臓器を提供する場合は「脳死」は人間の「死」であり、臓器を提供しない場合は「脳死」は「死」ではない、という世界中どこにもない奇妙な「脳死移植法」が、国民的コンセンサスもないまま、海外の移植外科の進展にあせる移植外科医と彼らと関係のある族議員の暴走により、「脳死臨調」の反対論併記の答申を無視してドタバタ劇と迷走の末やっと国会で可決されたのは一昨年。以来関係当局がやっきになってドナーカードの普及につとめても国民感情はいっこうに盛り上がりません。
人間の死の認定は、主治医による「三兆候死」の宣告と家族の受容によるものでした。それが、私たちが長い間「文明」として受容してきた「死」の定義でした。それを私たちは「寿命」といい「運命」といい、「与えられた命」の終わりと受け止めてきたのです。それで何の支障もありませんでした。
ところが「脳死移植法」の国会可決は、医療提供者のほんの一部にしか過ぎない移植外科医を殺人罪から免責することを目的に、もともと人間の「死の定義」には参加資格などないはずの政治家やお役所がしゃしゃり出て、「政治決着」によって「第二の死の定義」をこの文明社会に持ち込んだのです。突然の「第二の死の定義」の出現に国民は戸惑っているのです。
そもそも人間の「死の定義」とは、「医学(科学)的な知見」による判定と「宗教的な知恵」による受容とが融合し、疑いの余地がないほどに人々に受け入れられて始めて可能になるはずなのに、「脳死問題」はなぜ「法律」や「政治」が介入してくる必要があったのでしょうか。理由はただひとつ、臓器移植の発展としての脳死移植を海外なみに定着させるためには、移植医が「生きている人間から臓器を取り出す」という「殺人行為」を「殺人罪」として訴えられないように「法律」で保護しなければならなかったからです。
ドナーカードの普及にやっきになり「本人の意志(リヴィングウィル)」を最重要視するのはいかにもヒューマニズムのように聞こえますが、まだ心臓が動いている人間の「息の根」を「人為的」に止める役、つまり殺人を行う立場に立たされ決心しかねるであろう家族の「ためらい」を少しでも急かせるための「悪質な逃げ場」でもあります。
「和田移植」以来、日本のジャーナリズムは「脳死移植」どころか「臓器移植」にさえ懐疑的であり積極的な評価をしてきませんでした。少なくとも「脳死移植法」の議論についても批判的でした。ところがどうでしょう。一度法律施行になると、雪崩れをうつように「日本初の脳死移植」の報道合戦を行い、法律の矛盾や生命倫理や「死の定義」や、残されてしまったたいへん重い問題をそっちのけにし、行け行けドンドン、それまでの批判的態度はどこへやらの変身ぶりです。これにも国民は「ためらい」を感じているのです。
「科学の進歩はいいことだ」「新しいことはすべて<善>」という軽い風潮は(特に「科学」に関する場合は100%ちかくそうなのですが)、特に若い人たちの「情報批判力」を著しく阻害しています。「死」とか「いのち」とかの問題に若い人たちが非常に無頓着でうすっぺらなのは、「平和ボケ」という一言でかたづけられる問題ではないと思います。情報に携わる人たちは自らの社会的責任をもっと重く感じてもらわなければ困ります。その上、「情報公開」と「プライバシー」という「権利のクリティカリティー」の問題まで報道の加熱から派生させてしまったのですから。
脳死状態の人間はまだ体温があり心臓も動いています。汗もかけば排便もします。ヒゲも伸びればお産もします。「脳死移植」とは、まだ心臓が動き体温もある人を「法律」で「死んだもの」とみなし、その身体から臓器を取り出し「人為的に」「生命の活動を止めてしまう」ことです。これが「合法的殺人」でなくてなんでありましょう。
「脳死」を人の「死」であるとすれば、脳死状態の妊産婦から生まれた赤ちゃんは「死体」から生まれたことになります。矛盾だらけの脳死移植に反対の医師や医療関係者は枚挙にいとまがありません。さらにすでに「臓器売買ブローカー」も暗躍し、それを規制もしくは禁止する法律もありません。なぜこういうことは国民に知らされないのでしょうか。
心臓の移植手術一回1,000万とうわさされる脳死移植、臓器を提供する人はほんとうに金品はもらわない善意の「無償提供」なのでしょうか、臓器をもらえて移植手術を受けられる人は「臓器代金」は払わないのでしょうか。1000万といわれる手術費用、これは全額受益者負担なのでしょうか。いやいや税金から出ているとの話しもあります。
移植手術を受け生命を助けてもらえる人と待ちつづけても救われない人の選別判定つまり厳粛な「生と死の分かれ道」の決定は、いったい誰が何の資格と権利で行うのでしょう。
「救命」はもちろん人間社会にとって第一優先権事項です。難病に苦しむ人を高度先進医療で救うのもまた結構なことです。しかし、異常な政治決着や矛盾に満ちた法律まで動員し、無理やり殺人を合法化し、加えて「第二の死の定義」という「死の文明」への挑戦までして、いったい何を「救おう」としているのでしょう。そこに人類普遍の原理でもあるのでしょうか。社会的大義名分でもあるのでしょうか。「延命技術」が医者の命題だなんて、どんな医科大学でもどんな研究室でも教えてはいません。「死の命題」こそみんなで考えるべき普遍的命題です。移植外科学会の先生方、移植コーディネーターの方々、皆さんは「救命」と「合法的殺人」の矛盾に対してどう反論されますか、黙っていないでご意見を公表されるようお願いします。