はじめに
1、今日の生命観
生きとし生けるものは細胞を基本単位として形成されている。
その細胞の中には核があり、核にはDNA(デオキシリボ核酸)が折りたたまれて入っている。
DNAの二重らせん状の鎖にはそれぞれに四種の塩基<A(アデニン)・T(チミン)・G(クアニン)・C(シトシン)>がばらばらに並んでいるが、その中のAはTと、GはCと結ばれ、対(つい)構造を作る。
その構造による四種の塩基対のさまざまな配列が生命の設計図<ゲノム>となる。それを遺伝子と呼ぶ。
細胞に仕込まれたこの遺伝情報により、まず、タンパク質が作られ、タンパク質が酵素を作り、酵素が細胞を作り、細胞が集まって部位を作り、部位が組み合わさって個体になる。
その個体の形質・性質は両親のもつそれぞれのゲノムの組み合わせになるから、子は親に似るがその似かたは兄弟間・世代間によって異なり、一様ではない。
その一様でない個体の形質・性質が個性の原型である。
また、個体の非日常体験が特定遺伝子の活動に制御をかける場合もあり、その変異状態がそのまま遺伝されることも解ってきている。
生命の根幹でそのような多様な知のちからとはたらきを為すDNAを生きとし生けるものすべてがもち、しかもその知は宇宙に生命が誕生した時以来、進化を重ね、途切れることなく数十億年に亘って営々と受け継がれて来たものなのだ。
2、密教の生命観
五つの物質要素<五大(ごだい)>、固体・液体・エネルギー・気体・空間から生きとし生けるものの本体は出来ている。
一様にそれらの物質から成るものが生命知・生存知・創造知・学習知・身体知の五つの知のちから<五智(ごち)>をもつことによって共に生き、その生命と個体と個性と種(しゅ)のありのままのすがた<四種法身(ししゅほっしん)>を宇宙に現出させている。
また、生きとし生けるものは対象を知覚→イメージ→快不快の判別→感応する能力<四摂菩薩(ししょうぼさつ)>をもち、その能力によって行動・コミュニケーション・意思の三つの活動<三密(さんみつ)>を為し、身体を守り、環境に順応し、衣食住を生産・扶助・摂取し、自然に親しみ、さまざまな技芸を身につけ生計を立て、生を謳歌し、その生を子孫へと受け渡す。
それらの一連の定められた知と行為が生きる規範であり、そのことに目覚め、そのことをありのままに為すのがさとりであると説く。
この二つの生命観を比較すると、
今日:
分子生物学はすべてのいのちに宿る知、遺伝子を発見した。そうして、その遺伝子配列を人為的に組み換え、暮らしと医療に役立てるようになった。
その一方で人間は自然から原材料を採取し、加工・利用する際に二酸化炭素を排出させるから、地球温暖化と大気汚染が進み、動物分布が拡散し、野生動物を宿主としていたウイルスとほ乳類との接触する機会が増え、それが原因となってパンデミック(感染爆発)が度々起きる。
そうなれば、国境を越えた人びとの交流とグローバル経済の自由な物流は遮断され、身体接触機会の坩堝(るつぼ)である都市はロックダウン(封鎖)。人びとは社会的距離を保ちながら生活しなければならない。
その規制された生活は、ウイルス遺伝子の増殖を抑えるワクチン開発と集団免疫が達成されるまでつづき、文明の流れがその間、停滞してしまう。
しかし、そのような事態を引き起こす原因を作っているのが文明そのものなのだから、生態系・生命・知の全体調和を図る文明の規範とその規範にもとづく生活スタイルの変革こそがほんとうは必要なのだ。
密教:
衆生(生きとし生けるもの)のもつ知を洞察し、そこに知の規範を見いだし、その規範によって迷うことなく生きる方法を説く。
そこには知をもつあらゆる生命がその持ち前の知によってありのままに生活しながらも、共存して行くための知恵が「経」となって説かれている。
当論考では、その経の頂点にある『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』とそのマンダラを学習する。
幸いにして、『金剛頂経』は空海がその開題(かいだい:経を解釈するのに、経典の題名を分析し、他の経との差別化をはかり、教義の大意を示すこと)を書き残しておられるので、まずそこから入ることにする。
何しろ金剛界マンダラの元(もと)になるものであり、この身のままで即座にさとりの世界へと導く教えであるから、空海の解釈であれば同行二人で心強い。
『金剛頂経開題』抄
出だしに「今、この経の解釈するにあたって、だいたい三部に分ける。はじめに大要を述べ、次に経題(のもつ意味を多面的に)を述べ、最後に経文を解く」とある。
◆大要(全訳)
「はじめに言っておくが、(荘子の寓話に登場する)かたつむりの角の上を左右の国として争うような極小のものには羅睺(らご:日・月の光をその手で遮って日食・月食を起こす阿修羅)のような大きな存在が見えず、蚊のまつげに住む極微の虫のような族(やから)は微細な音を聞いても、鵬(ほう:荘子の「逍遙遊篇」の出だしに「鵬の背中、幾千里あるかを誰も知らない。力を出して飛び上がれば、その羽は大空に垂れ込める雲のよう」とある)という名の巨大な鳥の羽音は聞くことがない(ように、この経は世間の些細なつまらぬことを気にして生きている者には理解することが難しい)。
ましてや、ここで説かれる教え、過去より受け継がれ、未来へと引き継がれるために現在を生きるもののもつ知が為す三つのはたらき(行動・コミュニケーション・意思)は無際限であるから、四種の言語(万物の形相を表わす語・夢想の語・妄語・本能的に発する語)をもってしても表現しきれないし、また、いのちのありのままのすがた(生命・個体・個性・種)を成すものが発揮している無量の知のはたらきは、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と第六意識(前頭葉)、それに第七マナ識(言語野と側頭葉)・第八アラヤ識(大脳辺縁系と視床下部)・第九アマラ識(天台と華厳の説く無垢識)の九つの認識領域をもってしても捉えきれない。
それほどにこの経の説くさとりの世界は広大無辺であるから、既定の言語と認識の領域に収まらず、信仰心の厚さだけでは理解できず、その存在はあっても光のあたらない月と同じで、誰にも見えない。
だから、釈尊がそのさとりの光によって確かに見た世界は、さとりを得た者でなければ絶対に見ることかなわず、そのすがたを伝える手段もないことを釈尊自身が一番知っていたから、その実相については誰にも語ることがなかったのである。
