空海年表・クウカイ クロニクル
石窟開削と訳経僧の活躍[300〜]

グプタ朝期のインドでは、ナーランダー大僧院が建立され、教学研究が盛んになるが、仏教の中心は東方へと遷っていく。この頃、仏典の原義を問うた釈道安や法顕、仏図澄、竺法護、鳩摩羅什などの訳経僧が活躍、石窟開削が進められ、中国仏教の礎が築かれる。やがて朝鮮半島を経て、日本にも仏教が伝来し、聖徳太子や蘇我氏の指導のもと国家事業に位置づけられていく。

年代
300
八王の乱おこる。匈奴、中原に入る
300
義興、太白山に入る。会稽霊宝寺建立される。金陵鶏籠山寺建立される
304
五胡十六国時代はじまる
307
石勒、鄴を陥れ、万余人を殺戮する
307
竺潜、建康に入り、王侯の信奉をうける
310
仏図澄、西域より洛陽に至る
310
この頃、郭象『荘子注』
311
永嘉の変。匈奴、洛陽へ入り、晋帝を捕う
312
匈奴、晋を滅す。華北は五胡十六国時代に入る
312
帛尸梨蜜多羅、建康に来る
312
この頃、葛洪『抱朴子』なる
316
建康禅林寺建立される
317
司馬睿(元帝)東晋を建て、建業(南京)に都する
320
後趙、九品を制定する
321
竺僧顕、江南の名山を渉歴し、西方往生の業を修する
322
東晋、王敦の乱おこる。この頃、陶侃、庾亮、郗鑒らの活躍
323
皇興寺、道場寺を建立し、百義学僧を集む
340
沙門の王者敬礼問題おこる
351
符堅、華北を圧え、前秦を建て長安に都する
351
僧朗、泰山に入る
353
書家王羲之、名士41人を別荘内の蘭亭に招き曲水の宴を催す(蘭亭の盟)その際に詩集『蘭亭集』の序文(草稿文)である「蘭亭序」成る。以後、書の最高峰と伝えられる
364
支道林、竺潜の講席を継ぎ建康に名を馳す。この頃、瓦官寺建立
366
この頃、桓温、東晋の政治権力を掌握。禅譲を目論んだが失敗
366
楽僔、敦煌鳴沙山に石窟をひらく(敦煌千仏洞開鑿)
379
道安、習鑿歯、符堅に捕えられ長安に入る
383
淝水の戦。前秦、敗れる。これより華北は異民族国家の興亡激化
383
僧伽跋澄、長安に入り『鞞婆沙論』を訳出する
385
弥天道安、長安で入寂
390
拓跋珪自立し、北魏を建国する
390
この頃、画家顧愷之の活躍、『洛神賦図』『女史箴図』など
390
慧遠、廬山に入り、白蓮社を結ぶ。劉遺民、誓文を作る
396
沙門法果を道人統に任ずる
398
北魏平城へ遷都する
3〜4C
この頃、『ヤージュナヴァルキャ法典』および『アルタシャーストラ』(実利論)の現在形が成立。タミル語によるサンガム文学作品の編纂
3〜4C
イクシュヴァーク朝下、ナーガールジュナコンダに仏教・ヒンドゥー教寺院造営。仏伝図の優品多々生まれる。北インドで多くの都市が廃絶
4C
『ハリヴァンシャ』クリシュナ神話の原型が成る
4C
サンスクリット文学の隆盛。シュードラカの戯曲『ムリッチャカティカー』(土の小車)ほか
4C
グプタ朝の詩人カーリダーサ、『シャクンタラー』『メーガドゥータ』などの著作を著す。バーナ劇、バルトリハリの詩集、ヴァーツヤーヤナ『カーマ・スートラ』など、サンスクリット語による名作が多々生まれる
4C
医書『スシュルタ・サンヒター』『チャラカ・サンヒター』が成立
4C
スリランカで史書『ディーパヴァンサ』(島史)成立
4C
プラーナ編纂の開始。六派哲学の成立
4C
マトゥラーほかでグプタ朝期の美術隆盛。ガンダーラ美術はストゥッコや塑像造像が中心に
300
『ヤージュニヤヴァルキャ法典』成立
301
ハリヴァルマン(訶梨跋摩)、『成実論』を著す
302
『ニヤーヤ・スートラ』の現形成立
303
