人生になぜ苦があるのか、その苦はどうすれば克服できるのか、それらの課題を解決するためにブッダ(ガウタマ・シッダールタ:紀元前7~5世紀頃)は出家した。
そうして、肉体を削ぎ、精神力を高める断食苦行を行なった。
しかし、体力は衰え、考えるちからも弱まってゆくばかりであった。
そこで、断食苦行によっては何も得られないと判断したブッダは、修行の場であったウルヴェーラ村の近くを流れるネーランジャラー河で沐浴し、村娘が差し出した牛乳粥を摂り、衰えた体力を回復させ、菩提樹下の涼しい木陰に坐し、静かに瞑想することにした。
その瞑想によって、さとりを得たという。
さとりを得たブッダはその後も同じ場所に坐し、さとりのたのしみを七日間味わい、七日目を過ぎた夜に、人間が対象を識別し、識別したものを感受し、その結果として対象に執着を抱くことから、その識別と執着とが原因となって、次々と苦しみが生まれてくるのだと考察した。
それが「これが有るから、これが有る。これが生じるから、これが生じる」という縁起の法である。
縁起の法(モノ・コトは条件によって起こるという真理)が考察されたことによって、「これが無ければ、これが無い。これが消滅すれば、これが消滅する」という縁滅の法(条件がなければモノ・コトは起こらないという真理)が成立する。
このように、縁起の法によってブッダは苦の生起の条件を明らかにし、次にその苦の生起の条件がないならば、苦は存在しないという、縁滅の法に至ったのだ。
次にそれらの縁起と縁滅の法を用いて、存在に関わる諸概念を考察したのがナーガールジュナ(龍樹:2~3世紀頃)である。
その考察は彼の主著『中論(ちゅうろん)』に記されているが、その結論は「考察によると、あらゆる存在には固定した実体がないから空(くう)である」というものであった。
だから、苦しみの対象となるすべてのモノ・コトも空である。
ブッダの説く法が約千年近くの時を経て証明されたのだ。この空の論理が、その後の大乗仏教のバックボーンとなる。
このようにして、ナーガールジュナによってあらゆる存在は論理的には実体のないものと結論づけられることとなったが、だからと言って、存在そのものが空になったわけではない。
現前の世界は実在している。しかし、その存在は融通無碍なるものであるから、固定した実体を持たない代物であるというだけのことなのだ。
そこで、まぼろしのごとき存在に惑わせられることなく、人間は根本の知と共にあるがままに生きよと説いたのが空海(774~835年)である。
大地に寝ころべば、人間誰しもが自己の存在を実感する。
そうして、自分と大地とが一体のものであることに気づく。
そのいっときの感覚こそが存在の実態なのだ。
その大地の上では、空をはらい(鳥類)、地に沈み(虫類)、水を流し(魚類)、林に遊ぶもの(ほ乳類)などと草木類とが共に生きている。
それらの個体が、それぞれのその持ち前の意識(神経)によって、自分を取り巻く世界を判別し、快・不快の判断を下し、その執着によって生きている。
「執着があるから生存が生じる」とブッダが十二因縁(じゅうにいんねん)で説くように、執着は空(くう)などではなく、生存を生じさせる原動力そのものなのだ。
そこに実在するものの真実のすがたがある。
そのようなありのままのすがたで生きるものが、もともと具えている知のちからとは何なのか、そこに空海は着目した。
その考察の結果は、「自然界を観察すると、生きとし生けるものはみな、生きるための根本の知を有していて、その知によって共に生きている。その生命がもともと具えている無垢なる知のちからに比べれば、識別と執着とがもたらす知などは些細なものである。だから、そのような浅はかな知にとらわれることなく、ありのままのすがたで根本の知によってあるがままに生きよ」ということであった。
このように菩提樹下のさとりから生まれたブッダの縁起の法は、ナーガールジュナの空の論理を経て、空海の説く実在論へと到達した。
今日の科学者が物質と生命によって形成されている世界の真理を観察・理論・実証などの手続き経て、客観的に証明するのに対して、空海の唱える真理はイメージやシンボルという媒体によって提示され、相手のインスピレーション力に頼るというものであったから、その真理は神秘的なものとして受け取られることになったが、表現手段は異なっていようとも、伝えようとする世界の真理に変わりはないのだ。
さて、以上の三人の思想、学術的にとらえると、ブッダの説いた「十二因縁」の縁起の法に始まり、その法がナーガールジュナの著作『中論』によって「空の論理」となり、空海の主著『十住心論(じゅうじゅうしんろん:思想の十段階論)』において、第七住心「空」、第八住心「主体と客体」、第九住心「一と多」などの論理を経て、第十住心「マンダラ」の思想へと到達するのである。
以下は、それらをさらに詳しく論述する。
Ⅰ 苦の生起の考察(ブッダの「十二因縁」)
ブッダはさとりを得たのち、菩提樹下に尚もとどまり、人間の一生に伴う煩悩を次のように考察した。
(1)人間と生きとし生けるものはみな生存欲(個体維持と種族保存の欲求:呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動など)をもって生まれてくるが、生の始まりにおいて知識は無い。<無明>
(2)だからまず、その生存欲にもとづいて活動する。<行>
(3)活動することによって学習し、世界を識別する。<識>
(4)識別された世界がイメージとなってファイルされる。<名色>
(5)それらの識別されたイメージファイルによって、眼・耳・鼻・舌・身体・意識がはたらく。<六処>
(6)眼は色・かたち・動き、耳は声・音と音のリズム・メロディー、鼻は匂い、舌は味(甘味・辛味・苦味・酸味・塩味)、身体は感触(動作の機敏さと強さ、物質の重さと軽さ、硬さと軟らかさ、熱さと冷たさなど)、意識は意味をとらえる。<触>
(7)感受されたイメージが快・不快を生む。<受>
(8)その快・不快が対象への愛憎を生む。<愛>
(9)愛憎が対象への執着(煩悩)を生む。<取>
(10)その執着があるから生存が生じる。<有>
(11)生存があるから生が生じる。<生>
(12)その生があるから老いて死ぬ。<老死>
以上の考察によってブッダは、「人間の煩悩が識別を因とし、執着を果としている」(縁起論)とし、そのことによって、「因と果をもたらす識別は人間の意識がつくりだしたものに過ぎないから、もともとはなかったものである。因がなければ果は生じないし、果がなければ因もない」(縁滅論)と結論づけた。
しかしまた、果としての執着があるから、その執着が因となって人間は生きることができることを認めた。
その「縁起論」と「縁滅論」が"方便"であり、また、執着によって生きることを認め、その執着を許す心が"慈悲"である。
仏教の教えの根幹がここに誕生した。
Ⅱ 存在の論証(ナーガールジュナの『中論』)
ブッダの説いた縁起と縁滅の論理をもって、存在に関わる概念を考察するとどうなるのか、そのことに挑戦したのがナーガールジュナである。
その考察を始めるにあたって、ナーガールジュナはブッダに敬意をあらわし、『中論』の序に、次のように述べている。
「モノ・コトの存在は、
消滅しないし、生起しない。
(生起するから消滅する。生起がなければ消滅はない)
終了しないし、連続しない。
(連続するから終了する。連続しなければ終了はない)
同一でもないし、別でもない。
(同一があるから別がある。同一でなければ別はない)
来ることもないし、去ることもない。
(来るから去る。来なければ去ることはない)
このように、モノ・コトの存在は相対的にとらえられるから、一方的に識別できない。そのことを最初に説かれたのがブッダである。
そのすぐれた論者に対して、わたくしは深く頭を下げます。