(南インドの摩羅耶(まらや)山頂にある楞迦(りょうが)城での説法では、修行によって自在で神秘的な能力を身に付けた者たちの代表格であった)大慧(だいえ)が、さとりによって目にすることのできた世界について是非ともお話くださいと釈尊に乞うたが、それを断られているし、(仏教初代後継者と目されていた弟子の)摩訶迦葉(まかかしょう)でさえも、釈尊の前に進み出て、さとりの世界における生きとし生けるもののすがたについて丁重に質問したときも口を閉じられたままであった。
(そのように釈尊がさとりの世界の真実のすがたについては、一言も話さなかったものだから)大乗仏教の修行者たちは、さとりに向かう修行段階の成果だけで、あるいは人びとを救う慈悲行為だけでそれをさとりとし、地蔵菩薩によって喩えられる大地のもたらす恵みをもって、それがさとりの世界のすがたであるとしたのだ。
大乗起信論の注釈書である『釈(しゃく)摩訶衍(まかえん:大乗の意味)論』には、絶対真理はすでに心の中に存在していて、もともとあるのだからそれは信仰心の厚さによって新たに得るものではないことを示し、十地経(じゅうちきょう)の注釈書である『地論(じろん)』では、「因分可説、果分不可説」を唱え、心の悩みの原因や心の向上段階は説けるが、さとりの世界そのものは説けないと説く。
また、華厳の哲学では存在を本体(そのものの本質、例えば素材)と様相(そのもののすがたかたち)と作用(そのはたらき)という三つの要素に分けて捉え、それぞれを観察すれば存在は多様な側面を見せて、その実体は固定せず、そこに確かにあるのは存在を見ている観察者の一心のみであり、その心を磨くことがさとりへの道であると教え、天台では唯一無二というさとりの方法の数かぞえをもってさとりの教えとするが、それらの教えはさとりそのものを説いていない。
(華厳の知の論理であるその都度に把握した存在要素の断片でもって、その観察された対象の固有性を証明することはできず、修行による精神の高みをもってしてもそれは観念の世界に過ぎず、いくら論理と精神を追究しても平穏なる境地に至ることはできないから)大乗という名の乗り物を失ってしまった信者はあてどなく野をさまようことになり、言葉と思考を断って真実のさとりとする修行者は、そのことを実証するために洞窟に入り、沈黙を保って五十六億七千万後(つまり、永遠が終わるとき)に現れるとされる弥勒菩薩が天上の兜率(とそつ)浄土よりこの世に下生(げしょう)する夜明けを待つしかない。
氷(様相)が溶けて(作用)、水(本体)となるときの氷と水、その関係において初めも終わりも本質は水であり、光があたって影ができるときの光と影、その関係において光があたって影ができ、光があたらなければ影は存在しないから、本質は光にある。
そのように、心(本体)があるから認識(作用)対象の存在(様相)もあるとする法華一乗の唯一絶対の教えでは、その心に本来汚れがないことを(蓮の花が泥田の中でも美しく咲くなどの喩えをもって)説くが、この心と認識対象に水(本体)と波(作用・様相)の関係をあてはめると、それらは一体のものであり、生滅と変化を繰り返しているのが存在の本質であると教える華厳の哲学に陥ってしまう。そうなると、一心はいつまで経っても風波の海に漂ったままで先に進めない。
(その大乗仏教思想の行き詰まりの中で、)南インド出身の妙雲(みょううん:龍樹すなわちナーガールジュナのこと)が(密教の教えの)強固な塔の扉を開いて、その啓示を受けることになる。
(その啓示の様子は、生きとし生けるものの個体としての一存在である)龍樹が無垢なる知に目覚めると、自身に具わっている三つの知活動<三密(さんみつ:行動・コミュニケーション・意思)>が(それまでの大乗の説く空の論理の諦観から解かれて)自由に輝き出し、その光が虚空を照らし、生きとし生けるものが共に生きるためにもつ無垢なる五つの知のちから<五智(ごち:生命知・生存知・創造知・学習知・身体知)>が大いなる自我となって、自己の中心に鎮座するというものであった。
(その五つの知のちからから成る世界では)生命知<大日如来>を中心として、根本の知のちからとなる四つの<如来>のそれぞれにしたがう四つの知のはたらき<菩薩>の計十六の菩薩が、それぞれの領域を古代インドにおける理想の王、武力ではなく法の輪を動かして国を統治する転輪聖王(てんりんじょうおう)のごとくに治め、その領域の認識を司る諸大臣<四摂(ししょう:知覚・イメージ・判別・感応)菩薩>は所轄する業務にあたって、他大臣の業務が的確に行使できるように細やかな配慮をもってはたらくから、その結果としてすべての知が速やかに正しく発揮されることになる。
おかげで、それらの無量の功徳が連なって形成される自然世界(生態系)が成す無尽の環境は地上の多種多様な生命が生存しても余りある。
そのいのちのもつ無垢なる知のちから<大日如来>の為すままに生きとし生けるものがその身を任せている様子は、あらゆる星が北極星を中心として回転しているかのようである。
の三十七尊に分類された知のちからとそのはたらきは、自然界の生きとし生けるものすべてに微細に具(そな)わり、
それらの知が
・表象(イメージ)
・象徴(シンボル)
・言語(文字)
・作用(活動)
の媒体<四種マンダラ>を通して多様に表現され、それらを印しとして祈ることができる。
また、知をもついのちは
・生命<自性(じしょう)身>
・個体<受用(じゅゆう)身>
・個性<変化(へんげ)身>
・種<等流(とうる)身>
のすがた<四種法身(ししゅほっしん)>を成し、そのありのままのすがたをもって語られる知の言葉が<真言>である。
以上の事柄は不空訳「金剛頂瑜伽(こんごうちょうゆが)十八会指帰」においても、いのちのもつ無垢なる知の原理との瑜伽(相応)場面として説き示されている。
すなわちこの身を捨てずして、即座にいのちのもつ無垢なる知のちから<如来>とそのはたらき<菩薩>に目覚めること、つまりさとりを得させ、そのさとりの世界の実相を解き明かすのがこの『経』なのである。
これは比べるもののない仏法であり、その教えによるさとりへの到達は超高速である。
例え転輪聖王になれる素質をもつ者であっても、この密教の説く無垢なる知のちからとそのはたらきによらなければ、どうして生きとし生けるものが共に生きるためのいのちの法を聞き、凡夫には理解することが難しいこの『経』の教えを信じることなどできるであろうか」。(「大要」訳、終わり)
『開題』には、この大要のあとに経題・経文の解釈がつづくが、以下はその要旨と要点である。
まず、通称「金剛頂瑜伽(こんごうちょうゆが)」、略称「十八会」とも呼ぶ前出、不空訳の経典の概要。
初会から第八会までは大自在天と金剛薩埵、如来と各種菩薩が特定の説法場所に登場し、そこでの説法の経緯や説かれたマンダラが何かを示す。(この経緯とマンダラは当論考で後述しているのでここでは省略)