セイロン王マハーセーナの子シリメーガヴァンナ王位を継ぎ、マハー・ヴィハーラ派の勢力回復を援助
320
チャンドラグプタ一世即位、グプタ王朝始まる
350
ヴァーツヤーヤナ(ニヤーヤ学派)
356
新羅おこる(〜935)
372
高句麗に仏教初伝
384
百済に仏教初伝
399
東晋の僧法顕、長安を出発しインドに10年ほど滞在。5世紀初頭グプタ朝期のインドの状況を伝える『法顕伝』(仏国記)を著す
401
東晋桓玄叛し、建康を占拠する
401
鳩摩羅什(クマーラジーヴァ(鳩摩羅什))長安に入る。以後、十四年間に『妙法蓮華経』『中論』などの大乗経典を訳出する
403
桓玄、皇帝を称し国号を楚とする。翌年敗走する
403
桓玄、沙門に君親を礼拝させる
404
慧遠『沙門不敬王者論』を著す
405
画家顧愷之、皇帝に勅書の伝達を行う名誉職である散騎常侍に任ぜられる。その生涯のなかで、『女史箴図』や『洛神賦図』など不朽の名画を作したとされる
408
北インドの仏駄跋陀羅、長安にいたる。のちに追われて建康に移り大乗経典の訳出に従事
410
仏陀耶舎、長安に入る。『四分律』など訳出
412
曇無讖、姑臧に来て『般若経』『涅槃経』『金光明経』など訳出
413
東晋、土断法を施行し、戸籍整理を行う
413
この頃、僧肇『涅槃無名論』なる(後の『肇論』)
416
法顕、インドから帰国し揚都に達する。のち『法顕伝』を著す
420
劉裕(武帝)、東晋に代わり、宋朝を建てる(〜479)
420
仏駄跋陀羅、建康で『華厳経』六十巻を訳出
423
仏陀什、『五分律』『比丘尼戒本』『羯摩』など訳出
424
謝霊運、宋の文帝の秘書監に任ぜられ、『晋書』の編纂などに従事。その悠々自適な生涯のなかで、さまざまな文士と交流をもち、優れた詩を作した(代表作は『文選』に収録)。「山水詩」の祖として名高い
435
中インドの求那跋陀羅、海路を経て建康に入る。のちに『勝鬘経』『楞伽経』など訳出
439
北魏、華北を統一し、南北朝時代はじまる
439
智猛、『西域伝』を著す
444
北魏太武帝の廃仏毀釈はじまる
446
この頃、宋と北魏しばしば戦う
446
北魏太武帝、廃仏を断行する
450
崔浩ら誅殺される(国史の獄)
452
文成帝、仏教復興の詔を発する
454
北魏仏教の復興、雲崗の五大石仏作られ始める(曇曜が開鑿を率先)
457
于闐国などの五十余国、魏に朝貢する
457
慧簡、『仏説閻羅王五天使者経』など訳出
460
曇曜、昭玄沙門統となる
476
北魏、僧祇戸・仏図戸を設ける
477
この頃、北魏平城に寺百余、四方に六四七八寺。宋の法持、天下僧正となる
479
蕭道成、自立して宋滅亡し、斉朝おこる(〜502)
479
求那毘地、建康に入る
485
均田制三朝制を施行する
493
北魏、平城より洛陽へ遷都し、漢化政策をとる
493
北魏、『僧制四十七条』を制定。斉の玄鴨法献、僧主となり江南江北の事を分掌する
494
この頃、龍門・麦積山などの石窟の造営はじまる
5C
ウダヤギリのヒンドゥー教石窟
5C
クマーラグプタ1世(415〜455頃)がナーランダーに僧院を創立。多くの学僧が集まる。多数の中国僧が陸路から入竺を試みる
5C
長篇叙事詩の『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』、ほぼ現行の形に確立。タミル語の叙事詩『シラッパディハーラム』、ティルヴァッルヴァルのタミル語教訓詩『ティルックラル』成立。グプタ朝期の仏教・ヒンドゥー・ジャイナ教美術の最盛
5C
『ブラフマ・スートラ』現在形が成立
5C
