マンダラの知と実践『奉為四恩造二部大曼荼羅願文』(訳文)
仏教の修行僧わたくし空海は、金剛界と胎蔵の両部マンダラを敬い信じる。
なぜマンダラなのか、(それはブッダのさとりによって得られた知が昇華した)大日如来(いのちのもつ無垢なる知のちからの象徴)という万物の慈母となる知がそこに説いてあるからである。
なぜ両部なのか、それはその知が二層構造によって成り立っているからである。
一つは生の根底を成す知、すなわち、自性身(生命)・等流身(種)・変化身(遺伝)・受用身(個体)の四種によって成される知(生命の多様性と個体の繁殖・維持の原理を司っている知)<金剛界>。
もう一つはその原理によって生きとし生けるものが共に生きて展開している知、すなわち、さまざまなすがた・活動となってあらわれ、それが文字・シンボル・イメージなどの伝達媒体によって表現されるところの知<胎蔵>。
(論理という知によって存在証明に挑んだインドの論理学者ナーガールジュナによれば、「相対的な概念を用いて存在のあらゆる状況を考察しても、存在の固有性は証明できない。だから、存在は概念的には空(くう)なるものである」という結論に至り、それが大乗仏教の理念として用いられたから、)人びとは「色即是空空即是色」と唱えて、色(ものごとすべての存在)が起こす迷いと苦しみの煩悩の火を消そうとするが、それは(概念に過ぎないから)暫しの気休めにしかならず、そこで人びとは道祖神にお祈りし、馬に餌を与え、車軸に油をさして、ほんとうの救済をもたらす実在する知<大日如来>を求めて旅に出る。(空海もそうであった)
一道無為(主体と客体とは同じものであるから、自己の煩悩によって客体を汚してはならないという天台の教えにしたがって、ひたすらに自らを無にして身を清めること)はほんとうのさとりに向かうための出発点にすぎない。
三自本覚(固有の存在は、本体・すがた・はたらきの三つの要素が合わさってあらわれたものであり、そこに固定した実像はなく、多くの変化している要素がその瞬間にたまたま集合した一つのかたちに過ぎない。そのことが存在の本質であるという華厳の教え)は、(さとりの境地における究極の考察とされるが、)インド哲学の一つであるミーマーンサー学派の声論(語は単なる音声ではなく、音声を超えて実在し、言葉は音声と意味を媒介するものとして常に有り、不変であるとする説)と比べても、(華厳は存在を概念的に考察しただけで、その概念を形成する言語の実相までは論究しておらず、)ものごとの本質には遠く及ばないしろものなのである。(だから、空海は『声字実相義』と、存在の本質を問う『即身成仏義』を執筆した)
(それら天台、華厳の先を行く、究極的なさとりの教えが密教となる)
いのちのもつ無垢なる知のちからが展開している生命世界は気高く無辺であり、その中で生きとし生けるものが知によって共に生きている。
その知のすがたを説くのが『大日経』。
その知の原理を説くのが『金剛頂経』。
双方の教えをもってすれば、(すなわち、真言の教えをもってすれば)日光の輝きのようにその知の光の遍く及ばぬところはない。
すべてのいのちのもつ無垢なる知のちからの輝きの象徴である大日如来は、さとりを示す蓮の花の上に座り、その五つの知のちから<五智如来>が展開する無尽の知のはたらきを象徴する諸菩薩は、(日の光を受けて輝く月のように)それぞれがそれぞれのさとりの境地を示す月輪の中におられる。
(マンダラ図に示されるように、すべての存在はいのちのもつ無垢なる知のちから<大日如来>から発し、その知のちからがそれぞれの個体のはたらきにまで及ぶが、つまるところは、大日の発している知の展開の一つに過ぎない。だから、)生きとし生けるものによる身(行動)と口(コミュニケーション)と意(意思)の活動はみな等しく、自己の心と仏(無垢なる知のちから)と生きとし生けるものの心もみな等しく、仏(無垢なる知のちから)とその法(原理)と僧(その法にしたがい修行するもの)もみな等しい。
この万物の平等性が、生きとし生けるものが共に生きるために相互にそなえもつ慈悲心となり、慈悲心こそがいのちのもつ無垢なる知のちからの為すところなのである。(つまり、万物が共に生きられるのは、互いのもつ知の根底に必ず慈悲が宿っているからなのであり、密教ではそのことに目覚めることをもって、さとりと称するのである。だから、空などという教えはさとりの入り口でしかないのだ)
そのようなことで、人びとは万物の平等性を受け入れるそれぞれの度量にしたがって、さとりを得て、それを慈悲に転換させ、その慈悲心をもって絶えず活動(行動・コミュニケーション・意思)することになる。そうして、他と共に生きる。
(このことは空海の『吽字義』にも記されており、無垢なる知のちからのはたらきを象徴する菩薩は「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となす」とある)