第九会は真言(真実の言葉の)宮殿において、仏像はイメージであり、それを観想する主体は自分自身にあるから、身体の内にあくまでも仏身はあると説く。だから、彫像した仏像は仏身の本体ではないと説く。
第十会は法界(真理の世界の)宮殿において、(上記の事柄を)詩にして説く。
愚かな子供は無知であるから
仏を心の外に求め、自らの心の中に仏があることをさとらない
それらを外に求めても、そんなものは何処にも得られない
生きとし生けるものすべての心の中に仏がいるのだから
他所に仏を説かないのだ
第十一会は阿迦尼仛天(あかにたてん:色究竟天のこと。物質世界の最上段を表わす)の会場において、生きとし生けるもののもつ根本の知の行為とそのすがたかたちを三十七尊の四智印によって説く。
第十二会は虚空界菩提(無辺のさとりの)道場において、マンダラを掲げて、そこに図示される無垢なる知の諸尊のいずれかと自身とが合致することを説き、言語のア字をもって、それがもともと我が身に具わっているものであり、そこには清さと汚れ、無為と作為などは存在せず、元は自由であり、差し障りがないと説く。
第十三会は金剛界マンダラ(知の原理の世界を図示した)道場において、無垢なる知をもつ個体の象徴である<金剛薩埵>をお招きし、生きとし生けるものが意見を同じくして、自らに具わる無垢なる知のちからのはたらきに未だ目覚めていないもののために、その知の存在を説くよう乞う。
そこで乞われた薩埵は普賢菩薩によって象徴される生きとし生けるものが自然界の法則と自らの代謝によって生きる生存知のちからとそのはたらきを説かれた。
第十四会は普賢菩薩がその一身に具えている生存するための無垢なる知のちからとさまざまなはたらきは、相互に作用し合い、自然界と円く融けあっていると説く。
第十五会は般若波羅蜜(完成した知のはたらきをもつものの)宮において、教法・マンダラ・印契・真言・禁戒を極めて世俗的な行為と言葉を用いて説くが、それは凡夫を教え導くための手だてであり、またそのことによって逆に大いなる利益(りやく)を達成させることにもなると説く。
第十六会は法界(真理の世界)宮において、迷いとさとり・世間と出世間・自と他は平等であって無二であると説き、また五感と意識によって捉える対象とその対象によって乱される自身の心は無二一体であるから、絶対真理の世界と自身も一体であると説く。
だから、自らのもつ知によってすでにすべての仏身が成就されていることになる。
第十七会は実際宮殿(宇宙における生命の存在する場所)において、生命のもつ三十七の根本の知と、その知の四つ表現媒体と表わされた知のすがたかたちを説く。
それらの知とその知が捉えるすがたかたちによって宇宙の存在が認識される訳だから、個体のもつ知の認識量と宇宙空間の広がりは等しい。
また知は生命に宿る訳だから、宿る生命そのもののすがたかたちが存在しなければ一切万物は認識されない。
また存在するすべてのエネルギー量と宇宙空間の物質量も等しく、もとより来ることも去ることもなく最初から存在し不滅である。
そのような法を説く。
第十八会は第四静慮天(じょうりょてん:前段の十七会を受けて、心が一つの対象にとどめおかれて平等となった状態の場)において、生きとし生けるものすべての個体の存在を示す金剛薩埵が、さとりを得た唯一の個体の象徴である人間ブッダ(釈尊)をお招きして、宇宙と言葉の創造神である梵天のために、いのちのもつ五つの無垢なる知のちからを説いていただくのである。
以上、『金剛頂経』の十八ヵ所の説法場面を通じて、知の原理に相応じる次第を記したのが不空訳「金剛頂瑜伽十八会指帰」である。
(十八会の概略と注釈の次には)『金剛頂経』初会の「金剛頂一切如来真実摂(しょう)大乗現証大教王経(ぎょう)」の経題の解釈に入る。
(解釈の前に)この経は四つの章からなっていて、一が金剛界、二が降三世(ごうざんぜ)、三が遍調伏(へんちょうぶく)、四が一切義成就(いっさいぎじょうじゅ)であり、その四つの章は、大(表象)・三昧耶(サンマヤ:象徴)・法(言語と文字)・羯磨(カツマ:作用)の<四智印(しちいん:知の四種の表現媒体によるかたち)>と連動している(と注釈している)。
◆経題の多面的解釈
(1)題名のつけ方の考察
諸経の題名は、宗教的人格体(諸尊名)、あるいは法(真理)、あるいは喩え、法と喩え、人と法と喩えによってつけられている。
この経の場合は「金剛頂」(ダイヤモンドのように堅固な)が喩え、「一切如来」が宗教的人格体、後の字すべてが法である。
また、もっと詳細に分析すれば、十対(つい)の概念を用いて題名がつけられている。人と法・法と喩え・理と知恵・本体と作用・教えと理・修行と成果・主体と客体・因と果・非原因と非結果(ありのまま)または本体と様相・様相と作用である。
(2)経題の原文であるサンスクリット語による意味解釈
バザラ(金剛)、ウシュニーシャ(頂)、サラバ(一切諸)、タターギャタ(如来・如去・如知)、マハーヤンダ(大乗)、ビサンボウヂ(現証)、マハーアカン(大教)、ラージャ(王)、ソタラン(経)が原文である。
サンスクリット語の文法によれば、一字が言(声音)であり、二字が名となり、多字が句になるから、バザラのバ字は言であり、ザラの字も言であり、この二つの言が合わさって「金剛」の名を表わす。次にウシュニーシャは三字が合わさって「頂」の名を表わす。次にタターギャタは四字が合わさって「如来」の名称を表わす。このように一字・二字・三字・四字と合わさって一つの物事を表わす名称となり、名が積み重なって句となり、句が集まって文となる。
だから、字・名・句の段階でそれぞれに意味が生じ、それらを綿密に解釈して行けば際限がなくなる。そのことは、自著の『声字実相義』の中のサンスクリット語の文法の項でも論述しておいたことではあるが、これ以上の解釈はここでは省く。
(3)経題の漢訳による解釈
「金剛(こんごう)」は変わることのない堅固なものの意味をもつ。ここでは知の原理(金剛)を示す。
その原理となる知を考察すれば根本の知、三十七種になる。
その根本の知のちからとそのはたらきからまた、さまざまな知が生まれ、それらが四つの表現媒体によってさらに無数の知のすがたへと展開し、その知が互いに映じ合って数えることも説明することもできない無尽の知のすがたかたちを現出するから「頂」である。
「一切如来(いっさいにょらい)」とは、生きとし生けるもののもつ無垢なる知のちから<如来>とそのはたらき<菩薩>を示す知と、そこに関わるすべての知のこと。
次に、「真実(しんじつ)」とは、真は真如(しんにょ)、実は実知実相(じっちじっそう)。
