この『経』の講義は、三つに分けて説く。はじめがおおすじであり、つぎに経題について述べ、最後が経文の解釈である。
はじめにおおすじを述べる。
カタツムリの角(つの)の上で争う微小のものたちは、天との戦いで、その手で日月を執って光をさえぎり、日食・月食を起こすというラゴ(古代インド天文学における架空の星)を見ることがなく、蚊のまつ毛に集まる小さな虫は、ホウ(古代中国の空想上の巨大な鳥)の羽ばたきを聞くことがない。
そのようなことだから、あらゆる生命が隠しもつ広大無辺で永遠なる知のはたらき(動作・伝達・意思)は、(人間の用いる)四種の言葉(①物の見かけから生じる語/②夢想から生じる語/③執念から生じる語/④妄想から生じる語)の表現力によっても、とても言い表すことはできない。
(また)生命のすがたを創出している四つの要素、生命の存在そのものを示すすがたと、多様な種としてのすがたと、遺伝の法則にしたがう親、兄弟、子孫のすがたと、一つひとつの個体のすがたは、(つまり、それらの進化の歴史と生態系の中でかたちづくられている無尽で広大無辺の生命のありのままのすがたは)(人間のもつ)五感(目・耳・鼻・口・身)と、それらによってとらえられたイメージがつくりだす第六意識と、その意識が生みだす快・不快などの分別知である第七マナ識と、生きるための根源知(呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動)をつかさどる第八アラヤ識と、それらの意識と知を生みだす個体のおおもとの性格をつかさどる第九アマラ識の九種の認識のはたらきによっては、(広大すぎて)とらえることができない。
このように人間は、五感の対象からはなれたところの真実を語る言葉をもたず、その個別の素質は全包括的な認識の許容量をもたないから、(さとりがもたらす)いのちの無垢なる知のはたらきと、その身体の住み場である清らかな環境にたとえ目覚めたとしても、それらは月が没したように隠れてしまっていて、説くことができない。
(そのことを理解していた)ブッダは、自らがさとりによって感得した世界を説くように他から乞われても決してしなかったし、弟子から身体のもついのちの秘密の意味を問われても、口をつぐんだままであった。
そのようなことだから人は、ブッダがさとりによって方便として考案した因縁論のみを月の光とし、さとりそのものによる月の光を見ることはなかった。
(また)さとりによって考察した、大地からの無尽の恵みによって生かされている身体を地蔵菩薩として説くことはしたが、さとりによって実在する身体そのもののすがたとはたらきを説くことはなかった。
だから、『釈(しゃく)摩訶衍(まかえん:大乗)論(ろん)』に、絶対の真理は人の個別の素質から離れていると記し、『十地経論(じゅうちきょうろん)』に、さとりの世界は言葉で説くことはできない「因分可説、果分不可説」と記している。
(そういうことから、)そのもの(本体)と、そのもののすがたかたち(様相)と、そのはたらき(作用)という存在を示す三つの要素は、相対的な論理考察によって得た「空(くう)」にとどまり、三つの存在要素の源(みなもと)である一心をも空(くう)とし、実在するさとりの世界は存在しないものになってしまった。
(それらの帰結によって)真理の本体は言葉や意思を超えたところにあるから空(くう)であると信じ込んでしまった者は、知の真実の住みかが実在することを知らず、さとりの牛舎に向かう途中で牧野に憩い、牛車の牛を野に放ち、言葉と意思を断つこと自体がさとりであると誤解して、洞窟に入り、仏滅後五十六億七千万年後に現われるという真実のさとりの世界の夜明けを待つことになった。
氷が解けて水になるように、光が照ると影ができるように、それらはいずれも一つのもの(本性)の展開にすぎない。そんなことをもろもろのさとりの教えとする牛車<法華一乗:対象と認識との関係は、対象があって認識が起こり、認識があるから対象が存在することになるから一つのものであるとする教え>は、究極の清浄さという名の岳を登って、(牛と車をつなぐ)長柄(ながえ)を曲げて砕いてしまい、水と波の関係のように因果を一つのものとして、区別をつけない<華厳経>は、生滅変化する大海に舟を浮かべて、その舵(かじ)を折り、いまだに絶対真理の陸地に進めない。