(そのブッダの説かれた論理を得て、わたくしナーガールジュナはモノ・コトの存在について、どうして識別することができないのかの考察を試みる)」と。
この八不(はっぷ)が『中論』全体の要旨となるのだが、以下は同著の中の存在に関わる主要概念、存在条件/去来(動き)/認識作用/現象と物質/質料と形相/存在現象の特質(生起・持続・消滅)/作用と作用主体(相対性)などについてのナーガールジュナの考察を紹介し、その論旨を探ってみたい。
1 存在条件の考察
(1)もろもろのモノ・コトの存在は、どこにおいても、どのようなものでも、そのものからも、他のものからも、それらの両方からも、またそれらの条件のないところからも、生じて存在することはない。
(2)モノ・コトが存在する条件は次の四つである。
1、 原因としての条件。
2、 認識の対象としての条件。
3、 心的作用が続いて起こるという条件。
4、 他に作用するという条件。
第五の条件はない。
(3)もろもろのモノ・コトの存在の条件は、観察者の認識作用がつくりだすものであるため、対象とする存在そのもののうちに自性(じしょう)はない。それ自体が固有の実体をもたないのであれば、他のモノ・コトの固有の実体も存在しない。
(4)結果を生じる作用は、条件を具えたものとして存在するのではないし、条件を具えないものとして存在するのでもない。また、もろもろの条件は作用を具えないものとして存在するのではない。では、もろもろの条件は作用を具えたものとして存在するのだろうか、そんなことはない。
(5)「これが有るから、それが生じる」というとき、これがそれの条件であるというが、それが生じなければ、これは条件にはならない。
(6)モノ・コトの有無が、存在の条件にはならない。なぜなら、無いときには存在がないのだから条件はないし、有るときにはすでに存在しているのだから条件を必要としない。
(7)モノ・コトは、有る存在としても、無い存在としても、有りかつ無い存在としても生じない。そのように、生じていない存在に条件はない。
(8)モノ・コトがまだ生じる前に、消滅することはない。また生じた存在が同時に消滅することもない。またすでに消滅した存在に条件はない。
(9)存在しているモノ・コトには、固定した実体がないから、認識の対象とはならない。そのように認識できない対象は、存在条件がないから確認できない。
(10)固定した実体のないモノ・コトの存在は確認できないから、「これが有るから、それが有る」というとき、これの存在が確認できないのだから、それも無い。
(11)もろもろの条件によって、部分的であろうが、総体的であろうが、結果の生じた存在はない。なぜなら、条件をもつ存在がないのだから、結果は生じない。
(12)<問い>しかし、「結果が条件のうちになくても、その他の条件からでも生じる」ということであれば、「結果は条件でない条件から生じる」ということはないか。
(13)<答え>もしも、「結果は条件でない条件から生じる」というのであれば、その条件は存在そのものではない。結果が、そのものの存在条件ではないものから生じたとするなら、その結果は「条件から生じた」とはいえない。
(14)以上によって、あらゆる存在は、存在条件からは生じないし、存在条件のないところからも生じない。結果としての存在がないのだから、存在条件を具えた存在も、存在条件を具えていない存在も当初からないのである。
2 去来(動き)の考察
(1)すでに去ったものは去らない。未だ去らないものは(そこにあるから)去らない。すでに去ったものと、未だ去らないものとは別に、今、去りつつあるものが(もう去りつつあるのだから)去るということもない。
(2)<問い>だが、去るということは動きを指していから、すでに去ったものと、未だ去らないものには動きはなく、今、去りつつあるものに去るはたらきがあるのではないだろうか。
(3)<答え>今、去りつつあるものは去るはたらきを必要としない。なぜならば、現に去りつつあるのだから、どうして、去るはたらきを必要とするだろうか。
(4)それでも尚、今、去りつつあるものに去るはたらきがあると主張するならば、すでに去りつつあるものに、さらに去るはたらきが加えられることになる。
(5)尚もまた、今、去りつつあるものに去るはたらきがあると主張するならば、二つの去る動きがあることになる。去りつつあるものの動きと、去るはたらきによる動きである。
(6)二つの去る動き(作用)があるとなると、それぞれに去る存在(主体)が必要である。なぜならば、去る主体がなければ、去る作用はない。
(7)もし、去る主体がないことによって、去る作用がないのであれば、去る作用(動き)による、去る主体は存在しない。
(8)したがって、去る主体は去らないし、去る主体でないものも去らない。それなれば、去る主体でもなく、去る主体でないものでもなく、別の第三の主体が去るのだろうか。そんなことはない。
(9)いったいぜんたい、去る主体が去るということが、まず、どうして成立するのであろうか。なぜならば、去る主体は去る作用がなくては存在しないのに、存在しないものが去るということになる。
(10)それでも尚、去る主体が去るというのならば、二つの去る作用があることになる。去る作用によって存在する去る主体の作用と、去る主体が去ることによる去る作用である。
(11)尚もまた、去る主体が去ると主張するのであれば、去る作用のない去る主体が存在することになる。なぜならば、去る主体がすでに存在しているのに、さらに去る作用を加えようとしているからだ。
(12)すでに去ったものには(すでに去ってしまったのだから)去る作用は始められない。未だ去らないものにも(未だ去らないのだから)去る作用は始められない。今、去りつつあるものにも(今、去りつつあるのだから)去る作用は始められない。では、どのようなものに、去る作用が始められるのだろうか。
(13)このように、去る作用の開始以前に去る作用が始められる、今、去りつつあるものは存在しない。また、すでに去ったものも存在しない。まして、未だ去らないものには去る作用がないのだから、その主体はない。
(14)このように、すでに去ったものにも、今、去りつつあるものにも、未だ去らないものにも、去る作用の始まりが認められないのだから、すでに去ったものと、今、去りつつあるものと、未だ去らないものとを区別することはできない。
(15)まず、去る主体はとどまらない。去らない主体もとどまらない。それならば、去る主体と去らない主体とは別の第三の主体がとどまるのだろうか。
(16)去る作用がなくて去る主体が成立しないときに、まず、去る主体がとどまるということはありえない。
(17)去る作用は、今、去りつつあるところからとどまることはなく、すでに去ったところからとどまることはなく、未だ去らないところからとどまることはない。また、とどまるものが、動き出すことと、停止することも同様である。
(18)去る作用と去る主体とは同じではないし、別でもない。
(19)もし、去る作用そのものが、去る主体そのものであるならば、作用主体と作用とが同一体ということになってしまう。
(20)また、もし、去る主体そのものと、去る作用そのものとが別ということになれば、去る主体がなくても去る作用があることになり、また、去る作用がなくても去る主体が存在することになる。
(21)同一体であるとしても、別のものであるとしても、主体と作用という成立し得ないものがどうして存在するのだろうか。
(22)去る作用によって去る主体というのであれば、その去る主体はその去る作用をもって去ることはない。なぜならば、去る主体は去る作用より以前には去るという行為をもって存在していないのである。存在していないものがどうして去る作用をもつことができるのだろうか。
