける
1099
康和年間、白河法皇のもとに北面の武士形成(摂関家に伺候していた軍事貴族を包摂)
1099
平正衡、出羽守に就任する
1093
宣仁太后崩御、哲宗の親政開始
1093
宰相の章惇、曾布・蔡卞と共に「青苗法」「市易法」「募役法」復活、旧法派粛清
1094
『隋寶山靈泉寺靈裕法師傳』
1094
中央に復帰した蘇軾、新法派の台頭に左遷され、恵州(広東省)に流される
1094
章惇の政権安定、「紹聖の紹述」開始(政治的・経済的安定・国庫充実)
1094
黄庭堅書[李白憶旧遊詩巻]
1095
この頃から徽宗、絵画・建築・造園にひたり、珍花・名木・奇石を朱勔らに集めさせる(花石綱)
1096
開化寺大雄宝殿建設(郭発画の壁画:西に浄土日月灯光如来・華色比丘尼・転輪王舍身仏像、東に方界喜王如来 須闡提太子本生、人間世界の情景)
1096
哲宗、孟皇后が妃の劉婕妤に呪法を用いたとして廃皇とする(掖庭の獄)
1096
『北宋唐少卿遇仙記』
1098
高麗の遣使、慧因寺に白金をもたらし華厳経閣の建造、盧遮那仏・普賢・文殊菩薩像の造立を請う
1098
元照律師、四明開元寺に戒壇を創立(律宗の復興)
1099
高麗の義天の施金で慧因院に華厳経閣を賜る
1099
蘇軾、さらに遠い海南島に流される
1090
パガン朝チャンシッター王、アーナンダ寺院建立
1093
遼の逍宗、興中府に甘露が降る瑞祥に興中府の祠・仏寺に斎を催す
1099
西夏の崇宗、外戚の梁氏一族誅殺、親政開始
1099
西夏の崇宗、官僚制度整備、賦役軽減、農業振興、水利事業に着手(西夏中興)
1100
高野山の大塔の落慶供養が行われる(多宝塔型、高16丈、広8丈、裳層付)
1100
この頃、豊後国東半島の臼杵磨崖仏造立
1100
この頃、高野山奥の院を弥勒下生の地とする信仰(真言宗各派の納骨多くなる)
1100
この頃、伯耆の三仏寺投入堂[不動明王像]
1101
対馬守源義親(義家の嫡男)、九州を横行して人民を殺害し略奪し大宰府に訴えられる
1102
性信入道親王、尊勝寺落慶法要供養の導師を務める
1102
源義親、隠岐配流に出雲の目第を殺害、官物を略奪
1102
藤原通基、安楽行院建立
1104
覚法法親王、仁和寺成就院に寛助より受戒
1104
白河法皇の寵愛を受ける祇園女御、藤原公実の娘璋子(待賢門院)を養女に迎え,白河法皇の養女として育む
1105
祇園女御、祇園社東南に阿弥陀堂を建て、盛大な儀式を営んで邸宅とする
1105
静誉、範俊に伝法灌頂を受ける(光明山寺に住し光明山流開く)
1105
藤原清衡、堀川天皇の勅命により、中尊寺再興に着手
1106
祇園会をきっかけに田楽流行(下人濫行が政治的凶事の前触れとして怖れられる)
1106
白河法皇、高野山大塔に紀伊那珂郡名手荘を寄進
1106
源義家、四男の義忠を後継者に指名して没する
1107
東西小田原寺を合併し浄瑠璃寺成立[薬師如来像・九体阿弥陀像]
1108
覚鑁、仁和寺成就院の寛助の室に入り、慶照入寺で修行開始
1108
平正盛、出雲国に反乱した源義親を追討(武家の第一人者となる)
1109
寛助、真言教学の発展をはかる伝法会を創始
1109
源義家の弟、義綱の一党、源義忠斬殺の冤罪に不幸な最後を遂げる(源氏弱体化)
1109
覚鑁、南都に留学(興福寺の慧尭に唯識・倶舎、東大寺の覚樹に三論を学ぶ)
1109
良忍、大原の来迎院建立(天台声明の復興)
1100
哲宗皇帝、若くして亡くなり、弟の徽宗皇帝即位
1100
哲宗皇帝没、章惇、哲宗皇帝の弟、簡王・趙似を擁立しようとする
1100
神宗の皇后、向太后、端王・趙佶を支持する
1100
端王・趙佶、徽宗皇帝に即位、宰相章惇、雷州に流される
1100
徽宗皇帝、向太后の指導の下に建中靖国を推進
1100
新法・旧法両党から韓忠彦と曾布を宰相に任命
1101
徽宗皇帝、蔡京を召還し、翰林学士承旨とする
1101
浄源を讃える『杭州慧因教院華厳閣記』の碑建立(杜順・智儼・法蔵・澄観・宗密の五祖説)
1102
黄庭堅書[松風閣詩巻]
1103
[歿故僧正慧悟大師功徳之幢]
1102
崇寧年間、蘇轍、官を辞し許州の室に籠って穎濱遺老と称し、交友を絶ち黙座して経史諸子を研究(『古史』『集』『後集』『三集』『詩集傳』など)
1102
黄庭堅、趙挺之に「荊南承天院記」の一文を咎められ、官位を剥奪され宜州に流される
1102
慧因院僧の可堂師会と華厳寺の笑菴観復、同別二教の解釈をめぐり論争
1104
米芾、徽宗の書画学設立に書画学博士となる(書に[蜀素帖][草書九帖]、画に[春山瑞松図]、書画論に『尺牘』など)
1104
勅によって神鑑大師希仲が前住浄源を引き継ぎ慧因院に住持する
1105
晁補之、蔡京に元佑の奸党とされ知河中府に出される(『鶏肋集』『晁氏琴趣外篇』)
1108
趙明誠、青州の故居に帰る(古器・彝銘・遺碑・刻石を求め、『金石録』撰す)
1100
この頃、チベットのミラレパ、奥義マハームドラーを成就
1100
この頃、ミラレパ、マルパ・ロツァから「チャクラサンヴァラ・タントラ」「へーヴァジュラ・タントラ」「ナーローの六法」など法脈のすべての奥義を伝授
1100
この頃、ミラレパ、マルパ・ロツァからカギュ派の法主を相承する灌頂を受ける
1100
この頃から、ミラレパ、師の訓戒に従って山中の洞窟に籠り苦行に励む
1101
義天、洪円寺大蔵堂九祖堂建立(高麗の華厳学復興)、義天示寂
1101
遼の天祚帝即位
1101
西夏の崇宗、薛元礼の建議により、蕃学の外に国学を建て漢学を教授させる
1103
大理国守の段正淳、高泰運を北宋に遣使(経籍六十九家・薬書六十二部を持ち帰る)
1106
高麗の睿宗、皇龍寺を修造し落成
1107
アンコール朝ダラニンドラヴァルマン1世即位、チャウ・サイ・テウダ建造
1107
高麗の睿宗、文臣・武臣をまとめて咸興平野の女真を攻撃、九城を築く
1107
女真族、高麗に大侵攻
1110
寛助、鳥羽殿に孔雀経御修法(阿闍梨5人が仁和寺成就院に寄せられる)
