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062 空海密教のグローバリゼーション

 高野山金剛峯寺は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』の経題からその名をとったといわれている。
 周囲を標高900mからなる内と外の八つの峰に囲まれた平坦の地に、空海は七里結界した。内の八峰は「壇上伽藍」の四方四遇を囲む峯で、伝法院山・持明院山・中門前山・薬師院山・御社山・神応丘・獅子丘・勝蓮華院山。外の八峰は「奥の院」の外周に聳える峰で、今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山である。

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永坂嘉光『空海の歩いた道』より

 今の金剛峯寺は、第2世座主真然が祀られている廟所の地に、文禄2年(1593)豊臣秀吉が母の菩提のために木食応其上人に命じて建てたもので、青厳寺・興山寺といわれていた。これを、明治2年(1869)に合併し、全国の末寺を代表する総本山としたのである。

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 当初の伽藍はおそらく薬師如来を祀る講堂(いまの金堂)と、空海の住房また持仏堂であったという現在の御影堂(大師堂)、そして丹生・高野の二明神社くらいのものであっただろうか。
 次に建立が企てられたのは、大毘盧遮那法界体性塔といわれた2基の多宝塔、すなわち金剛界大日如来を祀る「西塔」と、胎蔵界大日如来を祀る「東塔」であったろう。これで恵果から授かった金胎不二密教にもとづく道場が実現し、高野山山上に金胎両部の曼荼羅海会が顕現し、日常的に密教の行(三摩地法)や潅頂ができるようになったと思われる。

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 伝えによれば、「根本大塔」も空海が「南天の鉄塔」を模して計画をしたといわれ、空海入定後52年を経た仁和3年(887)にやっと完成したといわれている。「南天の鉄塔」とは、密教の根本経典である『大日経』 『金剛頂経』の成立の聖地としてシンボライズされた伝説上の大塔で、「南インドの鉄塔」の意味である。
 この鉄塔のなかで、龍猛(龍樹、真言付法の第3祖)が金剛薩埵(第2祖)から『大日経』『金剛頂経』を相承し、それを誦出したというのである。実在説もあるが、古来真言宗では両経の鉄塔誦出については種々の論議がある。密教では塔(ストゥーパ)を「法界塔婆」つまり大日如来と見る。つまり金剛薩埵が大日如来から両部の大経を相承し、それを龍猛に授けたとする。あるいはまた、この塔を龍猛の「本有菩提心」(生来持ちそなえている菩提心)の表象だという解釈もある。両経成立についての最近の学術上の諸見解は伝説を越えてリアルに展開している。
 「根本大塔」は「西塔」と「東塔」との中間に建てられ、胎蔵界大日如来を本尊として金剛界四仏がその周囲に祀られ、柱には十六大菩薩が描かれていて、金胎両部の尊像が集合し二つで一つ(金胎不二)であることを表している。これこそ、師恵果の密教具現ではなかったか。

 高野山の造営は決して順調ではなかったが、空海は多忙なこの高野山での日々に帰国後ずっと思いをめぐらせていた独自の密教思索を思いのかぎり論理化し体系化した。文筆家・能筆家の空海でなければ到底なしえないほどの質量を誇る代表作の数々を著した。
 すでに空海は、高野山下賜を願い出る前の弘仁6年(815、42才)の頃、自ら独自の密教構想をまとめた『弁顕密二教論』を著わしていた。そのなかで、空海は、仏教の諸教説を「能説の仏身(法身説法)」と「所説の教法(密教果分)」と「成仏の遅速(即身成仏)」と「教益の優劣(罪障速滅)」の四つの論点から判別し、小乗・大乗の諸教説を「顕教」(報身または応(化)身が、相手の機根に応じ仮の教法を説く方便の教え)とし、これに対し「密教」は法仏(法身、大日如来)自身が内なるサトリの真実(「自内証」)を無始無終に説く法説(真理そのものの教え)であるとした。
 言うならば、顕教は自利・利他の修行過程にある者(顕機)のために説かれる浅略の教えであり、密教は「三密瑜伽」の密法に通達した(真言)行者(秘根)のために説かれる深秘の教えであるから、密教の方が顕教よりも優れているというのである。空海にとって自らの密教をはじめて世に問う真言宗立教開宗の書であった。