(23)また、去る作用によって去る主体というのであれば、去る主体はその去る作用とは別の去る作用をもって去ることはない。なぜならば、一つのものが去って行くときに、二つの去る作用が成立するわけがない。
(24)去る主体が実在するものであるならば、「実在する去る作用と、実在しない去る作用と、実在し、かつ実在しない去る作用」のいずれによっても去って行くのではない。また、去る主体が実在していないものであれば、去る作用のいずれをも必用としない。
(25)また、去る主体が実在し、かつ実在しないとしても、「実在する去る作用と、実在しない去る作用と、実在し、かつ実在しない去る作用」のいずれによっても去ることはない。それゆえに、去る作用(行為)、去る主体(行為者)、去り行くところ(場)は何処にも存在しないのである。(存在の一瞬のすがただけが観察者の前にある。その動きを識別しようとするが、識別すべき事柄は何処にもないのだー)
3 認識作用の考察
(1)眼で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体で触れ、意識で思う。以上の六つが認識の根幹である。眼を例にとると、色・かたち・動きを見ることによって、対象となるモノ・コトを認識する作用が生じる。
(2)<問い>しかし、眼そのものは自分自身を見ることがない。自分自身を見ないものが、どうして他のものを見るのであろうか。
(3)<答え>火の喩えに、火は自分を焼かないが他のものを焼くとある。一般にはこれをもって説明するのだが、当考察においては、眼で見る作用と火で焼く作用とは、すでに前章の今、去りつつあるものと、すでに去ったものと、未だ去らないものとによって、論証した通りである。
(4)何ものも見ていないときには、見る作用はない。したがって、見る作用がないときに見るということは理に合わないのだ。
(5)どのようなことかというと、見る作用が見るのではない。見る作用でないものが見るのでもない。そうして、見る作用の対象となる識別すべき事柄が何もないものを見ることとなると、どうして、見る主体が存在し得るだろう。
(6)見る作用を離れても、離れなくても、見る主体は存在しない。見る主体が存在しないのだから、見られるものも、見る作用も存在しないのだ。
(7)あたかも母と父との縁によって子が生まれるように、眼と眼の見る色かたちとの縁によって認識作用が生じる。
(8)見られるものと見る作用は存在しないから、(ブッダの十二因縁の)識・触(そく)・受・ 愛も存在しない。だから、取(執着)などはどうして存在するであろうか。
(9)以上によって、聞く作用、嗅ぐ作用、味わう作用、触れる作用、思う作用も、またそれらの主体も、作用の対象なども、見る作用と同様の考察ができると知るべきである。
4 現象と物質の考察
(1)現象は物質(固体・液体・エネルギー・気体)によって起こる。物質の存在がなければ、現象は観察されない。また、現象が観察されなければ、物質の存在はない。
(2)もし、現象と物質とが別の存在であるならば、現象は物質の存在がなくても起こることになる。しかし、現象は物質の存在がなくては観察することができないのだ。
(3)それでは、現象のない物質が存在するだろうか。そうなると、結果(現象)のない原因(物質)が存在することになる。しかし、結果がないのに原因は存在しない。
(4)であるが、(結果と原因とが同時に存在することはないから)現象が存在するときは、それはすでに原因ではないし、現象が存在しなければ原因(物質)はない。
(5)それでも、物質のない現象が存在するとすれば、そこには物質が存在しないのだから、そのような存在は観察不可能である。
(6)また、結果(現象)と原因(物質)とは似ているものということがいえず、かといって、全く似ていないものであるともいえない。(布と糸の関係を例にとると、布は面であり、糸は線としての形状を成しているから相似形ではなく、かといって、布は糸が織られたものだから別物でもない)
(7)感受作用とイメージ作用ともろもろの識別作用とによって、対象となるもろもろの存在が認識されるが、その認識の先には、必ず当考察における現象と物質との関係が存在しているのだ。
(8)そのようなことから、空の論争において、誰かが相手の意見を破ろうとしても、その人の認識の対象には、必ずこの現象と物質との関係が存在しているのだから、そのことを踏まえてすべての問題を論証すべきである。
(9)また、空の解説において、誰かがそれを非難しても、その人の認識の対象には、必ずこの現象と物質との関係が存在しているのだから、そのことを踏まえてすべての問題を論証すべきである。
5 質料と形相の考察
(1)形相がなければ、(世界を構成している六つの質料:固体・液体・エネルギー・気体・空間・意識の内の)空間は存在しない。もし、形相以前の空間が存在するなら、その空間には形相がないのだから観察できない。
(2)そのように、形相のない存在は観察できないのだからどこにも存在しない。形相のない存在が存在していないときに、どうして形相が現れるだろうか。
(3)形相のないもののうちに形相は現れることはなく、すでに形相のあるもののうちに形相は現れることはない。また、形相のあるものとないものとは別の他のもののうちにも、形相は現れることはない。
(4)形相が現れないのであれば、質料はない。質料がないのであれば、また、形相もない。
(5)それゆえに、形相をもたない質料は存在しないし、質料をもたない形相も存在しない。また、質料と形相とを離れた別の存在もない。
(6)では存在そのものが存在しないとき、非存在の存在はあるのだろうか、そうではない。存在(有)するから、非存在(無)という相互の概念が成立しているにすぎない。
(7)それゆえに、世界を構成している六つの質料の一つである空間は存在するものでもなく、存在しないものでもなく、質料でもなく、形相でもない。したがって、他の五つの質料、固体・液体・エネルギー・気体・意識も空間と同様の考察がなされよう。
(8)そうであるのに、もろもろの存在について、その有無を見ようとする浅はかなものたちは、世界を識別しようとするものだから、見られる対象となるもののありのままのすがたを見ることがない。
6 存在現象の特質(生起・持続・消滅)の考察
(1)もしも存在が現象するものであるなら、その存在は特質として、生起・持続・消滅という三つのすがたをもつであろう。しかし、存在が現象するものでないのなら、そこには特質としての三つのすがたはないであろう。
(2)現象のすがたである生起・持続・消滅の三つの存在が別々のものであるなら、それらは現象の特質としては不完全なものであり、それらが合一したものであるなら、どうして、生起と持続と消滅とが同一の時と場に存在することができるであろうか。
(3)もしも生起と持続と消滅とに、さらにそれらを現象させる特質が存在するならば、現象は際限のないものになってしまう。もしも生起と持続と消滅とに、さらにそれらを現象させる特質が存在しないならば、生起と持続と消滅とは現象しないものになってしまう。
(4)<問い>現象を生起させるのは存在原理である。その存在原理が現象を生起させるのではないか。
(5)<答え>もしも現象を生起させるものが存在原理であるというのならば、存在原理によって生起していないものが、どうして、存在原理を生じさせたのであろうか。
(6)もしも存在原理によって生起した現象が、存在原理の存在を生じさせるというのであれば、現象を生起させていない段階の存在原理が、どうして、現象を生起させることができるのであろうか。
(7)もしもまだ生じていない存在原理が現象を生起させることができるのであれば、今、生じつつある存在原理が、好き勝手に現象を生起させることになるであろう。
(8)<問い>灯りがそれ自体と他のものとを共に照らすように、現象も同様にそれ自身と他のものとを共に生起させるのではないか。
