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028「鞆ノ浦」そして「風早ノ浦」

 備前の「牛窓」を出た「よつのふね」は左舷側に小豆島の大きな島影を見ながら西に進み、児島半島の出崎をかすめて下津井に入り、そこから備後の「鞆ノ浦」に出て停泊したであろう。

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摂播五泊」と同じくこの「鞆ノ浦」に第十六次遣唐使船団が寄港したという史実や伝承がとくにあるわけではない。しかし万葉の時代から拓け、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、しかも潮の流れの中心にあって水や食糧や生活物資が豊富に補給できるこの浦に、五百人を超す乗員を乗せた「よつのふね」が寄港しないということは当時の海上交通事情からしてありえない。しかも、医王寺・円福寺(もと、地蔵堂)・静観寺など、空海や最澄を開基とする平安期創建の両大師ゆかりの寺もここにはある。

 晴れた日には瀬戸の海をはさんで石鎚の峰や荘内半島の紫雲出山や讃岐平野の小高い山々が見えるという。空海はこの泊で船泊中、対岸の屏風ヶ浦の方を何度も遠望し故郷の母と今生の別れを惜しんだであろう。入唐留学は20年に及ぶはずであった。

 「難波ノ津」を5月12日に出航してから瀬戸内中央のこの「鞆ノ浦」ですでに月も替る頃になっていたであろう。摂津・播磨・備前・備中・備後と十を数える泊に停泊し、風を待ち潮を待ち、水や食糧を補給しながら、1日にせいぜい30㎞前後の航路であった。しかも風はアゲインストの夏風である。

 「鞆ノ浦」には万葉の歌碑が二つある。神亀4年(727)、朝廷官僚の大伴旅人大宰帥として大宰府に赴任する際に妻の大伴郎女とともに立ち寄り、さらに天平2年(730)12月、大納言になって奈良の都に帰る途中再度ここに寄り、赴任の翌年大宰府で亡くなった妻を追想する「むろの木の歌」等3首を残した。
 平安時代には、大同元年(806)に、最澄によって静観寺(「鞆ノ浦」では最古の寺)が開かれ、少し遅れて天長3年(826)に空海によって医王寺が創建されている。それぞれ天台宗・真言宗の山陽地方における布教拠点になったといわれている。

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「むろの木」歌碑(大伴旅人)
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空海の建立と伝えられる医王寺

 この「鞆ノ浦」は、「足利氏は鞆に興り鞆に滅ぶ」といわれるほど、足利氏にとって盛衰の地となったところである。建武2年(1335)、足利尊氏後醍醐天皇による貴族中心の「建武の新政」に不満をもつ武士の勢力を集めて挙兵する。しかし新田義貞楠正成らの軍に敗れて九州に落ちる。その途中、この「鞆ノ浦」で500の手勢を休めた。そこに、反後醍醐派の光厳上皇から後醍醐天皇討伐の院宣が醍醐寺三宝院の賢俊によってもたらされる。3ヵ月の後、九州を平定し西国の軍勢数10万を率いて東上し再びここに陣を敷いた。翌年の建武3年(1336)、「湊川の戦い」で勝利した尊氏は京に光明天皇(北朝)を擁立し、足利幕府を開くのである。
 しかし「鞆ノ浦」は瀬戸内の要衝であることからその後南北両勢力の戦火が絶えず、ここに置かれた中国探題の直冬(異腹の長男)が争乱のなかで尊氏に反旗をひるがえし足利氏の内部抗争を大きくすることになった。
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鞆城跡から鞆ノ浦の眺望
 戦国時代ここに毛利氏によって鞆城が築かれ、織田信長によって京を追われた足利幕府最後の十五代将軍義昭が保護され「鞆幕府」といわれた。義昭はここで本能寺の変を知るのだが、足利幕府は事実上ここで終焉する。この鞆城跡には今、「福山市鞆の浦歴史民俗資料館」やここで名曲「春の海」を作曲した宮城道雄の銅像が建っている。

