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002「讃岐国多度郡屏風浦」の水と豊穣

   空海の生誕の地は、いまの善通寺の境内である。
   善通寺には五岳山という山号がある。そのまわりに五つの山が茸のようにそれぞれ峰
  をつき立ててちょうど屏風をたてめぐらしたような景状をなしているためにその名があ
  る。いまの地理的風景ではうそのようだが、空海のころは海がいまの善通寺のあたりま
  できており、その五つの山はじかに入江にのぞんでいた。そのかたちをとって、このあ
  たりは屏風ヶ浦とよばれたらしい。空海はその屏風ヶ浦でうまれた。
   摂津の難波津を発した丹塗りの遣唐使船が内海を西へ帆走してゆく姿も、おおぜいの
  里人とともに浜に立って見たであろう。しかも重大なことに、空海の幼少期に一度この
  華やかな船団が屏風ヶ浦の沖を通りすぎているのである。彼がかぞえて四歳のときで、
  これがかれの年少のころの大事件のひとつだったにちがいないというのは、この年の遣
  唐大使が佐伯今毛人であることだった。(司馬遼太郎『空海の風景』)

 小説とはいえ、周到な資料検証をもとにして書かれているはずの司馬遼太郎のこの記述には、実際の屏風ヶ浦の地形や遣唐使船の航路からしてだいぶ違和感がある。
 先ず、空海誕生の頃に「五つの山はじかに入江にのぞんでいた」であろうか。そうだとすると、今の善通寺市の北にあたる多度津町の一帯は海中にあったことになる。となると、空海の母の実家阿刀氏が領していた多度津一帯の地はなかったことになる。
 また、「遣唐使船が内海を西へ帆走してゆく姿も、おおぜいの里人とともに」空海は見たであろうか。
 当時遣唐使船は一船当り100人から150人の乗員を乗せていたといわれ、難波ノ津を出ると中国地方の瀬戸内の船泊りに停泊しては水や食糧を補給し、そこで風を待ち潮を待って出航し、それをくり返して「那ノ津(博多)」へと向かったのであり、屏風ヶ浦の浜辺から見えるほどの四国の沿岸を航行するはずがない。司馬が言う、佐伯今毛人を大使とする第十四次遣唐使船団も中国地方の津浦をたどって那ノ津へ向ったに相違なく、四国沿岸を通る理由がない。

 JR「多度津」駅から西に約20㎞、車で約40分、今は三豊市となった旧詫間町の荘内半島紫雲出山頂上近くの駐車場から、瀬戸内の波静かな海の向うに瀬戸大橋・坂出・丸亀から倉敷・水島方面や、さらに尾道から燧灘方面が見え、旧詫間町の市街地の向うに讃岐平野に点在する大麻山・五岳山などの海抜300~600mクラスの山々が望め、その奥には四国山脈の山並みがうっすらと眺望できる。
 旧詫間町から善通寺方面にかけて連なる屏風を立てたような景色は、なるほど「屏風ヶ浦」というにふさわしい。屏風とは、善通寺の山号にもなっている「五岳山」のことである。「五岳」とは善通寺裏の香色山に我拝師山・中山・火上山そして筆ノ山で、琴平方面にかけて大麻山・象頭山に連なっている。


 大麻山山麓には無数の前期古墳が集まっていてほとんどが佐伯一族の墓だといわれる。父方の佐伯直(さいきのあたい)は、サヘギすなわち大和朝廷によって征伐をされた東国の異種族(毛人、蝦夷)の分かれで、朝廷の同化策により満濃池の水利が流れ込む大麻山山麓の地(真野(まんの))で農業に従事し、この地に定着したといわれている。「真野」は「万農」であり、「万濃」であり「満濃」であり「万能」であった。自然の恵みのすべてを実らせる豊かな土地という意味であっただろう。満濃池のあるあたりを「神野(こうの)」という。近くに「吉野」という地名も見える。

 この一帯は瀬戸内の温暖湿潤の気候に恵まれ縄文・弥生の時代から水田稲作が発達していた。とくに整然と条里区画された水田開発が早くから行われ、潅漑用水を貯めておく溜池や水田に用水を供給するための水路の発達もめざましかった。
 条里制をとっていることからして、この真野一帯の水田は中央の大和朝廷が佐伯家をはじめこの地の豪族から収用した公田であったかもしれない。大化改新(645)の頃には、公田と条里の制度がすでに行われていた。讃岐の佐伯氏はそのルーツからしてこの制に従った可能性がある。
 また讃岐平野は東西に長いが南北には短く、山に降った雨水は短時間で瀬戸の海に流れ込んでしまう。「讃岐には、河原はあっても川はない」といわれるくらいで、大雨は洪水にはなるが平野部には溜まらず、日照りが続くとすぐに川は干上がり水田は干ばつになった。この地では水利の確保こそがすべての生命を育む基礎にあった。
 空海が生れた佐伯家はこの真野の豊かな土地を治める中心の家であった。ある意味で、水を治めることこそが佐伯家の本分であっただろうし、水の恵みについては過敏なまでに敬ったに相違ない。
 そうした風土環境のなかから、水の神・豊穣の神である「玉依(姫)」崇敬の念が人々の間に醸成されたとしても不思議ではない。空海の母阿古屋の「玉依(姫)」といい、空海の「貴物」といい、佐伯家にはこの地の風土が然らしめる神威的なモードが色濃く反映している。

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