(9)<答え>灯りのうちにも、また灯りのある場所にも、闇は存在しない。闇が存在しないのに、灯りは何を照らすのか。
(10)また、今、生起しつつある灯りによって、どうして、闇が除かれるのだろう。生起しつつある灯りは未だ闇に届いていないのに。
(11)あるいは、灯りが闇に届いていなくても、その灯りによって闇が除かれるというのなら、ここにある灯りによって全世界の闇が除かれることになるだろう。
(12)もしも灯りがそれ自体と他のものとを共に照らすのであれば、闇もまた、疑いなく、それ自体と他のものとを共にその闇で覆ってしまうことになるだろう。
(13)このように、照らすことのない灯りが、どうして、それ自体の現象(照らす作用)を生起させることができるだろうか。また、もしもすでに生起したものが、それ自体の現象を生起させているのだとすると、すでに生起しているのに、どうして、さらに何を生起させるのだろう。
(14)今、生起しつつあるものも、すでに生起したものも、まだ生起していないものも、生起することはない。同様のことは、今、去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものによっても説明されている。
(15)この、今、生起しつつあるものが現象のうちに現れていないときに、一体、どの存在によって、今、生起しつつあるものが有るといわれるのであろうか。
(16)たいがい、条件によって存在しているものは、すべてが固有の実体をもたないから、あるがままである。それゆえに、今、生起しつつあるものもあるがままであり、現象そのものもあるがままである。
(17)もしも何らかのまだ生起していない存在が、どこかに存在するのであれば、それが生起するであろう。しかしその存在が存在しないときに、どうして、それが生起するであろうか。
(18)もしもこの存在が、今、生起しつつあるものを生起させるとするならば、この存在をどのような存在が生起させるのであろうか。
(19)もしも他の存在がこの存在を生起させるのであれば、存在は際限のないものになってしまう。また、もしも生起させる存在がなくてこの存在が生起しているとするならば、一切のものが生起してしまう。
(20)要するに、今、存在しているものも、存在していないものも、生起することはない。さらに存在し、かつ存在しないものも、生起することはない。このことは以前に論証した。
(21)今、消滅しつつある存在が生起することはない。また、今、消滅しつつあるものではないもの、そのようなものは存在しない。
(22)すでに持続している存在は、さらに持続することはない。まだ持続していない存在も、持続することはない。未だ生起していないものが、どうして持続することがあろうか。
(23)今、消滅しつつある存在が持続することはない。また、いま、消滅しつつあるものではないもの、そのようなものは存在しない。
(24)一切の存在には常に寿命があるから、寿命のないどのような持続もない。(寿命があるから、また、生起する。存在に寿命がないのなら、生起・持続・消滅は成立しない)
(25)存在の持続は、他の持続によっても、またそれ自体によっても、成立しない。それはあたかも、存在の生起がそれ自体によっても、また他のものによっても成立しないようなものである。
(26)未だ消滅していないものは(そこに存在しているから)消滅しない。すでに消滅してしまったものは(もうそこに存在しないから)消滅しない。今、消滅しつつあるものも(すでに消滅しつつあるのだから)同様にさらに消滅する必要はない。
(27)要するに、すでに持続しているものは(そこに存在しているから)消滅しないし、未だ持続していないものは(そこに存在していないから)消滅しない。
(28)実に、存在しているそのときの状態は、それと同じ状態によっては消滅することはない。また、そのときとは別の状態によっても、決して消滅することはない。(すべての存在は、その時と場における、あるがままの一瞬のすがたとしてのみ存在している)
(29)まさしく、すべての存在の生起が成立していないのだから、生起していないものに消滅はない。
(30)まず、今、存在しているものは消滅しない。なぜなら、一つのものが、存在(有)していて非存在(無)であることは成立しないからだ。
(31)また、今、存在していないものは消滅しない。無いものは切ることができない。
(32)消滅は、それ自体によっては存在しない。消滅は他のものによっても存在しない。あたかも生起が、それ自体によっても、他のものによっても存在しないようなものである。
(33)以上のように、生起と持続と消滅とが成立しないのだから、現象は存在しない。現象が成立していないのであれば、存在(有)に対する非存在(無)も成立しない。(このようにして、存在は生起しないし、消滅しない。連続しないし、断絶しない。同一ではないし、別でもない。来ることもないし、去ることもないことになる。つまり、識別によって存在の有無を論じることは不可能となる)
(34)(そこで、あらゆる存在と人間の一生は)「あたかもまぼろしのように生起し、あたかも夢のように持続し、あたかも蜃気楼のように消滅する」と説くことができる。
7 作用と作用主体(相対性)の考察
(1)このすでに実在しているもの(作用主体)が、すでに実在しているものを生じさすはたらき(作用)をすることはない。また、未だ実在していないものが、未だ実在していないものを生じさすはたらきを試みるということもない。
(2)すでに実在しているものを生じさせた作用には、作用は存在しない。すなわち、すでに実在しているのだから、その作用はもう作用主体を必要としない。だから、すでに実在しているものには、作用は存在しない。そうして、作用主体はもう作用を必要としない。
(3)もしも、未だ実在していない作用主体が、未だ実在していない作用をするのであれば、その作用は原因をもたないものになる。そうして、作用主体も原因をもたないものになる。
(4)原因が存在しないのであれば、作用の結果も、作用の原因も存在しない。そのように原因と結果が存在しないのであれば、作用も作用主体も、手段も存在しない。
(5)作用などが存在しないのなら、理にかなった行ないも、理にかなわない行ないも存在しない。理にかなった行ないも、理にかなわない行ないも存在しないのであれば、それから生じる帰結もないことになる。
(6)帰結がないのなら、真理や絶対世界に至る道が成立しない。そうして、一切の作用は無意味となってしまう。
(7)実在し、かつ実在しない作用主体が、実在し、かつ実在しない作用をすることはない。なぜなら、相互に矛盾している実在と非実在とは一つのものに共存することがないからだ。
(8)実在している作用主体は非実在になれないし、実在していない作用主体は実在するものにはなれない。なぜなら、それらの一切が誤りであるからだ。
(9)すでに実在している作用主体が、まだ実在していない作用をすることはないし、またすでに実在し、かつ実在していない作用をすることもない。それは、すでに説明した通りである。
(10)未だ実在していない作用主体が、すでに実在している作用をすることはないし、またすでに実在し、かつ実在していない作用をすることもない。それは、すでに説明した通りである。
(11)すでに実在し、かつ実在していない作用主体が、すでに実在している作用をすることはないし、未だ実在していない作用をすることもない。それは、すでに説明した通りである。
(12)作用によって作用主体がある。またその作用主体によって作用がはたらく。これ以外の存在要因をわたくしたちは知らない。