 下って文政9年(1826)に、オランダ人医師のシーボルトが医王寺を訪れている。また幕末風雲急を告げる頃、「禁門の変」で大内裏から追放された三条実美ら七卿が長州に落ちる際にここに停泊し、「太田家」に世話になったという。
 慶応3年(1867)春、坂本龍馬が乗る「いろは丸」が大阪に向けて初の航海中に紀州藩の軍艦「明光丸」と鞆ノ浦沖で衝突して沈没した。龍馬はこの「鞆ノ浦」に上陸し損害賠償の談判を「明光丸」船長高柳楠之助と「魚屋万蔵邸」で行ったが、紀州藩は機を見て対岸の円福寺に逃げてしまい龍馬も暗殺を怖れて立ち去った。その時に泊ったという「枡屋清右衛門邸」が現在も残っている。龍馬はその11月に京の近江屋で暗殺される。
 このほか、西国の戦国大名の尼子氏の家臣で、毛利元就に下った尼子氏の再興のために働きながら悲運の最期をとげ講談にもなっている山中幸盛(鹿之助)の首塚が、敵将の毛利輝元が陣を置いていた静観寺のわきにある。
 また、頼山陽が『日本外史』を書いたという旧宅や、医王寺境内には平賀源内の生祀(三宝荒神)も残っている。

 「鞆ノ浦」はもともと仙酔島と弁天島の美しい島影を擁する天然の名勝の地であり、福禅寺の客殿「対潮楼」からの眺めは格別である。さらにここには江戸時代から伝わる「保命酒」という十六種の薬草を浸け込んだ薬味酒があり、特産の地酒として製造販売されている。

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枡屋清右衛門邸跡
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福禅寺対潮楼からの眺望
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鞆ノ浦の町並み(保命酒の看板)

 「よつのふね」は、「鞆ノ浦」を出て尾道水道を通り「長井浦」へ。そこから因島・生口島・大三島を左舷側に見て三津湾の万葉の故地「風早ノ浦」に寄ることになる。
 瀬戸の海は平生はおだやかである。船は沿岸沿いを航行し尾道水道を通ったであろう。その先に古くから瀬戸内海運の要衝として拓かれた「長井浦」があるからである。
 今、古寺や文学碑などの史跡や映画のロケ地として有名になり本州と四国を結ぶ「しまなみ海道」の要所となった尾道も、その当時は西国寺や浄土寺のほかには目立つもののない小さな漁業や造船の村であっただろう。
 「長井浦」は今はその面影もなく三原市糸崎神社のあたり一帯であったらしい。今の糸崎港のにぎわいが往時をしのばせている。
 ここを出ると目の前には因島が迫ってくる。沿岸沿いに船を走らせれば、左舷に生口島そして大三島の島影が手の届きそうなところにある。さらに行って大崎上島の大きな島影を向うに生野島・臼島を過ごすと、やがて右奥に三津湾のゆるやかな浜が見えてくる。湾の奥の左側が「風早ノ浦」である。
 ここも古く万葉の時代から拓け、湾内のいくつもの小島が波消しするおだやかな瀬戸の泊であった。ここがかつて瀬戸内有数の泊として朝鮮半島や大陸との間を往来する外交船や遣唐使船の停泊地になっていたことを今想像するのはとても不可能である。地元の人もよく知らない。

 この地に万葉の歌碑が残っている。JR呉線「風早」駅から北方に約1.5㎞の高台にある祝詞山神社の境内である。
 天平8年(736)、新羅に派遣される大使阿倍継麻呂・副使大伴三中らの一行がここで風を待ち潮を待って停泊した時に、継麿が瀬戸の夜霧に感じて、出発の際妻から贈られた長旅の夫を按ずる歌を思い浮かべて詠んだという、相思相愛の歌2首である。

わが故に 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり
沖つ風 いたく吹きせば 吾妹子が 嘆きの霧に 飽かましものを

 遣唐大使の藤原葛野麻呂は、送別の宴で人目もはばからず涙に暮れたといわれている。瀬戸の海は「風早ノ浦」でも静かだったが、葛野麻呂の胸の内はおそらくこの歌と近似したものであったに相違ない。

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 葛野麻呂は藤原北家の祖藤原房前の孫になる小黒麻呂の子で、実妹が桓武天皇の後宮(住いの宮殿)に入ったことから重用されるようになり、少納言・右大弁・春宮大夫・大宰大弐など朝廷の要職をすでに経験していた。皇太子(後の平城天皇)の側近の経歴から、いずれ出世の道が約束されていた。その上に和気清麻呂の娘(真綱・仲世の姉)を妻にしていた。だから、東シナ海の藻くずになりたくないことは痛いほどわかる。

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