人類社会は、人間の理性や文明の証として、人肉を漁ること・人肉を食べること・人肉を売買すること・人肉を何かのために供すること、すなわちカニバリズムをタブーとしてきた。タブーとは、文明から取り残された未開種族に見られる野蛮行為や習俗を文明社会が「禁忌」として忌避する事柄で、これは人類社会共有の禁止規範である。
ところが、この文明社会において、「脳死」状態となったある人間の、心臓も動き体温もある生体から臓器を切り取り(結果、その人の生存を故意に終らせ)、あたかも部品交換(物々交換)のように他人の生体に移植する人肉のやりとりが行われ、この国ではそれを法制化していかにも文明社会の先進医療行為であるかのように偽装され、それに伴い臓器売買までが闇の世界で行われている。「脳死移植」は、いかに法律で文明性を偽装しようとも、ある人間が生きながらえるために他の人間の人肉を切り取って摂受する点で、「食人」「人肉嗜食」と何ら変らない立派なカニバリズムである。
しかし、日本人のほとんどはこの犯罪的医療のおぞましさにたじろぎ、「臓器移植でしか助からない命を救う」という美談を半信半疑としてきた。「輸血だって、角膜移植だって、肝移植だって、腎移植だって、臓器移植に変わりはないではないか」と言う人がいるが、日本人の死生観・生命観・宗教観・人生観は「脳死移植」というタブー破りを容易に受け容れようとしなかった。
現行「脳死移植法」が成立をした当初、関係者は「(これで日本の「脳死移植」は前進し)3年で1000例は可能だ」とうそぶいたが、現実は10年でわずか81例に過ぎない。この惨憺たる結果に、功をあせる「脳死移植」推進派の人はカニバリズムのおぞましさを省みず、また指定病院の体制が未だ十分でないことを承知で、またぞろ政治の力を借りて「臓器移植法」の改悪(更なるタブー破り)に走ったのである。
昨日、改悪「臓器移植法」(いわゆるA案)が、先日の衆議院に続いて参議院でも可決された。
これによって、臓器提供をする場合に限り「脳死」を人間の死とし、臓器提供をしない場合は「脳死」は人の死ではないとした現行法(これも動いている心臓を体温のある生体から切り取り人為的にその人の生存を止める医療殺人(かつては殺人罪で訴えられた例もある)を極めて政治的に国家権力を借りて正当化した異常な法律だったが)に込められていた「脳死臨調」や有識者あるいは宗教者・市民有志の慎重論・反対意見に対する配慮も葬り去られ、「脳死」は臓器提供しようとしまいと一律に、この国に住む人間の「死」ということになった。
およそ人間の「死」の定義は、単に移植外科医や脳死移植を待つ人の都合のためにあるのではない。「死」を認識しそれを悲しむことが人間共通のものである以上、「死」の定義は人類共有のものでなくてはならない。
ところが改悪法A案は、WHO(世界保健機関)の「臓器移植は自国で完結を」(09年5月)という指針、すなわち「今後はアメリカに行って「脳死移植」を受けられなくなる」事態をこれ幸いに、いっこうに進まない日本の「脳死移植」の現状を打開するため、「脳死」を人間の「死」に加えることを強行した。この国の国会は、人類共有のものであるべき「死」の定義を移植外科医や脳死移植を待つ人の都合だけのために法制化をし、ふたたび文明社会のタブーを破ったのである。
改悪法A案はまた、「脳死」状態から蘇生する可能性が子供にはあるとして現行法が認めなかった15才未満の子供の「脳死移植」を可能にし、さらに現行法の生命線というべき「本人の意志」を放り捨て「脳死移植」は「家族の同意」だけで可能とした。
この結果、問題の多かった現行法でさえ担保した生命倫理の歯止めが完全に取り除かれ、「臓器移植でしか助からない命を救う」美名のもと、蘇生するかもしれない「脳死」児童が、「本人の意志」に関係なく、身体を切り裂かれ生きている臓器を切り取られ、恣意的にあの世に強制送致されてもよいということになる。