真如の真は真理、如は理にかなっていること。
実知実相とは、存在しているものにはそのものの本体(本質)・様相(すがた)・作用(はたらき)の三つがあり、その存在をどの視点で観察するかによって、存在の様子は異なり変化する。その捉え方で違った表情を示すのが存在の真実であるから、そのことを指す。
また、知は能動、相は受動である。また、知は心的はたらき、相は物象的はたらきである。
この法則にしたがえば、対象とする存在の相を知が観察するから、知が相であり、相は知である。また、知なければ相は存在せず、知は相がなければ存在せず、しかも、相対的に双方が存在する。
この相対的な存在である実知実相は九識によっては捉えられないから、変化しつづける存在のその一瞬の相を観察者が自らの知(心)によって捉えていることだけが、絶対真理であり、唯一絶対なのである。
そうして、その絶対的な知と相の存在をも離れ、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきによる平等不変の存在を説く教えが金剛頂であるから、それ故に真実という。
また次に、「摂大乗(しょうだいじょう)」とは、能動と受動の二面を兼ね備えている無垢なる知のちからのはたらき<菩薩>が、大乗の枝葉の教えまでもその根本のはたらきによって取り込んでしまうので摂大乗という。
また、「現証(げんしょう)」すなわち「さとり」には、自然のさとりと因縁によるさとりとの二つの区別がある。
自然のさとりとは、成るままにさとることであり、ありのままの真理とありのままの実在と、それに唯一絶対の自己の存在に目覚めることである。それによって、ありのままの慈悲と恵みを得て、他にもそれをありのままに施すことをいう。
因縁によるさとりとは、人は生まれながらに誰もが無垢なる知のちからを有しているのだが、生の迷いの世界に流転し、論理や知識偏重によってそれが見えなくなってしまっている。ところが、その知の存在に内的直観や外的情報によって少しでも触れる機会があれば、やがて迷いを厭い、さとりを願うようになり、仏法の教えを聞き、自ら修行をし、いのちのもつ真理・実在・唯一絶対のことごとくをさとり、それによって自己の功徳を得ることになることをいう。
その真理・実在・唯一絶対毎に一々得なければならないとするさとりの教えは無量であるといわれるが、約めてしまえば、法爾(ほうに:ありのまま)か隨縁(ずいえん:因縁)かの二つに過ぎない。
また、「大教王(だいきょうおう)」の大は、存在の本体(本質)・様相(すがた)・作用(はたらき)の三種においてそれぞれが大なることを指し、本体の大とは宇宙全体の物質の総量は常に一定であるから、その中で幾ら物質を細かく分類していっても増減がない大と、それらの物質が成す寂静無雑(じゃくじょうむぞう)の宇宙は溶け合っていて均質であるから、みな同じで平等であるとする大との二つの大があり、様相の大には知のちからが捉える万象のその都度のすがたは際限がない大と、その万象の本性においては何も変わらないとする大の二つの大があり、作用の大には世間的な因果による際限のないはたらきの大と、その世間の因果を超越したところの絶対真理のはたらきによる大との二つの大がある。
それらの際限のない生滅を繰り返す広大無辺の存在と、その絶対真理によって捉える不動で広大無辺の存在のすべてを収めるから大なる教えといい、そこに止まらず、その先の絶対存在としての知の自在さを得るところまでを説くのがこの『金剛頂経』であるから、その教えは大教の王の中の王である。
また、「経(きょう)」とは、貫き通し、治め保つ意味をもち、喩えるなら糸で花を刺してつなぐように、法の糸で教えをつなぎ、人びとが迷いの世界に落ちないようにする意味をもち、その法の糸の縦糸を真実語とし、横糸を方便として法マンダラを織りなし、それによってありのままの無垢なる身を守り飾るので経という。
(4)経題の語順に沿う解釈
「金剛」は最上の教えであるので「頂」。
金剛は無量の教えであるので「一切」を含む。
一切の金剛は如実の知のちからを示すので「如来」。
如実の知のちからに一切の偽りはないので「真実」。
真実の知のちからであるので「大乗」を収める「摂」。
大乗を収めるから、さとり「現証」に至る。
さとりに至るから、真の大乗となり、大いなる教えの王「大教王」である。
教えの王であるから、自在に知を編み、つなぐ「経」になる。
だから、『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』とも『教王経(きょうおうきょう)』とも名づける。
(5)各種の言語学的解釈
サンスクリット語の複合語解釈法<六合釈(りくがっしゃく)>、全体と部分の関係性を説く華厳の六相(りくそう)論、さとりの対応する四種の成就(世界観・信仰心の発起・対処的真理の把握・個別的機縁)<四悉檀(ししつだん)>、声音の情動性<三声(さんしょう)>などによって解釈すれば無数の意味が生じるが、ここでは煩わしいので省く。
(6)密教の五仏による解釈
「金剛頂」は大日如来(生命知)のこと。いのちのもつ知の最高峰にあるから。
「一切如来」(の筆頭となるの)は阿閦如来(生存知)すなわち普賢(ふげん)であり、普く賢明なる知のちからを発揮して個体の環境への適応を図るから一切なのだ。
「真実」は平等性智の宝生如来(創造知)のことであり、生きとし生けるものが互いのもつものを扶助し合って共に生きるから、平等性こそが真実のちからであることを示す。
「摂大乗」は無量寿如来(学習知)。万象の法(真理)を観察し、学び取るから。
「現証大教」は不空成就如来(身体知)。無垢なる知に目覚め、大いなる教えである慈悲心をもって行動し、他者を教導するから。
「王」は五智(いのちのもつ無垢なる五つの知のちから)により、五仏がそれぞれの受けもつ領域において自由自在であるから。
(7)実践修行を通しての解釈
一に、手に印契(いんげい)を結ぶのは、身体の一部の手の指のかたちを使った意思のサイン。
二に、口に真言(しんごん)を唱えるのは、(原初に概念をもった言語があったわけではなく、対象となる現象を体験することによって、そのことを表わす言語が生まれたのだから、その言語の根源に戻れば声音と記号(文字)に過ぎなく、共通認識がなければ言語自体は即物的な存在であり、そのある意味で限りなく物理的作用に近いところでの)万物とのコミュニケーション。
三に、心に真実の相(すがた)を観想するのは、論理ではなく、表象による意思。
以上の修行を実践すれば、大乗の説く膨大なる観念的修行の段階を飛び越え、実在し活動している即物的な知の原理に目覚める。それが「金剛」であり、諸行の「頂」なのである。
