「さとりbuddhi」の内容は言葉にして表現できないものだということを、釈尊は「無記」といい、大乗仏教では「言亡慮絶」といい、禅では「不立文
字」と言いました。仏教の伝統では、「さとり」の瞬間の感覚やイメージといった宗教的神秘体験を言葉や画像や色などで表現できないもの(「果分不可説」)
としてきました。
ところがです、弘法大師空海はそのことをじゅうぶん承知していながら、いとも簡単に「それ如来の説法は必ず文字による。文字の所在は
六塵その体なり。六塵の本は法仏の三密すなわちこれなり。平等の三密は法界に遍じて常恒なり。五智四身は十界に具して欠けたることなし。悟れるものをば大
覚と号し、迷えるものをば衆生と名づく。衆生癡暗にして自ら覚るに由なし、如来加持してその帰趣を示したもう。帰趣の本は名教にあらざれば立せず。名教の
興りは声字にあらざれば成ぜず。声字分明にして実相顕わる。いはゆる声字実相とはすなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼荼なり。故に大日如来この声字
実相の義を説いて、かの衆生長眠の耳を驚かしたもう。」(『声字実相義』)と言ってのけました。
今回のテーマ「六塵ことごとく文字」は『声字実相義』の有名なフレーズ「五大にみな響きあり、十界に言語を具す、六塵ことごとく文字
なり、法身はこれ実相なり」からとったものですが、「さとり」は「大日如来の説法(法身説法)」によって言葉や文字で表現されている(「果分可説」)とす
る空海の独壇場ともいうべき密教学説の中心に位置する命題であります。
空海の「言語哲学」ともいうべき言語に関するホロニックな解釈に、最大の評価を与えたのが今回の総合ディレクター松岡正剛さんでした。松岡さんはオープン
フォーラムの冒頭で、水銀鉱脈の発見から水銀の薬品化の事例や、潅漑用水としての満濃池の事例や、日本初の私立学校としての綜芸種智院など、空海が行った
社会事業を例にあげ、空海を真言密教の枠の中に押し込んでしまうのではなく、「仕事の母」として再評価すべきことを強調したあと、当時の中国語やインドの
サンスクリット語がわかった空海の言語能力から、空海後の真言僧による「いろは歌」の作成につながる「和語」(日本語の原型)つまり私たちにとって「母国
語」の創始者的存在として位置づけられました。
ゲストにお迎えした夢枕獏さんといい里中満智子さんといい杉浦康平さんといい内海清美さんといい、みな言葉・文字・物語・画像・造形
の表現に関する第一級のエンターテイナーです。その方々のほかに今回は「真言声明」の総本家京都・総本山智積院に伝わる「声明」の実演を真言宗僧侶の徳永
隆昭さんにお願いし、会場のみなさんにまじかに聞いていただきました。まさに「声字実相」の体験でした。