ヴァーカータカ朝下、アジャンター石窟第2期、第1・2・16・17窟など開鑿(500〜6C半ば頃)北部諸地方にあいついで石造寺院の建立
5C
文法学者・ヴェーダーンタ哲学者バルトリハリ
401
クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)、仏典の漢訳開始
427
ナーランダー大僧院建立
450
新羅に仏教初伝
468
この頃、唯識派の論師アサンガ(無著)入寂(395〜467頃)
480
この頃、唯識派の論師ヴァスバンドゥ(世親、アサンガの弟)没(400〜480頃)
480
バタールカ、北インドにマイトラカ王朝創立
5C〜6C
スリランカの史書『マハーヴァンサ』(大史)成立。ボードガヤー大精舎の大塔建立
522
漢人司馬達等ら渡来し、仏教を奉じる。大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝
527
継体天皇、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を奪還するため、近江毛野が率いる兵6万を任那へ進軍。筑紫君磐井、肥前、肥後、豊前、豊後を制圧し、ヤマト王権の進軍を妨害
528
磐井軍と継体天皇が派遣した物部麁鹿火軍による筑紫三井郡での決戦。激戦の末、磐井は捕らえられ処刑される(日本書紀)
535
欽明天皇即位。他勢力によって擁立された安閑朝および宣化朝と一時並立するも、最終的に欽明が継体の没後を担う(諸説あり)
538
百済の聖明王、仏像や仏書等を日本に贈る(仏教公伝)
552
百済の聖明王、仏像仏具経論を献ずる。天皇、重臣に礼拝の可否を問うたとされる
553
海中から樟木を採取して造形した比蘇寺の仏像成る
570
蘇我大臣稲目没する。諸臣、堂舎を焼き、仏像を難波江に投じる
574
聖徳太子(厩戸豊聰耳皇子)誕生する
578
百済の聖明王から派遣された造寺工や造仏工など6人渡来。日本初の寺院建設の準備が進められる
579
新羅王より仏像が献上される
584
司馬達等の娘・嶋ら三名、高句麗僧恵便に師事して出家し、善信尼、恵善尼などと名乗る(尼僧のはじまり)
584
この頃、司馬達等ら、崇仏派の蘇我馬子が邸宅内に仏殿を建立し、百済から請来した弥勒仏を安置した際に、仏舎利を献上し斎会を催す
585
排仏派の物部守屋による廃仏運動。司馬達等を面罵し、善信尼ら3人の法衣を剥奪し、鞭打ち監禁に処したとされる
588
百済から仏舎利が献じられたのを機に、蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)の建立を発願する
592
崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位する
593
聖徳太子、四天王寺の建立を発願する。摂津難波の荒陵にて建立に着手。同時期に、社会福祉事業として四箇院の制(敬田院、施薬院、療病院、悲田院)を実施する
594
聖徳太子、摂政となる
594
推古天皇、聖徳太子と蘇我馬子に詔して、三宝(仏・法・僧)を興隆させる(仏法興隆の詔)
596
百済国から6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などの技術者の支援により、日本最初の本格的な寺院である飛鳥寺の主要伽藍が完成する
502
蕭衍(武帝)、斉に代わり、梁朝を立てる(〜557)やや遅れて、6C半ばに西魏、東魏、北周、北斉、陳が興る
504
北魏、柔然の攻撃に備え、北方に九城を置く
504