さて次に、この経典の題名を多面的に解釈することによって、多くの知の原理を述べたが、この『金剛頂経』の説くところは最初に記した<四智印(しちいん)>に集約される。
(印とはいのちのもつ無垢なる知のちからがとらえた物事をかたちにする四つの表現媒体のことであり、)大智印は知が展開するすべてのすがたかたち<表象>であり、三昧耶智印は知のもつ意味を具体物によって<象徴>的に示し、法智印は知を言葉と言葉のもつ意味によって<言語>的に伝え、羯磨智印は知のちからを<作用>を用いて物理的に示すことであるが、その四つがそのまま各章になっていて、それ以外の章はないからだ。
(8)四つの章についての解釈
第一章「金剛界(知の原理によって成る世界)」では、6つのマンダラ(知の表現手法)を用いて法を説く。
そうして、この身のままで自らに具わる無垢なる知のちからに目覚める。
五相とは
一に通達本心(つうだつほんじん)
生きとし生けるものにはいのちのもつ無垢なる知のちからが具わっている。
二に修菩提心(しゅぼだいしん)
無垢なる知のちからの存在を月輪の輝きに重ねる。
三に成金剛心(じょうこんごうしん)
月輪の中に無垢なる五つの知のちからを見る。
四に証金剛身(しょうこんごうしん)
その堅固なる知のちからを映す月輪を我が身に宿す。
五に仏心円満(ぶっしんえんまん)
いのちのもつ無垢なる知のちからによって生きる。
これすなわち、自身に具わる無垢なる五つの知のちからに通達することである。
ここでは知によって生きるものが、歓び・烈しさ・怒り・慈しみの四種の情動を示すことを教え、それらの情動に対する敬愛・包容・降伏・息災の四種の制御力を学ぶ。
ここではそれらの知の背後には、生きとし生けるものの為す根源の知の活動、行動・コミュ二ケーション・意思の三つがあることをまず教え、そうして、それらをコントロールするには忍耐・寛容・自在の心とその心による微細で堅固な境地に到らなければならないことを次に説き、そうしておいて各種段階の瞑想修行に入る。
そうして、それらの知が相互に作用してはたらきを為していることを各種の供養法を通して学ぶ。
第二章「降三世会(世代間で引き継がれる個体の知)」では、ブッダ(目覚めた人)の象徴である仏教開祖釈尊の知の教えによる法を説く。
第三章「遍調伏(あらゆるものの知による制御)」では、再度、マンダラを説くが、それらを通じて観察によって把握される万象の真理とその真理を表わす言葉とその学習成果として慈悲の世界に導かれることになるから、それらを観自在菩薩の知の教えとして説く。
第四章「一切義成就(すべての生存活動でのさとり)」でも、再度、マンダラを説くが、この章にあっては生命が自在に活動を為すためにもつ身体知と、その存在領域である空間と物質とエネルギーに関わる事柄を虚空蔵菩薩の知の教えとして説く。
(9)サンスクリット語による題名の最初の文字「バ」による『経』のまとめ
始まりのバザラ(金剛)のバは二つの意味を具える。字相と字義とである。
字相とは、分別された言葉の字としての意味。
字義とは、もしア字であればもともと生命に具わっている音声であり、字としては不生であるが、このバ字は音声の最上のものとなるからそこから無数の言葉が展開されているというようなことである。しかし原初には無数に展開されていた意味は廃れて、バの一字から生じるのは十二の言葉のみとなった。
それは因を表わす最初のバ字から、行を表わすバー・ビ・ビー・ブ・ブー・べー・バイ・ボー・バウまでの九字、その証果を表わす第十一字目のバン、その証果の世界に入ることを表わす第十二字目のバクである。
また、バ字は第一の字であるから文字のもとであり、これを本体として、男子が発声すれば理性と表わし、次に女子が発声すれば感性を表わすことになる。たとえば、男女が和合してさまざまな子孫が生まれるように、感性と理性とが和合すればそこに調和ある知性が生まれ、さとりが成就される。
またバン(バ)字は、万物を構成する要素、地(ア)・水(バ)・火(ラ)・風(カ)・空(キャ)の中では水を表わす種字でもある。
万物は水(水素)から生じ、その水によって保持されているという。
大小の身体をもつ生きとし生けるものすべては水から生じ、水によって身体を保持し、物質・宇宙も同様であるから、世界中の如何なる山々も水がなければ砂山となって風に吹かれて飛散してしまうだろう。
だから、あらゆる個体のかけがえのない存在そのものを表わす<金剛薩埵>の種字にこのバ字をあてがうのであり、心髄となる真言にもこのバ字を用いる。
そう、あらゆる個体の存在、すなわち金剛薩埵としての存在があるから知のことごとくのちからとそのはたらきが発揮・展開される。個体がなければ生命もなく、生命がなければ知もなく、知の規範を説く『経』など根っから必要ない。
つまりは生きとし生けるものの存在があっての知であり、その知の展開をバ字に集約して自在にコントロールするところにこの『金剛頂経』の主題がある。
以上をもって、経題のだいたいの解釈を終わる。
◆(経題の解釈の次は)経文の解釈
経文の章の名は「金剛界大マンダラ広大儀軌品(ぎきぼん)の一」である。
「金剛界」はサンスクリット語ではバザラ・ダト。
バザラは「金剛」。
ダトは「界」の意味の他、身・体・差別の意味もある。
「金剛身」と解釈すれば、堅固なるすがたをもつもの<法身(ほっしん)>すなわち生きとし生けるものが、その無垢なる知によって為す活動世界のことになる。
また、「界」は法界・心界・衆生界の三つの区別をもち、法界は真理世界、心界は精神世界、衆生界は生きとし生けるものの実在している世界すなわち死・飢え・畜生・犯罪・人・神の六つが混濁するところに住むものと物質から成る世界。
また、十種の「界」といえば、そこに信仰・信念・慈悲・さとりによる四つの宗教的生き方を加えたものである。
また、「界」を差別の意味で解釈すれば、無垢なる知のちからをもつもの<如来>すなわち生きとし生けるものの身体は固体・液体・エネルギー・気体・空間の六つの形質によって成り立っているから、それが知の本体であり、それを界という。
「大マンダラ」とは、いのちのもつ無垢なる知のちからとはたらきは三十七尊に分類され、それらの根本の知のそれぞれが、表象・象徴・言語・作用の四つの媒体によってその多様なすがたかたちを展開するから大なのである。
「広大」とは、諸尊の一つひとつが表わす無垢なる知のちからとはたらきが虚空のように無量・無辺であるから。
「儀軌」とは、かたちで表わす規範。いのちのもつ無垢なる知の規範は、慈悲のはたらき・信仰する者・修行する者・天上の神々・人間などにとっての定めであり、その知の規範を儀式・所作によって弟子に学ばせるから儀軌という。