(13)このように、作用と作用主体との相対性によって存在要因は成立するから、対象への執着が生じた場合は、その存在を確かめるのに、この論理を用い、作用(はたらき・行為)と作用主体(はたらきを行なうちから・行為者)との相対性によって、すべてを考察すべきである※。
※因みに、アインシュタインの「特殊相対性理論」によれば、光速<作用主体>と同じ速度になると、時間は止まり、空間はゼロになり、質量は無限大になる作用が生じ、また、「一般相対性理論」によれば、重力<作用主体>の大きい場では、時間は遅くなり、空間は収縮し、質量は増大する作用が生じるという。このように、作用と作用主体との相対性によって、宇宙の存在が今日においても論じられている。
アインシュタインは、虚空すなわち宇宙を「理論物理学」として考察し、光速と重力が、時間と空間と質量に作用するちからをシンボルと単位によって示し、存在の場そのもの虚空の絶対性を否定した。
物理学的には空(くう)そのものが無いのである。
インドにおいてはその後、「作用と作用主体」による考察は、あくまでも哲学の範疇にとどまったが、今日の科学はその論理によって、尚、壮大なる空(くう)の夢を見ている。
(以上、現代語訳参考テクスト:三枝充悳『中論』上・中・下、レグルス文庫、中村元『ナーガールジュナ』講談社学術文庫)
『中論』は上記、現代語訳した7テーマの他に20テーマの存在概念を考察している。
それらのテーマの最重要と思われる個所が、「作用と作用主体(相対性)の考察」の章の(13)項である。すべての存在は作用と作用主体との相対性によって考察できるというのだ。
この考察によって、空の論理が導きだされた。
また、ナーガールジュナはこの著作の序で、ブッダの相対論(十二因縁)に触れたが、その十二因縁のことが、『中論』全27章の最終章の前の26章で、「十二因縁の考察」として論じられている。
その論旨は、ブッダの十二因縁に対比させるとほぼ次のようなものである。
(1)生きとし生けるものは、知性以前の知、生存し、世代を受け渡すための根源の知をもつ。
(2)すべての生けるものが、その根源の知の欲求にしたがって、活動し、生きている。
(3)それらのもろもろの行為によって、対象を識別する作用が起こる。
(4)対象の識別は、対象のイメージによる。
(5)それらのもろもろのイメージによって、五感と意識とが作用する。
(6)それらの作用が起こることによって、対象は識別される。例えば眼は、色とかたちと対象への注意度とによって識別する。対象と眼とが分類されたイメージを媒体として接触するのだ。同じように、耳・鼻・舌・身・意識も対象と接触し、対象を識別する。
(7)接触することによって、対象を感受する作用が生じる。
(8)その感受作用によって、対象への欲望が起こる。
(9)欲望が起こるから、対象への執着が生じる。
(10)その執着があるから、生存が生じる。
(11)生存するから認識が生じ、その認識作用によって生が意識される。
(12)その意識によって、老死のことを思うから、苦が生じるのである。
そうして、ナーガールジュナは、そこに次のように付け加えている。
「それゆえに、知性をもたず、識別と執着とが起こす欲望のままに生きる者は、自らがつくりだす苦の認識主体となってしまう。しかし、真理をさとることができれば、そのような苦をつくりだす認識主体とはならないのだ」
「ところで、真理をさとるということは、ブッダが十二因縁によって説くところの、作用と作用主体とが起こす、因果の連続を知ることである。(その相対性の一方の作用がなくなれば、作用主体は生じないことになり、因果の連続もない)」
「(十二因縁の)それぞれの前の因がないことによって、それぞれの後の果もない。このようにして、自らの認識作用がもたらしている苦は完全に消滅させることができる」と。
以上が、『中論』の要旨である。
これらのそのままが人間論となる。
その人間論とは次のようなものである。
1、人間は、生存欲の世界と、識別(イメージによる分別とその概念化)がつくり出す意味の世界との二面の世界に住む。
2、生存欲の世界は実在するが、人間がつくり出す識別世界には実体がない。
3、そのように固定した実体をもたない世界は空(くう)である。
4、その空なる世界に生起する人間の苦悩もまた空である。
5、そのような識別世界が起こす空なる欲望と、実在する生存欲との間に人間がいる。
これが、ナーガールジュナの説くところなのだ。
もちろん、ブッダが十二因縁によって提起した人間論を、ナーガールジュナが発展させたのである。
Ⅲ 存在の実証(空海の『十住心論』)
ブッダがさとりの後に菩提樹下で考察したのが十二因縁。
そこに説かれている原因と条件との論理を用いて、存在概念を検証したのがナーガールジュナ。
両者がその考察によって得た帰結は、「存在の空なることを方便として苦を滅し、生存欲を無垢にして、慈悲をもってあるがままに生きよ」というものであった。
では、方便の方は理解できたが、もう一つの生存欲によって成る世界の本質とは何なのか。そのことを考察したのが空海である。
空海は主著となる『十住心論』のなかの第七住心「空(くう)」の章の序に次のような詩を記している。
何もなく、広々として大きな宇宙は
万物を生成する根元であり
深く澄みとおる大海は
水という元素にさまざまな生命を宿している。
このように一は無数の存在の母ある。
同様に、空(くう)は現象しているものの根本である。
それぞれの現象は固定した実体をもたず、
とらえどころがないから空であり
その空なるものがあるがままに存在しているのがこの世界である。
(存在要因を作用と作用主体の相対性によって考察しても、そこには要因となる存在は無い。しかし、その)相対性を超えたところに絶対的な空なる存在があり
(だからと云って、)相対性を否定してしまえば、存在を特定することはできない。
(そのように、)存在を特定できないものが宇宙に存在する一切のものであるからあらゆる現象が生じても、その存在はそのままに空である。
そのようにして、空なるものが存在し
存在の諸相は否定されても、現象するものはそのままに存在している。
だから、存在するものは空相であり、空相であるものが存在する。
すべての現象がそうであり
そうでないものはない。
この詩で空海は、現存している世界をイメージと単位によって示し、その世界は、論理によって説明しようとしても、固定した実体を証明できないから空相であるとする。
その空相なるものによって世界がつくられている。つまり、ナーガールジュナが論証した諸相の空と、実在している世界とを一つにしたものが、空海の説く空である。
ナーガールジュナによって論証された概念上の空は、その概念の対象となる現存している世界があっての話しである。ましてやそこには、対象を概念によって思考している人間がいるのだから、空の概念はまちがいなく存在しているものによる仕業である。
しかし、それらの存在は、一瞬一瞬のまぼろしのごときものであり、固定した実体は何処にもないのである。
その上で空海は、第八住心「主体と客体」へと進む。
存在を把握するには、ひたすらに主観を排除し、自らを客体化しなければならない。そうすれば、自ら(主体)が存在そのもの(客体)になれると説く。
さらに第九住心「一と多」(華厳哲学)では、客体としての存在を、<素材>と<かたち>との関係によって説明する。
