◆西部邁の自殺
今年(2018)の1月21日、保守派の論客西部邁が多摩川で入水自殺を遂げた。78歳だった。西部は2015年の『表現者』で、「私は、今、長年の連れ合いに先立たれて、自分の人生は実質的に終わったのだと強く感じている」と告白している。「自分の読者も視聴者も、本気で読んだり観たりしてくれているのは妻一人くらいかもしれない」とも言っている(観るとは朝生TV出演等を指す)。
最愛の妻を亡くした西部は死への思索を深め、病院で治療を受けて死んでいく病院死を否定し、みずからの意志で最期を全うする自裁死を選んだ。自裁死とは聞きなれない言葉だが、文字通り自分で死を裁くことであろう。いかにも意識家の西部邁らしい表現ではある。
立花隆氏の「私の読書日記」(週刊文春)によると、氏は学生時代(東京大学)からマルクス主義運動家の西部の知り合いだったがあまり親しくはなかったとある。思想家、左翼運動家としての西部に対する評価も高くない。「西部は一時期駒場の自治会長をやっただけで、あとは思想的ひねくれものとしか評価できないと個人的には思っている」と締めくくられているだけで西部の内面(死)への眼差しは感じられない。
私は立花氏のように60年安保の左翼運動史に詳しいわけでもなく、西部の運動家としての評価にも関心はない。保守派への転向についても東大教授の頃の論文やその後の著作についてもさほど読んだことはない。
だが自裁死という言葉を発する西部の思想には関心が向いた。西部に対する評価は立花個人の問題であるが、「死」は万人の問題である。立花のような知識人であろうがなかろうが、誰もが書かねばならない人生のエピローグである。人生を一人の人間の物語とすれば、「死という結末」は物語の「結びの言葉」でもある。
西部の最晩年の『生と死―その非凡なる平凡―』(新潮社2017)には、同志ともいうべき伴侶(二人は16歳で出会い、西部は妻を心の故郷と呼ぶ)を失ったあとの、行き場のない空虚とデカダンな生活と思索や思想が語られている。
西部が創刊・主催した『発言者』塾(後の『表現者』塾)は「真正保守」を標榜しているが、親米保守論壇とは一線を画し、日本の対米追従を厳しく批判している。
私が西部に感じるのは、その硬骨な批判精神と、ある純粋な魂と正義感、根深い懐疑心と、そして「孤独」とペシミズム(厭世観)である。彼は迎合を嫌い、政治と大衆の欺瞞を激しく非難してきた。それゆえの論壇での孤立、また孤独感の深さも想像できる。彼の自殺は「孤独」の延長上にあることはまず間違いないだろう。
では、人を死に追いやる「孤独」から現代を見ればどのような時代背景が見えてくるだろうか。まずは今を時めく著名な三人の作家の「孤独論」から覗いてみたいと思う。
◆流行作家の孤独論
孤独本が空前のブームになっているらしい。2017年10月に発売された五木寛之氏の『孤独のすすめ』(中公新書ラクレ)は、年が明けるとたちまち30万部を突破したそうな。
内容紹介には「老いにさしかかるにつれ、『孤独』を恐れる人は少なくありません。体が思うように動かず、外出もままならない。訪ねてくる人もおらず、何もすることがなく、世の中から何となく取り残されてしまったようで、寂しく不安な日々。けれども、歳を重ねれば重ねるほど、人間は『孤独』だからこそ豊かに生きられると実感する気持ちがつよくなってくるのです。」と著者の言葉がある。
エッセイスト下重暁子氏が2018年上梓した『極上の孤独』(幻冬舎新書2018)は10万部で今なお大増刷を重ねているらしい。この本の帯には「孤独ほど贅沢で愉快なものはない」とある。
彼女はこのようにいう。
現代では「孤独=悪」だというイメージが強く、たとえば孤独死は「憐れだ」「ああはなりたくない」と一方的に忌み嫌われる。しかし、それは少しおかしくないか。そもそも孤独でいるのは、まわりに自分を合わせるぐらいなら一人でいるほうが何倍も愉しく充実しているからで、成熟した人間だけが到達できる境地でもある・・・。
同じく曽野綾子氏と乳房温存療法のパイオニアで知られる近藤誠氏の対談集『死ねば宇宙の塵芥』(宝島新書2018)の表紙には、自由で、自立した、潔い老後を送るための心得「老いてこそ孤独を楽しめ」とある。
曽野綾子氏は1931年生まれ、五木寛之氏は1932年、下重暁子氏は1936年生まれで、今年87歳、86歳、82歳と、みな人生経験が長く、しかも元気で今も社会に発信し続けている作家である。
そう遠くない将来、独りあの世に旅立たねばならない高齢者のみならず、孤独は誰にでもありうる人生の一面である。特に人間関係が希薄になったといわれる現代は深刻である。下重暁子氏はそれを「孤独を肯定する本が受け入れられるのはそれだけ孤独と向き合う必要性を感じている人が多いからだ」と解説している。まったくその通りだと思う。
しかしこれらの本の内容は、私がへそ曲がりなのかもしれないが、素直に納得できなかった。中途半端というか、喉に詰まったまま腑に落ちてこないのである。そのようなスッキリしない読後感はどうしてなのか。改めて「孤独」について考えてみることにした。
さて、納得いかない理由の一つは、彼らが語る孤独論がみな一様に孤独を肯定しているという点にある。思考の独自性や表現の自由などをモットーとする物書きが同じようなことをいうと懐疑的にならざるをえない。
二つ目は、「孤独のすすめ」「極上の孤独」「老いてこそ孤独を楽しめ」などというが、そもそも「孤独」は歓迎され推奨されるべきものだろうかという疑問である。世の中には「孤独」に耐え切れずに死を選ぶ人がいることを思えば、「楽しめ」などと安直にいえるのか、という素朴な自問である。
件(くだん)の本が売れるのは、おそらく読者が孤独肯定のタイトルやコピーに何かしら救いのようなものを感じるからだろうと思う。裏返せば、たとえ無意識にしろ、「孤独」の恐ろしさを予感していることの証左である。つまり一連の孤独本が売れる理由は、読者にある種の救世主的な希望を与えるからではないだろうか。
作家の意図か出版社の企画かは知らぬが、よりにもよってみな読者受けしそうな、夢のありそうな孤独本の体裁をなしている。違和感にはそのような読者迎合主義が感じられたこともある。
もちろんどの本も部分的には参考になる。だが本題のテーマはあくまで「孤独」である。ならば「孤独」の内容について書かれていなければなるまい。しかしながら件の書籍は「孤独」の一面しか語らず、いわばコインの片面だけなのだ。コインは両面そろってコインとして流通する。
「孤独」の裏面を紹介せずに表面だけを見せようとするのは、片面だけしか刻印されていないコインを握らせるに等しい一種の詐欺行為に近い。詐欺というのはもちろん寓喩だが、これから人生に漕ぎ出そうとする若者が読めば、将来そのように感じる時がくるかもしれない。
たとえば結婚はコスパ(コストパフォーマンス)が悪過ぎるといい、非婚志向の男女が増加している今日、楽しい孤独論は彼、彼女らに誤ったメッセージを送る可能性がある。もし彼らがこのままパートナーも家族も持たず、老いて本当の「孤独」に直面したとき、「孤独を楽しむ生涯」を目指したことを後悔しないだろうか。
一方『孤独のすすめ』で五木氏は少子高齢化の日本の行く末を憂えている。第3章・老人と回想力の<結婚しない若者>では、日本生命が2015年6月に発表した「結婚に関するアンケート」で、独身者の実に四分の一が、「結婚したくない」「あまり結婚したくない」と回答したというデータを挙げている。
氏曰く、「男女とも理由のトップは『一人でいるのが好き』だったそうですが、私には、その向こう側にも『結婚したら生活が大変』『どうせ僕には、家庭なんか持てない』という心情が透けて見えるように感じられてなりません。(中略)
子づくりはおろか、結婚もせずに、いやできずに一生を送る人間が、このままではどんどん増えていく公算が大きい」といっている。
そういいながら、一方で無闇に「孤独」を肯定すれば「一人でいるのが好き」な若者にますます非婚を奨めるようなものではないか。
無論これらの本は人生後半の生き方を論じるものではある。しかし生涯未婚率(50歳時点での未婚率)が右肩上がりに増加している現代、老後ひとりぼっちになっても「孤独」とはこのように楽しいものだと長老が語れば、未婚の彼、彼女たちは「孤独」の実態を知らないまま非婚生活を続けるかもしれない。それでいいのだろうか。
私は別に結婚を勧めているのではない。いわゆる結婚教の宣教師ではない。結婚が必ずしも幸福を保証するとは限らないし、多様な生き方を否定するものでもない。しかしいずれ両親がいなくなり、兄弟姉妹も少ない現代、「孤独」の恐怖も知らないでおひとりさまの老後を迎えてもいいのかと言いたいのである。「孤独」は高齢者だけではなく現役世代の問題でもあるのだ。
結婚はコスパでも恋愛感情の延長だけでもない。夫婦の愛はもとから存在するのではなく築くものである。結婚とは全的人間関係の構築のことである。言い換えれば構築の決意であり、理性であり、尊敬であり、関心であり、約束であり、相手への全的な投入である。だから山あり谷ありの人生を支え合って生きていけるのだ。
わかりやすく言えば信頼関係のことである。夫婦が「孤独を」支え合うだけの信頼関係を築くには意志と粘り強さが必要で、長い時間がかかる。結婚離婚の繰り返しはそれこそ人生のコスパが悪い。
例え結婚しなくても、信頼できる人間関係を築くことは大切だ。そのためには人間を知ることが必要で、自己理解・他者理解・コミュニケーション能力もそこから育つ。読書はその強い味方になってくれる。五木寛之氏にはそこの部分をもっと語って欲しかった。
よき結婚生活を築くことはよき人間関係の構築であり、人間的成長でもあり、「孤独」の克服力にもなると思うが、そういう問題意識は感じられない。
3人の孤独本は「孤独は人生を豊かにする」「孤独が人を強くする」「孤独力が成功につながる」といった昨今の孤独礼賛ブームの流れにあるようだ。いや古くは90年代後半から流行した「おひとりさま」ブームの系列にあり目新しいものではない。
私はこのような風潮に疑義を唱えたいために三人の「孤独論」を取り挙げさせてもらった。他意はない。このような上辺の風潮を追認するような「孤独論」は、結婚を一度は真摯に考えておくべき若者の思考を停止させてしまいはせぬか。
一人で生きることは自由で利便性もあり、また精神的にも強そうに見えるが、日本少額短期保険協会の調査によると2015年4月~2018年2月に孤独死した人のうち50代以下が4割を占める。識者なら現役世代を襲う孤独死の恐怖も語ってほしい。
また老いれば誰でも人の力を借りなければならなくなる。であれば、長老はむしろ、人間は一人で生き通せるほど強い存在ではないと啓発こそするべきではないか。
よく言われるように、五木寛之氏には若い読者が多い。純文学ほどの深刻さはなく、氏のわかりやすくやさしい語り口の人生論に多くの読者が共感し癒されてきた。高齢者を対象に執筆したとしても未婚の男女も読んでいるのだ。
下重暁子氏は元NHKのアナウンサーで、放送作家から出発した五木氏とは既知でもあり、番組で共に働いたこともある。二人とも公共の電波を通して、また物書きとして、テレビ・新聞・講演など幅広く活躍してきた。ならば孤独の負の側面を語らないのは、メディア人としても言論人としても、人生の先輩としても、次世代に対して不親切であり無責任だという気がする。
「孤独」について気をつけねばならないのは、「孤独」イコール「一人でいること」ではないということだ。一人が好きな人もいるし、独りになる時間も時には必要だろう。英語ではポジティブな意味合いを持ったソリュード Solitude(一人で楽しむ孤独)とネガティブな意味のロンリネス Lonelinessとがある。それぞれ「孤独」が人に与える影響は内容によって異なるのである。