1110
平正盛、京都の本拠地の六波羅に私堂を建立(後の六波羅密寺)
1110
寛助、白河法皇の息災延命を祈る大北斗法を修す
1111
祇園女御、仁和寺内に威徳寺を建立し、晩年の住いとする
1111
平忠盛、検非違使を兼帯し京の治安維持に従事
1112
寛助、春日大社の塔建立に摂政藤原忠実の諮問を受ける
1112
寛助、東寺一の長者となり、東寺領の丹波大山荘の保全を図る
1112
丹波国司藤原忠隆、荘園整理令をもって、寛助の東寺領保全要請に抵抗
1112
覚鑁、仁和寺に戻り、寛助に伝わる広沢流の密教を学ぶ
1113
仁寛、輔仁親王を皇位に就けるべく鳥羽天皇暗殺を計画
1113
仁寛、童子の千手丸の供述によって捕縛、伊豆の大仁に流罪(永久の変)
1113
六勝寺の整備にあたった仏師円勢、興福寺の末寺とされていた清水寺別当に抜擢
1113
上洛した興福寺大衆、延暦寺傘下の祇園社神人に暴行、延暦寺大衆は清水寺破壊
1113
延暦寺大衆、院御所に神輿を担いで強訴、興福寺の権少僧都・実覚の流罪要求
1113
白河法皇、宇治、西坂本に北面の武士を配備し、興福寺・延暦寺の強訴を防ぐ
1113
寛助、永久の強訴を鎮める大威徳調伏法を修す
1113
平正盛の私寺(六波羅密寺)に白河法皇の方違御幸、祇園女御が一切経供養を行う
1114
堀河院の御願を取り付けた寛助、東寺領の丹波大山荘を保全
1114
この頃、寛助、東寺の末寺、讃岐善通寺、河内観心寺などの国役・雑事免除に尽くす
1114
平忠盛、祇園女御に鮮鳥を献上(父正盛に続いて祇園女御に仕える)
1114
仁寛、武蔵国立川の陰陽師・見蓮と交遊、観蓮・寂乗・観照に醍醐三宝院流の奥義伝授
1114
仁寛、城山から投身自殺(見蓮・観蓮ら、陰陽道と密教を混合し立川流おこす)
1114
伊予守藤原基隆の六体丈六阿弥陀堂建立に悪僧の材木横領(寛助、検非違使を動員し解決)
1114
備前守に赴任した平正盛、瀬戸内の海賊を追討
1114
覚鑁、東大寺戒壇院に受戒(このとき、覚鑁と名乗る)
1114
覚鑁、高野山に登り、往生院の念仏行者、阿波上人青蓮和尚の室に入る(念仏行と浄土思想を学ぶ)
1115
覚鑁、中院流を復興した明算の弟子、最禅院の明寂に師事
1115
醍醐寺の勝覚、塔頭三宝院建立(三宝院流)
1115
良禅、高野山検校に就任
1116
寛助、東寺に安居講を再興(東寺灌頂、朝廷の毎年の行事となる)
1116
定海、醍醐寺座主となる(三宝院に灌頂堂を設け、寺内の機構を整備)
1117
平忠盛、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となる
1117
良忍、阿弥陀仏の示現を受け、融通念仏宗創始
1116
覚鑁、明寂に教えられた虚空蔵求聞持法に挑みはじめる
1118
寛助、東大寺別当を兼任(東大寺領の荘園の保全に傾注)
1118
寛助、仁和寺領・肥前藤津荘の荘司、平清澄を召喚して抑留
1118
延暦寺の強訴を防ぐために賀茂河原に派遣された北面の武士、千余人に達するという
1119
伊勢平氏の棟梁・平正盛、洛中強盗追捕の命を受け、正五位下に昇叙
1119
寛助、僧範誉を藤津荘の荘司に任じて肥前に下向させる
1119
仁和寺、火災に金堂、経蔵、観音院、灌項院など焼亡
1119
仁和寺の金堂再建
1119
平清澄の嫡子・平直澄、僧範誉と家族、従者らを斬殺
1119
平正盛、追捕宣旨を受けて肥前に下向(藤津荘を鎮めて平直澄の首を持ち帰る)
1113
『万寿道蔵』(540函、5482巻)、鏤版で刊行
1115
[大唐西明寺故大徳円測法師仏舎利塔銘并序](興教寺の玄奘の塔の横に改めて円測を葬り塔を建てる)
1115
曾幾、浙西の提刑に復帰(後に『神州宝訓』編纂)
1118
[円測法師舍利]
1119
丹霞子淳没(曹洞宗再興、『丹霞子淳禅師語録』)
1010
女真の侵攻に功を挙げた武臣への田柴支給できなくなる(武臣の不満高まる)
1014
高麗に金訓の乱(文臣の下に置かれ蔑視され、田柴支給されない下級武臣反発)
1101
高麗の粛宗の詔により芬皇寺に[和諍国師碑趺]建立(華厳を伝えた元暁を讃える)
1110
インド東南部を領したプローラ2世、カーカティーヤ朝の基盤固める(ヒンドゥ教シヴァ派の教義を広める)
1111
チベットのサンチェン・クンガニンポ、サキャ派座主となる(サキャ派の宗義確立)
1113
アンコール朝スールヤバルマン2世即位、カンボチア統一
1113
スールヤバルマン2世、アンコール・ワット建設開始(第3次アンコール王都)
1113
スールヤバルマン2世、テップ・プラナム、プリア・パリライ建立
1113
スールヤバルマン2世、南ペトナムの占城(チャンパ)攻撃
1113
パガン朝のヤーザクマー、チャンシッター王の事績を称えた[ミャ・ゼーディー碑文](ビルマ語・パーリ語・モン語・ピュー語)を奉献
1115
高麗の睿宗、普門寺建立(比丘尼の修練道場となる)
1115
女真族の太祖完顔阿骨打、国家体制を整える(金朝成立)
1115
遼の天祚帝、金に討伐軍を派遣し大敗
1115
西夏の崇宗、親遼政策を破棄し、漠北を支配する遼に侵攻(西夏、広大な領土獲得)
1116
遼の悟照書、呂孝貞刻[靈感寺釋迦佛舍利塔碑]
1118
遼の『雲居寺続秘藏石経塔記』
1118
大セルジュークトルコ朝7代スルタン、ムハンマド・タパル没
1118
大セルジューク朝のスルタン、弟のアフマド・サンジャルが継承、イラク領は長男のマフムード2世が継承
1119
金の太祖の命により、女真文字を制定
1120
平忠盛、越前守に赴任中、殺人犯の日吉社神人を逮捕(延暦寺の悪僧、犯人奪取)
1120
殺人犯の延暦寺悪僧・日吉神人逮捕され、延暦寺衆徒の強訴おこる
1120
この頃、平忠盛、昇殿を許される
1120
覚鑁、高野山を下り、仁和寺に寛助より伝法灌頂を受ける
1121
寛助、大僧正となる(法勝寺・広隆寺・東大寺など多数の寺院の別当を兼ねる)
1122
仁和寺の観音院、灌項院、仏母院再建