いのちのもつ無垢なる知のちから<大日如来>が発揮する慈悲心は、何と稀(まれ)なることか、偉大なることか。
(さて、わたくし空海自身のことを述べるならば)
仏道修行をしていた若き日のわたくしは、人間ブッダ(釈尊)がそのさとりによって、自らのもつ無垢なる知のちからに目覚めたように、自己を励まし、仏法の原点に立ち戻り、その道をたどろうと思い立った。だが、道順が分からず、わかれ道で方向を見失い、幾度泣いたことか。
やがて、その一途な行為が天に通じたのか、さとりによる真実の知を説く経典(『大日経』)を手に入れた。
だが、その経文はいくら読んでも、理解できなかった。
そこで、その教えを学ぶために、中国(唐)に渡ろうと決意した。
このわたくしの願い(を実現するために留学生派遣制度を利用することにし、)天皇の許可が下り、唐に渡ることができた。
留学先の長安で恵果和尚に会う機会を得、(恵果の弟子となり、『大日経』『金剛頂経』の教えを受け、金胎両部の伝法灌頂を授かり、密教の第八祖となった。そうして、恵果和尚の遺言となった「早く郷国に帰って国家にたてまつり、天下に教えを流布して人びとの幸福を増せ、しからば四海泰(やす)く、万人楽しまん云々」を実行するために、早期に日本に帰ることになり、)請来用の両部マンダラ図が制作されたのだ。さらには、諸尊・真言・印契などをしっかりと学び覚えることができた。
それから早、十八年が過ぎた。
(持ち帰った)マンダラ図は(よく利用されたから)絹紙が破れ、色は落ち、描かれた諸尊のお姿もすっかり変容してしまった。
この状態では、これを用いる後学の者が可哀想であり、(さとりの荘厳なる世界を伝えたいのにそれがあちこち剥げ落ちた図であれば、)人びとを幸福な気持ちから遠ざけてしまう。それがとても悲しい。
すると、このわたくしの嘆きが御仏たちに届いたのであろうか、そのことにいち早く天皇が気づかれ、マンダラを修復しなければと思いになり、そのことを皇后さまも喜ばれ、皇太子も賛同し、諸大臣も尽力され、多くの人びとのちからが一つになって、マンダラを修復・新調することになった。
そこで、弘仁十二年(821)四月三日から八月の終わりまでの約四か月間をかけて、
(金胎両部マンダラ。両部で一対)
・大悲胎蔵大マンダラ一幅(サイズ巾:2.4m)
・金剛界大マンダラ一幅(サイズ巾:2.7m)
(五智如来の変化身とも言う。知には精神性と物質性があり、物質の素によって空間が生まれ、その空間と固体・液体・エネルギー・気体の形状を成す物質とによって生命が誕生し、その生命に知が宿るから、精神が存在する。つまり、物質があるから知もある。その知の根本を示す菩薩)
<五大明王:個体の発生・成長・制御などを司るはたらき(内分泌物質に相似)をもつ神>
<体内物質の全統御(大脳辺縁系と視床下部のはたらき)>
<個体の成長・維持・繁殖の促進と制御(下垂体のはたらき)>
<体内エネルギーと個体変化の促進と制御(甲状腺はたらき)>
<ストレス、気力の制御(副腎のはたらき)>
<骨格、筋肉、腎臓の強化(副甲状腺のはたらき)>
<絶対存在としての生きとし生けるものの象徴>
・帝釈天(たいしゃくてん:インドラ)<東>
・火天(かてん:アグニ)<東南>
・焔摩天(えんまてん:ヤマ)<南>
・羅刹天(らせつてん:ラークシャサ)<西南>
・水天(すいてん:ヴァルナ)<西>
・風天(ふうてん:ヴァーユ)<西北>
・毘沙門天(びしゃもんてん:ヴァイシュラヴァナ)<北>
・伊舎那天(いざなてん:イシャーナ)<東北>
・梵天(ぼんてん:ブラフマー)<天(上)>
・地天(じてん:プリティヴィー)<地(下)>
<鳥頭人身のすがたをした降魔、延命、祈雨の神>
龍猛菩薩(龍樹。ナーガールジュナ)と
龍智菩薩(ナーガボーディ)の肖像
合計二十六幅を修復・新調した。
以上のすべての完成を終えて、九月七日にささやかながら香華(こうげ)をささげ、新しくなったマンダラを供養した。
(胎蔵マンダラの中央に位置する)蓮の花びらの上には、九識の心王(しんおう)
(唯識哲学によると、)
の九尊がすがたをあらわし座している。
(金剛界マンダラの成身会の中央)一大円輪の中には、
の五つの知のちからを象徴する<五智如来>のそれぞれがそれぞれのさとりを示す月輪の中に座し、堅固な知の原理を展開する。
それらのそれぞれの周りには、如来にしたがいはたらく無数の菩薩が生きとし生けるものすべてを救わんとして集い、そのまた周囲には、それらの知のちからとそのはたらきを支える諸仏と諸天が、それぞれの捧げものをもってきちっと列をなしている。
この無垢なる知のすがた図(胎蔵マンダラ)と知の原理図(金剛界マンダラ)に礼拝し、それらを真剣に見ていると、それらの個々の知の剣が人びとのさまざまな迷いを断ち切るであろうと信じられる。