五木氏も下重氏も、そのあたりを詳らかにしていないので、誰にも邪魔されずに一人でいることが「孤独」だと勘違いしそうな内容である。
◆純文学者の孤独
名作といわれる純文学は地獄のような「孤独」を覗きこませる。芥川龍之介もその内実を見据えた一人であった。彼の『孤独地獄』という小品では大酒飲みで女色に沈殿する禅超という放蕩坊主のエピソードが語られている。
坊主がいうには、地獄にはさまざまあるが、おおよそまず根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分かつことができる。たいていは昔から地下にあるものとなっているが、ただその中で孤独地獄だけは山間広野樹下空中、どこへでも忽然として現れる。いわば目前の境界がすぐそのまま、地獄の苦難を現前するのである。自分は二・三年前からこの地獄へ堕ちた。この地獄から逃れることはできない。この苦しみがなくなる方法は死んでしまうより外はない、坊主はそのように語った後しばらくして消息を絶ったという話である。
最後に芥川は「或る意味で自分も亦、孤独地獄に苦しめられている一人である」と締めくくっている。読者はそこで、「孤独」とは地獄のような苦しみであると知る。芥川龍之介は服毒自殺、有島武郎は首つり、蓮田善明は拳銃、太宰治は入水情死、三島由紀夫は割腹自決、理由はどうであれ、いずれも「孤独地獄」に堕ちていたであろうことは容易に想像できる。
「孤独」は物理的に一人の状態をさすのではなく「心の問題」である。したがって孤独感と抑うつ感は相関し、それが進行して精神を病んだ時に命を絶つことがある。「孤独」は各種の精神障害を招く主因なのである。芥川は実母の精神病の遺伝にひどく怯えていたというから、芥川の「孤独」はすでにうつ病的であったのかもしれない。
精神障害を抱えた作家は沢山いる。トルストイも夏目漱石もエドガー・アラン・ポーもそうである。北杜夫が双極性障害だったことは有名である。フランス革命期の貴族の小説家マルキ・ド・サドの作品はほとんどが獄中や精神病院で書かれているし、アメリカの女性作家シルビア・プラス(ガス自殺)も、『老人と海』でノーベル文学賞を受賞したアーネスト・ヘミングウェイ(ライフル自殺)も精神障害を病んでいた。
彼らの病が純粋に医学的、病理的由来のものであるかもしれない。だが「孤独」は病気を進行させる大きな要素で、心身を損なう恐怖の種であることは確かである。「孤独」が楽しく愉快なものならば自殺するわけがなかろう。
◆五木寛之の「孤独」の内実
もし楽しい「孤独」というものがあるのなら、それは一体どういうものか。五木寛之氏はこのように語る。
「歳を重ねれば重ねるほど、人間は孤独だからこそ豊かに生きられると実感する。孤独な生活の友となるのが、例えば本である。読書では古今東西あらゆる人と対話ができる。本を読む力が失われたとしても、回想する力は残っている。残された記憶をもとに空想の翼を羽ばたかせたら、脳内に無量無辺の世界が広がっていく。誰にも邪魔されない、ひとりだけの広大な王国である。孤独であればあるほど、むしろこの王国は領土を広げ、豊かで自由な風景を見せてくれる。孤独を楽しむのは、人生後半期のすごく充実した生き方のひとつだと思う」(『孤独のすすめ』―はじめに―より)
「孤独」が氏の言うようなものであるなら、人生後半期ではなくても味わえる。例えば引きこもりの若者。彼らは自室に閉じこもって 誰にも邪魔されないでひとり空想の翼を広げている。違いは生活の友となるのが読書ではなくネットである。ネットにも無辺無量の世界が広がっており、何百人の人と対話できる。それでもSNSの世界は虚構であり彼らの心は「孤独」に沈んでいる。
ちなみに引きこもりの高齢化も問題になっている。だから逆にパラサイト生活を続ける中高年の引きこもりを抱える高齢の親からの悩み相談も多い。40代、50代の引きこもりはほとんどが未婚者。若い頃、学校や職場のいじめなどが原因で引きこもりになり、うつ病になり、働くことができない。したがって自立できず、本人は悶々と苦しみ親もどうしていいかわからない。そういう中高年の子どもを持つ親達からの悩みで、こちらもうつ状態である。
いずれにせよ「孤独」が人を死に追い込むトリガーになることは心理学的にも明らかにされている。当該書籍を読む限り五木氏がそういう「孤独の内実」を述べているとは思えなかった。
◆下重暁子の「孤独」の内実
さて下重暁子氏の『極上の孤独』を見てみよう。カバーには彼女の経歴がある。「早稲田大学教育学部国語国文科卒業後、NHKに入局。トップアナウンサーとして活躍後、フリーとなる。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。ジャンルはエッセイ、評論、ノンフィクション、小説と多岐にわたる。公益財団法人JKA(旧日本自転車振興会)会長等を歴任。現在日本ペンクラブ副会長、日本旅行作家協会会長。『家族という病』『家族という病2』など著書多数」とある。
戦後日本の女性としては、働く女性を絵に描いたような実に華々しい経歴である。彼女は夫婦同姓を明治時代からの制度であり、伝統でも何でもないとして、選択的夫婦別姓にも賛同している。また50万部のベストセラーになった『家族という病』で、彼女は家族の価値を否定し、自立した個人の重要性を強調している。そのためか女性の自立を目指す同性の共感を集めているようだ。
下重氏の「孤独論」の一例を挙げればこうである。
「淋しいと孤独は違う。話し相手がいないから淋しくて、孤独。そんな安直なものではないはずである。(略)淋しいとは一時の感情であり、孤独とはそれを突き抜けた、一人で生きていく覚悟である(略)淋しいから死を選ぶという前に、ちょっと待って欲しい。誰もわかってくれなくたっていいではないか。一人のほうが、自分の好きなことやしたいことがいくらでもできる。他人に認められずとも、自分だけでいいではないか。『孤独はみじめ』なんかじゃなし、『孤独はみじめ』だと思うことこそ、問題があるのだ。『孤独』の中で、自分を見つめることは、実に愛しいことではないか。そんな自分を抱きしめてやる。そういった発想がなぜできないのかと悔やまれて仕方がない」
このような孤独論は「孤独」に悩む人の気持ちを全く理解していない。何よりも「淋しい」から死を選ぶというのも人間洞察が浅い。人間は「淋しさ」だけで死ぬことはない。人を死に追い込むのは絶望という名の「悲しみ」である。これも心理学上明らかにされている。
彼女の言葉は成功した人の「人生論」であり、孤独地獄をさまよう人々にとっては「だから頑張りなさい」という叱咤にしか聞こえないのだ。
人は生まれたときから頑張っているのである。たまたま何らかの挫折が原因で今もがいているだけである。頑張って、頑張って、力尽きそうになっている人に頑張れというのは、弱っている人をさらに鞭打つことになる。
また「他人に認められずとも、自分だけでいいではないか。孤独はみじめなんかじゃないし、孤独はみじめだと思うことにこそ、問題があるのだ」というのも、本人は激励のつもりかもしれぬが、このような物言いも相手を責め立てる説教にしかならないのである。
こう言われると、孤独をみじめだと思う自分、頑張れない自分、問題がある自分を責め始め(自分いじめ)、うつ状態はますます進行し、最後には自分の存在自体を否定し絶望の果てにこの世から消えたいと思い始める。
責任感が強く真面目な人ほど自殺念慮は強くなるのだ。このような人たちの相談を受けている私には、強者の弱者いじめにも似た軽薄な「孤独論」に見えてくる。
産業能率大学が20~50代のビジネスパーソンを対象として2011年に実施した調査によると、「職場で孤独を感じることがありますか」という問いに対して、「よくある」「時々ある」「たまにある」と答えた人の比率は6割に上る。「孤独」は職場でも感じる身近な問題であり、一歩間違えればうつ病を誘発するのである。
無縁社会の都会の片隅で、単身所帯の「孤独死」は増加の一途をたどっているというのに、ニュースキャスターとしてさまざま社会問題を報道してきた人なら「孤独」についてもう少し別の書きようがあろう。
また「たとえば孤独死は『憐れだ』『ああはなりたくない』と一方的に忌み嫌われる。しかし、それは少しおかしくないか」とも仰せだが。少しもおかしくはない。非正規労働者が4割という不安定な格差社会で、年金も危ぶまれ、若者ですら将来の不安を抱えている。さらに「下流老人」の「孤独死」の問題化が報じられて久しい中「ああはなりたくない」と思うことのどこがおかしいというのか。
実際現代はすさまじい老後格差が発生している。核家族化が進行し、経済的理由から子どもすら頼れないケースが増えている。物理面、精神面、経済面と、さまざまな側面から高齢者の孤立が問題になっているのだ。
世話をする身内のいない高齢者にとって、介護施設、いわゆる「老人ホーム」は最後の拠り所となるべき場所といえるが、それすら今は簡単には入居できない。例えば「特別養護老人ホーム」であれば、まず介護度合い、身元保証契約に毎月の諸費用など、入所審査をすべてクリアしても、入所までに3~5年待ちはザラである。
それらすべてをもたない人、話し相手は飼い猫だけ。貧しくて食べ物もままならず病院にも行けない。入院するにも身元保証人や連帯保証人もいない。体は重い障害を抱え、病に伏せても気遣ってくれる人もいない。不安と絶望の中で、死にたくても死にきれない人もいる。
重要なのは彼らの不安の根源的原因は社会から孤立していることである。全く社会的つながりが絶たれ、自分に関心を払う人すらない。その悲しみが絶望を招く。それでも自分は生きなければならないのか、生きる意味があるのか、泣きながら切々と訴えてくる。こういう人たちの悩み相談を受けている私には、下重氏の言葉は上滑りで実感が湧かないのである。
彼女は一人でも生きていける精神の保ち方を語る。例えば「一人の時間を孤独とは捉えず、自分と対面する時間だと思えば、汲(く)めども尽きぬ、ほんとうの自分を知ることになる」といい、自分が物書きとして、一人空想や思索に耽溺する時間がいかに充実したものであるかなど、「孤独」の効用を語るのだ。
それは五木氏の孤独論もほとんど同様である。言いたいことはわかるが孤独な人から見れば、まるで生活苦のない富裕層の「たわごと」にしか聞こえないだろう。
50代のある男性の事例である。失業と同時にあらゆる人間関係が切れて社会からも孤立してしまい、今は人の声が聞きたくなると、淋しさから0120で始まる通販の無料電話をかけているとのこと。買う予定もなくその資金もないのに・・・この話を聞いたとき、私は彼の孤独の深さに言葉を失った。
「孤独」とは他者の関心が途絶した状態である。マザー・テレサが「愛の反対は憎しみではない。それは無関心だ」といったが、無関心がどれほど恐ろしい結果につながるか、私たちは最近も目の当たりにしている。
今年3月、目黒区に住む5歳の結愛(ゆあ)ちゃんが両親の虐待で絶命した。死後結愛ちゃんが習ったばかりのひらがなで懸命に両親に訴えるノートに日本中が涙した。「ママ、もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから きょうよりかもっと あしたはできるようにするから もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします ほんとうにおなじことはしません ゆるして・・・」