1123
白河法皇のもとで鳥羽天皇、崇徳天皇に譲位し鳥羽上皇となる
1123
覚鑁、9度目の虚空蔵求聞法の実践に開悟するという
1124
白河法皇・鳥羽上皇、高野山に参詣(鳥羽上皇『高野御幸記』)
1126
藤原清衡、中尊寺金堂・三重塔の落慶法要
1127
白河法皇、安芸賀部荘を金剛峯寺に寄進
1127
良忍、摂津修楽寺(大念仏寺)を融通念仏宗の根本道場とする
1128
平間兼乗が海中より得た空海像を祀る平間寺(川崎大師)開創という
1129
白河法皇、平忠盛を山陽道・南海道の海賊追討使に抜擢
1129
待賢門院、法金剛院を再興、[丈六阿弥陀如来像]安置
1129
白河法皇没し、鳥羽上皇が院政を敷く
1120
漆や茶の商人・マニ教徒の方臘の乱、江南に広がる
1120
童貫、方臘の信徒数十万人を殺す過酷な戦の末に反乱鎮圧
1120
この頃、朱震『漢上易伝』
1120
この頃、張択瑞[清明上河図]
1122
道通『華厳法相槃節』(華厳教学の復興)
1122
童貫、15万の大軍を率いて北遼侵攻開始
1122
童貫、北遼軍を攻めて失敗(金人と会談、歳幣賄賂と引き替えに檀・順・景・薊の四州の空城を受け取る)
1122
米友仁、書学博士となる([雲山得意図][潚湘奇観図])
1123
宋天慶[禪院住持達大師塔記銘]
1123
童貫、太原に駐屯しながら、金の南下を阻止せず
1123
『禅林僧宝伝』
1124
宋齊古『施五百羅漢記』
1124
李唐[万壑松風]
1124
徐兢、国信使の随員として高麗に行き、『宣和奉使高麗図経』を撰す
1125
金軍、開封を包囲、欽宗は李綱を任用して防御
1125
元照律師、西湖霊芝の崇福寺に入住(30年に渡って衆生済度)
1125
徽宗、「己を罪する詔」を発して退位、欽宗に譲位
1125
康王趙構・張邦昌、金軍の人質となり賠償金と領土割譲の条件で金と和議を整える
1125
康王趙構・張邦昌、講和条件を持ち帰る
1125
圜悟克勤編『碧巌録』
1126
宗沢、知磁州となって城を修築、義勇兵を集めて金の南下を阻止
1126
北宋の主戦派、和平に反対
1126
金軍、違約を攻めて南下、40日間余りの攻防戦の末、開封陥落(靖康の変)
1126
主戦を唱えて寧江に流謫させられた李綱、勤王軍を組織
1126
金軍、徽宗・欽宗、皇族・官僚、数千人を捕らえて満州に連行(二帝北行)
1126
開封の郊外に幽閉されていた孟氏(孟皇后)、金軍の連行を免れる
1126
金軍、異姓の賢人に北宋支配地域を統治させようと張邦昌を大楚皇帝に擁立
1127
宗沢、東京留守となり、王善・楊進の義軍を招集、河北八字軍と連絡、岳飛を将軍に抜擢して、たびたび金軍を破る
1127
欽宗の弟・趙構、南京に逃れる
1127
大楚の張邦昌、孟皇后を復位、その命により趙構を高宗に即位させる(南宋成立)
1127
南宋朝開き、李綱、国政に参加し「十事」を上奏して時弊を論じる
1127
高宗、和平派の張邦昌を斥けて李綱が推薦した張所と伝亮に両河の防備を固めさせる
1127
高宗、戦禍に倒れた遺族の救済を詔し、軍規を正し、車制を整え水軍を募る
1127
張邦昌、南宋の朝廷に出仕、李綱の弾劾に自殺
1127
程顥・程頤に師事した楊時、工部侍郎・侍読となる(『二程粹言』『亀山先生語録』)
1127
北宋画院の李唐、臨安に移り画を売って暮らす([万壑松風図][晋文公復国図])
1128
完顔宗翰、金軍を率いて華北を転戦、河南・山東を占領し金の領土を拡大
1128
済南府を守備する劉予、完顔宗翰率いる金軍に降伏
1128
呂頤浩、江准両浙制置使となり、京口に駐屯して金軍の侵攻を防ぐ
1128
朱松(朱熹の父)、南剣州尤渓県の県尉となる
1129
金朝、劉予を京東西淮南等路安撫使に任じて大名府を治めさせる
1129
宏智正覚、天童山景徳禅寺に入る(曹洞宗広める、黙照禅)
1120
金に派遣された宋の遣使馬政、「海上の盟」締結(金と宋が同盟し遼の挟撃を約する)
1120
この頃、チベットのミラレパ、悟りを得て仏陀の境地を成就するという
1120
この頃から、ミラレパ、遊行しながら仏法を宗教詩に歌い教化につくす(『ミラレパの十万歌』、チベットにカギュ派広まる)
1120
この頃、南インドにヒンドゥー教ヴィシュヌ派の哲学者マドバ活躍(マドバ派:独自な多元論的一元論展開)
1121
遼の天祚帝、讒言を信じて太子の晋王耶律敖盧斡を処刑
1122
遼の天祚帝、金の太祖完顔阿骨打と入来山で戦って大敗し雲中の陰山に逃亡
1122
遼の耶律大石、天祚帝の叔父を天錫帝に立て北遼を建国
1122
北遼の天錫帝没、皇后の蕭徳妃(普賢女)を摂政に秦王の耶律定を擁立
1122
金・宋連合軍、遼を挟撃
1122
北遼の耶律大石、北宋の童貫が率いる15万の大軍を白溝河に撃破
1122
北遼の耶律大石、北宋の童貫に講和交渉、童貫は拒絶
1122
北宋の童貫、金に燕京攻撃を依頼
1122
北遼の耶律大石、金軍を居庸関に迎撃して敗れ捕虜となる
1123
北遼の耶律大石、秦王・蕭德妃を奉じて陰山の天祚帝のもとに逃れる
1124
金軍、陰山に立てこもった遼を攻める
1124
耶律大石、契丹部の重装騎兵を率いて外蒙古に逃れ18部の王を招集し自立
1125
金の左副元帥・完顔宗翰、大同に遼の天子の天祚帝を捕虜とする(遼滅亡)
1126
高麗に門閥貴族の李資謙の乱(首都の開封、荒れ果てる)
1126
完顔宗翰、金軍を率いて南征し、開封を陥落させる
1126
高麗、金に服属し金国の藩となる
1126
デカン高原南部にホイサラ朝ヴィシュヌヴァルダナ王自立
1127
完顔宗翰率いる金軍、宋から数千人の皇族・貴族・官僚を捕虜に連れて凱旋
1126
金軍、宋室の皇女全員連行(金の皇帝・皇族の妾に入宮、官設妓楼・洗衣院の娼婦とする)
1126
高麗王室の外戚、李資謙が王位を狙って反乱(李資謙の乱)
1128
高麗の仁宗、金に入貢し、冊封を受けて南北関係改善をはかる
1130
覚鑁、高野山内に一堂を建立、伝法院と称する(尊勝仏頂像を安置)
