去る2月27日、東京地裁は一連のオウム真理教事件の源淵として麻原彰晃に死刑の判決を下した。この判決を不服として弁護団は即日控訴した。テレビ各局は6年前の悪夢を再現する映像をこれでもかこれでもかと流し、新聞は「愚か者」「あさはかな教祖」の所業と論評し、沈黙して何も語ろうとしない傍若無人の麻原に説明責任があるといらだってみせた。
しかし、公判の途中からダンマリを決め込んだ麻原を幼稚な「愚か者」と一蹴するのは簡単だが、沈黙の裏にみえる「最終解脱者」という「仮想への逃げ込み」を彼の内面から論破したジャーナリストや宗教学者がいないことも愚かで浅はかだ。
裁いたのは、法治国家の法廷だった。しかも麻原の意識のステージからみると無価値な人間が考案した現世の世俗の法によってだ。それは麻原には痛くも痒くもないのだ。
死刑を覚悟したときから、麻原は沈黙をはじめた。「俗物」松本智津夫としてはふてくされ、「最終解脱者」麻原彰晃としては十字架を背負って処刑台に向う「聖者」をせいいっぱい演じてきた。一切を沈黙することで彼を今も信じる信者たちに「聖者」として生き残ることに賭けたのだ。キリストの十字架ではないが、宗教の原初には迫害や弾圧に倒れる聖人の悲劇物語が生れる。それくらいのことを自作自演するのは、彼にとって朝飯前のことだ。アメリカ軍が毒ガスを撒いてオウムを攻撃するとまで自作自演してみせたではないか。
この裁判は最高裁までいってやっと決着するのだろう。しかし、拉致・監禁・傷害・殺人そして大量殺戮の主犯として法廷は麻原を裁けても、麻原の犯罪の本質部分つまり彼の精神や教義は裁判官には裁くことができない。言い換えると、オウム事件は、彼が刑場の露と消えたところで、彼を信奉する信者がいるかぎり終結しないのである。
麻原の精神や教義を裁けるのは誰か。それは、オウム真理教を良く知る宗教学者の島田裕巳氏や中沢新一氏であり、インド人の本物のヨーガのグルであり、チベット密教のチベット学僧であり、タントラ研究者であり、ネパールやブータンで密教の瞑想修行を体験したフィールドワーク型の仏教研究者であり、そして、麻原がいったいこの日本の現代社会に何を突きつけようとしたのか、宗教の狂気、例えばアラブ正義としてのテロの問題、などを論じられる人である。
もし彼を裁くというのなら、これらの人たちが集って総括のフォーラムをやってテレビ中継すればいい。国際日本文化研究センターの所長にある人は、瑣々たるオウム解説をマスコミに流していないで、宗教学者の良心にかけてその企画運営を骨折るくらいのことをしてみてはいかがか。
ある地方新聞に麻原死刑判決に関して、宗教学者山折哲雄氏と鎌田東二氏の対談が載った。お粗末だったのはマスコミ御用学者からいまや国際日本文化研究センターの所長にまで出世した山折氏の解説宗教学だった。鎌田氏が発言の冒頭、宗教研究者としてオウム事件にある種の責任を感じている旨の懺悔を吐露されたのに対し、山折氏は宗教学者の端くれの良心の呵責もないのか、例によって外野席から瑣末なオウム解説をはじめた。これにはあきれた。
いつぞや、ダライラマ法王が日本に来た時にテレビ出演し、対談のお相手を山折氏と写真家の藤原新也氏が担当したことがあった。
対談は最初、話を山折氏がリードするかたちで進み藤原氏が遠慮しているかっこうだったが、途中ダライラマは山折氏の知ったかぶりと話を合わせず、最後はまったく藤原氏と二人で話し続け山折氏が話に入れなかったことがある。
このことは氏の解説宗教学がチベット仏教の法王には通じず、カメラ片手にイスタンブールから高野山まで全アジアをフィールドワークした藤原氏の、決して流暢でない、しかしどこか仏教の核心をつく話の方が法王に通じたのだ。
山折氏の発言はいつも白々しく、読む人聞く人の胸に響かない。私たちもよく知ったかぶりの解説布教をやる。布教といっては宗祖の言葉の語句解説をし、宗の教義の語句説明をする。しかしこれは布教ではない。宗祖の言葉や宗の教義を実際どう生きるか、自分を語れなければ人の心は動かない。物知り顔に術語解説をやるのを布教というのはもう古い。