(そのように大乗仏教が道を求めてさまようなかで)妙雲(みょううん)如来と呼ばれるナーガールジュナ(龍樹)が南インドに出現した。彼によって存在の論理が考察され、さとりの扉が開かれた。その存在の原理の証(あか)しによって、その後、あらゆる生きものがもつ、動作・伝達・意思の三つの知活動の根本が説かれ、それが密教となった。
(その根本とは)
無垢なる五つの知のちから
(1)生活知(呼吸・睡眠・情動)のちから(2)創造知(衣・食・住・遊・健・繁殖などの生産・行動と相互扶助)のちから(3)学習知(万象の観察・記憶・編集)のちから(4)身体知(運動・作業・所作・遊び)のちから(5)生命知(無垢なる知のちからとそのはたらきを生みだす生命の存在そのもの)をもつ生命の妙なるすがたが中央にある。
その中央の五つの知のちからの内、中心にある生命知(大日如来)を取り囲む四つの知(生活・創造・学習・身体)は、それぞれの知のちからを補佐する四つのテーマをもつ。
「生活」:①存在/②自由/③慈愛/④喜び
「創造」:①生産/②光合成(化学反応)/③相互扶助/④開花
「学習」:①観察/②道理/③処方/④表現
「身体」:①他の救済/②自身の保護/③障害の打破/④無心の遊び
以上、計十六のテーマの一つひとつは、古代インドの理想とする帝王のもつ能力に喩えられ、それぞれが自らの領土をもつ。
(つぎに、それらの能力を発揮できるのは、生命が知覚を有しているからであり、その知覚のプロセスとは)まず、知覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)の鉤(かぎ)によって、対象をとらえる。そうして、キャッチした対象を神経の索(なわ)によってわが身に引き寄せ、そのイメージ(ホログラフィ)を記憶の鎖(くさり)につなぎ判別し、快・不快の鈴(すず)を打ち振る。この知覚のプロセスのそれぞれが、生命そのものの無垢なる知のちからの元(もと)になる。
ガンジス河の砂の数ほどある知の恵みは自然が生んだものであり、その知がつくりだす景観は、塵や麻の実の数にもまけない(くらいに無尽である)。
それらの無尽の知をもつものたちが、自然体の大日如来(生命存在そのものの象徴)に仕えるさまは、天空のすべての星が北極星の周りを回っているようであるー
○無垢なる五つの知○根本の知を補佐する十六のテーマ○生命存在そのものの完成された四つの知のはたらき(①代謝性/②相互扶助性/③自然の法則性/④作用性)○心を癒す四つの知(①生の喜び/②ファッション/③歌/④舞い)○四つの物質による癒しの知(①香り/②花/③明かり(光)/④潤い)○知覚の四つのプロセスの計三十七の完全なる知には、それぞれに、無垢なる五つの知が必ずそなわり、それらの微細な知が、自然界に満ちている。
それらの知は四つのメディア(1)イメージ(色・かたち・うごき・音・匂い・味・触覚による心象)(2)シンボル(個別のイメージが暗示する意味・価値・合図)(3)単位(分子などの物質言語・数量・文字・響き)(4)作用(モノまたは場、あるいはそれらと認識主体との相互間に生じる反応・変化)によってコミュニケーションされ、その知の本性はもとより無垢なる五つの知に存する。
また、それらの無垢なる五つの知をもつものの身体は、生命・種・遺伝・個体の四つの要素から成り、そのありのままの身体が存在となり、真実の言葉を述べ、さとりを示す。
以上の原理によって、この身を捨てずして、即座に自らが有しているいのちの無垢なる知のちからに目覚めることができる。これこそが比べるもののない真実の教えであり、これ以上の迅速なる教えはない。古代インドの理想とする帝王と称されるべく素質をもって生まれた者であったとしても、自らのもついのちの無垢なる知のちからに目覚めなければ、どうしてこの真実の教えを聞き、それを信じることができるであろうか。