食事は一日一食、お椀三分の一程度のご飯とみそ汁だけ、真冬に冷水シャワーをかけられたり、霜焼けができるほどベランダに放置されたりしながらも幼い命が必死で細い糸にすがろうとしている。この子にとってそれでもすがる相手は親しかいなかった。そして結愛ちゃんは体重12キロになって、ついに栄養失調で息絶えた。
これは子どもに対する大人の無関心である。父親(33)と母親の両容疑者(25)は"しつけ"が目的だから無関心ではないというかもしれぬが、これほど無関心な事はない。人間を自分の思いどおりに支配しようとすることほど愛の欠落はないのだ。それは結愛ちゃんをモノ扱いすることである。
マルティン・ブーバーはその関係を「我とそれ」といい、「我」はいくら「それ」に関わったとしても人間疎外的な関係であるという。つまり相手に対して人間としての無関心が「それ=モノ」扱いにするのだ。その無関心が相手を「孤独」に追い詰めるのだ。
ブーバーは「我-それ」に代わるものとして真に大切なものは「我と汝(なんじ)」の関係性だという。全的人間関係のことで、つまり愛のことである。人間として扱われないことは最大の「疎外」である。
児童相談所も最終的に救えなかった。あの子を殺したのは私たち周囲の大人の関心の低さだった。幼すぎて分からなかっただろうが、あの子にとってこれほど絶望的な「孤独」はなかった。
こうしてみると五木氏も下重氏もリアルな「孤独」を語っているとは思えない。二人のいう「孤独」は、「孤独な人」にとっては眩しすぎるだろう。
◆高齢者の孤独
日本では核家族化や年金問題等、高齢者を取り巻く環境は悪化しており、近年うつ病を患う高齢者が増えている。身体的、精神的な衰えが増すのに加えて、子供の独立や、近親者との死別など、孤独感を感じることが多く、「老人うつ」を発症してしまうのだ。
国立社会保障・人口問題研究所の調査が示しているように、2030年には65歳以上の独り暮らしが40%近くになる。物理的孤独度も増すわけだから、このままでは「老人うつ」も大きな社会問題となるだろう。
五木氏や下重氏のように、歳を重ねるほど孤独(一人)が楽しいといえるのは、現役で社会とのつながりがあるからである。しかしそういう人たちも体が動かなくなればいずれ本当の「孤独」に直面するだろう。
一般的に高齢者になるほど、自殺率も高まる。健康上の不安、仕事(生きがい)の喪失、金銭の不安、連れ合いの喪失など動機はさまざまだが、それらはみな「孤独」につながっていることは否めない。
また日本では独居老人の「孤独死」が問題になって久しい。物理的に孤立することで、体調をくずしても適切なケアが受けられず、死に至る恐怖は多くの日本人に共有されている。高齢化先進国の日本の「孤独死」は世界的に注目されており、「コドクシ」は世界の共通語にもなっている。
また日本は先進国の中で自殺率もトップクラスだ。現役世代の自殺も深刻な問題となっている。厚生労働省の発表で、男性の場合、10才から44才までは、自殺が死因の第一位であるという。自殺と「孤独」が密接に関連しあっているのは、孤独感と抑うつ感が関連していることによる。うつ病はさまざまなケースにおいて、いわゆる「つながり」や「きずな」を持たない人に発症することが多い。
それは有配偶者と未婚を比較すれば歴然としている。人口10万人当たりの自殺死亡率は、たとえば50代の有配偶者24.0%に対し未婚は61.3%である。しかも高齢になるほど高くなって、60代では有配偶者26.0%に対して未婚は85.0%である。(2014年厚生労働省自殺対策推進室)つまり有配偶者に比べて単身者の自殺率が著しく高くなっているのである。
本質的な問題は「孤独死」ではなく「孤独による死」である。
◆西部邁にとっての死
西部邁をとおして知識人の自殺を考えると、知識人の意識問題が見えてくる。自裁死などと理屈をつけると、こちらも理屈で反論したくなる。そうならばなぜ自裁生といわぬ。西部がこのことを深く考えた形跡はない。
自裁生、それが無理なことは自明だからだ。「自分が裁量して生まれる」ことはできないからである。意識をもった時にはすでに母親の「産む」という行為によって「生み出されていた」からである。
つまり「生」は他力である。ならば「死」も他力ではないのか。確かに自殺は自力のようには見えるが、これを「死」を裁量したと思うのは知識人の傲慢ではないか。
例えば末期がんの患者が迫りくる「死」を裁量できるだろうか。医療技術によって多少死期を延ばせたとしても本質的に「死」は自裁できないはずだ。生・老・病・死は自裁不可ということである。それが釈迦の言う「苦」の意味である。
ここに人間の力を超えた問題が立ち現れてくるはずだが、死それ自体についての唯物論者である西部が宗教的なものに心を動かされた様子はない。
では命をどのように考えればよいか。「他力」によって生み出されたのなら、命は与えられたものだと考えられる。これは理論家の西部なら否定はすまい。たとえ欲しくはない命でもともかく与えられたのだ。しかし与えられた以上は自分のものである。つまり命は自己の所有物だから所有者の裁量で放棄することも出来る。近代経済学者の西部はそのように考えたのかもしれない。いや自殺者の多くはそのように思っているところがある。近代人の通念ともいえるこの感覚の底には、私有財産制を認めた資本主義の思想があるように思われる。
この思想のもとは17世紀のルネ・デカルトから始まったと思われる。デカルトの近代的自我の発見は「神によって与えられた、疑いえない真理・知識・秩序」から、「人間の自我(理性)が発見し活用する真理・知識・自然法則」への転換を促進したからである。
ルネサンスの後期からすでに、孤立の増大へ向かう流れは、個人に焦点を定めた新たな文化的視点によって始まっていた。産業革命前夜、新しい世代は、初期キリスト教の神学者やアリストテレスのような古代の賢人に代表される古い権威に盲従する考えに反旗を翻し、すべての根本となる原理を合理的思考に基づいて作り直そうとした。それ以後西欧社会は神よりも人間(個人)というものをすべての中心に置くようになる。
この哲学史における「自我」の発見と確証が人類史にもたらした衝撃は大きく、民主主義、自由主義にもとづく政治運営や資本主義という経済システムや科学技術を活用した文明生活も近代的自我がなければ実現することがなかったと言えよう。
やがて神から離れた近代的自我の不安が始まる。19世紀、西洋社会を覆った虚無主義(ニヒリズム)は、神という権威=故郷の喪失でもあった。
「故郷喪失」は人間を根深いところで不安にする。なぜなら人類が社会的動物といわれるのは、依るべきもの(それは家族でも村でも郷でも国家でも宗教でも何らかの共生集団でもよい)が必要だからである。この感情は、逆に言えば人は一人(個人)では生きていけないことを示唆している。
ここに西欧の最大の病理的症状(ニヒリズム)の正体が、実は「孤独」であったことがわかる。神のくびき(または絆)を断ち切ったあとの、近代人の孤立感といってもいいが、合理主義者の西部の自裁死にもこの気分を感じる。
私がなぜ西部の自裁死にこだわるかと言えば、死の裁量という思想はベクトルを変えれば生の裁量ということになるからである。死の裁量の逆理は生の裁量のことである。それは生命自体を改造していく現代の「生命操作」を認めることにつながるからである。
先端医療技術は飛躍的に発展し、現代は人工授精や臓器移植や延命治療や、果てはクローン技術など、個人の欲望(生命操作)に歯止めがかからなくなってきたように思える。「個人主義という新たな神」を掲げたはいいが、個人主義と自由と自己責任が新たな「故郷」とはなりえないままに、「孤独」は今世紀も人類社会に拡がり続けている。
◆世界の孤独
2018年の8月、アメリカ・ブリガムヤング大学のジュリアン・ホルトラインスタッド教授(心理学)が、アメリカ心理学会で、孤独の影響について発表し、「世界中の多くの国々で『孤独伝染病』が蔓延している」と警告を鳴らし、大反響を呼んだ。
世界の主要メディアではここ数年「孤独」に関する報道が頻繁に登場するようになった。「社会的孤立が私たちを死に追いやる」(ニューヨーク・タイムズ)「中高年の男性にとって最大の脅威は喫煙でも肥満でもない。それは孤独だ」(ボストン・グローブ)「慢性的な孤独は現代の伝染病」(フォーチュン誌)等々。
日本と同様に少子高齢化が進むイギリスでは、今年(2018)1月メイ首相が「孤独担当大臣」を新設して世界を驚かせた。「孤独」という人間の内面にかかわる問題に政府が踏み込むのは前代未聞で、多くの海外のメディアがこのニュースを報じた。
年間4.9兆円の損失。これは英国で試算された「孤独」が経済に与える影響だ。人口約6500万人のうち、900万人以上が「常に」あるいは「頻繁に」孤独を感じているとされる英国で、政府が「孤独」に対する国家的な対策に乗り出したのだ。
アメリカでも世界最大の高齢者団体、AARD(全米退職者協会)が2010年に45才以上のアメリカ人を対象に行った調査で、35%が「孤独」であると回答した。元政府高官も2017年ハーバード・ビジネス・レビューに衝撃的な論文を載せて話題になった。「孤独は伝染する病。テクノロジーで最も人とつながっている時代なのに、孤独は1980年の2倍になった。米国の大人の4割以上が孤独を感じている」と発表した。
また「孤独」は自殺を誘発するだけではなく健康にも悪影響を及ぼすという。「孤独」でいることは1日にたばこ15本以上吸うのと同じくらい健康に悪いという研究もある。千葉大学の近藤克則教授は「人との関りが少ないと認知症や介護認定率が上がることが疫学研究で分かっている」と話す。
このように世界中で「孤独」と病気や死に関する研究が進んでいる。分かっているだけでも、「孤独」は心筋梗塞や脳梗塞の発症リスクを1.2倍から1.5倍も高めることが確認されている。2型糖尿病(生活習慣による糖尿病)のリスクは3割から5割も上がるそうである。高血圧も増え免疫力も下がる。まさに「孤独」は万病の元なのだ。
つまり孤独問題は公衆衛生上の大問題でもあり、ひいては深刻な経済問題でもある。高齢者はもとより、現役世代の「孤独」の放置も労働力の低下につながり医療費や介護費が増えるというわけである。「孤独」によるその経済的な損失が英国では年間4.9兆円と見積もられているのだ。
米国誌ニューヨーカーは英国と同様に「孤独な国」として日本を挙げた。日本の人口はイギリスの2倍だから、「孤独」がもたらす経済的損失は10兆円を超えていることになる。こうなると「孤独」はいまや国家的な大問題といえよう。
日本の将来はもっと暗いという学者もいる。東北大学の相田潤准教授らが日本人と英国人を10年間追跡調査した結果、日本人のほうが本来家族とのつながりは英国人よりも強く、家族とのつながりが寿命を延ばす要因になっていたそうである。
しかし核家族化によって地縁血縁というつながりは薄れる一方である。
日本人が「孤独」に陥るリスクの一つとして挙げられるのが、未婚化の進展もある。生涯未婚率は上昇が続いており、2015年では男性のおよそ4人に1人、女性のおよそ7人に1人が一度も結婚をせずに独身を貫いている。単身人所帯の増加もまた日本の「孤独」をより深刻にするだろう。
そうならば「孤独」な人をどう減らすか国家レベルで考えなければならないが、日本は「孤独大国」であるにもかかわらず、孤独対策の最後進国であると『世界一孤独な日本のオジサン』の著者岡本純子氏は警鐘を鳴らす。
