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023 密教仏と『大日経』と梵字・悉曇との出合い

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 佐伯院から北西に歩いて1時間ほどのところに西大寺があった。西大寺は、他の官大寺が法相・三論・律・倶舎などを修学するのと異なり、空海請来以前の密教仏(孔雀明王像)や、吉備由利が奉納したといわれている「天平写経」の『大毘盧遮那経』(『大日経』)など、密教の尊像や経典類を早くから有していた。
 吉備由利が奉納したという5282巻の仏典(「西大寺資財帳」)はおそらく、由利の父とも兄ともいわれる吉備真備の入唐留学以来の同輩である法相の僧玄昉が唐から持ち帰った経論の写しであっただろう。そのなかに不空訳以前の雑密経典に混じって『大日経』があったのである。由利(従三位、典蔵・尚蔵)は真備(右大臣)とともにこの寺を発願創建した称徳天皇(女帝、孝謙天皇が重祚。妖僧といわれた道鏡との仲が有名)の側近であった。

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 華厳経と華厳教学の理解に余念のなかったこの時期の無空の耳に、この西大寺の情報が入ったであろう。華厳をさらに発展させたらしい秘教があるというのである。無空はある日西大寺をたずねたに相違ない。無空はそこで、今まで見たこともない密教仏や天平写本の『大日経』に出合い、おそらく身体中が震えるような気持ちの昂ぶりを覚えたであろう。それは、大乗仏教の思想が高度に発展した華厳教学の奥にこの国ではまだそれが解明されていない仏法のあることを知ったためである。
 早速、無空は『大日経』を書写する特別の許しをえたであろう。西大寺ではこの『大日経』がどんな類の経典か、そこに説かれている仏法がどれほどのものか、関心もなくわかってもいなかったのではないか。724年にインド僧の善無畏三蔵が洛陽で『大毘盧遮那成仏神変加持経』(『大日経』)七巻を訳出してさほど経っていない天平時代に吉備由利によって書写・納経されながら、50年以上もこの寺の経蔵のなかに眠っていたくらいであったから、意外にあっさりと書写の許可は出たかもしれない。

 無空は『大日経』を書写しながら内容の読解にもつとめた。経のはじめの「住心品」第一はおそらく丹念に読めばわかったと思われる。華厳の素養まであれば何とか理解はできたはずである。しかしまた、この『大日経』が華厳を超えていることに気づくのにも時間がかからなかったであろう。
 華厳では、永遠に近い時間をかけて菩薩行(利他行)を積まなければ「真如」「法界」に入れない。その「真如」「法界」の「海印三昧」の境は説かれていてもそこに入る具体的な成就法がない。ところが『大日経』の「具縁品」第二以降には、正確にはわからないまでも、即時即身的に「大毘盧遮那(大日如来)」と一体となる観想法が説かれていることがわかった。華厳経の説く法身「盧舎那仏」は、『大日経』では「大毘盧遮那」に変身していた。無空は正統の密教とはじめて出合ったのである。


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 無空は早速大安寺に赴き自分にはわからない「具縁品」第二以降の実修部分を教えてくれる適材の師をさがした。しかし見つからなかった。それでも無空は、はやる気持ちと闘いながら「具縁品」以下に丹念に目を凝らした。ところが心得ない文字に出合った。「ア(a)」「ヴァ(va)」「ラ(ra)」「カ(ha)」「キャ(kha)」という「五大」を表す梵字であった。