つぎに経題について述べる。
『金剛頂(こんごうちょう)瑜伽(ゆが)一切如来(いっさいにょらい)真実(しんじつ)摂大乗(しょうだいじょう)現証(げんしょう)大教王(だいきょうおう)経』というのが経題である。
(以下、金剛頂瑜伽十八会(え)のタイトルと概要注釈/第一会の四つの章の題名注釈/経題の梵語からの翻訳等、省略)
(つぎに、経題の意味を解釈する)
「金剛」とは、一般的な意味と、経としての意味がある。一般的な意味とは、世間でいう硬い宝石のことであり、それを如来の堅固な知のちからに喩える。(すなわち、知の普遍的な原理という意)
また、「金剛頂」の頂とは、頭の頂きの意味で、いのちの無垢なる知のちからによる行ないは無上であることを表わす。
(以下、金剛の徳性、金剛に至る菩薩行、各種金剛界マンダラ尊の数等、省略)
「一切如来」とは、顕教の説く意味と、密教の説く意味の二つがある。
顕教での意味は、十方(全方位と上下)三世(過去・未来・現在)のすべてのもろもろのいのちのもつ知のちからを示す。つまり、それぞれの生きとし生けるものが正しい道を修行し、世間を去って正しいさとりを完成し、その後、世間に戻って来て衆生を教え導くという如来のことを示す。
密教での意味は、いのちの無垢なる五つの知(生活知・創造知・学習知・身体知・生命知)のちからを一切如来という。それらの知のちからによってありのままの身体が存在している。誰もが生まれながらにしてもつ無垢なる知のちからこそが生命の本体であり、同時にもろもろの衆生の根源であるから、一切如来となる。
(その)いのちの無垢なる五つの知のちから<五知力>は二つに分けられる。一つには自らの五知力であり、二つには他の五知力である。
他の五知力はまた二つに分けられる。一つはすでにさとり(無垢なる五知力に目覚めること)を完成しているものと、二つにはまださとりを完成していないものである。
また、すでにさとりを完成しているものは二つに分けられる。自らさきにさとりを完成するものと、二つには他のもののさとりをさきに完成させるものである。
(というような区別があるが)自身であろうが、他身であろうが、いのちの無垢なる知のちからの目覚め(さとり)が得られるのは、もともとの本性として、すべての生きものが、生命・進化・種としてのありのままの身体と、実存性・安楽性・生命性・清浄性の四つの徳をそなえもち、遥かなむかしよりこのかた、ガンジス河の砂にも喩えられる無尽のすぐれた徳性によって世界に円満なる恵みを与えてきたからだ。
このガンジス河の砂の数ほどもある徳性が、無垢なる五つの知、三十七の完全なる知と、それらの知に連なる無数の知のことに他ならない。
だから、経典、『金剛峯(こんごうぶ)楼閣一切瑜伽瑜祗(ゆぎ)経』につぎのように説く。
「自らのいのちの無垢なる知のちからに目覚めたブッダは、その根本となる五つの知から成るありのままの身体(生命・種・遺伝・個体)をもって、本有(ほんぬ)金剛界自在大三昧耶(だいさんまや)自覚本初(ほんしょ)大菩提心普賢満月不壊(ふげんまんげつふえ)金剛光明心殿の中において、それ自体が無垢なる知の本性となる十六のテーマ、および知覚の四つのプロセス、心を癒す四つの知と、四つの物質による癒しの知と、それらが成す微細な心の世界とによって、根本となる五つの知が、それぞれの光明のはたらきを示すにあたって、無量の微細なはたらきを出現させて、すべてに広がっている真理の世界を遍(あまね)く満たす」と。
また、つぎのように説く、
「大日金剛峯は、微細(みさい)にして自然(じねん)に住し、光明は常に遍(あまね)く照らして、その清らかなはたらきは不滅である」と。
「大日金剛峯」というのは、ビルシャナ(大日)法界体性智(ほっかいたいしょうち:生命のありのままの存在)のことである。
「微細にして自然に住し」とは、大円鏡智(だいえんきょうち:すべての生命が、呼吸・睡眠・情動をもって生き、その微細な生がお互いを映しだしているさまを示す)、阿閦(あしゅく)仏のことである。