1130
鳥羽上皇、高野山の伝法院に石出荘を寄進
1131
定海、崇徳天皇の護持僧となる(鳥羽院、待賢門院のための修法を勤める)
1132
平忠盛、鳥羽上皇勅願の観音堂、得長寿院造営の落慶供養に千体観音寄進
1132
鳥羽上皇、高野山西塔に安芸の阿麻荘寄進
1132
覚鑁、鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院、密厳院を建立
1132
藤原忠実、大伝法院の大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂像の開眼供養に参列
1132
大伝法院に鳥羽上皇の臨幸を得、山崎・岡田・山東・弘田荘の四荘園を賜る
1133
宋の周新の商船、肥前に来航(肥前神崎荘の預所となった平忠盛、大宰府の臨検排除、日宋貿易独占をはかる)
1133
信西、北面に伺候(当世無双の宏才博覧と称される)
1133
重源、醍醐寺に入り出家
1134
覚鑁、大伝法院座主とともに金剛峯寺座主を兼ねる
1135
鳥羽上皇の院宣により、東寺長者の高野山管領を止める
1135
鳥羽上皇、仁和寺の修理完成の供養を行う
1135
高野山止住の持明房真誉が金剛峯寺座主となる
1135
高野山検校の良禅を解任、覚鑁の弟、信恵が金剛峯寺検校となる
1135
興福寺衆徒、興福寺内に春日若宮造営(春日明神を薬師如来とする)
1137
鳥羽上皇、覚行法親王を導師として鳥羽離宮東殿に仏堂創建
1137
平忠盛、熊野本宮を造営、嫡子の清盛、肥後守に任じられる
1137
藤原秀郷9世孫、佐藤義清(西行)、鳥羽院に北面武士として奉仕
1138
良禅、高野山検校に復帰(堂塔の造営、修築につくし、北室聖と尊称される)
1139
覚法法親王、観音院を御願寺として灌頂会の開催を勅許(高野御室・勝蓮華寺獅子王宮)
1139
源為義、高野山改革派で鳥羽上皇の尊崇を受けていた覚鑁に名簿を提出
1139
良禅の法嗣、琳賢、高野山座主となる
1130
金朝の完顔宗翰、劉予を皇帝として「大斉」を建国
1130
秦檜、金から解放され、南宋の高宗に出仕、礼部尚書となる
1130
金軍が大挙して南下、江蘇、浙江、江西、湖南の一帯を略奪、破壊
1130
道士の鍾相、洞庭湖の一帯の数十万人を集め十九県占領、楚王を称し百官を置く
1131
高宗、秦檜を宰相とする(岳飛を初めとする主戦派の批判を浴びる)
1131
胡安国『時政論』献上(『春秋胡氏伝』、『資治通鑑挙要補遺』、湖湘学派形成)
1131
茅子元、淀山湖に白蓮懺堂建立、白蓮宗興す(『円融四土』『晨朝礼懺文』)
1131
この頃、曾幾、江西の茶山寺に閉居(『茶山集』著す)
1132
劉予の斉国、大同から開封に首都を移し、尚書省・六部を設け、国家形成
1132
劉予の斉国、法律制定、十分の一税施行、銭鋳造・交鈔発行、匪賊を軍隊に編成
1132
南宋の『紹興勅令格式・申明刑統・随勅申明・赦書徳音』制定
1135
李綱、帝の下問に応じ古今の大計と防国の大計を論じて嘉納される
1136
黄庭堅・陳師道に学んだ呂本中、起居舍人となる(『童蒙訓』『紫微詩話』)
1137
完顔宗翰の凋落に斉国の劉予は蜀王に左遷、斉国領は金の直轄領となる
1138
崑山能仁寺の沙門義和、『円覚経大疏鈔』を校訂(華厳教学深まる)
1138
金の[慶源郡女真大字碑]
1139
金、斉国領を南宋に返還
1130
金軍、遼の降臣耶律余賭を派遣して西遼を攻撃
1130
耶律大石、撤退しアルタイ山脈西部に移動、ウイグルのビルゲ可汗に迎えられる
1130
この頃から、医術をよくしたタクポ・ラジェ、ミラレパの弟子となって布教を助ける(月光菩薩の化身ダウーシュンヌ・月光童子と呼ばれる)
1130
この頃、ホイサラ朝ヴィシュヌヴァルダナ王、シュリーランガム寺院の大司教ラーマーヌジャに帰依しヴィシュヌ派に改宗
1130
この頃、ラーマーヌジャ、ヴィシスタードヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学・修正不二一元論を樹立(現象世界は実在、神は人格神、解脱はバクティによって達成)
1130
この頃、ホイサラ朝ヴィシュヌヴァルダナ王、首都のドーラサムドラにホイサレシューヴァラ寺院建立
1030
この頃、インドの詩論家ボージャ『シュリンガーラプラカーシャ』(恋情から静寂に至るラサの十段階論)
1131
東カラ・ハン国、耶律大石と戦って敗れカシュガルの小国となる
1132
耶律大石、葉迷立(ミイル)に天祐皇帝に即位、徳宗と号し元号を延慶とする(西遼成立)
1133
アンコール朝のスールヤバルマン2世、占城攻撃(占城とアンコール朝の戦争開始)
1134
西遼の徳宗、トルコ系カルルク部族を制圧、首都をクズオルドに移す
1135
チベットの学僧ゲシェ・ツァプワ、妾に毒ヨーグルトを捧げさせて、ミラレパを毒殺しようとする
1135
ミラレパ、ゲシェの望みを叶える大慈、その妾への大悲、有情の生命を護るという菩薩の誓願に従って、ミラレパ、毒ヨーグルトを飲んで重病になる
1135
ミラレパ、弟子のタクポ・ラジェに奥義を授け、灌頂を施して後継者とする
1135
ミラレパ、自らの死を通して最後の教えを与えるためにチュバルの地に赴き、弟子たちに囲まれて涅槃に入るという(ミラレパ『死者の書』)
1135
チベットの学僧ゲシェ・ツァプワ、ミラレパをブッダと認め、全財産を布施してミラレパの弟子の熱心な帰依者となる
1135
金の太宗没、太宗の子の阿魯と族弟の遼王斡本の皇位争いおこる
1135
風水地理説・陰陽秘術で朝廷高官を籠絡した妙清、高麗の首都を開城から西京(平壌)に遷都を画策
1135
高麗の妙清、大為国を称して年号を立て分離独立をはかる(妙清の乱)
1135
金の完顔宗翰、斡本とともに合刺(ホラ:太祖の孫)を擁立、熙宗に即位させる
1135
ジャワのクディリ王ジャヤバヤ即位(官僚制・軍隊整備、胡椒貿易に栄える)
1136
金の熙宗、女真式の部族制国家から皇帝独裁への移行めざし漢化図る