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 大学寮で学んだ五明のなかに「声明」の学があり、仏教寺院で唱えられる「讃」(仏尊(の徳)を讃嘆し、その利益を祈る詩形の短文)のなかにインド原語らしいものがあったことを思い出したが、この五つの文字が「声明」の知識ではわからなかった。
 無空はその後南都のどこかで、渡来僧などから悉曇(サンスクリット)の語法をきちんと学んだのではないか。霊仙も同席したかもしれない。その時はじめて悉曇とはインドの古典言語であることを聞いたであろう。それ以前、道鏡が東大寺の良弁に学び「梵文」を「略渉」したというが、「梵文」とは雑密の真言陀羅尼のことで、それをマスターして祈祷し耳目を集めたという意味であろう。
 すでに無空は、修験行求聞持法などで何万遍も真言・陀羅尼を唱え、それが時に見慣れない漢字で音訳されているインド言語で、インド言語の音のまま唱えることになっていて、そのため意図して意訳しないことを知っていたのだが、悉曇というものが字母などのよく整備された言語だということまでは知らなかった。

 字母とは、12の母音(通摩多)と35の子音(五類声+遍口声)の47字に、4字(別摩多)を加えたものをいう。
 12の母音とは、
「ア(a)」「アー(ā)」「イ(i)」「イー(ī)」「ウ(u)」「ウー(ū)」「エー(e)」「アイ(ai)」「オー(o)」「アウ(au)」「アン(今のサンスクリットでアム)(aṃ)」「アク(同じくアハ)(aḥ)」。
 35の子音とは、
「キャ(カ)(ka)」「キャ(クハ)(kha)」「ギャ(ガ)(ga)」「ギャ(グハ)(gha)」「ギョー(ガとナの間)(ṇa)」(以上、牙声(喉音))、
「シャ(チャ)(ca)」「シャ(チュハ)(cha)」「ジャ(ja)」「ジャ(ジュハ)(jha)」「ジョー(ニャ)(ña)」(以上、歯声(顎音))、
「タ(ṭa)」「タ(トゥハ)(ṭha)」「ダ(ḍa)」「ダ(ドゥハ)(ḍha)」「ダ(ナ)(ṇa)」(以上、舌声(断音))、
「タ(ta)」「タ(トゥハ)(tha)」「ダ(da)」「ダ(ドゥハ)(dha)」「ナ(ナウ)(na)」(以上、喉声(歯音))、
「ハ(パ)(pa)」「ハ(プハ)(pha)」「バ(ba)」「バ(ブハ)(bha)」「マ(ma)」(以上、唇声(唇音))(以上、五類声)、
「ヤ(ya)」「ラ(ra)」「ラ(la)」「バ(ヴァ)(va)」「サ(シャ)(śa)」「サ(シャ)(ṣa)」「サ(sa)」「カ(ハ)(ha)」「ラン(ラム)(llaṃ)」「サ(クシャ)(kṣa)」、(以上、遍口声)、
である。
 この字母は英語のアルファベット、和語の五十音に当る。五十音の起源はこれである。

 悉曇とは、直接的には、梵字の書き方・綴り方(切り継ぎなど)のことをいうのではあるが、原語の「シッダム(siddham)」には「完成されたもの」「成就されたもの」「神通力を有する」「超自然的な力」の意味があり、一字一字や単語自体あるいは詩形の短文そのものに「何かをそうあらしめる力」「超自然的な力」を認めるインド独特の言語哲学が潜んでいる。
 ヴェーダ聖典やインド古典文学に見られる美しいデーヴァナーガリー字を行書体にしたような書体で横書きに書くのであるが、漢訳仏典はこれを縦書きにした。その結果、書写の際誤写されることがしばしばあり、現今の定評のある文献資料にもそのまま伝えられていることがある。
 インドでは貝葉に鉄筆などの硬い筆記具で書いたが、中国では紙に毛筆で書くためカリグラフィカルに書かれるようになった。日本では後世、書道の流派のように慈雲流や澄禅流といった悉曇書法の流派までができた。

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デーヴァナーガリー字
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金剛薩埵を表す「ウン」
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慈雲の梵書
「ボーディ・マンダラ」