「光明は常に遍く照らして」とは、平等性智(びょうどうしょうち:衣・食・住・遊・健・繁殖などの生産・行動と相互扶助、すなわちそれらの創造性をすべての生命が平等にもっているさまを示す)、宝生(ほうしょう)仏のことである。
「清らかな」とは、妙観察智(みょうかんざっち:観察・記憶・編集などの学習によって、「蓮華は汚れた泥に染まることがない」というような客観的な真理をとらえ、その真理を心の主体とする清らかな知のはたらきを示す)、無量寿(むりょうじゅ)仏のことである。
「はたらきは不滅である」とは、成所作智(じょうそさち:身体が運動・作業・所作・遊びを、因果関係を離れて無心に為すはたらきを示す)、不空成就(ふくうじょうじゅ)仏のことである。
これらの無垢なる五つの知、および三十七の完全なる知、さらにそれらに連なる量り知れない知は、修行を必要とせず、煩悩を断つことも必要とせず、本来身体が有しているものであり、その身体が生命・種・遺伝・個体の四つの要素の要素をそなえ、塵や砂のように無数のすがたかたちを成しているのである。
そのありのままの四つの要素は、自然のもつ知であり、あらゆる生きものが生まれながらに、すでに完成させている本来のさとり(本覚)なのである。(当然、人間もそれらのさとりをもって生まれてきた)
この本来のさとり(本覚)はまた三種に分けられる。
一つには、自らの本体・自らの様相・自らの作用の三つの要素を絶対唯一として心にそなえる本覚。
二つには、一々の心のすべてが絶対真理となる本覚。
三つには、唯一絶対一心の本覚。
また一の本覚には、つぎの四つの区別がある。
(1)汚れと清らかさをもつ本覚
(2)清らかなる本覚
(3)唯一の真理世界における本覚
(4)自らの本体と様相と作用の本覚
がそれである。
また二の本覚には、つぎの二つの区別がある。
(1)清らかな絶対真理の本覚
(2)汚れと清らかさをもつ絶対真理の本覚
である。
このように、本来的にそなわっているさとりは量り知れない。いま、この経に説く本来のさとりは、全般的な一切の本覚を取り入れ、個別的には唯一絶対の本覚を表わしている。
この本来の、あらゆる徳性を完成させた知をもつ、実在する生命の個体数は量り知れない。だから、一切がいのちの無垢なる知のちから(一切如来)のたまものであるという。この知のちからはどこかに納まるものではなく、しかもすべての対立を離れ、唯一絶対の存在の原理に目覚めているから、すべての知の頂(いただき)にあるものなのだ。いのちの無垢なる知のちからは最上にして最勝である。
つぎに「真実」とは、真が真如(しんにょ)、実が実知(じっち)実相(じっそう)のことである。真如の真は真理のことであり、如は道理にかなうことである。また、実知実相の実知と実相は知と対象を示し、また、実知は意思のはたらき、実相は動作(身体のうごき)のはたらきを示す。
つぎに「摂大乗」とは、これに二つの区別がある。一方が摂(おさ)める教えであり、片方がおさめられる教えである。おさめる教えは、根本にして唯一絶対の教えであり、根本が末端までよくおさめるので摂大乗という。おさめられる教え(客体)は、おさめる教え(主体)があっておさめられるから主体と客体の二倍の教えになる。主体・客体の教えにも、それぞれに根本と末端があり、それぞれの根本は、よく末端のものをおさめ取るので摂大乗という。
「現証」(さとり)とは、これに二つの区別がある。はじめにありのままのさとり、つぎに機縁によるさとりである。
ありのままのさとりとは、また三つに区別される。絶対真理のさとり・生滅変化のさとり・根本にして唯一絶対の本来のさとりである。この三つの部門によって得るいのちの無垢なる知のちからは、あるがまま、なるがままにすべてをさとって、もろもろのすぐれた徳性を証(あか)す。