私は「孤独」が国の対策だけで解決するとは思えないが、ただ冒頭に紹介した3人の作家の孤独論でもわかるように、教養も良識もある識者ですら「孤独」の認識は主観的で情緒的である。
このように日本では「孤独」は人生論や文学などで取り上げられることはあっても、社会問題や病理学上の問題としての認識が低い。「孤独」についての客観的な知見が乏しいということは、言い換えれば「孤独の研究」が遅れているということであろう。
◆「孤独」の科学
人間は生まれつき社会的動物である。個人は絶えず他者との関係において存在している。健康や幸福度を決定する最大の要因は人と人との(つながり=愛)だ。これは多くの医学的研究からも明らかになっている。
アメリカの心理学者マズローの「欲求五段階説」によれば、人間の欲求は五段のピラミッドのように構成されており、低階層の欲求が満たされると、より高い階層の欲求が現れるとされる。その階層は次のようなものだ。
第1階層―生理的欲求(本能的欲求=食欲、性欲、睡眠欲など)
第2階層―安全欲求(危機を回避し、安全・安心な場所や状態を求める)
第3階層―社会的欲求<帰属欲求>(集団に属したり、仲間とつながっていたいという欲求)
第4階層―尊厳欲求<承認欲求>(他者から認められたい、尊敬されたいという欲求)
第5階層―自己実現欲求(自分の能力を最大限活かし、「あるべき自分」になりたい欲求)
これは、人間は自己実現に向かって絶えず成長するという仮説をもとに作られた理論だ(ちなみにマズローは晩年自己実現欲求の上に六段階があると訂正している)。
「孤独」は人間の基本的な欲求の欠乏を知らせるシグナルなのであるが、この欲求が第2段階の<安全欲求>と3段階の社会的欲求<帰属欲求>にあたるだろう。とりわけ<帰属欲求>が愛と親密さのことで、別名「所属と愛の欲求」ともいわれている。
この理論は原始人を考えれば確かに当てはまる。初期の人類は一人(個体)で生活するという方式ではなく、群れとして生き残ってきた。集団でいたほうが安全で生存の可能性が高かったからである。狩猟も含めて外敵と戦う場合も集団で力を発揮することで我が身を守り仲間を守ってきた。
この集団=安全(つながり=安全)は現代人にもすぐに理解できるだろう。雪山の登山パーティーから一人だけ離れてしまえば、仲間がいれば解決できることも致命的な事態を招くことがある。キャラバン隊も集団で身を守り指揮者(隊長)の指揮のもとに隊列を組んで一貫した統一行動をとる。もし砂漠のど真ん中で一人取り残されれば命を落とす危険性があるからである。これらも、もともとは集団と「つがっていなければならない」(帰属欲求)という本能的欲求で、原始時代よりヒトにプログラミングされているのだ。
本来「孤独」とは「生きるため」のこの欲求を絶たれたときに感じる不安感のことである。雪山や砂漠で仲間から離れてしまったときの不安感が絶望に変わるのは命に係るからである。この身体的脅威をいいかえれば「独りでいるときの苦痛」である。
それについてオハイオ州立大学のジョン・カシオボ博士とその研究仲間が20年あまりに及ぶ科学調査による「孤独」の科学的分析でまとめている。
彼らの研究は、学問領域や各種の機関、国家の領域をもまたぎ、研究の範囲は多岐にわたり、多様な分野の科学者の協力を得て膨大で豊富な科学の研究成果を得た。
そのなかで社会的孤立すなわち「独りでいるときの苦痛」について、たとえば社会秩序に反する行為があった場合、社会的なつながりの拒絶によって罰せられることを挙げている。
いわゆる「村八分」で、意図的に与えられる苦痛だ。歴史的にも追放という刑罰は、死刑や拷問を除けば、最も厳しい刑罰であり続けた。今日でさえ近代的な矯正施設で最後の処罰手段として独房監禁が行われているのも決して偶然ではないと。
「孤独」は誰にでも共通する「苦痛」なのである。村八分が死につながることは、子どもの自殺が仲間外れから始まることでも理解できよう。
隔離や分離は恐怖なのだ。逆につながっているという安心感は別名「愛」とも表現する。かのエーリッヒ・フロムは新生児が母体から分離するときに原初的な不安を経験するといい、分離したものが再び合一を求めようとする欲求を「愛」といった。「愛」とは「分離の克服」だという。
人間のもっとも深い欲求は、その分離を克服し、「孤独」というその牢獄から逃れたい欲求であると言うのだ。その完全なる解答は、愛における対人間的合一(結婚)、もうひとりの人との融合の成就にあると言い、それは人間(相手)を知ることだという。カウンセリング用語でいう自己理解・他者理解の本質を突く言葉である。
しかも人間を知るという行為は神を知るという宗教的な問題と並行するものであり、人間との合一体験、すなわち宗教的に言えば神との合一体験は決して不合理なものではなく、シュヴァイツァーが指摘したように合理主義の結果であると、愛の衝動を神との合一に見ている。
フロムなどを思い起こしてみても、やはり五木氏も下重氏も「孤独」について深く掘り下げないまま論述しているように思える。それを言うなら『孤独のすすめ』ではなく『ひとり時間のすすめ』、『極上の孤独』でなく『極上のひとり時間』とでも言うべきではないか。
◆西部の生命観
自裁死を選んだ西部の生命観は、資本主義に通じる私有財産観にあったことは先述した。命は与えられたものでも、授かったものでもない。では「他力」によって「産み出される命」をどのように考えればいいのだろう。
私は命とは「預かったもの」だと考えている。「預かる」という意味は物事の管理・運営を任されることで自分のものではない。好き勝手にできるものではない。保管や世話を引き受けるだけである。
そういう意味で自裁死(自殺)は命の盗用になるのだ。むろん他殺も他人の命の盗用で自殺と他殺は同じ事なのだ。
それでは、「他力」は一体何のために人間に命を預けたのか。生物科学的に答えれば、子孫を残すためである。「種の保存」のためである。このことは生きとし生けるものすべてが内包する命の真相である。
オスのカマキリは交尾をすることを最終目標にして、交尾の後はメスのカマキリに頭から食べられてしまう。鮭も長い旅をして故郷の川に戻り、産卵が済めば死んでしまう。動物の体は遺伝子を次の世代に伝える乗り物のようなものである。つまり子孫を残すまで命を預かっているのだ。これが命の実相である。
この任務を達成するために動物には二つの重要な本能が備わることになった。一つは自分の命を守る、生きるという本能だ。生きていれば交尾ができ自分の子供を育てることができるが、交尾の前に死んでしまえば自分の遺伝子はそこで途絶えてしまう。だから動物は死にたくない、自分だけは生き残りたいという欲求を強く持つようになった。
もう一つの本能は、仲間を守るという本能である。仲間を助けるということは結果的に自分自身を生かす道であり、自分の遺伝子を残していくための有効な戦略だからだ。これを"種の保存の"欲求という。
群れを救うために警告の叫びをあげる鳥や動物は、迫りくる敵に真っ先に襲われる危険を冒すことになる。ミツバチは巣を脅かす侵入者を刺してから体を離すと、針と毒腺が引きちぎられ、死ぬ。今日では巣を守るために文字通り自爆するアリがいることも知られている。
このような他者志向の行動は、進化の観点から、自分の命と引き換えにしても群れに警報を発したり守ったりするように、個体の中に向社会性遺伝子が組み込まれていることが分かっている。
つまり命というものは、命をつなぐという任務を果たすために自然(他力)から「預かっている」ということだ。命を「与えられた」と思うのは人間の所有意識による誤認である。誤認の上に自裁死があるのなら、それもまた「死の誤認」だといえる。
◆究極の孤独
貧困の概念に「絶対的貧困」と「相対的貧困」がある。「絶対的貧困」とは途上国で飢餓に苦しんでいる子どもや、海外のストリートチルドレンのように毎日の食糧に欠き、家もないなどの人間として生きるために最低限の生存条件を欠くような貧困のことを意味する。
「相対的貧困」は、簡単に言えばその社会においてほとんどの人が享受できる「普通の生活」を得ることができない状態を指す。つまり、その国の文化水準や生活水準に比して、適正な水準での生活が困難な状態を指す。
私は「孤独」にも「絶対的孤独」と「相対的孤独」があるのではないかと思う。
三島由紀夫や西部邁などの孤独は「相対的孤独」といえる。彼らは社会と全く孤絶していたわけではない。それどころか支持者や愛読者は大勢いた。死ぬ時ですら、傍らには彼らを敬い協力する人がいた。
では文明社会に生きる人間は「絶対的孤独」に直面することはないのだろうか。
日常目を背けているが、実は誰でも心の深部で「絶対的孤独」を自覚している。それは「死」である。ここにあらゆる不安の源泉があるのだ。
「死」は無情にもこの世の「つながり」すべてを断ち切る。そしてたった独りであの世に旅立たねばならない。あの世を信じない人間にとっては、曽野氏と近藤誠氏の対談のように「死ねば宇宙の塵芥」である。いずれにしろ、どんなに強い愛情で結びついている夫婦であれ、親子や親友であれ、現世のすべてのつながりが断絶するのである。釈尊のいう愛別離苦である。
世界はさまざまな孤独対策に取り組んでいるが、それでも絶対に救えない「究極の孤独」というもの、それが「死」である。
高齢者の保護に力を入れているオランダは、孤独な老人たちが自己決定で死を選べる「安楽死」を容認している。ただし政府は孤独問題と「安楽死」は全く別物で、「安楽死」は、回復の見込みがなく、耐え難い痛みのある病が対象であると一応規定している。日本では「安楽死」そのものが認められていない。
仮に将来「安楽死」が認められるようなことがあっても、医学では解決できないものがある。それは「絶対的孤独」と相関する「心の安楽死」である。終末期だれもが直面する問題である。
◆神仏の「有」と「無」
「自裁死」を死の誤認だといったが、「安楽死」も死の裁量という意味では基本的に同じである。死ぬときは他力(神でも仏でも偶然でもいい)が決めるものであって、やはり他力にまかせるのがよいと思う。
そうは言っても慌てる人もいる。医師の近藤氏によると、お年寄りは口癖みたいに「いつ死んだっていい」というが80、90歳になっても、癌になるとすごくあわてる人が多いのに驚いている。「死にたくない願望」の強さを思いしらされるたびに、死を迎える心構えの必要性を感じるそうだ。
曽野綾子氏はクリスチャンだから信仰がそこを支えているようだ。彼女によると、親しくしていた作家の上坂冬子は生前、人間は死んだらゴミになるといっていたそうだが、キリスト教徒の曽野氏はあの世は「ある」方に賭けることにしているという。(『死ねば宇宙の塵芥』)
彼女に共感する人は多いだろう。そう思っている方が死後に夢があり幸せだからである。しかし唯物論者は神もあの世も「ない」という。理由は神仏も死後の世界も、その存在が客観的に証明されていないからだ。
しかし証明されていないものは「無い」というのは拙速ではないか。科学は宇宙のすべてが分かっているわけではない。我々は四次元の世界までは理解できるが、n次元の世界については未経験である(理論上は十次元まであるらしいが)。
すなわち「無い」という証拠を科学的に証明できないのであれば、もしかすると「ある」かもしれない。だから曽野綾子氏は「在る」方に賭けた。この議論は結局「有る」と「無い」のどちらかを信じるしかないのだろうか。信仰問題に行き着くしかないのだろうか。
個人的なことを言えば、私は曽野綾子氏の信仰心に疑問がある。彼女は「あの世はある方にかける」というが、それは「ないかもしれないが、私はある方に賭けた」という、疑いを含めた告白である。ならば信仰は丁半博打か?