さあ、供養しなさい、讃美しなさい
いのちのもつ無垢なる知のちからが至福を与えてくれる
伏して願うのはこの功徳を広め、ブッダの恩に報いること
国を守ること、さとりをひらくこと
この国土をマンダラの世界と等しくし
人びとをその自らがもつ無垢なる知のちからと一つにさせたまえ
身分の高き者、低き者、あるいは僧侶、あるいは世俗
多くの者が財を喜捨し、労力を捧げ
ある者は筆をとって色を塗り、ある者は針をとって表装の刺繍をし
ある者は木を伐り薪とし、ある者は水を汲み、美味しい料理をこしらえ、みんなのために食事を用意した
そのように、すべての者が一つとなってこのマンダラ修復作業に参加した
その者たちに心からの喜びをもって、手を合わせ、頭を下げる。(ほんとうにありがとう)
(新しくなったマンダラ図を目にすれば)
讃(たた)え、けなし、眺め、聞き、親しい者も親しくない者も、恩ある者も怨みある者も
地(固体)・水(液体)・火(エネルギー)・風(気体)・空(空間)の五大によって成る万物も
生きとし生けるものも
それらのすべてが(胎蔵大日如来の種字)「ア」の一字の根源の知※に戻ることができる
その知の根源をさとった上で
身(行動)・口(コミュニケーション)・意(意思)の三つの活動を
手に印(シンボル)を結び、口に真言(文字)を唱え、心に本尊を浮かべる(イメージ)三つの演示によって行ない
仏(いのちのもつ無垢なる知のちから)とその法(知の原理とすがた)と僧(法にしたがい修行する者)とは、等しく相応しているものだと会得しなさい
(そうすれば、マンダラ図の諸尊と真言のもたらす利益とが我がものとなり、さとりの世界の一員となれるであろう)
(金剛界大日如来の種字)「バン」の字は五大の一つである水を意味するから
いのちのもつ無垢なる五つの知の原理の水を生きとし生けるものの上に灌げば
それらの中で眠っていた種子から
無垢なる知の芽が吹き出し、みるみる成長し
育ったそれらの知と自らのもつ眼・耳・鼻・舌・身の感覚と作用とは
等しく一体のものとなるであろう
その瞬間
いのちのもつありのままの無垢なる知のちからがはっきりと眼前に開き
自らがそなえもつ善き性質のすべてが
森羅(無数に並び連なること)のように(つまり、マンダラのように)あらわれ
すみやかに具現化されることになるだろう
あとがき
この願文、空海がマンダラ改修完成祝いの式典(821年9月7日)において、密教とマンダラについて語ったものだ。
文章の始まりに「仏教の修行僧わたくし空海は、両部マンダラを敬い信じる」とある。
ブッダがマンダラを説いた話など聞いたことがないから、この疑問をまず解いておかなければ、話は最初からつまずいてしまうだろう。
そのためにまず仏法本道の流れ※をとらえておきたい。
その実在知と呼べるものは、
「五智」(いのちのもつ無垢なる五つの知のちから)と
「四種法身」(ありのままの生命のすがた成り立たせている四種の知)と
「三密」(共に生きて活動するための三つ知)とである。
この三種の実在知の内の「五智」とその知のはたらきをイメージ・シンボル・文字・作用の四種の知の伝達媒体によって表現したものがマンダラである。
だから、ブッダのさとりを源流として、その後、多くの仏教学者の思索を経て認識に至った実在している知の教えを空海は敬い信じるのである。
※詳しくは当論遊の小生論考「菩提樹下の思想-果分可説の系譜-」を参照のこと。
さて、上記のような流れによって認識されるに至った知の原理<金剛界>とその原理にもとづいて展開する知のすがた<胎蔵>を示す両部マンダラを教材として、一般人が空海密教思想を学ぼうとするなら、以下のような学習が必要だ。
マンダラ画面上に並ぶアイコン<如来・菩薩・明王・天>を開き、手に印を結び、口に真言を唱え、祈り、それら本尊にアクセスする演習。
空海著作による、物質と心の哲学『即身成仏義』、古代インドの言語学者パーニニのサンスクリット語の文法をもとにした『声字実相義』、字相と字義を説いた『吽字義』、それに心の発展段階の十種を考察した『十住心論』を教科書として開き、それに空海が日本に請来した『菩提心論』(不空訳)を併せ、学ぶ。
さらには、インドの学問である五明、声明(語学)・因明(論理学)・内明(教理)・工巧明(工学/数学/天文学)・医方明(医学)を教養として広く身に付ける。
ざっと思いつくままで、これだけの学習量が必要だから、凡人にとってはもうお手上げの状態になる。
だから、一般信徒がそれらを理解するのは無理であると一番分かっていたのは空海自身であったはずだが、それでも、両部マンダラを介して大乗仏教と密教の立ち位置、空海自らの密教受法の経緯、それにマンダラと真言の要点、さらにはさとりの本質と利益(りやく)などが簡潔に述べられている。
ここに空海によって実践されたブッダの思想の未来がある。