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001「貴物(とふともの)」真魚のルーツ

 空海は、宝亀5年(774)6月15日、讃岐国多度郡屏風ヶ浦すなわち今の善通寺のあるあたりで生まれた。
空海の誕生地に異説があるのは周知の通りである。例えば、多度津町の海岸寺(の奥の院)だという説。これには、善通寺と海岸寺の間でかつて論争があった。現在は、善通寺を「誕生所」、海岸寺を「産湯所」ということになっている。また近年高野山大学の武内孝善教授が畿内だとする新説を公にしているが、私は依然讃岐国多度郡屏風ヶ浦が妥当だと考えている。

 父はこの地の国造である佐伯直田公善通(さいきのあたい・たぎみ・よしみち)、母は同じくこの地の氏族阿刀家の出の阿古屋(あこや)といった。不思議にも、父善通の実弟であり後に朝廷の官学者として空海の指南役になる阿刀大足は阿古屋の妹と結婚して阿刀家を継ぎ、両家は兄弟姉妹が重縁の関係にあった。
 空海は「真魚(まお)」と名づけられ、父母や親族に「貴物(とふともの)」といわれて珍重された。長子でもないのにさほどに珍重されたのは、生来健康で病気一つせず、言葉を発する頃からまれにみる知能の才気を発揮したからであろう。とくに言語の発達が早くまた神威的なものに敏感であった形跡がある。
 誕生日の6月15日は、密典の訳出や宮中での祈祷を通じて唐代密教の大成に大きな役割を果たし、真言付法の第6祖と仰がれる不空三蔵の命日と重なるため、空海には自分を「不空の生れ変わり」という自意識があったという説がある。

 ところで、「貴物」というニックネームの意味について書いておきたいことが二つほどある。
 一つは、幼少の頃から言語の発達が早く利発であったから「貴物」といわれたという従来の説。
 もう一つは、私見であるが、母阿古屋が実家である阿刀家の領する土地の産土神(うぶすなかみ)に授かった「神の御子」であるから「貴物」と尊ばれたという見方である。

 空海が幼少の頃から言語の発達が早く利発だったというのは本当であろう。長じて入学した奈良の大学寮での漢籍の暗記力はおそらく群を抜いていた。31才で渡った長安では唐語をたくみにあやつった。当時の日本ではごくまれなことだが、インドのサンスクリット語を相当に解したし、マントラ(咒、真言)に霊力の内在を観じとる言霊(コトダマ)の気質も充分に持ち合わせていた。この破格の言語の異能は、当然ながら、「貴物」いわゆる「天才」といわれるに価する。
 そのバックグラウンドには、佐伯氏の家系が異言語や言霊など特殊な言語の世界にかかわりをもつ一族であったことを想定しておかねばなるまい。讃岐の佐伯氏は、『御遺告』に、「昔、敵毛ヲ征シテ班土ヲ被レリ」とあり、学説では朝廷に征服され捕虜になった蝦夷の民のうち讃岐に移封させられた一族で、大和コトバではない奇妙な異言語をあやつる人たちであったらしい。私はここに、外国語への異才をもつ空海のルーツを想像する。
 『空海の夢』を書いた松岡正剛氏(編集工学研究所長)は同書のなかで、サヘキ一族がトモ一族とともに宮中の語り部たちの言語力つまり言霊の管理に長く与かっていたことをいくつかの例から想定している。讃岐の佐伯(直)家には、ミコト(天皇の勅)がミコトモチによってもたらされ、ミコトのコトダマの霊力によって中央のサヘキに服属させられた歴史があるかもしれないことも。そうした環境で育つなか、空海が言語に霊威を感じる能力を自然に身につけたとしても不思議ではない。

 さてもう一つ、私見ながら、「神の御子」であるから「貴物」と尊ばれたという見方である。空海の母阿古屋は実家の阿刀家が領する土地の産土神である熊手八幡神社に子宝授与を祈り、「神の御子」である空海を身ごもったという伝えが阿刀家の屋敷跡といわれる仏母院にある。
 阿古屋はまた「玉依(たまより)(姫)」と尊称される。「玉依(姫)」とは水の神・豊穣の神である。このことから、空海の母が、讃岐平野の水利と耕地耕田を守り豊かな実りをもたらす母神的存在として人々の崇敬の対象になっていたことが想像される。
 空海は、産土神から授かった「神の御子」であり、水の神・豊穣の神である「玉依(姫)」が産んだ「神の御子」である。「貴物」とは「神の御子」の故につけられた尊称ではなかったか。

 空海「誕生所」の四国霊場第75番札所総本山善通寺は、寺伝の『多度郡屏風ヶ浦善通寺記』によれば、大同2年(807)、唐の長安から帰ってまもない空海が佐伯家の園林4丁四方を伽藍の建立地と定め、同年12月1日木材搬入や斧始めの儀を行い、弘仁4年(813)に完成したという。
 ただ、空海はこの時期大宰府公文書によって大同4年(809)の早い時期まで大宰府観世音寺に留めおかれ朝廷からの入京許可を待っていた時期であり、讃岐の実家に赴くことができたかどうか極めて疑わしい。いずれにせよ佐伯家の広大な敷地に長安の青龍寺伽藍を模した佐伯一門の氏寺が建立され、空海の父の名をとって善通寺としたのである。

 伽藍は東院と西院の二つに分かれていた。
 現在の東院には、金堂・五重塔・南大門・赤門が配され、佐伯家御廟・三帝御廟・五社明神・天神社・龍王社ほか常行堂(釈迦堂)・経堂などがあり、西院には、大師堂(御影堂)・護摩堂・聖天堂・聖霊殿・仁王門・勅使門が配され、さらに表書院・大旭殿・宝物館・遍照閣・宿坊の「いろは会館」など、新旧の立派な堂宇が建ち並んでいる。
 南大門の近くには、樹齢千数百年、高さ40m、太さ13mもある大楠が今も繁っている。また、普段は非公開であるが、この寺の象徴である五重塔の最下層部四方の扉八枚の内側にはかの慈雲尊者の筆になる「八方天」を表す梵字が刻まれている。金堂には、時代を経て多くの人々から帰依を受けてきたご本尊薬師如来が祀られている。
 大師堂の胎内参拝をしながら、空海が生まれたその場所に足を踏み入れている有難さに胸がふるえる。ここはまさしく空海誕生の聖地なのだ。わが国の密教は何もかもここからはじまっている。

 ご本堂に向かい歩いていると法要を終えた僧列が目に入った。法主様を先頭にして行く僧列を参拝の人が合掌しながら見送っている。京都や奈良の観光寺院では、ついぞ見たことのない光景である。四国では日常のなかに信仰がある。そのせいか人々のたたずまいがおだやかだ。時間がゆっくり流れている。生きている実感がある。
 歩き遍路が増えているという。人生に迷い、自分を見失い、愛する人と別れ、人は遍路に出て新しい「私」や「道」を見つけようとする。四国は「死国」。一度ここで死んでそして再生するところである。空海「誕生所」善通寺は、まさに生まれ変わるにふさわしい出発地である。
 生まれ変わって、生まれ変わって、お大師さまにだんだんと近づく。四国霊場を一周1400㎞、100回以上もまわったという土地の古老は、もう仏の顔をしていた。

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