1136
高麗の仁宗、金富軾に命じて妙清の乱を鎮圧
1137
西遼の徳宗、カラ・ハン朝マフムード2世を臣従させシルクロード制圧
1137
金の完顔宗翰、軍権を奪われ太保領三省事に就任させられる
1137
シュリーランガム寺院大司教、ラーマーヌジャ没(『シュリーバーシャ』残す)
1139
西夏の仁宗即位、金朝に藩属し文治政治を採る(学校を建て科挙採用、儒学推奨)
1140
東寺に組する高野山の大衆、覚鑁の住房・密厳院、覚鑁一門の寺院を焼き討ち
1140
覚鑁の一門、大伝法院の荘園・弘田荘に逃れ富福寺に拠る
1140
覚鑁、弘田荘に伝法会道場として円明寺建立(後の根来寺に発展)
1140
佐藤義清、一族を棄てて出家、西行となる(歌枕を巡る漂泊の旅に出る)
1141
待賢門院の子の崇徳天皇退位、美福門院の子の体仁親王即位し近衛天皇となる
1141
覚鑁『五輪九字明秘密義釈』
1142
鳥羽上皇、東大寺戒壇院に受戒し、鳥羽法皇となる
1143
覚鑁、弘田荘の円明寺に示寂
1143
源義朝、相馬御厨に介入(安房丸御厨を拠点に上総氏の支援を受け関東武家の糾合はかる)
1143
鳥羽上皇、鳥羽離宮東殿の仏堂を安楽寿院に整備(九体阿弥陀堂・不動堂など新設)
1144
鳥羽上皇、仁和寺に孔雀明王堂建立、[孔雀明王画像]安置
1144
西行、僧正遍照の後を慕い奥羽をめぐる(藤原清衡に面会)
1146
平忠盛、受領の最高位、播磨守となる(瀬戸内の海路を掌握)
1146
白山の白山権現宮、延暦寺別院となる
1147
藤原家成、安楽寿院に三重塔を寄進(後に鳥羽法皇の墓所となる)
1147
源義朝、熱田神宮大宮司藤原季範の娘、由良御前との間に頼朝誕生
1146
平清盛の郎党、祇園社の神人と争う(祇園闘乱事件)
1146
祇園社の本寺の延暦寺、忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こす
1146
鳥羽法皇、平忠盛の軍事的・経済力を重視し延暦寺の要求を斥ける
1146
平忠盛、領国の伊勢に祇園社を勧進して、延暦寺・祇園社と和解
1148
藤原忠実、高野山に金剛心院建立、紀伊海部郡浜沖荘を寄進
1149
高野山の大塔、落雷により炎上(五仏中尊の御首、脇侍三躰、仏具等搬出)
1149
西行、高野山に入り、勧進聖の群れに投じる
1149
平忠盛の嫡子、家盛死去、清盛が跡継ぎとなる
1140
南宋、北伐の軍を起こし、岳飛、朱仙鎮に金の総帥斡啜の軍を破って開封に迫る
1140
この頃、楊甲撰・毛邦翰増補『六経図』
1140
朱松、州知事を辞退し祠官の職に就き学問に専念
1141
大慧宗杲、秦檜に触法犯とされる(衡州・梅州で十余年、軍役につかされる)
1144
秦檜、張載の学説を「専門之学」として弾圧
1141
秦檜、金との和議を進め、岳飛とその養子、岳雲、岳家軍を束ねる張憲を謀殺
1141
南宋の高宗、金と淮水を国境とする条約を結ぶ(紹興の和議)
1141
南宋、金に対して臣下の礼を取り、毎年多額の歳幣を支払うことになる
1142
慧因講院の義和、思彦・道僊とともに『華厳旨帰』刊行
1145
慧因講院の義和、高麗請来の経疏を校訂開版(大蔵経に加える)
1143
杜彦臣書[金霊峰院千佛洞碑]
1146
孟元老、開封の風貌・習俗・文化を活写した『東京夢華録』
1147
可堂師会『五教章焚薪』
1148
朱熹、再開した科挙に合格、進士となる
1149
道通の『華厳法相槃節』、臨安府南山慧因教院に開版
1149
義和、華厳寶塔教院に住し高麗本『法蔵和尚伝』復刻
1140
この頃、ミラレパからカギュ派法主を継承したタクポ・ラジェ、ラサのチベット最古の寺院ガムポ寺を復興して入る(ガムポパと尊称され、カギュ派の教義確立)
1141
西遼の徳宗、セルジューク朝スルタン・サンジャルの大軍を撃破
1141
中央アジアのイスラム政権、仏教徒の西遼の配下に組み込まれる
1141
金の熙宗、南宋と最初の和議を結び淮水を国境とする
1142
チベットのソナム・ツェモ、サキャ派座主となりサンプ・ネウトク寺に遊学、チャパのもとで論理学研鑽(『タントラ部概論建立』著す)
1143
西遼の徳宗、大軍を率いて金に出征、遠征の途次に没する
1145
金富軾撰『三国史記』完成
1146
西夏の仁宗、孔子を尊んで文宣帝とし礼楽・法律を改革、新律修訂(西夏の社会・経済・文化繁栄)
1147
この頃、チベットのタクバゲンツェン、サキャ派座主となってムスリムの難に入蔵したインドの学匠保護
1149
金の完顔秉徳(完顔宗翰の孫)、熙宗を寝殿で惨殺させ海陵王(完顔迪古乃)を擁立
1150
高野山の琳賢、弥勒像に五色の絹糸を繋げ、密印を結び名号を唱え示寂(即身仏となる)
1150
太秦の広隆寺全焼
1150
この頃、信西、鳥羽法皇の内命を受けて『本朝世紀』編纂に着手
1153
源義朝、下野守に就任、新田・畠山を与党に南関東に勢力拡大をはかる
1153
源氏の棟梁源為義、次男の義賢を関東に派遣し、義朝勢を討たせる
1153
武蔵の最大勢力、秩父重隆、源義賢を娘婿に迎え比企郡大蔵に館を構える
1153
平忠盛死去、正室の宗子、六波羅の池殿に暮らし池禅尼という
1153
覚法法親王『孔雀明王同経壇具等相承起請文』
1154
栄西、比叡山延暦寺に出家得度(天台教学・密教を学ぶ)
1155
近衛天皇崩御、雅仁親王が後白河天皇に即位
1155
鎌倉に入った源義平(源義朝の長男)の軍勢、大蔵館を襲撃
1155
大蔵合戦に源義賢戦死、駒王丸(後の義仲)、木曾谷に逃れる
1155
寂超、『詞花集』の選歌を難じ『後葉和歌集』を撰す(寂超・寂念・寂然、大原三寂と喧伝)
1156
高野山の大塔、金堂再建、落慶供養が行われる
1156
美福門院、高野山六角経蔵を建立(紀伊那賀郡荒河荘寄進)
1156
鳥羽法皇の死に崇徳上皇と藤原頼長・後白河天皇と藤原頼長の対立深まる
1156
保元の乱勃発
1157
崇徳上皇を流罪、藤原頼長は逃亡中に死亡
1157