このたびの改悪法A案に賛成した国会議員はすべて、自分が「脳死」状態になった時はかならず臓器提供をするばかりでなく、妻・夫・息子・娘・孫もみんな臓器提供することを誓約し公表すべきである。改悪法に賛成しておいて自分は臓器提供をしないばかりか、家族もそっぽを向いていては世間に対して示しがつくはずがない。率先垂範してこの国の「脳死移植」の進展に協力してはどうか。口だけなら何とでも言える。政治的ポーズなら誰にでもできる。この問題に無節操にも手を染めた以上、政治的道義的責任をとらなければ政治家の資格はなく、単なる政治屋(政治を生活の手段にしている人)に過ぎない。
参議院は、さすがにA案のおぞましさに対する反発を考慮し、「脳死」を一律に人の「死」とせず、現行法と同じく臓器を提供する時に限り「脳死」を「死」とするA´案を加えて採決したが、結局これも多勢に無勢だった。私たちは、このたびの「臓器移植法」改悪に対し改めて厳重に抗議する。
かねて私たちは、「脳死臨調」の段階から「脳死移植」にさまざまな疑念をもち、これに反対する立場を公式サイト・文書・フォーラム・旧厚生省への請願などを通じて表明してきた。現行法が施行されるや、さほどの間を置かず「15才未満の子供の「脳死移植」を可能にする」「「本人の意志」が確認できない時は、「家族の同意」でいい」とする法改悪の動きがはじまってからも、これに異を唱えてきた。
■「現行の脳死移植は合法的殺人」
■「深まる疑惑/問題だらけの脳死移植-脳死は人の死ではない-」
■「脳死移植/いまこそ考えるべき脳死移植」
私たちばかりでなく「脳死移植」に対し慎重あるいは反対の立場をとる人たちのサイトも以下に紹介しておく。「脳死移植」は単に、「臓器移植でしか助からない命を救う」とか「莫大なお金を用意してアメリカまで行かなければ助からない命を救う」といった美談で済まされる問題ではない。人間の「死」の定義を移植外科医ほかの「脳死移植」推進派に都合よく変更するために国家権力を動員して恥じないこの国の生命倫理に対し、みな警鐘を鳴らしている。
■森岡正博(大阪府立大学教授、生命哲学ほか哲学者)の「臓器移植法改正を考える」
■生命倫理会議(生命倫理の教育・研究に携わっている大学教員の集まり)
■日本弁護士連合会(日弁連)「臓器移植法改正案に対する会長声明」
■「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会
■日本社会臨床学会
■医療を考える会
■リブ・イン・ピース「脳死臓器移植法改悪を許さない~」
■社会問題勉強会
「愛ですか?脳死臓器移植」http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/ishoku/ishoku301.htm
「いかがわしい臓器ネットワーク」http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/ishoku/ishoku336.htm
■おほもと「異議あり!脳死・臓器移植反響」
普通の外科手術も臓器移植も政治や法律(国家権力)の保護を必要としないのに、なぜ「脳死移植」だけが政治や法律の力を必要とするのか。「脳死移植」は、心臓も動き体温もありヒゲも伸びお産もできる生体から、生きた臓器を切り取り、その結果その人の生存を人為的に終らせてしまう殺人行為を前提にしている。それ故、法律の力を借りて移植外科医が殺人罪で訴えられないよう保護する必要があるからだ。
こんな政治的な特例扱いを受ける医療行為がほかにあるか。そこまでして移植外科医の身分を守らなければならないこと自体、「脳死移植」がそもそも殺人と表裏一体のタブーであることを証明している。「臓器移植でしか助からない命を救う」医療がタブー破りの禁忌である限り、それは仁術や人道であるはずがない。