 「法仏ノ談話、之ヲ密蔵ト謂フ」。空海のこの顕密峻別の構想はすこぶる大胆であった。
 法仏(「真如」「法性」を体とする法身、盧舎那仏)は言説せず、あるいは「真如」「法性」は言語で表せない(「言亡慮絶」)、あるいは言語の虚妄性云々、それら大乗の定理をあっさりと超え、空海は法仏(大日如来)が自ら言説をもって説法をすると断じた。
 空海はこの段階で仏教教理の定見や命題の伝統を超えていた。空海は、華厳の法仏(盧舎那仏)が説法しない教理を熟知した上で、密教の法仏(大日如来)に自ら(真如)を自ら説法(言語化)するペルソナを付与した。この構想のなかで空海は言語が虚妄か真如かという言語哲学の領域に踏み込んでいた。

 この顕密の判釈を土台に、空海は晩年の天長7年(830、57才)、各宗の宗義要諦を提出するようにとの淳和天皇の命に応えて『秘密曼荼羅十住心論』十巻とその略本『秘蔵宝鑰』三巻を著した。

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 そのなかで空海は、先ず人間の生の原初である食と性の欲望を肯定し、本能のレベルを心位転昇の源底である第一住心(「異生羝羊心」)に置き、第2に仏性のあらわれとして儒教的な人倫道徳の心(「愚童持斎心」)を、第3に人間苦から逃れ天上界(絶対)を求める宗教的な自覚(「嬰童無畏心」)を、第4に「我」は「」なのであるが、その「我」を構成する「五蘊」は実在だとする小乗の声聞のレベル(「唯蘊無我心」)を、第5に「十二因縁」を観ずることで我執から脱することができるのだが利他行の自覚がない小乗の縁覚のレベル(「抜業因種心」)を、第6に利他(=慈悲)を自覚しながらも五性各別を言って「」の「空性」を徹底できない唯識(法相)の立場(「他縁大乗心」)を、第7に徹底した「空」の論理によって「識」(認識作用)も「境」(認識対象)もないという否定の哲学に終始する中観(三論)の立場(「覚心不生心」)を、第8に人の一心一念(日常心)に宇宙の全てのあり方(三千)が含まれ、それらの真実の相を「空・仮・中の三諦」をもって説くのだが、まだ果分(サトリの立場)を説くに至っていない法華一乗(天台)の立場(「一道無為心」)を、第9に事物事象の一つ一つが相互にお互いを含みながら重々無尽にかかわりあっている「事々無礙」の境界も結局はまだ因分(自利利他の修行位)に留まっている無自性「空」(華厳)の立場(「極無自性心」)を、そして最後の第10に「本有菩提心」(=自心)の実相をありのままに知り(菩提)、自身の数量すなわち胎蔵金剛両海会の曼荼羅の各々に無量の四種身(の住処=秘密無尽荘厳の住処)をさとり、凡夫の身・口・意の「三密」が(大日)如来と相応の故に、如来の内なるサトリの境界に直入できる密教の立場(「秘密荘厳心」)を設定した。

 従来、第一住心から第九住心までを「顕教」とし第十住心のみを「密教」とする「九顕一密」の見方があり、これを空海独特の教判だという。一方、九住心のすべてを第十の密教のなかに包摂する「九顕十密」という見方がある。いずれにせよ、この「十住心」の体系は単に真言宗のアカウンタビリティーや仏教教理学の綱要にとどまらず、業欲のままの生の原初から「生仏一如」「凡聖不二」の境界にまで至る、(煩悩具足の)人間の心位転昇の階梯を示したのである。
 この「十住心」の体系には、奈良の諸宗とも京の天台宗とも対立せず、国家仏教の総本山である華厳宗東大寺のメンツも最大限にたてた政治的配慮があったという見方もあるが、私はひとえに空海自身の思想転昇の階梯そのものだと思っている。第7住心から第9住心にかけての記述には、空海の大乗思想理解の正確さと大乗思想を自分のものにした自信が満ちあふれている。とくに第9住心における華厳の記述は白眉である。のみならず、空海の思索には大乗思想や密教を突き抜け古今東西の思想家や哲学者が問題にした命題に迫る思索がいくつもある。空海にとっては空海密教即アジア即世界の思想史であった。

 空海はその間、『即身成仏義』により「顕教」の「三劫成仏」(永遠の時間をかけなければ、サトリを得られない)に対し、密教ではこの生身に速疾にサトリを得られること(「即身成仏」)を明かし、『声字実相義』によって法仏(大日如来)の説法は声字によるのであるが、声字は人間の次元を超えた法仏のコトバで宇宙の真理そのもの(実相)であり、大日如来それ自体である。人間衆生の迷妄の世界の「五大」「十界」「六塵」もまた声字であり実相であり法身であると、「法身説法」の原理を明らかにし、『吽字義』により「吽(ウン)」字の一字に金剛界胎蔵界両部の大経(『金剛頂経』『大日経』)の教理がみな含まれるとして、真言陀羅尼による「果分可説」の所以を論じた。