源為義・平忠正・平家弘ら武家は一家もろとも斬首、源為朝は武勇を讃えられ流罪
1157
信西を首班に後白河上皇の新政府発足(「保元新制」を発布し国政改革に着手)
1157
新政府、大内裏を再建
1158
後白河上皇、二条天皇に譲位し、後白河上皇として院政を敷く
1159
上皇院政派の平清盛と天皇親政派の源義朝の対立深まる
1159
平治の乱勃発、信西を打倒しようとする藤原信頼・源義朝の軍勢、御所を奇襲
1159
平清盛軍、源義朝軍破る(逃れた義朝、尾張で旧臣の裏切りに殺害)
1151
朱熹、泉州同安県の主簿(経理)となる
1152
南宋の[余先生論金液還丹歌訣]
1155
南宋の高宋、秦檜の死に秦檜派の朝臣100人以上を弾劾し罷免
1157
大慧宗杲、径山に住持(臨済宗楊岐派・看話禅)
1159
王重陽、甘河の偶仙に出会って道士となるという
1150
金の完顔秉徳、誣告によって処刑される
1151
西夏の斡道衝、蕃漢教授となる(『論語小義』を撰し、『周易卜筮断』を著す)
1152
金の海陵王、金の宗室の一族、建国の元勲の子孫をことごとく粛清
1152
セルジューク朝、継承戦争に分裂
1152
アッバース朝カリフ・ムクタフィー、セルジューク朝のスルタン領没収を宣言
1153
シンハラ王朝パラクラマバーフ、ポロンナルワに王位に就く
1153
シンハラ王朝パラクラマバーフ王、王都ポロンナルワ整備
1153
シンハラ王朝パラクラマバーフ王、大寺派(5世紀の仏教学者ブッダゴーサのパーリ語経典に準拠)を国教とする
1156
金の海陵王、遼の耶律氏の子孫、宋の趙氏の子孫を粛清
1157
セルジューク朝の宗主アフマド没(大セルジュークトルコ滅亡)
1157
ジャワの詩人ムプ・セダーとムプ・パヌル『バラッダユダ』
1158
金の岩山寺文殊殿建設
1159
チベットのカタンガ・デシュク、カムのデルゲにカトク寺建立(ニンマ派の拠点となる)
1160
平氏、朝廷の軍事力・警察力掌握
1160
後白河上皇、初めての熊野御幸に発つ(以降上皇の熊野詣、33回に及ぶ)
1160
源頼朝、伊豆に配流
1160
妙法院の昌雲、新日吉神社開創
1160
岩城則道の妻・徳姫(藤原清衡の娘)、願成寺建立(白水阿弥陀堂)
1160
白水阿弥陀堂に広大な浄土庭園、[木造阿弥陀如来・両脇侍像]
1161
園城寺の覚忠、西国三十三所観音巡礼の順路を定める
1164
平清盛、厳島神社に一族に写経させた『平家納経』を奉納
1164
後白河上皇、平清盛に命じて蓮華王院(三十三間堂)建立
1165
太秦の広隆寺再建
1165
この頃、阿観、河内の金剛寺に金堂・御影堂など建立(金堂の[木造大日如来坐像])
1167
栄西、平氏の庇護を得て南宋に出航
1168
文覚、後白河上皇に神護寺の修復・寺領への寄進を強訴
1168
文覚、渡辺党の棟梁、源頼政の知行国、伊豆国配流
1168
守覚法親王、覚性入道親王より伝法灌頂を受ける
1169
守覚法親王、仁和寺法主になり、仁和寺・円宗寺・円融寺・円教寺などを検校
1169
後白河上皇、出家して法皇となる
1160
朱熹、祠官に任命されることを許され、李延平の元で学問に励む
1161
南宋、金の海陵王の南征に四川の呉璘、揚州の劉錡らが迎撃態勢を整える
1161
金の海陵王、揚州を陥落させ、長渡河開始
1161
南宋の名将・虞允文、采石磯に拠って、金軍の渡河を阻止
1161
金の海陵王、揚州の亀山寺に配下の完顔元宜の軍によって斬殺
1161
鄭樵『通志』(紀伝体の「志」を中心に歴史を総括)
1161
王重陽、「死活人」という深い穴を掘って籠る(真性を得て道を悟り金丹が成るという)
1162
南宋軍、北帰する金軍を追うも、金の世宗の軍の南下に撤退
1162
趙昚、高宗から譲位され、孝宗に即位
1163
湯思退、宰相となり、海・泗・唐・鄧四郡を金に割譲しての和平推進
1165
南宋と金の乾道和約締結(金帝と宋帝の関係、叔父と甥の関係に改められる)
1165
義和、『華厳念仏三昧無尽灯』に自序を記す
1166
師会『復古記』の著述着手(善熹が引き継ぐ)
1166
張栻『二程粹言』
1166
孝宗、德寿殿に茅子元を召見し浄土門の教えを聞く
1167
呂祖謙・朱熹・張栻、儒仏道を論じ『胡氏知言』に編集
1168
栄西、天台山万年寺などを訪れ、『天台章疎』を得る
1168
王重陽、弟子を連れて寧海州の煙霞洞に籠って弟子を教導(全真教形成)
1169
義和が高麗から請来した智儼『金剛般若経略疏』、宝幢教院如宝が開版
1160
この頃までに、チベットのロンソム・チューキ・サンポ、吐蕃密教を基盤に埋蔵経(テルマ)を用いて、ニンマ派の教義を集大成
1160
イラクのセルジューク領主アルスラーン・シャー、マムルークに推戴されてイラク・セルジューク朝を興す
1160
この頃、シンハラ王朝パラクラマバーフ王、王女の船の拿捕にアディッカラム率いる海軍を派遣、アンコール朝の王都占領
1160
この頃、シンハラ王朝、南インドのチョーラ朝・パーンディア朝の海軍を撃破
1160
この頃、シンハラ王朝の海軍がインド洋を制覇、スリランカの大寺派仏教、東南アジアに波及
1161
金の海陵王、60万と号する大軍を自ら率いて南宋に遠征
1161
金の東京留守・烏禄(ウル)、海陵王の廃位を宣言
1162
烏禄、貴族・官僚・留守軍の支持をえて、世宗に即位
1162
セーナ朝バッラーラ・セーナ、パーラ朝ゴーヴィダ・パーラ破り北ベンガルを制圧
1162
ガンジス流域の仏教国家パーラ朝マダナパーラ、セーナ朝に破られ国家体制崩壊
1162
パーラ朝ゴーヴィンダパーラ、各地に転戦、王朝の回復を目指す
1162
セーナ朝バッラーラ・セーナ、パーラ朝の最後の王ゴーヴィンダパーラを破り、北ベンガルを制圧(ヒンドゥー教を国教とし仏教衰退)
1163
西遼2代仁宗没し、直魯古(直魯古)、襄宗に即位
1163
高麗の大覚国師義天、影波山の影浪寺を補修
1165
アンコール朝トリブヴァナーディティヤヴァルマン、占城軍と激戦
1165