「品」は章。表象・象徴・言語・作用を媒体とする四種の智印のそれぞれによって章が分けられ、表象による智印の章であることを示す。
「一」はこの章「大マンダラ」が最初なので一という。
以上が大要の後に記されている『開題』の要旨と要点である。
さて、マンダラの元(もと)を学習した訳であるが、その『金剛頂経』の教えを九会の図にまとめたものが『金剛界マンダラ』となる。
空海の『金剛頂経開題』の中に九会のすべて、金剛大マンダラ<成身会>・陀羅尼マンダラ<三昧耶会>・微細金剛マンダラ<微細会>・一切如来広大供養羯磨マンダラ<供養会>・四印マンダラ<四印会>・一印マンダラ<一印会>・大安楽不空三昧耶真実瑜伽(十八会の第六会)<理趣会>・降三世会マンダラ<降三世羯磨会・降三世三昧耶会>が登場しているから、まさしく『金剛頂経』のすべてをまとめた図なのだ。
それを以下、解読する。
尚、順序は前回論考(金剛界マンダラ-知の九つの領域-)とは逆に、因<降三世三昧耶会>から果<成身会>へと向かう上転門(じょうてんもん)を用いる。
『金剛界マンダラ』(九会のもう一つの見方)
【1】世代間で受け継がれる知<降三世三昧耶会(ごうざんぜさんまやえ)>-右下段-
まず、降三世とは、
今日的な視点で解釈すると、個体には親から子へとその形質・性質を継承している内在的な知のちからの存在があり、そのちからによって過去・現在・未来の三世に亘る個体が欲・物質・精神や害となる情動、貪り・怒り・愚かさから離れて、本来生きてつづけていることを示す。
『金剛頂経瑜伽』の第二会「一切如来秘密主瑜伽」において、物質世界の最上位に位置づけられる色究竟天(しきくきょうてん)において説かれるところの一つがこの「降三世品」であり、いのちのもつ無垢なる知のちからによって広く微細な真実相の理を説き、さらに大自在天(世界の創造・破壊・再生を司る神)を降伏させ、大自在天によって金剛薩埵(個体の存在)のために答えさせたとあるから、そのように個体に内在し、その個体の成長と性の促進を司る物質的原動力となる知が<降三世明王(ごうざんぜみょうおう)>であり、本来であれば<阿閦如来(あしゅくにょらい)>(生存知)に従う菩薩たちの上座に位置するのは<金剛薩埵>であるが、この会と降三世羯磨会(ごうざんぜかつまえ)ではその金剛薩埵に代わって、降三世明王が配されている。
つまり、知は根源的には頭脳・記憶によるものではなく物質的情報として受発信され、受け継がれて行くと説く。
また、この会から始めると、諸尊のもつ知のちからとはたらきすべてが記号化(象徴化)されているところが今日的に言えば、遺伝子暗号のようである。
その親から引き継いだ暗号によって生きとし生けるものがそれぞれの個性を発揮し、共に生きているのだ。それが個体のもつ根源的な知である。
【2】受け継がれる知の作用<降三世羯磨会(ごうざんぜかつまえ)>-右中段-
ここでは降三世三昧耶会において物質のもつはたらきとしての知が、その知をもつ物質、つまりいのちあるもの、それも生きとし生けるものの頂点にある人間のもつ知(精神)の作用面を説くが、古代の人びとの知の創作物である神々のはたらきを主に、受け継がれる知のちからとそのはたらきによって人間が獲得している慧眼を<賢劫(けんごう)十六尊>の菩薩像によって表わす。
また、神々は中央の成身会の外周を取り巻くものとほぼ同じなのだが、その世界に降三世の発揮する知の母性的側面、伎芸・美しい容姿・たくましさ、豊穣性を表わす四種の女神が付け加えられている。
<四天女>
1、巧みな伎芸<弁才天>(大威徳明王妃:ストレスと気力の制御)
2、美しい容姿<吉祥天>(軍荼利明王妃:代謝の促進)
3、たくましい母性<陪羅(ばいら)天>(降三世明王妃:成長と性の促進)
4、豊穣性<嬌履(きょうり)天>(不動明王妃:成長と性、体力と気力の統御)
天とは古代の神々のことである。
神々は人の知によって創作されたものであり、宇宙・自然・歴史・時空・善悪・力などを人間のすがたに似せた神にし、その神話と共に人びとが共有する世界像であり、それは近代科学以前の想像力を用いた代替科学の世界でもある。
<二十天>
1、大力神<那羅延(ならえん)天>
2、少年神<倶摩羅(くまら)天>
3、原理神<金剛(こんごう)天>
4、創造神<梵天(ぼん)天>
5、戦闘神<帝釈(たいしゃく)天>
-
6、太陽神<日天(にってん)>
7、月神<月天(がってん)>
8、荘厳神<金剛食(こんごうじき)天>
9、彗星神<彗星(すいせい)天>
10、火星神<滎惑(けいわく)天>
-
11、破壊神<羅刹(らせつ)天>
12、風神<風天(ふうてん)>
13、悲母神<金剛衣(こんごうえ)天>
14、火神<火天(かてん)>
15、摂理神<多聞(たもん)天>
-
16、維持神<猪頭(ちょうず)天>
17、死後神<焔摩(えんま)天>
18、調伏神<金剛調伏(こんごうじょうぶく)天>
19、除災神<毘那夜迦(びなやきゃ)天>
20、水神<水天(すいてん)>
以上の神々によって世界が築かれているとする。
その神々との接点部分に賢劫十六尊がいる。
これは知によって獲得された人間の慧眼を菩薩化したものである。
<賢劫十六尊>
1、慈悲心<慈氏(じし)菩薩>(弥勒菩薩)
2、見識眼<不空見(ふくうけん)菩薩>
3、更生<滅悪趣(めつあくしゅ)菩薩>
4、共生<除憂闇(じょゆうあん)菩薩>
-
5、倫理<香象(こうぞう)菩薩>
6、勇猛精進<大精進(だいしょうじん)菩薩>
7、万物の構造<虚空蔵(こくうぞう)菩薩>
8、学問研究<智幢(ちどう)菩薩>
-
9、知性<無量光(むりょうこう)菩薩>
10、教育<賢護(けんご)菩薩>
11、万象の把握<光網(こうもう)菩薩>
12、指針<月光(がっこう)菩薩>
-
13、万象の意味<無尽意(むじんに)菩薩>
14、弁論<弁積(べんしゃく)菩薩>
15、原理<金剛蔵(こんごうぞう)菩薩>
16、生存知<普賢(ふげん)菩薩>
以上の慧眼は金剛界マンダラの主軸を成す三十七尊(当九会の最終部「成身会」で詳しく述べる)のすべてが背後に具える知であり、生きとし生けるものを教化・救済しようとする人間に与えられた十六の賢さである。
【3】性愛の知<理趣会(りしゅえ)>-右上段-
生きとし生けるものの唯一無二の存在そのものを表わす個体<金剛薩埵>は、性を有し、その雌雄が結びつくことによって子が生まれ、親の形質・性質が子孫へと受け継がれるが、その親の形質・性質も親の父母から授かったものだ。
そのように祖先からの個体の形質・性質を受け継ぐものが、未来へと子孫を残す行為をここでは具体的に性愛として説く。
