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法身説法

空海は、「真如」「法界」をその体とし、存在するだけで自ら(「真如」)を説かない「果分不可説」の「法仏」(法身、毘盧遮那)に代り、密教が起てた「法仏」(大毘盧遮那、大日如来)に自ら(「自内証」)を自ら説法するペルソナを付与し、「法仏の談話」を可能(「果分可説」)にして華厳を超えた。
幼少から言葉に霊威を感じ、漢籍に入って『荘子』内篇第二の「斉物論」篇などにふれ、求聞持法で虚空蔵菩薩の真言を何万遍も唱えつづける口誦体験を積み、サンスクリットというインド言語に通じ、ヴェーダの祭詞やその言語思想「ヴァーチュ」や、ミーマンサーの声顕論や、バルトリハリの「スポータ」説や、タントリズムのマントラといったヒンドゥー言語思想も飲み込んでいた空海は、絶対者と「コトバ」の関係に敏感であった。空海は虚空蔵菩薩の真言を唱えつづける行中に、虚空を貫いて渡ってくる虚空蔵菩薩の声(「コトバ」)を聞いた。その声こそ虚空蔵の意志であり霊威であり、「真如」「法性」であり、「実相」であり、虚空蔵そのものだった。だから空海は、「法仏」(大毘盧遮那)を人格化して、自らを自らの「コトバ」(「真言」)で語らせ、「コトバ」から存在のすべてが出生する哲学に躊躇をしなかった。この「法身説法」によって「果分」(「法仏」の「自内証」)の言語化が可能になったのである。
 空海密教の究極はこの「果分可説」にある。空海は、釈尊の成道に始まる仏教の命題であった「解脱」「サトリ」「等覚」「仏智」「菩提」「悉地(成就)」「真如」「法界」→「果分」は、言語では表わすことのできない絶対「空」(「言亡慮絶」)の境界である(「果分不可説」)、という仏教の伝統を超脱し、「果分」は言語化もビジュアル化もできるとした。その論拠が顕密の峻別と「法身説法」「声字実相」であった。


◎法身説法

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