また機縁によるさとりとは、自らの有しているいのちの無垢なる知が、迷いの世界に流転し、本来のさとりに反したままであったものが、自らの知のちからの本能的自覚や、あるいは外部からもたらされる無垢なる知のちからの教えに出遭う機会を得て、やがて、迷いを厭(いと)って、さとりを願い、求道に光明をみつけ、無知の闇を照らし、本来的に自らが有しているいのちの無垢なる知のちからにことごとく気づき、すぐれた徳性を得ることである。
以上の二つを現証(さとり)と名づける。
(さとりにあたって)絶対真理・生滅変化・唯一絶対と、目覚める世界をまのあたりに証する区別は量り知れないというが、要はさとりには、ありのままと、機縁の二つしかない。
「大教王」には、大の意味に三種ある。一つには本体の大なること(体大)、二つにはすがたの大なること(相大)、三つにははたらきの大なること(用大)である。
はじめの「本体の大なること」のうちにまた四つの意味がある。
一つには、量り知れず際限のないもろもろの存在は、分別されたものであって、増えも減りもしないという大なる本体。
二つには、静かで雑じりっけがなく、海水に溶け込んだ塩味のように平等で、増えも減りもしないという大なる本体。
この二つのものに主体となる二種類の意味が加わるので四つとなる。
二つめの「すがたの大なること」にもまた四つの意味がある。
一つには、いのちの無垢なる知のちからをもつという大なるすがた。
二つには、不変の本性の徳性をそなえているという大なるすがた。
この二つのものにも主体となる二種類の大なる意味がそなわっているので四つとなる。
三つめの「はたらきの大なること」にもまた四つの意味がある。
一つには、世間の一切の善なる因と果を生じるという大なるはたらき。
二つには、世間の一切を脱けだしたところの善なる因と果を生じるという大なるはたらき。
この二つのものにもまた主体となる二種類の大なる意味があるので四つとなる。
(以上の体・相・用の)三種の大なるものは、それぞれが四つの意味をもっているので、計十二の大なるものになる。これらのすべてが生滅変化の教えの門戸であり、絶対真理からしても、(体・相・用の)三つの大なるものである。
以上のように、絶対真理・生滅変化の二種の門の大なるものは、よくすべての教えを含む。
だから、大いなる教えという。この大教が、それぞれのさとりの自らの門において自由自在を得るので、これを王という。
(以下、大教王に摂を冠した展開的解釈、省略)
「経」とは、(梵語で)貫き通す、おさめたもつといった意味をもつ。たとえば、(花飾りをつくるときに)花を糸で刺し貫いて、乱さず落とすことのないように、ブッダの教えの糸で人間の倫理や神の浄土の花を貫いてよくたもち、迷いの世界に乱れ落ちることがないようにする。またタテ糸をもって、ヨコ糸によって美しい模様の布を織りだし、男女の身を飾るように、そのように、真実の言葉のタテ糸をもって、救済のヨコ糸によって、いのちの無垢なる知のちからが織りなす、すばらしく見事な世界<マンダラ>をすべての場に開示し、その知のすがたとはたらきによって、生命の存在を美しく飾るので「経」という。
またタテ糸とヨコ糸で網を結び、それによって鳥や魚を捕らえ(食物連鎖とし)、共に固体・液体・エネルギー・気体から成る身体を養い育てるように、すべてのいのちの無垢なる知のちからが発する真実の言葉のタテ糸をもって、顕密の教説のヨコ糸によって、網を結び、根源的無知を捕らえ、四種法身(生命・種・遺伝・個体)を養い育てるのもまた、そのとおりである。
(以下、経題の各種応用解釈、省略)
つぎに、この『金剛頂経』に四つの章がある。
(1)イメージの章<大智印:存在本体の様相、全体像>(金剛界章)
(2)シンボルの章<サンマヤ智印:個別的様相の示す意味>(降三世章)
(3)単位の章<法智印:広義の言語>(遍調伏章)
(4)作用の章<カツマ智印:広義のはたらき>(一切義成就章)
当開題でテキストとしたものは、はじめの金剛界章の中から(不空によって)訳出されたものである。
また、四つの章は四智印を表わす。
第一章金剛界
六つのマンダラが説かれる。
第一には、金剛界大(イメージ)マンダラ。生命存在そのものである個体(受用身)のすがた(五相)をもって、この身のままで正しいさとりを完成すると説く。(そのさとりの手となる)五相成身観(ごそうじょうしんがん)とは、