西夏の任得敬、霊州城を築き、翔慶軍司を宮殿として自立を図り殺害される
1165
高麗の毅宗、武臣の勢力を押さえこむためにたびたび土木工事・仏教儀式を挙行、下級武臣、現職の軍人を酷使
1166
金の世祖、大学を置く
1167
金の岩山寺文殊殿壁画完成(西壁に仏伝・東壁に本生譚・北壁に商船難破を描く)
1167
金の[海龍女真大字石刻]
1167
チベットのミニャク・ゴムリン、ディグンティ寺創建(ディクン・カギュ派の拠点となる)
1170
西行、中国・四国を旅し讃岐に崇徳院を慰霊
1170
文覚、伊豆の奈古屋寺に住み、蛭ヶ島に配流されていた源頼朝の知遇を得る
1170
この頃、俊恵、白川の僧坊を歌林苑とし月次歌会・歌合を催す
1170
藤原秀衡、毛越寺建立
1171
東寺の目代慶幸俊巌、東寺の潅頂布施の減少に高野山の政所・慈尊院を焼く
1175
高野山検校禅信の私力によって高野山政所、慈尊院復興
1175
五辻宮頌子内親王、高野山に蓮華乗院建立(紀伊日高郡南部荘寄進)
1177
藤原俊成、九条兼実に迎えられ歌壇の重鎮の地位を不動とする
1178
守覚法親王、俊成・俊恵・重家らに家集を献上させる
1178
守覚法親王、建礼門院の御産を祈って孔雀経法を六波羅殿に修する
1179
平清盛のクーデター(朝廷の反平氏派一掃、後白河法皇の院政停止)
1170
南宋朝の『乾道勅令格式・存留照用指揮』
1170
朱熹、崇安県に社倉を設けて難民を救済
1171
華厳教学の発展を明らかにする『明宗記』成る
1172
朱熹[尺牘編輯文字帖]
1175
鵝湖の会(性理学の朱熹と心学の陸九齢・陸象山、哲学体系をめぐって議論)
1176
朱熹・呂祖謙『近思録』(周敦頤・張載・程顥・程頤の著作から抜粋編集)
1177
[三清観道士趙師通等鑄鼎銘]
1177
朱熹[論語集注残稿]
1178
呂祖謙『皇朝文鑑』
1178
官著作郎・国史院編修官の呂祖謙没(『古周易』『呂氏家塾読詩記』)
1179
朱熹撰書[劉子羽神道碑]
1170
この頃、ガダク・ニャンレル・ニマ・ウーセル、八大ヘールカ(八大守護尊)の成就法の集大成『カギェ・デシェ・ドゥーパ』などのテルマ発掘(ニンマ派の所依の経典となる)
1170
高麗の毅宗の普賢院参詣に武臣の不満暴発
1170
高麗の武臣、李義方・鄭仲夫、文臣虐殺、毅宗を廃し釜山沖の巨済島に流す(庚寅の乱)
1170
高麗の武臣、毅宗の弟、明宗を擁立し武臣政権樹立(武臣時代始まる)
1170
高麗の宮廷に火災が起こり数万巻の蔵書焼亡(蔵書復興のために金属活字開発)
1171
西夏の斡道衝、中書令となる(大量の西夏文字の書籍が印刷刊行される)
1171
高麗の大将軍衛尉卿・李高、国王の座を狙って有力寺院の僧侶と密議
1171
高麗の武臣を束ねる李義方、李高を粛清
1172
ホラズム・シャー朝にスルタンシャーとアラーウッディーン・テキシュの後継者争いおこる(テキシュ、西遼に亡命)
1172
西遼の支援を得たテキシュ、ホラズム・シャー朝の君主となる
1172
スルタンシャー、ニシャプールのアミール、ムアイヤド・アイアパのもとに亡命
1173
高麗の文臣、金甫当、武臣政権打倒を目指して決起
1173
高麗の武臣政権、前国王毅宗を捕殺し、ほとんどの文臣を粛清(癸巳の乱)
1173
東チャールキアの封臣、ビッラマ5世となって自立しインド南西部にヤーダヴァ朝成立
1173
ゴール朝の宗主ギヤースッディーン、ガズナ朝の首都ガズナを陥す
1174
ムアイヤド・アイアパ、スルタンシャーとともにホラズム遠征
1174
ホラズム・シャー朝テキシュ、ムアイヤド・アイアパを破って捕え処刑
1174
大越の高宗、南宋から安南国王に冊封
1174
高麗の李義方、娘を王妃に送り込んで外戚の地位を狙い、同僚の鄭仲夫に倒される
1174
高麗の首都、開城の諸寺の僧侶、武臣に抵抗して戦う
1174
高麗の武臣政権を掌握した鄭仲夫、権力集中をはかり、部下の慶大升に殺害される
1174
高麗の慶大升、都房(トバン)の武臣組織を再編し独裁政権樹立
1175
ツォンドゥ・タクパ、グンタン寺のツェル・ゴンパ建立(ツェル・カギュ派の拠点となる)
1175
ゴール朝ギヤースッディーン、弟のシハーブッディーンとともにパンジャブ制圧
1175
ホラズム王子スルタンシャー、ゴール朝に亡命
1176
金の西京に『大普恩寺重修大殿記』
1177
アンコール朝トリブヴァナーディティヤヴァルマン敗退、占城のアンコール都城占領
1178
この頃、ホラズム・シャー朝テキシュ、西遼への貢納を拒否し独立をはかる
1178
ホラズム王子スルタンシャー、西遼に赴き、西遼の支援を受けてホラズムを攻撃
1178
ホラズム・シャー朝テキシュ、アムダリヤを決壊させて西遼軍を防ぐ
1179
セーナ朝ラクシュマナ・セーナ即位、周辺のガウル、カンプラ・カリンガ・カシとの戦争に勝利、パーラ朝の故地を制圧
1180
平清盛、安徳天皇を奉じて福原に遷都
1180
源頼朝、以仁王の令旨を受けて挙兵
1180
陳和卿、重源に従う(焼損した大仏の鋳造と大仏殿の再建に尽くす)
1180
源頼朝、千葉常胤・上総広常・畠山重忠・三浦義澄ら開拓豪族の支持を得て鎌倉に入る
1180
源頼朝、鎌倉に参集した4万人もの武士を御家人に登録(御家人共同体形成)
1180
源頼朝、源頼義創建の由比八幡を移し、鶴岡八幡宮創建
1180
源頼朝、関東の寺社への狼藉禁止
1180
富士川の合戦(平維盛軍、源頼朝・武田信義軍に敗北)
1180
近江源氏・園城寺連合軍、平知盛の追討軍に敗北し園城寺炎上
1180
平重衡軍の南都焼打ちに東大寺・興福寺焼亡
1180
この頃、後鳥羽上皇、常盤長光に[年中行事絵巻]を描かせる
1180
この頃、後鳥羽上皇編『梁塵秘抄』『梁塵秘抄口伝』
1181
鴨長明『鴨長明集』
1181
重源、南都の被害を視察する後白河上皇の使者藤原行隆に東大寺再建を進言
1181
重源、東大寺再建の大勧進職に任じられる
1182
藤原定家、「初学百首」を詠む
1182