「まず基本的に素材が素材のままでかたちを成していない状態と、素材がかたちを成している状態がある。後者の状態において、かたちだけを見れば素材は隠れ、素材だけを見ればかたちは隠れる。もし双方を二つながらに見れば、素材とかたちは共に現われたり、隠れたりする。だから一つの素材と、その素材がつくりだす多くのかたちは、条件によって現われたり、隠れたりする。また、そのかたちが部分と全体とによって成り立っているときには、部分は全体を成す一つのかたちとなり、全体は部分によって成る一つのかたちとなるから、それらは重なり合い、尽きることなく関係し、限りなく映じ合っている。そのように物質と生命から成る世界は融通無碍なる素材とかたちとによってつくられ、客体である物質的存在と主体である生命的存在の精神とは同じのものであるから、精神も本来、融通無碍なるものであり、それ自体に本性はない。真実の世界は、<環境>と<生命>と<いのちのもつ無垢なる知>との三つの要素によって織られ、そこに織り込まれたものがそのままわが身のすがたであるから、そのすがたかたちをつくり、そのかたちを動かしている物質と等量の分だけの精神もそこに存在する。また、その真実の世界においては、一瞬の存在が過去・未来・現在を貫くすべての時間そのものであり、一瞬のすがたかたちに無限に等しい時間が流れている。そのように、一と多とが互いに融け入り、絶対平等の本体である一つの<理>と、相対的差別的な現象である多くの<事>とは互いに通じ合っている」と。
このように一多相入している真実の世界においては、生きとし生けるものはみなそれぞれに、ありのままのすがたを成し、あるがままに活動し、それでいて、その住み場所である世界(環境)とのバランスを絶妙に計っていると説く。
(因みに、『十住心論』の第一住心では、虚空(宇宙)に地(固体)・水(液体)・火(エネルギー)・風(気体)があつまるところができて自然(地球)が誕生した。この自然があるから生命はそこで生存することができる。その生命が「生存欲」という意識をもって生きている。しかし人間はその生存欲によって欲望を起こし、善・悪をわきまえることがない。そのような心の段階を説く。次に第二住心では、その欲望をコントロールする「倫理<善と徳>」の芽生える段階、第三住心では、前段の道徳・倫理を超え、「真理<神・哲学>」を創作し、その世界の中に安らぎを得る段階を説く。次に第四住心では「無我」を、第五住心では「因果論」を、第六住心では、人間が各種の思考を展開するのは、人間に認識作用があるからだとする「唯識論」を説く。そうして次に、言葉による論理によっては存在を証明できないとする第七住心「空」、第八住心「主体と客体」、第九住心「一と多」の段階へと進む)
そうして、思想の頂点、第十住心「マンダラ」へと空海は到達する。
第九住心「一と多」では、存在しているものは相対的ではなく、「部分」と「全体」との入れ子構造になっていて、それぞれの存在は、上位のものに対しては部分となり、それよりも下位のものに対しては全体となる重々無尽(じゅうじゅうむじん)の関係によって成立しているとする。
それが実在するものの真実のすがたであるから、あらゆる存在には固定した実体がない。だから、実体のないものの存在は論理によって証明することができない。
しかし、固定した実体はないが、その原型となるものなら描くことができる。それがマンダラ図である。マンダラに描かれた原型(如来・菩薩・明王・天など)が全体としても、部分(個)としても、変化しつづけているのだ。
また、マンダラにおいては多角的な表現媒体が用いられ、言葉という単一的な伝達手法だけではなく、五感すべてにはたらき掛け、直接的・直感的に訴えるという複合的な手法が駆使される。
1、個々の知のはたらきを為すもの(菩薩)と、それらの知のはたらきのもととなる無垢なる知のちから(如来)とによって、世界全体が出来上がっていることを示すのに用いられるのが「イメージ(表象図)」。
2、同一不二なる世界の中で、個々に存在するもののそれぞれのはたらきの特性を示すのに用いられるのが「シンボル(象徴物)」。
3、文脈的概念(ことばと音声のフレーズに付加された意味)によって、物心両面の本質を示すのに用いられるのが「文字(梵字)」。
4、存在するもののはたらきが、必ず他に影響を及ぼすことから、そのはたらきによって存在を示すのに用いられるのが「作用(動作図)」。
このイメージ・シンボル・文字・作用の四種の表現媒体を用いて、存在の本質となる原型が示されるのだ。
これらの図のそれぞれの中心に位置しているのが、いのちのもつ無垢なる知の存在を象徴する大日如来であるから、その広大なる知はあらゆる知を含み、そのあらゆる知の一つひとつには、それぞれに大日如来の広大なる知が宿っていることになる。つまり、そこでは主体も客体も、一も多も、同じなのである。
そのような世界観によって、空海は第十住心の思想を説く。
さて、このマンダラという表現媒体を用いて、空海は何を説いたのか。
当然それは、ブッダの広大なる手の中にあったものにちがいない。
ブッダは十二因縁において、人間の一生には「生存欲と活動」(a:1-2)、「識別と執着」(b:3-9)、「執着と生存」(c:10-12)の三段階があるとし、その中の(b)「識別と執着」がもたらす苦に対して、縁滅の法を編み出した。そうして、後世のナーガールジュナがそれを論証した。
だが、(a)「生存欲と活動」、(c)「執着と生存」の二つの段階については、(a)を無明の行為とし、(c)を諸行無常として、それ以上に深く掘り下げて考察することを両者はしなかった。
この二つの段階にこそ生の本質があるとしたのが空海である。
その本質を知れば、(a)「生存欲と活動」は無明などではなく、それが知の根源であり、(c)「執着と生存」がもたらす老いと死も、それが苦などではなく、寿命があるから世代交代があり、過去から未来へと生を引き継ぐことができているのだと分かる。そのことが分かれば、世代交代という連鎖の中での一生は、生の喜びへと転じる。その喜びが生存しているものすべてへと向けられたもの、それが慈悲である。
それこそが、方便ではない真実のさとりの世界なのだと空海は説く。
ナーガールジュナが説くように、認識は生存しているから生じ、その認識によって対象をとらえるから、作用主体が存在することになる。
その認識をもつものの根幹にあるのが生存欲である。
すべての生きとし生けるものはその生存欲があるから、あるがままに活動し、自然界で生活することができている。
人間はことばによって世界を理解し、他とのコミュニケーションを計っているが、そのことばを有しているわけでもないのに、生きとし生けるものは生存欲にしたがって、あるがままに活動し、自然界との調和を計っている。
その知恵は何処から来るのだろう。
環境破壊が進行すれば、生存欲の根底までもが失われてしまう。そこで、生命圏の保全に関わる根源的な生存欲を、生きとし生けるものは生まれながらにして、その身につけているのではないか。
自然界とのバランスを保つという根源的な生存欲が、識別と執着という小我にとらわれている人間には見えない。
その識別と執着とが心にもたらす暗雲を、ブッダとナーガールジュナが取り払い、その苦から人間を救済することになったが、しかし、生存欲が秘める叡知については、両者は沈黙したままであった。
その生存のための叡知を、空海は『大日経』の経典を通して知り、中国に留学して『金剛頂経』の教えと共に学び、マンダラ図によって示したのだ。
その叡知がどのような内容のものなのか、ここでは金剛界マンダラ「成身会(じょうじんね)」<大マンダラ>によって解読してみたい。
「成身会」の全体の構成は、
(a)中央の一大円輪内(b)一大円輪上の四隅にあって、円輪を支える「五大(ごだい)」(a-1)生命の有している根本の知の五つのちから「五智(ごち)」<五智如来>
(a-2)五つの知のちからのそれぞれの四つの知のはたらき<四波羅蜜(しはらみつ)菩薩と十六大菩薩>
(a-3)知による心の癒し(遊び・飾り・音楽・舞踊)<内の四供養(しくよう)菩薩>
(c)一大円輪を囲む一重目の方形の外側(b-1)知のもととなる物質、つまり、生きとし生けるものの成分や生命のエネルギー源となる四つ物質形態(固体・液体・エネルギー・気体)<四金剛>
(b-2)物質を包含する空間(図の一大円輪を囲む方形によって表わす)