私たちは先ずそのことを問うているのである。医療はもともと、社会規範や人倫道徳に合致し、かつ崇高な生命倫理に基づいて行われるべきものである。事実、この国の医療もかつては「医は仁術」といわれ、人道の模範であった。国家権力を借り殺人行為を正当化してまで強行する医療を仁術や人道というだろうか。日本の仁術や人道とは、物欲と実用をサイエンスで満たすことを人間の幸福とする欧米のヒューマニズムとはわけがちがうのである。
私たちはさらに、自分が生き永らえる(自己の生存本能を満足する)ために、あるいはわが子を少しでも永く生かしてやりたい(父性・母性本能を充足したい)ために、他人の臓器まで欲しがること、さらには他人の「死」を心のどこかで期待し待ち望むこと、そのおぞましさも問うている。
人間には寿命がある。老いも若きも異なりなく、人間は、与えられた命を、与えられた有限の時間を、生きるのである。見ず知らずの他人の臓器を欲しがり、人為的に殺された人の臓器をもらい受け、それで平気なのか。生きる時間が多少伸びた分、それをただただ生存するだけで無為徒食に過すとしたら、それで幸せか。それを問うては失礼か。
敢えて言わせてもらう。「臓器移植でしか助からない命」もあるが、生まれつきハンディを背負い臓器移植さえ不可能な子が短い命を終えてゆくこともある。飢餓のなかで消えてゆく幼い命もある。枯葉剤や劣化ウラン弾で奇形になり臓器移植どころではない命もある。原発事故による放射能汚染で小児ガンに苦しむ命もある。
「脳死移植」にかかる費用が一口に1000万円とか。一生飲み続けなければならない免疫コントロールの薬代、折々の検査通院費、これ全部自己負担か。国民の税金が使われているのではないか。「脳死移植」に向けられる税金があれば、貧困のなかで医療の恩恵も受けられない多くの命が救える。
政治や法律の力で救わねばならない命は、この国だけでもほかにたくさんある。原爆症に悩む人、まだ原爆症の認定を受けていない人、公害難病に苦しむ人、公害認定を受けていない人、薬害難病に苦しむ人、薬害認定を受けていない人、自然災害の後遺症に悩む人等々、不治の病に苦しんでいる人は翰墨にいとまがない。みな理不尽な国家のあやまちや不作為による罪もない犠牲者である。この人たちにさえ政治や法律はまだ不充分である。
では「脳死移植」を待つ人は国の犠牲者か、国の要救済者か。気の毒だが「自己責任」の問題、原則として他の病気の受診治療と同じく、当事者が自分の住む地域の医療環境のなかで、あるいは地域外の専門病院に足を運び、自分の経済力や縁ある人の協力の範囲内でせいいっぱいの医療措置を受け、それでだめな場合はあきらめるほかないという話ではないのか。15才未満の子供の「脳死移植」を持ち出した町野朔氏の屁理屈を借りれば、「臓器移植」でしか助からない命もそう「自己決定している」のではないか。どうして、他の難病患者を尻目に「「臓器移植」でしか助からない命」という決めつけが一人歩きし、その患者が特別扱いなのか。ともかくこの国の「脳死移植」には、政治や法律の力を借りてまで行うタブー破りなだけに、アブノーマルな不自然さが数々つきまとう。
エコロジーの時代。人間の生命が自然(nature)の一部であり自然の摂理に従ってあることは、遺伝子や免疫レベルでも明らかになっている。これを仏教で「法爾自然」、「然るべくして、そこに、そうあること」といい、北野大(環境科学)は「そこにそうなくてはならない存在倫理」と言った。人間の生体は北野の言う「存在倫理」に従ったミクロコスモスである。
過日、新型インフルエンザが広まった時、インフルエンザウィルスとて自然界に生きる微生物として生存する権利があり、人間は結局それと共存するほかはないと識者が言ったことがある。医学・医療がどんなに進化・発展しようとも、病原菌を自然界から撲滅したり、人間のかかる病気を全滅させたりすることは不可能である。抗生物質がより病原性の強いウィルスを生む温床となっていることがそれを証明している。