密教徒の私は、神の「いる」方に賭けたのではない。身近に神仏の存在を感じるから信じざるを得ないのである。博打を打ったわけではないのだ。
ここで少し孤独論を離れて神仏について語りたいと思う。なぜならそれは本論の結論に到る重要な点だからである。
仏教は他の神話的一神教に比べると論理的であり科学的な側面が強い。古今東西の哲学者や科学者が仏教理論に注目してきたのにはそれだけの理由がある。
五木氏はブッダの「生まれを問うな。行いを問え」という言葉から仏教の根本原理を平等だと言う。「世の中に変わらないものは無い」「出来事には必ず原因がある」「すべての人間は平等だ」この三つの柱が仏教というものだといい、それ以外はすべて仏教にはぐくまれた文化であり、派生した「思想」であると述べている。(生き抜くヒント・『週刊新潮』連載第205回)
ということは彼の大好きな親鸞の浄土真宗も派生した「思想」だということになる。広い意味ではそのようにも言えなくはないが、龍谷大学で仏教史を学んだ人ならもう少し正確に語ってほしい。
なぜなら「思想」には価値や存在の根拠に合理性、論理的思考が求められるが、「宗教」は超越的・絶対的な存在への「信仰」だからである。私は浄土真宗を「宗教」だと思うが、五木氏によると、そうではないらしい。
だが親鸞の説いた往還二種回向とは、この世と極楽の往復のことである。これは親鸞教の中心教義である。あの世の存在は非科学的だと言われようが、極楽往生を願う浄土真宗はまさに「宗教」である。
もし教団側が現代では極楽往生などということはないと言うなら、親鸞上人を祖師と信仰しながら教祖を裏切るという矛盾を犯すことになる。もし門徒が極楽を合理性がないと否定すればすでに信者とは言えなくなる。
このように「思想」と「宗教」とは基本的に全く別物である。「孤独」と同様に、五木氏はこのあたりも誤解されやすい表現をしているような気がする。
私は氏のいわんとする「四姓平等」「諸行無常」「縁起の理法」を初期仏教の根幹にすることに異議はないが、それ以外の仏教(大乗仏教のことらしいが)を文化や思想などと言わずに。あくまでも「宗教」だと言うべきだ。
その根拠は、論証できない神仏の有無を「有」と信じているからだ。浄土真宗は阿弥陀如来の導きで往生する極楽を「有」と信じ、キリスト教も天国と神の存在を信じて疑わない。例え博打だろうがこれを疑えばキリスト教ではなくなる。
仏教も哲学的ではあるが究極的には「宗教」である。なぜなら仏教の背景には神仏が存在するからである。
ところが・・・である。このような主張に対して仏教学者や多くの僧侶が反論するのである。なぜなら仏教は人間が「有」と思い込むところに執着と煩悩が生じるので、固定したもの、恒久不変なものはこの世には何一つなく、「空」と照見するところに覚りがあると説くからだ。(「空」は「無」ではないのだが!)
「有る」ように見えるのは因縁生起する現象にすぎず、すべての存在は互いに関係しあってはじめて自らの現象という存在が成立する。存在したものは一瞬たりとも留まることがなく無常である。そして諸法無我であり、無自性だというのである。
仏教でいう「法」の定義は多義にわたるが、この世の「万物存在の理法」のことだとすれば、彼らの仏教はこの宇宙の真理(法)すらも「法空」とする。
すると浄土真宗の拝む阿弥陀如来も、密教の法身仏(大日如来)も「空」ということになり、密教はありもしない宇宙仏を拝んでいることになる。
だが重要なことは「空」は理論だけで覚れるものではないということである。
古代インドでは物事を生み出し形成する「はたらき」をもつもの、すなわち「結果」を出す「原因」となるものは何かと考えたようだ。そこでウパニシャッド哲学はブラフマン(宇宙の根本原理)、すなわち「梵」などの創造主を考えた。創造主は常住不変であると。しかし仏教はそのような存在を否定した。それがバラモンを乗り超えた釈尊の「存在原理」であり「人間原理」なのだが、彼らはここのところを誤解しているように思える。
◆釈尊の覚りの体験
さりとてあらゆる現象が、何の原因もなく成立したとは見ない。そこで釈尊が覚った真理が「縁起の理法」(万物存在の理法)であった。
しかしである。釈尊はこの真理をパッピラ樹(菩提樹)下の瞑想中、ある日突然で「覚った」のだろうか。私は覚るには特別な高度な精神状態に到達するまでの時間がかかっていたと考える。釈尊があの恍惚とした神秘的な体験ができたのは「苦行林」で6年間のすさまじい修行抜きにはあり得なかったと思う。苦行林の釈尊の像を見ても餓死寸前まで修行していたことが想像できる。
私の理解では、釈尊は覚りの瞬間、非日常的な、神秘的体験があったのではないか、超常的な何ごとかと一体化された瞬間に解脱されたのではないかと考えている。空海も7年間、木食草衣の山岳修行に打ち込んだ。そして釈尊と同じように超常的な体験を語っている。
このような解釈は外部的な啓示を一切認めない現代的仏教学では否定されるものだろう。釈尊は菩提樹下での瞑想中、明けの明星の出現とともに「縁起、四諦の道理」が忽然として胸裏に出現し大悟したというのが大方の仏教解釈になっているからだ。
しかし、『新釈尊伝』(渡辺照宏)のように、そこには超常的な体験があったとみるべきであることも指摘されている。これを所詮は信仰者の解釈だという者もいるが、体験者の語る事実を他人が軽々しく一蹴していいものだろうか。
中には怪しげな新興宗教の教祖のようなホラ吹きもいようが、相手は世界宗教の一つとされる仏教である。相手は庶民から天皇まで日本中が敬愛してきた弘法大師の実体験である。
空海は虚空蔵求聞持法を修するなかで、超常的と思われる体験を自ら語っている。例えば室戸岬での勤念を、虚空蔵菩薩の化身とされる明星の来影という表現で著し(『三教指帰』)、明星口に入り、虚空蔵光明照らし来て菩薩の威を顕す(『御遺告』)などという表現で神秘体験を語っている。
意識が自然界と共振する超常現象を今日ではサイ現象と言い、超心理学の分野では研究が進んでいるが、釈尊や空海はそれに近い神秘体験をしたのではないかと思われる。つまり高度な覚りの瞬間には、超越的な何かと感応するのではないかということである。いわば覚りのメッセージである。空海はそれを、言語を超えた秘密語の世界(密教)で確信したのだと思う。
さて私は今まさに有神論と無神論の論争の渦中にいる。この問題は永遠の論争ともいえる問題なので、高野山大学大学院文学研究科(密教学専攻)の私の修士論文より抜粋することにする。
◆釈尊の神概念と自灯明
一般に仏教は無神論といわれている。例えばイエス・キリストの背後には神が存在するが釈尊の背後には神はいないとされる。では釈尊の説いた仏教は神を否認しているのであろうか。この問題の根底にはどうも東西の神概念の違いがあるような気がする。
釈尊の生まれる以前からインドで神々とされていたのは、ヴェーダ群を起源とするバラモン教の神々である。釈尊の時代にインドで自覚されていた神は天界の住人であり、その神々を天・天人などと総称するが、天界は三界(欲界・色界・無色界)にわたって存在すると考えられていた。すなわち天も輪廻転生をまぬがれないのである。故に天が釈尊の前にひれ伏して説法を請うた(梵天勧請)と伝承されるのであろう。(略)
つまりインドの神々とは西洋的な超越的な唯一絶対神とは異なるものである。このことは何を意味するのか。釈尊の時代、当時のインド人にとっての神とはバラモンの神々のことであった。釈尊があえて神を語らなかったとすれば、それはバラモンの神々にすがるインド人の姿を見ていたからではないかと考えられる。
何故か、おそらくそこに人間の「苦の形成」を見たからではないだろうか。無明なる自分の心を凝視することよりも、外なる神々に供物を捧げて恩寵にすがろうとする人間の弱さ、安直さ、そして盲従性、またそこから生まれる宗教の権威主義化や固定化などに、人間の「業の形成」や「苦の原理」を洞察されたからではないだろうか。したがって釈尊の眼差しはひたすら「業熟体」としての人間に向けられることとなる。釈尊の宗教的本質は、何よりも人間の眼を自らの内面に向けさせ、自己の存在の真実に目覚めさせたことにあったといえよう。
加藤精一氏は次のようにいう。「キリスト教やイスラム教のような天地創造神、神話の神を信ずる宗教では、互いに唯一絶対神となり、その結果神様同士の喧嘩が絶えないという矛盾をきたす。釈尊は2500年も前にこうした矛盾に気づかれて、神話の神を棄てて、この世は因縁によって成立しているのだという新しい原理を提唱された。神話の神を棄てて、かぎりなく高い人格である仏陀(ほとけ)を仰いで生活するという仏教の特色がここにある(略)」(『弘法大師の風光』春秋社)
ここに「自らを灯とし、自らを拠り所とせよ」という釈尊の「自灯明」の教えが生まれる。自らを灯明とせよとは、外の神を灯明とするなということであって、まるで神の救いなき宗教のようでもある。かぎりない空漠の連打によって存在の「無」を覚るという仏教は、西洋人がいう「虚無の宗教」のようでもある。無常観というものが、あるいは無我というものが、あるいは縁起という存在の原理が真実としても、はたしてそれが人を幸せに導くのであろうか。
だが一方釈尊は「法」を灯とし、拠り所として生きよと「法灯明」も説かれた。これによって釈尊は拠り所すべてを無化する(空じる)虚無主義を説かれたのではないことは明らかである。釈尊がバラモン教に対峙した四姓平等観は、バラモンの「神」に向けたものではなく、「法」の前の平等である。では「法」を依り処にするとはどういうことか。むしろ問題はここである。
◆法灯明と初転法輪までの疑問