 梵字はまた、漢訳の際に音漢字で書き表された。例示すれば、「ア(a)」は「阿」、「カ(ka)」は「迦」、「ダ(ḍa)」は「荼」、「ダ(da)」は「陀」、「バ(ba)」は「婆」、「ラ(ra)」は「囉」、「ラ(la)」は「羅」、「カ(ハ)(ha)」は「訶」である。
 悉曇には字義もある。その文字が意味するもの表象するものが規定されていた。例えば、「ア(a)」は「本不生」、「ダ(ḍa)」は「怨対」、「ダ(da)」は「施与」、「バ(ba)」は「縛」、「ラ(ra)」は「塵垢」、「ラ(la)」は「相」、「カ(ハ)(ha)」は「因業」といった具合である。

 おそらく無空はこの程度の段階の悉曇はまたたく間にマスターしてしまったであろう。字母の基本が読めて書けて意味がわかるようになると、無空は『大日経』にある「五大」の梵字の表記や字義までわかるようになった。それにともない、「五字厳身観」の観法もおよそはわかるようになった。このようにして無空の『大日経』の学解は少しづつ進んだとみていい。

 余談であるが、空海の悉曇の力がどのくらいであったかふれておきたいと思う。サンスクリットをかなりの程度まで修めた人なら、『三十帖策子』の悉曇に関する帖にしばしば見られる行外の赤入れ註記をよく観察すれば、空海の梵語のレベルがわかる。
 サンスクリットに縁のない読者のために別な例で言えば、空海は晩年『般若心経』の解釈書『般若心経秘鍵』を著わし、最終場面で末尾の「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提 沙婆訶」(ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボージー ソワカ)という「呪」(咒、真言)について、サンスクリットの実力が相当になければできない解釈を示している。

 曰く、一番最初にいう「掲諦」は「声聞」のレベルの「菩提」(サトリ)、次の「掲諦」は「縁覚」、次の「波羅掲諦」は「大乗」、そして最後の「波羅僧掲諦」は「密教」の覚位である、と。
 こんな解釈を言い出す空海は一見荒唐無稽の独善主義者のように見える。事実、近代仏教学はこの解釈を真言宗の宗義発揚のための解釈といって白眼視した。ところが、それは空海が日本ではじめて梵語をかなりのレベルまで習得した人だということを知らない人の浅慮だった。空海は『般若心経』の経意をきちんと理解し、単語の語義を奥深くとらえ、その上で独自の解釈によって『般若心経』の真意に迫っていたのである。

 「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提 沙婆訶」をサンスクリット原文にすると「gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā(ガテー  ガテー  パーラガテー  パーラサンガテー  ボーディ スヴァーハー)」となる。
 「掲諦、ガテー(gate)」は、「行く」という意味の動詞「ガム」(gam)の過去分詞「ガタ」(gata)の女性形である「ガター」(gatā)の名詞的用法で、「~よ」と呼びかける呼格(vocative case)の単数である。
 その和訳としては、日本の仏教学界の大御所であった中村元・紀野一義両先生(『般若心経・金剛般若経』岩波文庫)の「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」というのがあるが、どうも感心しない。「達することよ、達することよ、目的(高み=サトリ)に達することよ、目的(高み=サトリ)にともに達することよ、サトリよ、成就あれ」という私の訳の方がまだキーワードである「サトリ(bodhi)」にかなった訳だ。