慈円、全玄より伝法灌頂を受ける
1182
文覚、江ノ島に弁財天勧請し岩本院建立
1183
高倉上皇が崩じ、後鳥羽天皇即位(後白河法皇、院政再開)
1183
北陸宮をいただく木曾義仲、倶利伽羅峠の戦いに平氏の大軍を破る
1183
木曽義仲、入京(北陸宮擁立主張するも、京畿の平定失敗)
1184
源頼朝、院宣を受けて源義経らを大将とし木曽義仲追討
1185
源義経、壇の浦に平氏を滅ぼす
1185
摂政藤原基通、源義経の要請に応じ頼朝追討宣旨を出させる
1185
後白河法皇、源頼朝の要求に義経追討の院宣を発し守護・地頭の設置承認
1185
重源、東大寺の大仏の開眼供養を催す
1186
源頼朝の支持をえた藤原兼実が摂政に就く
1186
慈円、平等院執印・法成寺執印など大寺の管理を委ねられる
1186
建礼門院、寂光院に安徳帝を弔う
1186
後鳥羽上皇、高野山大塔に備後太田荘を寄進
1186
藤原定家、慈円ら、西行勧進の「二見浦百首」を詠む
1186
法然、大原に法相の貞慶・三論の明遍・天台の証信・往生院の念仏坊らと問答(大原問答)
1186
藤原定家、九条家に家司として仕える(九条家の歌人、良経・慈円らと交流)
1186
守覚法親王、「三十帖冊子」を東寺経蔵より仁和寺大聖院経蔵に移す
1186
重源、東大寺の周防別所として阿弥陀寺創建
1187
西行、自歌合『御裳濯河歌合』完成
1187
栄西、再度入宋
1188
西行、東大寺再建をめざす重源に砂金勧進を依頼され東国へ旅立つ
1188
藤原俊成、『千載集』を撰し後白河法皇に奏覧
1189
源頼朝、義経・泰衡の冥福を祈り、中尊寺を模した永福寺建立
1180
この頃、牧谿、無準師範の門下に入るという([観音猿鶴図][瀟湘八景図巻])
1180
清素、慧因寺住持となり、受教者が多く集まる(賢首教広まる)
1180
善熹『弁非集』
1181
宰相となった王淮、朱熹の能力を提挙両浙東路常平茶塩公事に任命
1185
金の[大金得勝陀頌碑]
1187
栄西、南宋の朝廷に仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず
1187
栄西、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事
1189
孝宗、趙惇に譲位して太上皇となり、実権は掌握する
1180
この頃、チベットのカギュ派の分派・ラ派のゲルワ・ラナンパがブータンに入り、タンゴ・ゴンパ建立
1180
ホラズム王子スルタンシャー、イランに入ってニシャプール占領
1181
ホラズム王子スルタンシャー、トルクメニスタンに進撃、ゴール朝を脅かす
1181
アンコール朝ジャヤヴァルマン7世即位、占城の占領軍を撃退
1181
ジャヤヴァルマン7世、アンコール・トム造営開始(12C初完成)
1181
ジャヤヴァルマン7世、アンコール・ワットのバイヨン建造開始
1181
ジャヤヴァルマン7世、バンテアイ・クデイ、スピアン・メーマイなど建立
1181
ジャヤヴァルマン7世、領域内に107施療院、121宿駅建設開始
1181
チベットのサキャ・パンディタ(サパン)、サキャ派座主となる
1181
この頃、サキャ・パンディタ、『三律儀分別』『量明蔵』『善説宝蔵』を著す
1183
高麗の都房政治を握る慶大升病死、金光立・李義旼の反乱軍、権力掌握
1186
ゴール朝ギヤースッディーン、ラホールに拠ったガズナ朝の残存勢力掃討
1186
シンハラ朝パラクラマバーフ王没(シンハラ朝の全盛期現出)
1187
チベットのカルマパ1世(トゥースム・キェンパ)、ツルブ寺建立(カギュ・カルマ派、黒帽派の拠点となる)
1189
ゴール朝ギヤースッディーン、ニシャプールのコラズム王子スルタンシャー攻撃
1189
スルタンシャー、コラズムシャー朝テキシュと講和し王位を認める
1189
ホイサラ朝バッラーラ2世、後期チャールキア朝ソーメーシュヴァラ4世を滅ぼす
1190
西行、河内の弘川寺に死去(『山家集』)
1190
源頼朝、上洛(権大納言・右近衛大将に任じられるも返上)
1190
この頃、鴨長明、伊勢・熊野を旅し『伊勢記』(散逸)を著す
1191
平山季重、武蔵多摩の大悲願寺建立
1192
後白河法皇崩御
1192
慈円、天台座主就任、護持僧・法務となり無動寺に大乗院を建立し勧学講を開く
1192
栄西帰国(福慧光寺、千光寺建立、筑前・肥後に臨済宗布教)
1192
九条兼実、実権を掌握し源頼朝の征夷大将軍宣下を実現
1192
征夷大将軍宣下を受けた源頼朝、鎌倉幕府を開く
1191
栄西、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受ける
1192
善熹『復古記』を補足開始(『復古記序』)
1190
後期チャールキア朝の領土、南西部はホイサラ朝、北西部はヤーダヴァ朝、東部はカーカティーヤ朝に分割
1190
アンコール朝ジャヤヴァルマン7世、占城攻撃(1203、占城を占領〜1243)
1190
タラインの仏僧チャパタ、スリランカからパガン朝に帰朝し南伝系の大寺派創設(パガン王朝の国教となる)
1190
この頃、チベットのツァンパ・ギャレー、カギュ派の分流・ドゥク派を開く(後にブータンの国教となる)
1190
南インドのジャターヴァルマン・クラーシェカラ、後パーンディア朝を開く
1190
南インド、後期チャールキア・後パーンディア朝・カーカティーヤ朝の三国時代となる
1190
テムジン、ジャムカとモンゴル高原の覇権をめぐって十三翼の戦い
1190
高麗の東京に大規模な盗賊の活動(南賊の大反乱に発展)
1191
ゴール朝ギヤースッディーン、ラージプート族が支配する北西インドへの侵攻開始
1192
コラズムシャー朝テキシュ、イラクのセルジューク朝に遠征
1192
テキシュ、スルタンシャーの反乱に軍勢を返す(スルタンシャー没し、コラズムシャー朝統一)
1192
ラージプート族のチャーハマーナ朝、イスラム政権ゴール朝に滅ぼされる