仏教が無神論だという本当の意味は、キリスト教的な神話的かつ絶対的創造主を想定せず、あくまでも自身がダルマ(法)に目覚めることを目標とする教えであることを指す。つまりキリスト教的神学、西欧的宗教学で仏教を捉えたときに言い出されたことであって、仏教自身が無神論であるとはいっていない。
確かに仏教はバラモン教への批判という面はある。だが神話的創造神としてのバラモン教神々を批判はするが、護法神としての神々までは否定しない。初期仏典の「スッタニパータ」にもインドラ(帝釈天)やブラフマン(梵天)や「神性を有するもの」などの護法神は登場する。それはバラモン教のように崇拝対象としてではなく、仏教の護法神として再生した神々である。
これら守護神は「法」というファンダメンタルな世界から生まれ出されたものであるから、法灯明とは神々のもとの在所である「法」そのものを灯明(拠り所)にせよということになろう。
密教ではそれを「法身仏」として明瞭に実感し、かつ明確に理論立てた。しかし同時に「法身は自らの内に有る」と空海は説く。そうすると釈尊の教えである「自灯明」と「法灯明」は結局一つのものであり、顕密も根底的には密教に包摂(九顕十密)されるということにならないだろうか。(略)
それはともかく、問題は、釈尊は自らの覚りを余人においてなぜかくも理解不可能だと考えられたのか、ということである。(略)
その疑問に迫れば、ひとつの推理として、前述したように釈尊は解脱されたその瞬間、言語に絶するようなある種の超常体験をされたのではないかと思われるのである。それは釈尊が「人間を超えたもの」、ある意味において「神性なるもの」を体験されたといえなくもない。そしてここでいう「神性なるもの」とは釈尊が「法」と呼んだもの、あるいは「法」自体の実在性で、のちに密教の「法身仏」と呼ばれるものだったのではないだろうかと思う。(略)
縁起思想が弟子の誰もが容易に理解できるものでなかったのは、釈尊の覚りの実体験が、「法」と一体化したような、何か神秘的な超絶的なものの体験だったからではないだろうか。
釈尊がそれをあえて神と言わなかったのは、おそらくバラモンの神々しか神概念をもたぬ当時のインドにおいては伝えることができないと思われたのかもしれない。(略)
高野山真言宗大僧正・阿字観の大先達である山崎泰廣師は次のようにいう。「釈尊はいかにして悟ったのか、それは人間の言説によって悟ったのではない。菩提樹下での深い瞑想によって、天地宇宙の真実の声を全身で聞いたのである」とし、釈尊の胸中に秘められた覚りそのものの教えを密教であると述べられている(『阿字観瞑想入門』春秋社)。
また密教的な神秘体験によって解脱されたということは何を意味するか。釈尊の解脱は存命中のことである。釈尊が現世において仏陀になられたということは、ある意味でこれこそが完全無欠なる「即身成仏」を意味するのではないか。
釈尊の覚りを成仏というならば、成仏とはあくまで現世での覚りの完成ということになる。つまり仏教は本来、背後に神秘的な法身仏に包まれた現世を中心とする宗教だといえるのである(以下略)。
これが神仏を「有」とする空海や私や釈尊の言い分である。神が「無い」というのなら「無」を証明せよ。時間空間次元を超えて宇宙のすみずみまで探しつくしたのか。大宇宙から見れば一部しか解明できていない人間が「無」と決めつける根拠は何か。神でもない人間が、神を「無」と断じるのは不遜ではないか。
◆宇宙はメッセージである
宇宙論とは、神話、宗教、哲学、神学、科学(天文学、天体物理学)などが関係してくる論議である。英語のコスモロジーと呼ばれることもある。空海はそれを壮大なスケールで論理化・言語化をした。空海のコスモロジーとはどのようなものか、『声字実相義』の頌を読んでみよう。声を出して読んでみるとおのずと伝わってくるものがあるはずだ。
五大(ごだい)にみな響(ひび)きあり、存在の五つの要素にはみな響きがある。
十界(じっかい)に言語(ごんご)を具す、十種の世界には言語が具わっている。
六塵(ろくじん)ことごとく文字(もんじ)なり、六つの対象的存在はことごとく文字である。
法身(ほっしん)これ実相(じっそう)なり。真理なる法の身体が、あるがままの世界のすがたである。
空海は「存在の五つの要素(地・水・火・風・空)はみな響きがある」という。つまり現代的に言うとメッセージがあるということである。五つに分化した宇宙の要素がみなそれぞれにメッセージを発しているという。
「五大」を一応五つの要素と訳したが、空海のコスモロジーからいえば、「宇宙はばらばらに分離した要素の組み合わせ・寄せ集めから成り立っている」という発想自体が間違いである。覚りの目で見れば世界はどこまでも一つなのである。だから五つの側面と訳し直した方がいいだろう。宇宙の五つの側面がそれぞれみな関わり合い、響きあっている。それはメッセージを送りあっているということもできる。
さらに空海は地・水・火・風・空の「五大」だけで宇宙が成り立っているのではなく、「識・心」があってはじめて全宇宙になるという。つまり「五大」に「識大」を加えた「六大」である。これが密教である。
この宇宙に遍満する「識大・心」は宇宙から誕生した地球にも地球生命体にも届いている。当然人間の心にも及ぶ。宇宙の意識と人間の意識は呼応するというのが空海の密教である。
つまり心澄まして聴けば、「五大」は(宇宙の心の一部としての)私の心にも響き、語りかけているというのである。それだけではない。私が存在するということは、私も全宇宙と響きあっているということにもなる。これが「五大にみな響きあり」という意味である。実に美しいイメージである。
大切なことは、空海はそれを単に教理・哲理として理解したのではなく自らの身体実感でつかんだことである。空海は何度か宇宙との一体性を体感している。そして実感したことをもう一度密教の教義で裏づけをする。そういう学行(がくぎょう)と修行の循環を通して、空海は全心身的に密教教理を確立したのである。
密教とはこのメッセージを送る大宇宙を法身大日如来と観じ、メッセージを交換できる人間の受信機を「仏性」と呼んだのだと思う。つまり、響き合うのは「私の仏」と「宇宙の仏」である。しかもそれは不二である。
空海は『十住心論』の第九 極無自性住心(ごくむじしょうじゅうしん)でこのように語る。「・・・あまりに近くてかえって見えにくいのは我が心であり、微細で大空に行き渡るほど広大なのは我が仏である。我が仏の存在は考えることも出来ない。我が心は広くして大である.・・・声聞や縁覚の心でも認識できず、菩薩の智慧でも知ることができない。不思議中の不思議、最高の中でも最高のものはただ自らの心の仏であろう」
空海はこのように、心清めて我が心の仏を覚れば、私の中の仏は大空(宇宙)に行き渡ると述べている。
次に十界とは仏から地獄まで含む仏教的な生命の世界の種別である。仏や菩薩、天人や人間に言葉があるのは当然だとしても、阿修羅にも、畜生にも、餓鬼にも、地獄にも言葉がある。生命の世界にはどんな世界にも言葉が満ち溢れていると空海はいうのだ。
顕教では仏以外の言葉は妄語(虚妄の言葉)とされているが、密教ではそれさえ含んだ全てが大日如来の深く静かな瞑想から出る「真言」なのだという。
あらゆる生命世界には言葉、それも仏の言葉が充満している。「十界に言語を具す」のである。宇宙(生命界)は大日如来の呼び声に溢れていると言う。
それだけではない。「六塵はことごとく文字なり」つまり見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの、感じるもの、すべてがコスモスからの語りかけの文字なのである。
だとすれば、だれからも声をかけてもらえない、手紙ももらえない、みじめで孤独で、一切の「つながり」の切れた「孤独」な人間など、本質的に世界のどこにもいないことになる。密教は究極の孤独にも答えているのだ。
「法身はこれ実相なり」という把握、これはありのままの現実の姿が真理なる仏の世界・身体なのだという徹底した現実肯定の思想なのである。
「命は預かりもの」、これを私は命の実相だといったが、真言宗で長く秘典とされてきた『般若理趣経』では男女の交合を菩薩の位と観る(妙適清浄句是菩薩位)。私はこれを"種の保存"を肯定的に見た宇宙的な表現ではないかと思う。
無論経典が成立した古代、現代の生物学的な研究と実証を伴ったわけではない。だが命の継承という「はたらき」において、交尾そのものが否定されるいわれはないのである。
一般的な仏教はヒトが「生きよう」とする本能を「欲望」として否定的に見るが、密教は自然界の「欲求」として肯定的に把握する。言い換えれば、宇宙は万類(衆生)に「生きよ!」といっているのである。これが仏の意思である。
あらゆるものの中に、宇宙のメッセージがいつも聞こえている。それは存在の全肯定のメッセージなのだ。「そのままでいいんだよ」「ありのままでいいんだよ」こうした宇宙のメッセージが心に届いたとき、私たちはどんなに孤独で絶望しかかっていても、深いところから励まされるのではないだろうか。そしてもう一度生きてみようと立ち上がるのだ。アドラー心理学の用語を借りると宇宙的な「勇気づけ」である。宇宙と繋がった「真の自力本願」である。
欧米でフロイト、ユングと並ぶ心理学の三大巨頭の一人として評価されているアルフレッド・アドラーは、人生の課題は「愛」だという。それは「つながり」の感覚のことである。
精神科の軍医として第一次大戦を体験したアドラーは「共同体感覚」という言葉を盛んに用いて、世界平和に役立てようとした。アドラーはドイツ語で共同体感覚を表すのにMitmenschlichkeitという言葉を使っている。これは仲間という言語に、仲間であるとう意味と、人と人が結びついているという意味を含む。
人は一人では生きていけない。他者やその集合体である共同体から離れて生きる個人はあり得ず、本人がどう思おうと必ず他者からの援助を受けているはずであるという。