(d)上記方形を囲む二重目の方形の外側(c-1)知のちからとそのはたらきと、それに物質代謝によって生命を維持し、生きるもののすべて<賢劫(げんごう)一千仏>
(c-2)それらの生きものが有している認識プロセス<四摂(ししょう)菩薩>
(c-3)物による癒し(香り・花と色彩・明り・潤い)<外(げ)の四供養菩薩>
人間がその精神世界において絶対真理とする、天地の創造や天体の運行、自然のちから、もろもろの願望などを司る神々<諸天>
となっている。
これらの図示するところとその実践について、
(1)世界を構成しているのは「五大」<知の物質>である。
(2)その物質を母体とする生命が「五智」<根本の知のちからとそのはたらき>をもつ。
(3)それらの根本の知のちからとはたらきを表象化するのに用いられるのが「マンダラ」<知の表現媒体>である。
(4)そこに図示されたこ叡知によって、生きとし行けるものが「四種法身(ししゅほっしん)」<知のありのままのすがた>を発現している。
(5)そうして、「三密(さんみつ)」<あるがままの活動>を行ない、生存している。
と、空海は説く。
以下は、この5項目にしたがって、マンダラに図示される内容と、空海の説く「マンダラ」の実践思想とを、今日の思想との比較によって読み取ってみたい。
(1)「五大」<知の物質>
知を発揮するのは生命であるが、生命のすがたを形成するのは物質である。ということは、知の本体は物質である。
すべての生きものは、広義の意味で何らかの"知"を有する。その知の本体である個体は、固体(地大)・液体(水大)・エネルギー(火大)・気体(風大)・空間(空大)を材料としたものであり、太古の海水の中、無機質だった物質が有機質となり、それが巨大分子となって、細胞が誕生し、生命となったものである。
その生命が神経となる細胞をもち、内外の対象をとらえ、反応し、"知"を展開する。
それらの知<識大>をもつあらゆる生きものが共に生きるには、有機体の内外の物質間で行なわれる代謝(たいしゃ:有機体が生命維持のために、外界から摂り入れた無機物や有機化合物を素材として行なう、一連の合成や化学反応のこと。それらの基礎的な生命活動によって、有機体はその成長と生殖を可能にし、その体系を維持している)のバランスが計られなければならない。
だから、あらゆる生きものにとって、そのバランスを計ることが知の原初の目的であった。
そこから、自然界の秩序も自ずと生まれることになった。
つまり、知を有する個体のもとは物質であるから、その身体が生存するためには、自然界での物質的バランスを計ること自体に知の本来の役わりがあることになる。
では、その役わりを果たすための根本の知とは何なのかー
(2)「五智」<根本の知のちからとそのはたらき>
(a-1)五つの知のちから<如来>
自然界でのバランスを計るという、究極の生存欲がもたらす知、それは五つである。
1、法界体性智(ほっかいたいしょうち):生命が展開する知の存在そのもの。水・光・大気の存在によって生存する生命の、その生命が有している広義の意味での知の存在。「生命知」<大日如来>
2、大円鏡智(だいえんきょうち):清らかな鏡にすべてが映じるように、万物をありのままにとらえる知。植物は太陽の光と空気中の二酸化炭素と吸収した水とによって炭水化物をつくりだし、その炭水化物(植物)を昆虫や草食動物が食べ、その動物を肉食動物が食べ、生物は共に生きられる。そのように、あらゆる生物は外部から摂り入れた物質を体内で化学変化させ、そのエネルギーによって、自らのからだを維持し生きている。また、死ねばそのからだは小動物や微生物によって分解され、無機物に戻る。つまり、物質が循環することにより、ありのままに自然界と同調して生きる知のちから。「生活知」<阿閦(あしゅく、[梵名]アクショーブヤ:不動の)如来>
3、平等性智(びょうどうしょうち):万物を平等にとらえる知。あらゆる生きものどうしが自ら生産した衣食住を相互扶助し、平等に生きる知のちから。「創造知」<宝生(ほうしょう)如来>
4、妙観察智(みょうかんざっち):万象の違いを正しくとらえる知。あらゆる生きものどうしがその持ち前の知覚によって、対象を観察・分析・判断し、コミュニケーションする知のちから。「学習知」<阿弥陀(あみだ、[梵名]アミターユス:無尽の光輝)如来>
5、成所作智(じょうそさち):活動することによって、為すべきことを成し遂げる知。あらゆる生きものどうしが環境をすみわけ、その持ち前の運動能力によって、からだを空間の中で自由にうごかし、生を謳歌することのできる知のちから。「身体知」<不空成就(ふくうじょうじゅ)如来>
(a-2)五つの知のちからのそれぞれのはたらき<菩薩>
1、生命知(大日)のはたらき<四波羅蜜(しはらみつ※)菩薩>
①代謝性<金剛波羅蜜>
②生産性<宝(ほう)波羅蜜>
③清浄性<法(ほう)波羅蜜>
④作用性<羯磨(かつま)波羅蜜>
※はらみつ、[梵名]パーラミター:完成した状態。ここでは、生命がもつ、根幹のはたらきを示す。
2、生活知(阿閦)のはたらき<四親近(ししんごん)菩薩>
①生存<金剛薩埵(さった、[梵名]サットヴァ:さとりを体現するもの)>
②保護<金剛王(おう)>
③慈愛<金剛愛(あい)>
④喜び<金剛喜(き)>
3、創造知(宝生)のはたらき<四親近菩薩>
①産物<金剛宝(ほう)>
②文化<金剛光(こう)>
③相互扶助<金剛幢(どう)>
④満足<金剛笑(しょう)>
4、学習知(阿弥陀)のはたらき<四親近菩薩>
①原理<金剛法(ほう)>
②原理の応用<金剛利(り)>
③因果律<金剛因(いん)>
④伝達性<金剛語(ご)>
5、身体知(不空成就)のはたらき<四親近菩薩>
①仕事<金剛業(ごう)>
②防御<金剛護(ご)>
③攻撃<金剛牙(げ)>
④技(わざ)<金剛拳(けん)>
(a-3)心の癒し<内の四供養菩薩>
①遊び<金剛嬉(き)>
②飾り<金剛鬘(まん)>
③音楽<金剛歌(か)>
④舞踊<金剛舞(ぶ)>
(c-3)物による癒し<外(げ)の四供養菩薩>
①香り<金剛香(こう)>
②花と色彩<金剛華(げ)>
③明り<金剛灯(とう)>
④潤い<金剛塗(ず)>
(c-2)認識プロセス<四摂(ししょう)菩薩>
①知覚の鈎(かぎ)<金剛鈎(こう)>
②感受の索(なわ)<金剛索(さく)>
③イメージの鎖(くさり)<金剛鎖(さ)>
④感情の鈴(すず)<金剛鈴(れい)>
(d)絶対知の神々<二十天>
主観と客観とがもはや対立せず、同一であるような絶対の知が、神を創造した。
神になった知は、神格を得て宇宙に存在するものとなった。
そうして、天地の創造や天体の運行、自然のちから、もろもろの願望や死後を采配する神が、人間と同居するものとなった。
空海はそれらの絶対知の神々を、根本の知を司る<大日如来>と同格のものとして、マンダラに組み込んだ。
①万物の創造神<那羅延(ならえん、[梵名]ナーラーヤナ:水に住むもの)天>
②無邪気の神<俱摩羅(くまら、[梵名]クマーラ:童子)天>
③諸魔を打ち砕く神<金剛崔天(こんごうざいてん)>
④宇宙の創造神<梵天(ぼんてん)>
⑤戦闘神<帝釈(たいしゃく、[梵名]シャクラ:強き者)天>
⑥太陽神<日天(にってん)>
⑦月神<月天(がってん)>
⑧華飾の神<金剛食天(こんごうじきてん)>
⑨土星の神<彗星天(すいせいてん)>
⑩火星の神<熒惑天(けいわくてん)>
⑪破壊と滅亡を司る神<羅刹(らせつ、[梵名]ラークシャサ:悪鬼)天>
⑫風の神<風天(ふうてん)>
⑬出産の神<金剛衣天(こんごうえてん)>
⑭エネルギーの神<火天(かてん)>
⑮福徳の神<毘沙門(びしゃもん、[梵名]ヴァイシュラヴァナ:多く聞く者)天>
⑯世界の維持神、ヴィシュヌの化身。大地を造る神<金剛面天(こんごうめんてん)>
⑰死後の神<焔摩天(えんまてん)>