一、分別による言葉から離れて、自らの心の根底にあるいのちの無垢なる知のちからにアクセスすることを発起し、祈る。<通達本心(つうだつほんじん)>二、まるくて白い清らかな月輪を心に浮かべ、その中に自らのもついのちの無垢なる知の光を映し出す。<修菩提心(しゅぼだいしん)>三、映し出されたいのちの無垢なる知の光の中に、あらゆる生きものが共に空気を呼吸し、そのことのよって生き、夜になれば眠り、眠っているときも呼吸し、そうして、日が昇ると起き、その太陽の光によってエネルギーを得て活動・成長しているのを見る。そこにすべてに生きものの生活の根幹がある。その根幹によって知が生起していると知る。<成金剛心(じょうこんごうしん)>四、その紛れもないいのちの無垢なる知のちからが、自らを含め、あらゆる生きものの生の行為、すなわち動作・伝達・意思そのものの根源であると気づく。<証金剛身(しょうこんごうしん)>五、そうして、自らがいのちの無垢なるちからそのものであるとさとる。この目覚めを堅固にさせたまえ、祈り。<仏心円満(ぶっしんえんまん)>である。
さとりとはすなわち、いのちの無垢なる知のちからに通達することをいう。
第二には、ダラニ(シンボル)マンダラを説く。
第三には、微細(単位)マンダラを説く。
第四には、カツマ(作用)マンダラを説く。
第五には、四印(イメージ・シンボル・単位・作用)マンダラを説く。
第六には、一印(すべての知の元である生命存在そのもの:大日如来)マンダラを説く。
第二章降三世会(ごうざんぜえ)
第三章遍調伏(へんちょうぶく)
第四章一切義成就(いっさいぎじょうじゅ)
(以下、梵名解釈/経文の解釈、省略)
あとがき
空海著『金剛頂経開題』(おおすじ/経題)を現代語に訳してみた。金剛頂経とは一つの経ではない。それは主に不空が訳した密教経典の総称である。その中の主要となる一部を、空海が講義テキストとしたものが当開題である。
『大日経開題』が"いのちの無垢なる知のすがた"を講義したものとするならば、当講義は、"いのちの無垢なる知のはたらき"を説く。双方によって知の世界が展開する。
本来、大日経の教えを求めて、唐に留学した空海であるが、その手にして持ち帰ったものが、最新の仏教となる『金剛頂経』であった。
だから、この経典にかける、空海の意気込みが察せられる。
その講義によると
1、あらゆる生命は生まれながらに無垢なる知のちからをもっている。
2、その知のちからとは、生活知・創造知・学習知・身体知・生命知の五つである。
3、その知のちからによって動作・伝達(コミュニケーション)・意思の三つの行ないを為して生きている。
4、その知は、いのちのありのままのすがた(生命・種・遺伝・個体)をもつものに、自然が授けたものである。
5、しかし、その広大無辺なる知とすがたの存在を語る言葉を人はもたない。
6、その存在を語るには、そのもの(本体)と、そのもののすがた(様相)と、そのはたらき(作用)を論理によって証明しなければならない。そこで、その存在の証しの論理がナーガールジュナ(龍樹)によって考察された。その結果、論理によって存在は証明できない、すべては空(くう)であるとした。
7、しかしそれでも、世界は厳然として実在している。その実在する世界に生がある。
8、その生あるものが五つの知のちからによって自然と共に生きている。
9、その五つの知は、イメージ・シンボル・単位・作用といった四つのメディア(マンダラ)がつくりだしている。(知は言葉だけでつくりだしているのではない)
10、だから、言葉の論理を超越したところに、世界は厳然として実在しているのだ。(その世界に目覚めることがさとりである)
という経の内容が見えてくる。
(ブッダが決して説かなかった)さとりそのものを説く、密教の「果分可説」の教えである。
そのメディア(マンダラ)によるコミュニケーションは、今日の情報文化に限りなく近く、そのさとりにおいて今日とは限りなくほど遠い。