六大無礙ニシテ常ニ瑜伽ナリ 四種曼荼各々離レズ
三密加持スレバ速疾ニ顕ル 重々帝網ナルヲ即身ト名ヅク
法然ニ薩般若ヲ具足シテ 心数心王刹塵ニ過ギタリ
各々五智無際智ヲ具ス 円鏡力ノ故ニ実覚智ナリ(『即身成仏義』)

五大ニ皆響アリ 十界ニ言語ヲ具ス
六塵悉ク文字ナリ 法身ハ是レ実相ナリ(『声字実相義』)

 空海の著述はこれにとどまらず、日本最初の梵語字典である『梵字悉曇字母并釈義』につづき日本初の漢語字典となった『篆隷万象名義』『仁王経』 『大日経』 『金剛頂経』 『法華経』 『金剛般若経』をはじめ諸経の「開題」、詩歌文章論として有名な『文鏡秘府論』、密教の伝法系譜をあきらかにした広本略本の『付法伝』東寺の密教化に当って腐心して書いた『真言所学経律論目録』(『三学録』)、さらには「大和州益田池碑銘并序」「綜藝種智院式并序」などの碑文をものした。
 そして、最晩年の著作といわれる『般若心経秘鍵』では「十住心」の立場から経意を解釈し、最後部分の「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提 沙婆賀」という咒(真言)も、諸宗の宗義がそれぞれ収まるとする。この空海独特の見解は、近代仏教学では我田引水の宗論と一蹴されてきたが、近年この『秘鍵』の解釈をもとに新しい『般若心経』解釈が試みられ、仏教学界の古い偏見が糾されつつある(『般若心経入門』宮坂宥洪)。

真言ハ不思議ナリ 観誦スレバ無明ヲ除ク
一字ニ千理ヲ含ミ 即身ニ法如ヲ証ス
行々トシテ円寂ニ至リ 去々トシテ原初ニ入ル
三界ハ客舎ノ如シ 一心ハ是レ本居ナリ(『般若心経秘鍵』)

 空海はなぜ都から遠い高野山に自らの密教の集大成となる法城を造ろうと決めたのか。一つには自らの密教の「令法久住」のため、一つには国家などの世俗的な価値を超え世界の普遍原理に迫る「ヤマ」の宗教への回帰ではなかったか。
 空海は別に「王法仏法」の現場に飽きたのでもなく、池の修築といった世俗的任務を嫌ったのでもない。空海にとってそれもこれも皆、果分可説の想定範囲であった。活動の範囲は都でも奈良でも「ヤマ」でも一向にかまわなかったのである。
 高野山の下賜を願い出た頃、空海の頭のなかではすでに独自の空海密教がまとまっていた。あとは、密教伽藍の建立によってそれをビジュアル化して見せ、その密教空間で弟子を養成すること(伝法)と、著述によって国家(朝廷)に知らしめ、後世にも遺すことであった。その作業はやはり都から遠く朝廷の権謀術数の及ばない世間隔絶の霊山がいい。誰にもわが密法を壊されたくないからである。だから、空海は高野山造営に当って山上を七里結界し、諸魔を排除した。

 空海は、権力の座にある嵯峨の苦悩を肌で感じつつ、南都の国家仏教勢力の衰微もこの目で見てきた。世間世俗はまさに有為転変、諸行無常、うつろいやすい。しかし密法は国家のため人々のために永続しければならない。自分が創案した密教や真言宗を都におけば、朝廷の権謀術数に巻き込まれやがて凋落を強いられるかもしれない。空海は、自らの密法がこの国に「久しく住する」ことを期して、都を遠く離れた紀伊の深山をえらんだ。それはまた、師恵果和尚の「東国にこの法を広めよ」との遺言にも報いる道だと考えたにちがいない。
 さらに、空海には大学寮を出奔して山林に伏した時の思いがあった。19才の真魚は中国の世俗的価値世界を捨て、自らの内なる人間としての懊悩に答えられる普遍原理を求め「ヤマ」に入った。それが「沙門」空海の原点である。空海は、高野山に入る頃、その密教構想の集約の先に若き日に求めた「人類普遍の原理」を見ていたであろう。それが自然・宇宙との一体化というシステムとして空海のなかで収斂しようとしていた。その検証実践の場は、日本を代表する古代宗教のメッカの一角を占める奇しき山でなければならなかった。高野山の下賜を願い出た上奏文に、空海が「修禅ノ一院」と言ったのは単に「坐禅(三摩地)の道場」という意味だけではなく、「ヤマ」(の行)に回帰しようとする「沙門」空海の原点を言い換えたに過ぎない。

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