 空海は、4回くり返される「掲諦(gate)」をこの真言のキーワードである「サトリ( bodhi )」の内実を言い表す同義語として四段階にとらえた。「サトリ(bodhi)」に「声聞」のレベルから密教のレベルまで4段階あるというのである。これは仏教史の流れにちゃんとかなった着想である。
 最初の「掲諦(gate)」は、仏の説法を聞けば「諸法無我」の理を悟れるのだが我執から離れられない「声聞」のレベル。この『般若心経』において大乗の空観によって否定される小乗のレベルだが、それでも「達することよ」の第一歩ではある。
 次の「掲諦(gate)」は、仏の説法を聞くのではなく「十二因縁」の観想によって「諸法無我」を悟れるのだが我執にまだ捉われている「縁覚」のレベル。これも小乗のレベルだが、それでも「達することよ」のステップである。
 次の「波羅掲諦(pāragate)は、サトリの境界に達しながら俗世の迷えるものをサトリに導くため慈悲心を起し、俗世に留まって利他行をつづける「菩薩」のレベル。その心位の高み(pāra)に「達することよ」で、この『心経』の説法主である観自在菩薩(観音さま)のレベルである。
 「pāra」をすぐ「彼岸」と訳すのは安直である。サトリとは「向こう岸に往く」という水平志向ではない。高みに達する垂直志向である。聖と俗もそうではないか。ヨーガ行者は下から上にパワーが上昇し眉間で神と冥合する。仏教修行の基本である瞑想が深まった時、こちらからあちらに往く感覚はない。意識は高いところにある。サトリは高いところからの俯瞰に似ている。霊鷲山からの眺望や槍の矛先からのパノラマを思えばいい。四国の太龍岳石鎚山の高みで命がけの修行を行った空海でこそできる発想である。
 空海は『般若心経』を大乗経典ではなく密教経典だととらえている。そこで最後の「波羅僧掲諦(pārasaṃgate)」を密教のレベルと言った。密教は生きとし生けるものすべてを引き受け、かつ仏教思想史のすべてを包摂し、「みな、ともに」サトリに導く立場だからである。「pāra」及び「gate」の接頭語「saṃ」の語義に通じていなければ「波羅僧掲諦(pārasaṃgate)」を密教のレベルとして観じることはできない。
 空海がいかにサンスクリットに通じていたか、この一例でおわかりいただけると思う。決して真言僧の我田引水とか空海びいきの論ではない。

 空海こと無空は、驚きに驚きを重ねながらこの難解なインド語にはまっていったであろう。おそらく「空白の七年」の間、毎日のように梵字・悉曇に取り組み、長安に行く頃には相当に梵語の実力をつけていたはずである。
 空海は日本ではじめて高度にサンスクリットを解した人であり、その語学的なレベルは今のサンスクリット学者に匹敵するものであったであろう。今、日本にはサンスクリットを解する仏教研究者が相当にいるのだが、サンスクリット語学の実力を具えた人は少ない。ほとんどの人が漢訳やチベット訳をたよりにそこから和訳を借りてくる。サンスクリット原文から自力でオリジナルに意味をとっているだろうか。
弘仁5年(814)7月、空海は『梵字悉曇字母并釈義』を著わして嵯峨天皇に献上した。日本初の梵字・悉曇のテキストならびに「梵漢(和)字典」であった。

 西大寺は、天平宝字8年(764)、称徳天皇が藤原仲麻呂の起した反乱を平定するため鎮護国家と平和祈願を名目に7尺の四天王を発願造顕し、翌年天平神護元年(765)から宝亀年間の頃に堂塔伽藍が建立されたと考えられている。南都七大寺の一つで、別名を高野寺ともいう。創建当時は東大寺と並び南都の二大巨刹に数えられ、平城宮の西側に位置することから西大寺と呼ばれるようになった。
 寺域は東西に11町、南北に7町という広大なものだったらしく、薬師如来弥勒菩薩を祀る二つの金堂を中心に、東・西の五重塔、四王堂院、十一面堂院等々三〇〇棟の堂宇を擁していた。文字通り、東の東大寺に対する西の西大寺というにふさわしい大官大寺であった。
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 その後平安時代に失火・兵火などで被災し寺勢は一時衰退したが、鎌倉時代の半ば、戒律復権の機運のなかで稀代の高僧叡尊(興正菩薩)が寺の復興と戒律の普及に力をそそぎ、面目も新たに密教と戒律を兼ねて修学する根本道場として伽藍が整備された。
 叡尊の努力により天皇・公卿や鎌倉幕府の北条時頼等の帰依を受けて寺領も増加し、真言律宗の基盤が固まった。現在の西大寺の伽藍はほぼその頃の姿を伝え新春と秋に行われる大茶盛式ではにぎわいを見せている。

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