人間の固体の生死は自然の摂理に従ってあるのであり、幼かろうと大事な人であろうとその固体の生存能力のなかで生命は完結すべくできている。臓器移植はせいぜいその摂理の範囲で、共に生きられる前提で行われるべきである。「脳死移植」はそれを越え、「臓器移植でしか助からない命を救う」ことを錦の御旗にし、他人の「死」(不幸)をあてにし、あるいはそれを待ち望み、そして動いている心臓を生体から切り取り免疫系の異なる生体に移植するという、自然の摂理に反する不道徳な手段を誇りたがっている。臓器の提供を受けたレシピエントが一生免疫抑制剤のお世話にならなくてはならないことや、それでも永く生きられなかった症例について、報道は多くを伝えない。「脳死移植」は政治や法律の力を借りなければ成立せず、しかもその細部は国民の耳目に達しない密室的な危うい医療行為であること(日本で最初の「脳死移植」となった高知赤十字病院で何があったか)を再認識すべきである。
かつて「和田心臓移植事件」(昭和43年8月)は、「臓器移植」という特殊な医療行為のおぞましさと、「臓器移植」が単に医療行為にとどまらず日本人の死生観や倫理観や宗教観や人生観に深くかかわる(安っぽい人道主義や物々交換感覚では済まされない)問題だという衝撃と教訓を私たちに残した。
私たちは依然、日本人のおよそが手を染めないでいる、体温のある生体から生きた臓器を切り取るカニバリズムの野蛮や、その殺人行為を国家権力の力を借りて免責にする偽善や、他人の臓器を欲しがりそしてその人の「死」を密かに期待し待つ密室の故意を、良心がとがめて認めることができない。
その疑念から抜け出せない私たちを、時代おくれ・坊主の独りよがりだとあざわらった真言僧もいた。その友人で「医学も移植医療も知らないくせに、坊主如きがナンセンスなことを言う」と私たちをなじった医師もいた。彼らに改めて反論しておく。件の真言僧には「安っぽい人道主義を仏教者のアイデンティティーだなどと思うのは軽薄だ」「ちゃんと空海密教の生命観を勉強してからモノを言え」と。その友人の医師には「ここは日本です」「欧米のヒューマニズムだけが生命倫理の尺度だと思ったら大まちがい」「日本の精神風土はメスでは切り取れない」と。
医療はしばしばサイエンスという武器で自然界を征服しようとする。科学オタクはこの武器が万能だとよく錯覚をする。移植外科医の独善と傲慢は、このサイエンス至上主義・自然征服主義の典型である。欧米では山は人間が征服するものだが、日本では山は神仏の宿るところ、人間が拝むものなのである。日本の山の頂上にはよく神仏が祀られている。その精神が日本人の身体観となり、日本人は永く肉体と精神を分けなかった。動いている心臓を切り取ることは、その人から心や魂を抜き取ることを意味する。デカルトはそこがわからなかった。肉体と精神を二分したのだ。それが欧米の生命観にもリンクしている。
太平洋戦争でアメリカの近代兵器と物量に負けて以来、科学技術信仰に似た妄信が技術立国のこの国に蔓延している。先進的科学技術を背景とした繁栄とマネーゲームに酔ったアメリカの正体を、マイケル・ジャクソンの死が象徴している。アメリカの医療には常に科学技術と物欲主義への妄信がつきまとう。高度救命救急の天使もいるが薬物乱用や臓器売買などの悪魔も跋扈している。
「脳死臨調」の委員だった作家の曽野綾子氏が、最近の新聞(産経新聞、「小さな親切、大きなお世話」)で、相変わらず「臓器くれたがり」の立場から無邪気な「愛の行為」論を述べていた。この人には、臓器を他人にあげることがカトリック的「愛の行為」だと思い込む悪癖がある。これを「小さな親切、大きなお世話」とシャレ込みたかったのであろう。すでに80才になろうという人の消費期限を過ぎた臓器を誰がもらおうか。この人には、世間で言う「小さな親切、大きなお世話」の意味がわかっていないのではないか。「大きなお世話」とは、「崇高なお世話」ではなく「余計なお世話」のことである。
彼女のこの偏狭的思い込みの前には日本の人権派を代表する日弁連もかたなしで、これまでこの国の「脳死移植」がはかばかしくなかったのは、4人の「脳死臨調」委員(日弁連所属の弁護士?)が強引に(「脳死移植」を)否定したからだと八つ当たりをしている。「脳死臨調」は最初から、政府系の諮問機関が常にそうであるように、反対意見の委員は少数派だった。「脳死臨調」はその少数派の良識ある異論を尊重したまでで、「脳死移植」がノーテンキな「愛の行為」論で割り切れるような問題ではなかった証左である。