雌雄の個体が結ばれるには性愛のプロセスが必要だ。
そこに知の行為の原型となる規範がある。
個体どうしが結びつくには、相手を見つけなければならず、その欲情を起こすことによって相手に触れ、愛を確かめ、結びつくことになる。
1、欲情<欲(よく)金剛菩薩>と<欲金剛女>
2、触れ合い<触(そく)金剛菩薩>と<触金剛女>
3、情愛<愛(あい)金剛菩薩>と<愛金剛女>
4、性交<慢(まん)金剛菩薩>と<慢金剛女>
この一連の性行動には、生物学的には雌雄の性ホルモンの分泌と双方の平等性、観察力、所作力などのいのちのもつ根本の知が絡む。
だから、知を考察しようとするならば、この性愛を避けては通れない。
また、性愛には、知覚→イメージ→判別→感応の認識プロセスと、逢う喜び、身を飾り、愛を歌い、愛を舞うという情動の発露が伴う。
そのプロセスとパフォーマンスを省いてはいけないし、それらをありのままに受け入れ、実行するところに性愛の密やかなる悦びがある。
<認識力>
1、知覚の鉤(かぎ)<金剛鉤(こう)菩薩>(欲)
2、イメージの索(なわ)<金剛索(さく)菩薩>(触)
3、判別の鎖(くさり)<金剛鏁(さ)菩薩>(愛)
4、感応の鈴(すず)<金剛鈴(れい)菩薩>(慢)
<情動の発露>
1、逢う喜び<金剛嬉(き)菩薩>
2、身を飾り<金剛鬘(まん)菩薩>
3、愛を歌い<金剛歌(か)菩薩>
4、愛に舞う<金剛舞(ぶ)菩薩>
【4】いのちのもつ無垢なる知のちからの祈り<一印会(いちいんね)>-中央上段-
ここまでの段階は、この宇宙に原初生命が誕生し、生きとし生けるものがその身体に宿した知(遺伝子)によって、気の遠くなるほどの時間と度重なる環境の変化に対応しながら進化を繰り返し、今日までその生命と知を受け継ぎ、生命樹の先端に知性をもつ生物、人間<ホモサピエンス(知性をもつ人)>を出現させたことの証明であり、その知性の原点を神々と性愛によって説くものである。
ここでは、その知のちからの存在を<大日如来>のすがたをもって示す。
その大日如来が胸の前で智拳印を結ぶ。
左手の五指が万物の五つの形質(固体・液体・エネルギー・気体・空間)を表わし、その中で人差し指は風指(気体)を意味し、あらゆる生物は呼吸することによって生きているから自身のいのちを示す。
右手の五指はいのちのもつ無垢なる五つの知(生命知・生存知・創造知・学習知・身体知)のちからを表わし、その中指・薬指・小指で左手の人差し指を握り、親指と人差し指を上から重ねるのは、物質的存在である自身が五つの知のちからによっていのちを得ていることを表現する。
三十八億年前に生命は物質から誕生し、その生命に知が宿り、その知の情報を引き継ぐことによって今日も生きている。
その知の原理を金剛界の大日如来が印によって示す。この一印によって、宇宙にいのちと知が存在していること、すなわち自身と知が存在していることに祈る。
【5】知の四種の表現媒体<四印会(しいんね)>-左上段-
知はすがたかたちを示すことによって、伝達される。
そのすがたかたちを示す媒体には四種ある。
1、個体の感覚器官によって把握される存在像:表象<金剛薩埵>
2、具象によって示す意味と価値:象徴<金剛宝(ほう)菩薩>
3、概念化された万象:言語<金剛法(ほう)菩薩>
4、はたらきと変化:作用<金剛業(ごう)菩薩>
上記媒体と連動する完成された知のはたらきは次の四種である。
1、代謝<金剛波羅蜜(こんごうはらみつ)菩薩>
2、DNA<宝波羅蜜(ほうはらみつ)菩薩>
3、情報<法波羅蜜(ほうはらみつ)菩薩>
4、相互作用<羯磨波羅蜜(かつまはらみつ)菩薩>
また、媒体は次のような身体的表現ともなる。
1、悦び(表象)<金剛嬉(き)菩薩>
2、飾り(象徴)<金剛鬘(まん)菩薩>
3、歌う(言語)<金剛歌(か)菩薩>
4、舞う(作用)<金剛舞(ぶ)菩薩>
以上の表現媒体によって知はすがたかたち<印>を表わすから、それら四つの印をもって、生きとし生けるものは知のもたらす情報を受発信する。
【6】作用マンダラ<供養会(くようえ)>-左中段-
ここでは四印会の表現媒体の一つ、作用による世界を示す。
蓮(ハス)が泥田の中でも美しく花を咲かすように、生きとし生けるものはみな自らに具わる無垢なる知をもってさまざまな環境においてそのいのちの花を咲かせている。そのようなものたちが相互に助け合う作用によって世界の秩序が成り立っている。
それが相互供養である。
(今日的に言えば、生態系のすがたであり、人と人、人と動物、人と植物、人と自然、それに動物と動物、動物と植物、植物と植物、それらの動植物と自然など、その相互供養による世界は生存環境の物質的均衡と、生物多様性の保全と、生きとし生けるもののすみわけとその共同体、それに風土などの秩序を作り出している)
【7】言語マンダラ<微細会(みさいえ)>-左下段-
ここでは言語(音声と文字と概念)によって表現する知の世界を示す。
生きとし生けるものはみな、行動・コミュニケーション・意思の三つの知活動を為して生きているから、その活動<三密と三密を象徴化した道具が三股杵(さんこしょ)>によって常にあらゆる対象(存在)を捉える。
言語はその捉えた対象のモノ・コトを分類し、語彙にしたものだ。
だから、存在するものが実在する言葉なのである。
また、その言葉は新たな事象に出会えば、新しい語彙や語彙の組み合わせを生むから、世界の隅から隅までが言語となりつづける。
微細とはそのことを指すのだろう。
(今日ではその細分化が進み、量子物理学と分子生物学の学問分野が生まれ、それ以上に分けることの出来ない領域に至ると、今度は逆にその分子・量子を工学的に組み合わせ、存在していなかったものまでを作り出すようになった)
【8】象徴マンダラ<三昧耶会(さんまやえ)>-中央下段-
ここでは象徴による知の世界を示す。
象徴とは、具象(仏塔・五股杵・宝珠・蓮華など)・記号・音・光と色・香り、それに行動・作法に物事の意味や価値をもたせることによって成立する。
その場合、その象徴は全体の理念を示すために個別の意味をもたされた象徴であり、その個別の象徴が集合することによって理念に至る。
また、それらの個別の象徴を演出小道具にし、それを手にすることによって、触れることのできぬ抽象的な理念にアクセスする。
(今日では記号と数値、それに模式図をもって物質・エネルギー・空間・時間からなる宇宙を組み立て、真理を追究しているがそれらの表現媒体もすべてが象徴である)
【9】表象マンダラ<成身会(じょうじんね)>-中央-
生きとし生けるものはみな対象を知覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)し、イメージ化し、快不快を判別し、感応する四つの知のはたらきをもつ。