⑱制御の神<調伏天(ちょうぶくてん)>
⑲知性と叡知の神<毘那夜迦(びなやか、[梵名]ヴィナーヤカ:自分自身で自分を導くもの)天>
⑳水の神<水天(すいてん)>
(3)「マンダラ」<知の表現媒体>
上記、「大マンダラ」が図によって説かれるのは、このマンダラを含め、各種のマンダラがそれぞれの媒体(イメージ・シンボル・文字・作用)によって、同一のことを多角的に表現伝達するという特性をもっているからに他ならない。それらの世界を、ことばによって説こうとすると、ことばはそれらを同時にカバーできない。そこで、図が用いられることになった。形象は多角的なもの同一次元で表現することができるのだ。
そのことによって、存在がイメージをもって直接的に伝わる。
そこに存在の真実のすがたがある。
1、実在する世界は融通無碍であり、観察の対象となる事象のすべては、個としての存在と、全体の中の個としての存在の二面性をもち、その存在には固定した実体がない。また、主体が客体に変換し、主体と客体とが融合するというような様相をももつ。そのように、観察の対象となるものは、観察者が観察する場所と時間によって、そのすがたかたちとポジションを変え、とらえようのないものだから、そのすがたかたちは原型となるもの(如来・菩薩など)によって表象するしかない。その原型なるものが発揮している無垢なる知のちからとはたらきが作用して、物質と空間と生命とによって形成されている一大円輪が秩序を保っているとする図が「大マンダラ」。
2、また、それらの原型がもつ個別の意味を事物によって区別し、暗喩する図が「三昧耶(サンマヤ)マンダラ」。
3、上記の表象とシンボルとによるイメージをことば(概念)にし、さらに、そのフレーズを文字にして記した図が「法マンダラ」。
4、個々の原型が行なう作用を、具体的な作法のかたちにして示した図が「羯磨(カツマ)マンダラ」。
これらの四種のマンダラによって、存在の本質が示される。
「大マンダラ」はその本体である。
(4)「四種法身」<知のありのままのすがた>
『十住心論』第十住心「マンダラ」の『金剛頂経』の章に、「五智よりなる四種の法身」とある。五智とは前項で説明したように「マンダラ」の根幹を成すものであるが、その智のはたらきによって生命のありのままのすがた、すなわち生きとし生けるものの無垢なるすがたかたちがさまざまに顕現しているという意味である。
1、「自性(じしょう)法身」は、個別的なものそれ自身の本性を指し、それらの個別的なものすべてを包括する世界の本性をも指す。その本性とは、自然界に生命が存在し、あるがままに活動していることと、その生命が発揮する知によって、世界の秩序が保たれているということである。(それらの本性を象徴するのが大日如来であるから、大日如来はすべての生きとし生けるものの個々にも宿っている)
2、「受用(じゅゆう)法身」は、受けおさめて自分自身のものにするということであり、生きとし生けるものの個体が、自己の生の楽しみを享受し、他にもその楽しみを享受させて、ありのままに生きるすがたを指す。
3、「変化(へんげ)法身」は、生きとし生けるものの個体が、親から受け継いだ資質と、それぞれの遺伝的個性をもち、ありのままに生きるすがたを指す。
4、「等流(とうる)法身」は、さまざまなすがたを成すもの(多様な種)が、それぞれに同等のかたちをとって流出し、ありのままに生きるすがたを指す。
以上の四種の法身(ありのままのすがた)をもって生命が存在し、それぞれの生命がみな、五つの根本の知を有しているから、共に生きられる。
(5)「三密」<知のあるがままの活動>
五つの質料によって成る生命が、五つの根本の知によって、ありのままのすがたを成して生きている。
では、そのような知とすがたをもつものは、どのような活動をあるがままに為しているのか、それに答えたのが「三密」である。
そのあるがままの活動とは、人間においては、日常の起居動作(身)・言語活動(口)・精神活動(意)の三つによって展開されるものであり、生きとし生けるものにとっては、行動性・コミュニケーション性、それに広義の意味での精神性(神経)の三つによって展開されるものである。
すべての生きもののこれらの三つの活動性は、自ずと五つの根本の知のちからとそのはたらきに呼応するようになっているから、自然界の秩序が保たれている。
このように生命は本来、無垢なる知のちからとそのはたらきにもとづく活動によって生きるのだが、人間のみが知識という名の独自の価値観をもって生きるから、その活動は自然界の営みから遠く掛け離れたところで行なわれるようになった。
自然界の営みにしたがって生きよ、そうして、識別と執着とがもたらす煩悩を打ち砕けと空海は説く。
これが「マンダラ」の思想の帰結なのである。
ブッダは菩提樹下でのさとりの後に、哲学的命題「十二因縁」を提起し、ナーガールジュナがその提起に答えて、「存在の空」を論証した。
モノ・コトの真理を論理によって説いたこの両者に対して、空海は生存していることの真理を「マンダラ」というマルチメディアをもって示し、その図の意味するところによって、迷妄を打ち砕いた。
Ⅳ さとりの理念(果分可説)
こうして、「十二因縁」を命題とした仏教哲学の展開を、ナーガールジュナと空海の思想を通して考察してみると、ブッダの"人間に苦をもたらす十二の原因・条件"には、すでにさとりの要件となるすべてが提示されていると気づかされる。
「人間を含め生きとし生けるものは、生存欲をもって生まれ<無明>、その生存欲によって活動する<行>。そうして、活動(体験)を通じて対象を識別し<識>、識別したものが分類される<名色>。その分類されたものに五感と意識がはたらき<六処>、対象をとらえる<触>。とらえた対象に快・不快を感じ<受>、その快・不快が愛憎を生む<愛>。愛憎が執着を生み<取>、執着するから生存する<有>。生存するから生があり<生>、生があるから老いて死ぬ<老死>。(そのように生死が繰り返されてきて、今、わたくしブッダがここにいる。だから、わたくしの生が寿命によって死へと向かうものであっても、わたくしの今日只今の存在そのものは、わたくしの祖先の生命から幾世代にわたって受け継がれてきたものであるし、次世代に引き継がれるチャンスをもつものなのだ。その奇蹟的なわが身の生命を自覚するならば、識別と執着とが惹き起こす苦悩などは取るに足らないものである)」とブッダはさとっていたのだ。
ブッダが断食苦行を中止し、沐浴によってからだを清め、牛乳粥を摂り、体力を回復し、涼しい木陰に坐したのは、断食や苦行によっては生きていることの真実は得られない、真実の生は肉体と精神の安らぎからこそ得られ、そこに生存していることの意義があると気づいたのだ。(この気づきが、さとりの原点である)
そうして、深い瞑想に入り、実在している自分に目覚めた。(これがさとりの本質である)
では、真実の存在に目覚めるには、自らは何をしなければならないのか。
まずは、清浄に生きることである。
清浄に生きるということはどういうことなのか、そのためには、生存していることのインスピレーションを得なければならない。
生存のインスピレーションとは、生きとし生けるものはみな、無垢なる生存欲にしたがって生活し、自然界とのバランスを自ら計り、無心にその生活と環境を守っているということである。
自然界のバランスが崩れると、生存はないのだ。
自然界を清浄に保つこと、そこに生きているものの根本の努めがある。
それでは、その努めをまっとうするための理念とは何なのか。
それに答えるのが、「五大」「五智」「四種法身」「三密」である。
その示すところは極めて象徴的であるが、その説く内容をよくよく解釈すれば、それらの生存理念とでも云うべきものは、自然界との整合性がよく計られたものである。
その辺りに真のさとりがあると空海は説いた。