武帝、道教を捨て仏教に帰し、五十余年にわたる崇仏の事業をはじめる
508
梁、百官九品十八班の制を定め、官吏制を整備する
508
北インドの菩提流支、洛陽に来る
510
ミヒラクラ王即位
511
勒那摩堤、菩提流支、洛陽へ入り『十地経論』を訳出する
511
魏、天文学を禁ずる
515
北魏胡太后の執政がはじまる
515
沙門法慶らによる大乗賊の乱おこる
516
洛陽に永寧寺九層塔建立される
521
宋雲・恵生、大乗諸経梵本を携え西域より帰国する
521
柔然、北魏に下って二部族に分裂する
524
北魏、北辺鎮軍の大暴動おこる
525
この頃、酈道元『水経注』成立
525
法雲、大僧正となり、光宅寺に化を敷く
527
同泰寺成り、武帝、捨身する
527
この頃、昭明太子『文選』成立
528
北魏孝明帝崩御(一説には胡太后による毒殺)次いで胡太后、爾朱栄に殺される
529
この頃、劉勰『文心雕龍』成立
530
マールワー王ヤショーダルマン、匈奴(フーナ)を破る
534
洛陽永寧寺九層塔燃える
534
宇文泰、孝武帝を殺し北魏滅ぶ。高歓、孝静帝をたて、東魏朝はじまる
535
西魏道臻、沙門大統となる
538
日本、百済の聖明王から仏像経巻を受ける
542
西魏、六軍を置く
546
真諦、中国に至る
548
侯景の反乱。翌年建康を陥れて実権を握る、のち漢帝と称したが敗る
550
高洋、東魏に代わり、北斉朝をはじめる
550
この頃、西魏、府兵制を布く
550
この頃、十統を置き、地論宗法上、大統となる
556
宇文覚、西魏を滅し、北周朝を建てる
556
那蓮提黎耶舎、天平寺にて『大集月蔵経』『法勝阿毘曇心論』など訳出
557
陳覇先、梁を滅ぼし、陳朝を建てる
558
北周宇文護、帝を殺し武帝を立てる
558
慧思、『立誓願文』を著し、末法の自覚を説く
574
武帝、廃仏断行し、沙門道士二百万余、還俗させる
575
智顗、天台山に入る。後『天台三大部』など著す
580
静帝、仏教復し、通道観を廃する
581
文帝、勅して五嶽に仏寺を置く
581
北周滅び、隋おこる(〜618)
582
天下四十五州に大興国寺を置く
583
突厥が東西に分裂
587
慧遠、浄影寺に入り『大乗義章』など著す
589
陳滅び、隋、南北を統一する
589
霊裕、宝山霊泉寺に石窟を開く
589
隋が国家統一。翌年、倭国の王が隋に遣使(遣隋使のはじまり)
594
法経『衆経目録』(法経録)なる。この頃、五衆々主を設ける
597
天台宗の智顗入寂
597
費長房『歴代三宝記』を著す
6C
説話集『ブリハット・カター』、タミル語の叙事詩『マニメーハライ』成立
6C
後期グプタ様式のヒンドゥー美術盛行。大乗仏教の密教化が始まる
6C
ジャイナ教経典がヴァラビーで編纂され、ほぼ現行の形に成立
6C
天文学者ヴァラーハミヒラ(505頃〜)『五天文学書綱要』『占術大集成』(ブリハット・サンヒター)を著す
6C
説話集『パンチャタントラ』(五巻の書)西方に伝わる
6C
エレファンタ第1窟、エローラほか西部デカンで、ヒンドゥー教石窟寺院の開鑿
6C
ヴィシャーカダッタ『ムドラー・ラークシャサ』宰相ラークシャサの印章
500
ヴィヤーサ、ヨーガ学派、『ヨーガ・スートラ注』
500
ボーダーヤナ、ヴェーダーンタ学派、『ミーマーンサー・スートラ』『ブラフマ・スートラ』『サンカルシャナ篇』に注を書く
500
この頃、アーリヤバタ、数理天文学書『アーリヤバティーヤ』を著す
502
郝騫ら、建康を発してインドに向う。光宅寺建立される
520
宋雲・恵生、北西インドを巡礼。『宋雲行記』『恵生行記』に記録
578
バーダーミ石窟群の第3窟が完成