アドラーのいう「愛」とは「つながり感覚」のことであり、それを「共同体感覚」と表現するのであるが、その「愛」とは、何と宇宙にまで拡大されるのだ。アドラーの言葉を紹介しよう。
「共同体は家族だけでなく、国家、人類にまで拡大する。さらには動物、無生物にまで拡大し、ついには宇宙にまで広がるのである。」
私はアドラーを学んだとき、天台本覚思想(山川草木悉有仏性)や空海の密教とオーバーラップしたものである。宇宙的「勇気づけ」と言ったのはこの謂いである。
宇宙のメッセージを聴こう、たまには人混み溢れる都会を脱出して、自然の中に身を置いてみよう。山の霊気に包まれ、満天の星空を見上げたりすれば、大日如来の呼び声が届くはずだ。それを耳で聞のではなく、腹で聴くのだ。我が身中にある「仏性」が聴くのである。
◆「自灯明」の真義
密教以外の仏教(顕教)を「顕らかな教え」であるとするのは、釈尊の説法は人語、すなわち言葉を駆使するからである。ロゴスはまた不可思議な世界をも合理的に理解しようとする。故に「空」も論理化されてきた。ナーガルジュナ(龍樹)が『中論』で述べた「八不」もそれだ(不生不滅・不常不断・不一不二・不来不去)。
「空」は理論だけで実感できるものではない。釈尊や空海はその「空」をロゴスではなく身体まるごと理解した。「空の論理」を十分に理解しながら、それを含んで超えたところに空海の真価があると私は思っている。
「空」を超えるとはどういうことか。ざっくり言えば論理学的宗教と実感的宗教の統合のことではないだろうか。あるいは哲学から宗教への飛躍的向上とでも言おうか。
空海の『十住心論』では「空と中観の思想」を学ぶ三論宗は第七住心である。第六住心の唯識学(法相宗)の上だが、天台宗の下である。(ちなみに三論宗は奈良の仏教宗派では最も古く、現在宗派としては残ってない)
第八住心は「一道無為住心(いちどうむいじゅうしん)」といい、唯一の真理に到り、ありのままを覚った心の段階で天台宗にあたる。天台宗の根本経典は『法華経』で、その要諦は「仏性」を説いたことである。
仏性は古くは「如来蔵」といい、仏性論はもともと大乗仏教にはあったが、空海が『十住心論』において改めてスポットライトを当てたことが極めて重要であると私は思っている。
三論宗は論理的であり、初期般若大乗仏教の『般若経』系統の諸経典ではほとんどすべてのことにおいて「空」とか「無」とかいう。これは単純に「何もない」ということではなく、「実体的なものはなにもない」という意味なのだが、言葉の印象や説き方のせいもあって、「何もない」「空っぽ」「すべては空しい」と誤解されるようになったようだ。
そうすると、「仏性」もない。「法身仏」もないということになる。それではニヒリズム(虚無主義)ではないかという内外の批判も出てきたくらいだ。
おそらく空海はそれを乗り越えるために三論宗の上に天台宗をおいたとも考えられるが、もともと法身仏の「有」を主張する密教の教義からすれば妥当性があったのだ。空海はこの仏性の「有」によって、仏教を再び釈尊の説く「人間賛歌」に引き戻したのだと思う。
しかし一般的に、仏教を欲望否定とする僧侶や仏教学者は釈尊の「人間賛歌」を否定するのだ。例えば哲学者で浄土真宗本願寺派住職・松尾宣和氏も「仏教は基本的には現世否定の宗教なのです。(略)仏教は生命賛歌の教えではない、と思うのです」とはっきりと述べている。(龍谷大学―講話集―)
私に言わせればこれは誤解である。考えてみるがいい。「自己に依り自己を灯にせよ、拠り所にせよ」という釈尊の説いた自灯明の教えは、最高の自己信頼であり「人間賛歌」のことではないか。生命賛歌の教えでないならば、釈尊はどうして自灯明を説いたのだ?
現世を否定するのは、「苦」の根源を、衆生による生の執着、生存欲望にあるとする釈尊の説法を鵜呑みにした知識人の誤解だと思う。実はこれは覚りへ導くため釈尊の説いた、いわば教育プログラムのようなものだと思うが、それを言葉通り理解しているのではないか。
宮崎哲弥氏も『仏教論争』(ちくま新書/2018)の中で「仏教は生命賛歌にあらず」という。
たまたまこの稿を書いていた時、『週刊文春』(2018.11.1)の<宮崎哲弥の時々砲弾―自殺論の触り->が目に留まった。そこでも「仏教は生命賛歌の教えではない。生は苦(ドゥッカ)そのものであり生存の欲求は、煩悩に他ならない」と主張していた。一体いつまで「仏教論争」を続ければ気がすむのだろうか。
人間には仏性が備わっているからこその自灯明なのだ。煩悩にまみれたままの人間に自灯明を説けばエゴイストを育てることになるではないか。また生命真理として「生きる」「生き残る」というのがある。彼らの言い分のままだと「法」の中から生命の真理は削除せねばなるまい。
自分の中の仏を掘り出し、預かった命に磨きをかける。つまり煩悩の克服である。そこに生きる意味も目的もあると思う。そして時満つれば預かった命は宇宙にみなぎっている神仏に還して、自分自身は諸仏の中に融け込み「空」となって静まるのだ。
彼らの仏教論議はあたかも「木を見て森を見ない」かのように私には思える。
実は奈良時代も仏教界は仏教論議の花盛りであった。そもそも時の天皇がどの宗派の「論」が真実なのかと困惑したぐらいである。そこで「論」(仏教解釈論争)をやめて「経」(釈尊の心)に還れと、南都六宗に立ちはだかった若き清僧が最澄であった。その思いは同時期奈良の仏教界にデビューした空海も同じであったろう。
ただ空海は最澄のように真っ向から相手を論難しようとはしなかった。南都六宗の研究成果をおおいに認めつつも、その不備な点において自ら気づかせるように説いた。
830年、淳和天皇が提出させた「天長六本宗義書」で、真言側から空海が著した『秘密曼荼羅十住心論』は、各宗派の学説を統合するために著した側面もある。
空海の説き方によほど合理性があったのか、その後奈良の顕教はみな空海の密教傘下に収まった。これは『心論』の十段階(密教)のうち六段階に置かれた唯識学派(法相宗)さえ納得したということである。
今日も奈良の興福寺や薬師寺を見れば往時の隆盛が偲べるが、法相宗は当時藤原氏の氏寺ということもあって、南都六宗の中では圧倒的な勢力があったようである。国家仏教の要職にある法相宗の高僧たちは、空海が唯識を知らずに第六段階に置けば猛反発したであろう。
ところが空海の唯識学における学識の高さに法相の学僧たちは舌を巻いた。我らの学問をここまで究めてくれている。これだけでも悪い気はしないはずだ。
その上で空海はこう言うのだ。「しかしあなたたち唯識では修行に最低、三阿僧祇劫もかかることになっています。こんなに時間がかかるのでは、覚れないのと同じでしょう」
三劫成仏と言われるように、成仏までの天文学的な時間の長さは、法相宗に限らず南都六宗の僧にとって悩みの種だったのだろう。「問題は学問を生かす手法です。そこを変えればいいだけです。私はその方法を知っています」と言われれば、奈良の学僧たちはみな新来の密教なるものを聴いてみようという気になる。空海は納得しやすいように密教を説いた。
そうしてあまりにも学問化し過ぎた各宗派(宗派とはいうが、現代の学派のこと)に論争をやめて釈尊の原点に戻っていくように道筋をつけたのである。それが心の成長段階を説いた『十住心論』全十巻である。
心の成長や救いに無益な学問知識は意味がない。そのような学問はただの物知りを育てるだけだ。釈尊は学問そのものが目的で出家したわけではない。
自灯明の真義とは何か。自灯明は、先にも触れたように自己中心主義(エゴイズム)のことではない。だから釈尊は先に我欲の否定をして見せた。自己主義は俗世の利己主義に走りがちだ。だから釈尊は現世(俗世)否定をして見せたのである。
すなわち自灯明とは世俗の自己を灯りにせよということではない。その真義とは、自分の中の「仏」を灯にせよ、ということである。
◆死は絶対的「孤独」にあらず
つまり釈尊も「仏性」の「有」を覚っていたのだと思う。同時に「法を灯明にせよ」と「法」の「有」を説いているのだ。私の仏と宇宙の仏が一体化した体感者でなければ言えないことである。
「私の仏」と「宇宙の仏」が全身でスパークした瞬間、ゴータマ・シッタールタは覚りを完成し「ブッダ」になった。私はそのように考えている。
さて、ここで重要なことは、現代人が「仏性」を認めるか否かということである。繰り返し述べてきたように、私の実感的仏教では「私の仏」を確信せざるを得ないのである。すると「死」という「絶対的孤独」もありえないことになる。
考えてもみるがいい。どんなに理解力のある伴侶を得ようとすべてが分かり合えるわけではない。
一般的に苦楽をともにした夫婦ほど深く理解し合えるといわれる。夫婦が人生を共有するということは、時間・空間・体験を共にするだけでなく、精神の出会いがあるわけだが、それでも相手のことはよくわからないことがある。なかんずく夫婦喧嘩をしたようなときは、「俺のことを、私のことを、本当に理解してくれてはいない」と、互いに孤独感をかみしめる経験はどんな夫婦にもあることだ。
まして二人が出会う前の、家庭問題や成育途上でかみしめたさまざまな思いなど、いくら語っても実感をもって理解を得るには限界がある。当然である。結婚するまでは二人は全く異なった時間空間を生きており、人生を共有していないからだ。
しかし「我が内なる仏」は、自分が生を受けて以来、結婚するまでの人生と喜怒哀楽のすべてを見守っているのだ。幼い頃のあの思い出、あの時の辛さ、切なさ、悔しさ、あの頃の淋しさ、哀しさ、妬ましさや恥ずかしさ、さらに子供心を襲った漠然とした不安感、そして秘密。
胸の奥にしまってきた数々の思いを「我が内なる仏」は、あらいざらい見守ってくれてきたのである。考えてみれば、私はひとりではなかった!