臓器提供者に金銭の授受はないのか。この国で実質的な臓器売買は行われていないか。しばしば耳にする不正問題は何を意味するのか。臓器提供は本当にきれいごとか。
15才未満の子供の「脳死移植」を持ち出した町野朔氏も、現行法がこだわった「本人の意志」(リヴィングウィル)を放り棄てるため、「たとえ、死後に臓器を提供する意志を現実に表示していなくても、我々はそのように行動する(臓器を提供する)本性を有している存在である」「我々は、死後の臓器提供へと「自己決定」している存在なのである」と、バチカンのローマ法王が聞いたら腰を抜かすようなことを平然と言ってのけた。
この人は、教皇ヨハネ・パウロ2世がその回勅『いのちの福音』で、臓器・脳死移植について言及した「倫理的に認められる方法で実施されるべき臓器提供」や、ドイツのカトリック司教団とプロテスタント教会が共同で発表をした「臓器の確保という目的が先行し、救命治療や脳死判定がないがしろにされること」への警告を、知らぬがほとけであったに相違ない。彼にとり、「脳死移植」は殺人行為ではなく「善意の贈り物」なのだ。そうならば、政治や法律の力を借りる必要はどこにあろう。なぜ崇高な「善意の贈り物」に政治や法律の保護が必要なのか。この人のクリスチャニズムは偽善というべきである。
この国の「脳死移植」問題にしばしば心情クリスチャンが暗躍している。そして軽薄な「愛の行為」論や「自己決定」論をふりまわし、殺人行為を前提にした犯罪的医療行為を政治や法律の力を借りて正当化することに手を貸している。この程度の心情クリスチャンに、私たちはこの国の生命倫理を託したおぼえはないのである。
この国の「脳死移植」に付いていけないのは私たちばかりではない。日本の医療従事者はみな「脳死移植」推進派か。指定病院は「脳死移植」に積極的か。ただでさえ医師不足、まして中核病院から小児科が消えてゆく時代、そして病院経営悪化の時代、医師の過労が一線を越えている時代、指定病院とて「脳死移植」専門のチームをもつのは容易ではない。ほとんどが、院内の各科で通常の診療に忙しく従事している医師たちの臨時混成チームである。今回の法改悪によって、ますます小児科医の責任負担や超過勤務が増大し小児科医をめざす医学生がいなくなることを危惧する声や、移植医らの功名心のために院内各科の通常診療に支障をきたしその結果入院患者にも迷惑が及ぶという声がもう私たちに届いている。
「ターミナルケア」という言葉がある。「終末医療」といわれる。欧米では「死」はすなわち生命の「ターミナル」(終着駅)、これ以上生きることはないのである。しかし、湯川秀樹や井筒俊彦から世界レベルの哲学と評された空海の密教では、「死」は「不滅の滅」。始めもなく終わりもない不滅無限の大生命(大日如来)から生まれた生滅有限の生命活動を終え、またその大生命のもとに帰ること。日本的に言えば、「仏となってあの世で永遠に生きる」のである。これが東洋の知恵であり農耕民族ニッポン人の精神風土である。
弘法大師空海は、「死」期をさとると五穀(食物)を断って五臓六腑を浄め、弟子たちに遺誡した日と時刻に(弥勒菩薩の)三昧(瞑想)に入った(即身成仏の)まま、高野山で有限の生を終えた。空海は、無垢なる六大所成の仏身となって「法爾自然」の原郷(大日)に帰一したのである。
切り取られた五臓六腑が自分の死後も他人の身体の中で生きているという実質半死半生の人は、美談の主にもかかわらず、生命の原郷に帰る途中生死の境で迷うことになろう。私たちはこの生死の境で迷う半死半生の生命を「仏」とは言わない。「仏」とは迷いの世界を越えた人のことだからである。
日本人は「死者」を「仏さま」と言っておがむ。心情カトリックの人のように、人間の冷厳な「死」を軽々しく弄べないのである。