-四摂菩薩-
1、知覚<金剛鉤(こう)菩薩>
2、イメージ<金剛索(さく)菩薩>
3、判別<金剛鎖(さ)菩薩>
4、感応<金剛鈴(れい)菩薩>
その感応力があるから、
自然の香り・花・明かり・潤いの四つを感知して癒され、
悦び・身を飾り・歌う・舞う、四つの行動によって内なる情動を表現し、生きることを楽しむことができる。
-外の四供養菩薩-
1、香り<金剛香(こう)菩薩>
2、花(色彩とかたち)<金剛華(け)菩薩>
3、明かり(光)<金剛灯(とう)菩薩>
4、潤い<金剛塗(ず)菩薩>
-内の四供養菩薩-
1、悦び<金剛嬉(き)菩薩>
2、身を飾り<金剛鬘(まん)菩薩>
3、歌う<金剛歌(か)菩薩>
4、舞う<金剛舞(ぶ)菩薩>
生きとし生けるものはみな
1、生命知<大日如来>
1-1 代謝<金剛波羅蜜(こんごうはらみつ)菩薩>
1-2 DNA<宝波羅蜜(ほうはらみつ)菩薩>
1-3 情報<法波羅蜜(ほうはらみつ)菩薩>
1-4 相互作用<羯磨波羅蜜(かつまはらみつ)菩薩>
2、生存知<阿閦(あしゅく)如来>
2-1 個体としての自己存在<金剛薩埵(こんごうさった)>
2-2 自由<金剛王(おう)菩薩>
2-3 慈愛<金剛愛(あい)菩薩>
2-4 喜び<金剛喜(き)菩薩>
3、創造知<宝生(ほうしょう)如来>
3-1 産物<金剛宝(ほう)菩薩>
3-2 美と価値<金剛光(こう)菩薩>
3-3 労働<金剛幢(どう)菩薩>
3-4 充足感<金剛笑(しょう)菩薩>
4、学習知<無量寿(むりょうじゅ)如来>
4-1 真理<金剛法(ほう)菩薩>
4-2 利用<金剛利(り)菩薩>
4-3 原因<金剛因(いん)菩薩>
4-4 伝達<金剛語(ご)菩薩>
5、身体知<不空成就(ふくうじょうじゅ)如来>
5-1 作業<金剛業(ごう)菩薩>
5-2 守り<金剛護(ご)菩薩>
5-3 攻め<金剛牙(げ)菩薩>
5-4 技(わざ)<金剛拳(けん)菩薩>
以上の五つの知のちから<五智如来>とそのそれぞれの知のちからがそれぞれに為す四つのはたらき<四親近(ししんごん)菩薩>を加えた計二十五の知と、それにはじめの十二の知<四摂(ししょう)菩薩と内・外の四供養(しくよう)菩薩>を加え、計三十七種の根本の知によって生きとし生けるものは共に生き、個体としてのそれぞれの生を謳歌している。(それが生命のもつ知の規範である)
その生を謳歌している生きとし生けるものはみな
1、固体<地>
2、液体<水>
3、エネルギー<火>
4、気体<風>
の四つの形質(物質)から成り立っていて、
物質がいのちを有することになれば、そのいのちには必ず三十七種の知が具わっている。
だから、世界にはそれらの知をもって生きる無尽のいのち<賢劫(けんごう)一千仏>が存在している。
それらの生きとし生けるものが時空を超えて古代インドの神々<二十天>によって守られている。(それらの神々もまた、人のもつ知によって創作されたものである)
以上が『金剛界マンダラ』のもう一つの見方である。
これらはみな、自然のもつ生命倫理<法>の下の知の規範を説いている。
それは論理による規範ではなく、生きとし生けるものが共に生きるために生まれながらにもつ知をありのままに観察したものだ。
この知の存在があるから、生きとし生けるものは行動・コミュニケーション・意思の三つの活動をありのままに為し、生態系を築き、共に生きる。
そのような知をさとりの世界として説くのが密教。
今日の生命科学から欠落してしまっているいのちの理念、すなわち生命のもつ知の規範がここにある。
あとがき
当サイトでマンダラの方舟2「金剛界マンダラと今日の視点」と真実の知とは何か-現代語訳『金剛頂経開題』の二つを数年前に別々に発表したが、今回の論考はそれらを一つにすることによって、空海が『開題』の大意に述べる天台・華厳の大乗仏教から密教への転換を明らかにしたところから、金剛界に入ることになった。
さて、金剛界マンダラの九会図で、いのちのもつ無垢なる知のちからとはたらきを三十七の諸尊のすがた<表象>によって示すのが「成身会」、それらの諸尊の意味を具象物によって<象徴>的に示すのが「三昧耶会」、それらの知を概念<言語>によって示すのが「微細会」、知どうしの相互の<作用>によって示すのが「供養会」、以上の表象・象徴・言語・作用の四つの表現媒体によって知のすがたかたちを印し、祈るのが「四印会」、すべての生命に宿る知のちからそのものを大日如来の結ぶ智拳印によって示すのが「一印会」、「理趣会」では個体は雌雄が性交することによって子孫を作りその個体を未来に引き継ぐが、そこには欲情だけではなく愛情という知が存在していることを示し、また「降三世会」では過去・現在・未来の世代間に亘る知を生命が内にもち、その知を取り次ぎ、生命をコントロールしているのが降三世明王の<作用>と<象徴>のはたらきであると説く。
この九会によって、生命のもつ知の規範が構造的に示されるのだが、その規範と共に空海が独自に説いた哲学が以下の三部書である。
(※)いずれも当サイトの空海論遊に著者による訳文と論考があります。
また、上記『吽字義』の説くサンスクリット語の一つひとつの字と句が成す言葉が「真言」なのであり、空海はそれらの翻訳を試みるが、その意味は考察すればするほど深淵となり、仕方なく、サンスクリット語そのままを用いて教えを説くことにしたのだから、それらは呪文として済ましてしまうような事柄ではない。
ましてや、「存在として現象するものは実在する言葉である」と『声字実相義』に説く空海にとっては、言葉と字は実在する存在そのものであったのだ。
マンダラ図と諸尊に対応するサンスクリット語の真言、それに儀軌と法具・仏像を制作し、修行道場として都(みやこ)には東寺、高野山には自然そのものを道場として塔・寺院・庫裏・宿坊、それに付随する町を開き、故郷讃岐国多度郡においては大貯水池「満濃池」の修築、瀬戸内海「大輪田泊」の港湾整備、それに庶民に開放された私立学校「綜藝種智院」の開設、多くの著作物など、その真言の世界は確かにそこに存在している。
その言葉の実践の背景にあるのが、生きとし生けるものが共に生きるという生命のもつ無垢なる知のちからとそのはたらきによる規範なのだ。
その規範さえ会得できれば、すべてはその展開に過ぎない。
空海はその規範を入唐留学時に北インド・カシュミール出身の般若三蔵や中インド出身の牟尼室利三蔵から直接、教えを受けたサンスクリットの言語学と恵果和尚から受けた胎蔵と金剛界の灌頂を通して学び取った。
その生命と知の規範が、今日の文明にも必要である。