それに気がつけば死ぬときも一人ではない。釈尊が説く「愛別離苦」は現世の諸行無常。避けられないことだ。しかし例え最愛の伴侶と今生の別れをしようとも孤独に死ぬことはない。あの世に逝くときは、幼い頃から寄り添ってくれた「私の仏」と同行二人である。そうと覚れば「死」すら「絶対的孤独」ではなくなるのだ。
◆西部邁の「仏殺し」
西部邁のように、あるいは唯物主義者のように、神仏を「無」と言い切る人もいるだろう。しかし彼らほど頭がよくない私は自信をもって断言ができない。この自信のなさによって釈尊や空海の気持ちが理解できるのである。
さて今回、たまたま手に取った三冊の本から「孤独」について考えているうちに「心の安楽死」とでも呼べそうな方向に到達したようである。
癌で死を宣告された人もいよう、死を身近に予感している人もいよう。高齢者はそう遠くない日にみな順送りに死に直面するのである。
忍び寄る孤独と不安とどう向き合うか、パスカルが言ったように「気晴らし」によって目をそらして忘れようとするか、それと仏と共に安らかに終末を迎えるかは、その人の「仏の認識」次第ではないだろうか。
仏を信じない西部は、あの夜、暗い多摩川に沈む瞬間何を思ったであろう。もしかすると、一人孤独に、黄泉の暗黒に引き込まれる恐怖と戦っていたのではないだろうか。
預かった命は自分の所有物ではない。自裁死はやはり知識人の傲慢だと思う。彼は、知識という名の「分別」によって、自らの命だけでなく、人間にとってもっと大切なものを破壊したのだ。そう、我が身中に在る仏を殺したのだ!
空海は言う。人は誰にでも仏性があると。それは例え鬼畜のような結愛ちゃんの親にもあるのだ。「自分の中の仏」を大切にせよ、空海はそう言うのだ。ただ自己の欲望という煩悩の塵に埋もれて、残忍な行為に走る者もいるが、塵の中から掘り出せば満月のような仏が現れると言う。仏を掘り出すこと、それが「覚り」であるとも教える。
「諸仏も法界なれば我が身中に在り。我が身業をもって諸仏の身に入れば、我諸仏に帰す。諸仏の身をもって我が身業に入れば、諸仏護念したもう」(『念持真言理観啓白文』)
さらにこのようにも言う。
「仏は、衆生の身中の本来自性の理は仏と等しくして差別なしと知りたまえり。しかも衆生は己が本有本始両覚は仏と等しきを知らず。恒常に六塵の煩悩に覆弊せられて顕出することあたわず。・・・諸仏は遍法界の身なれば、我が身諸仏の身中に在り。我が身遍法界の身なれば、諸仏の身我が身中に在り。・・・自ら観ぜよ。我が心は無色無形なりといえども、本来清浄にして潔白なることなおし満月の如し。客塵煩悩のために覆弊せられて明らかに見ることを得ず。・・・自心は即ち実相なり。実相は即ち本尊なり。本尊は即ち自心なり」と(『秘蔵記』)。
◆仏性なき科学主義の危険性
私が自裁死にこだわるのは、死の裁量という思想の逆ベクトルは生の裁量という逆理になるからであると述べた。これは「生命操作」につがるとも言った。
「個人の幸福」に貢献しようと、先端医療技術は飛躍的に発展し、果ては優性遺伝子を欲する個人の願い(生命操作)をも叶えようとする。これでいいのだろうか。欲望に歯止めがかからなくなってきたようにも思える。
例えば匿名の優性遺伝子の提供を受ける人工受精や、2000年代にヒトゲノムが解明された事によって、再び優生学的なヒト遺伝子の選抜が論じられるようになり、新たな優生学が誕生しつつある。
すでにデオキリシボ核酸を用いた遺伝子診断サービスなどが商業化され、個人レベルでの新たな優勢思想が現実問題として現れてきた。あたかも封じ込めたはずのナチスの亡霊が蘇ってきたようだと言えばいいすぎだろうか。
第三者の精子をつかった人工授精(AID)によって生まれた子どもは、遺伝上の父親が誰であるかを知ることはできない。提供者が匿名の第三者とされているからだ。子どもを欲する女性の願いを叶えたはずの医療行為が、また新たな問題を生じている。
AIDで生まれた子どもは日本では1~2万人いると言われている。医療現場が子どもの「その後」を考えていなかったため、子どもが成長の過程で自分がAIDで生まれたことを知ったことが原因で、本人の苦悩や母子の軋轢や家庭崩壊ななどが報告されている。そして自らの出自(この場合精子提供者)を「知る権利」の主張なども始まり、善意の精子提供者が減少するという笑えない新たな「苦」が生じている。
私は行き過ぎた科学主義による文明は常に暴走の危機を孕んでいると思っている。日本人は本来仏の智慧による「歯止め」も、また「苦」の連鎖を阻止する叡智もあった。技術の中に「道=精神」を求めてきたのは日本人だけである。
トランプ大統領が「アメリカファースト」を言い出してから、世界は連帯から分断と対立の方向に変わってきた。人々が集団的エゴによる目先の利に走り過ぎると、いつか世界は大きなしっぺがえしを食らうような気がする。
大国の覇権主義は露骨になり、国家間の疑心暗鬼は増し、核兵器は拡散し、欲望科学主義、欲望資本主義は肥大化するばかりである。
科学技術は恐るべきスピードで進歩しているが、それに携わる科学者やそれを操作する人間に仏の心がなければどうだろう。「仏性なき科学主義」は、将来、人類世界に未曽有の鉄槌を下すかもしれない。
現在では9つの核保有国が約14000発の核兵器を保有しており、そのうちの1発でも都市が消し去られ、幅広い地域が放射能を帯びたチリで汚染され、最悪の場合には火災や煙によって引き起こされる世界規模でのミニ氷河期により核の冬が起こる。その結果世界の食糧システムが完全に崩壊し、終末的な混乱が訪れ地球上のほとんどの人が死ぬ可能性がある―こう言ったのは、かの天才宇宙物理学者スティーヴン・ホーキング博士である。
◆AIは人類の敵か味方か
近年AI(人口知能)は目覚ましいスピードで進化している。AIは計り知れないほどのメリットをもたらすこともできるが、無思慮に展開してしまうと人類に悪影響をおよぼすことにもなろう。
「2045問題」というのがある。2045年にシンギュラリティがやってくると言うことで、言い換えればAIが人間の能力を超える時がくると言うことである。ホーキング博士は「AIは必ず人間を超える」という。
博士の危惧は、AIの真の脅威はその能力よりもその学習能力の高さであり、そのスピードは人間の比ではないというところにある。
人間の生物学的な進化の速度は遅く限界もあり競争にならず、最終的に取って代わられるとも言う。将来AIは自分の意志を持ち、人間の意志と対立するようになるという。博士はAIの開発を極めれば強力な自立型兵器の最終局面での使用により人類が滅亡するかもしれないと言っている。
テクノリーダーや科学者は統御不能なAIの台頭を未然に防ぐために尽力しているが、そもそも核兵器を生み出したのは人間である。その結果人類は新たな「苦」を背負ってしまったのである。
人間の能力をはるかに超えたAIは全知全能のごとく、神の領域にすら接近するかもしれない。そのような状況の中で宗教の役割は何かなどと問われることが多くなっている。これに対して有識者は専門知識を披露しつつ答えるが、理解力が乏しいのか、私は腑に落ちる解答に出会ったことがない。
であれば自分で考えるしかない。本サイトの『スカラベの愛 三島由紀夫と密教(4)』の最後(人工頭脳と密教)にも書いたが、AIが最終的に人間を超えられないものがあるとすれば、それは密教である。
なぜならAIには法身大日如来のメッセージは届かないからだ。受信機がないからである。人間だけがもっている仏性がないからである。
逆に言えば、テクノリーダーや科学者や、AIを生産する企業や利用者が仏の心をもっているかぎりAIは統御され暴走することはない。AIは人類の僕となって人類に貢献するだろう。
◆世界「十住心論」
実存主義はキリスト教圏から生まれた人間の生き方である。実存哲学の嚆矢といわれるキルケゴールは、決して神なき個人主義や実存的孤独を語ったわけではない。彼の言う「神の前の単独者」とは自己と神との信頼関係のことである。
仏性と宇宙仏の関係は、彼らの人間と神との信頼関係にも似ている。イスラム教もキリスト教も、もとはユダヤの神から生まれた兄弟ならば、ムスリムにもキリスト教徒にもヘブライの民にも本来仏性はあるはずだ。
密教は世界全ての宗教を包摂して、地球、宇宙、万物を生かす究極の教えである。世界の人々よ、もう一度密教世界を思い出そう。一神教が持つ競争原理も、密教の共生原理のもとでは融和に変わる。関係性や肯定性、調和性により一神教は密教の傘下に収まりまとまるのだ。
空海の『十住心論』が南都六宗をまとめたように、人類すべての奥底に眠る仏性を呼び覚ますのだ。密教が人類の故郷であることを思い出させるのだ。
その先鞭をつけることができるのは今のところ日本人しかいない。ヒトラーが好んだニーチェの「超人思想」は神を殺したが、日本人までもが仏殺しをすれば世界は終わりである。
仏性のわかる日本人はみな仏の子である。高野山を参拝した人はみな弘法大師の分身である。弘法大師の霊性は高野の聖地にだけ留まるものではない。日本列島だけに留まるものでもない。弘法大師の霊性は、宇宙如来の声と共に世界を駆け巡るのだ。
近年高野山は外国人観光客で溢れている。それもヨーロッパ人が多い。しかも国籍を超えて誰もが高野の霊気に打たれ、敵味方をいっしょに供養する「奥の院」の参道に感激している。彼らも何かを感じ始めているのだ。
弘法大師の霊性はすでに世界にむけて発信しているではないか。若き真言僧よ、今こそ深く広く学問をするときである。世界の宗教を学び、世界の賢者と手を結び、「世界十住心論」をまとめ全世界に発信する時期である。
虚空に尽き、衆生に尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん。
<参考文献>
『極上の孤独』(下重暁子/幻冬舎新書)
『孤独のすすめ』(五木寛之/中公新書ラクレ)
『死ねば宇宙の塵芥』(曽野綾子/宝島新書)
『生と死―その非凡なる平凡―』(西部邁/新潮社)
『世界一孤独な日本のオジサン』(岡本純子/角川新書)
『孤独の科学』(J・T・カシオボ/W・パトリック/河出文庫)
『愛するということ』(E・フロム/紀伊国屋書店)
『孤独と愛』(マルティン・ブーバー/創文社)
『個人心理学講義』(アルフレッド・アドラー/アルテ)
『仏教は何を問題としているのか』(松尾宣和・龍谷大学―講話集―)
『仏教論争』(宮崎哲也/ちくま新書)
『週刊東洋経済2018.11.3』(東洋経済新報社)
『弘法大師著作全集第二巻』(山喜房佛書林)
『空海の仏教総合学』(長澤弘隆/ノンブル)
『空海の十住心論を読む』(岡野守也/大法輪閣)
『高野山大学大学院第376号修士論文』