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「脳死は人の死」に反対した元「脳死臨調」委員の名誉のために


 この夏、日本列島では、石原慎太郎東京都知事をして「この国は本当にダメになるよ」と言わしめたように、「育児放棄殺人」「消えた百十歳」をはじめとして「罪悪感」も何もない「異常な死に方」と「異常な家族関係」が相次いだ。
 その渦中、改悪臓器移植法が7/17に施行され、「書面による本人の意思確認」もなく、脳死移植について事前に話をしたこともないらしい家族による「家族の同意」によって、「臓器提供者本人の意思表示なし」の移植手術がつづけて4件行われた(8/30現在)。
 臓器を提供した脳死者は、自分の身体から臓器が切り取られていることも何も知らずに逝った臓器提供の考えすらなかった脳死者でも、自分はまったく与り知らないところで善意の臓器提供者(ドナー)に仕立てられ人為的にひそかに命を絶たれることになった。私に言わせれば、「家族の同意」という合法手段によって4件の連続殺人(あるいは死刑)が行われたに等しい。これもまたこの夏の「異常な死に方」のなかにカウントすべき事件である。

 報道によれば、「家族の同意」とは、「提供した臓器が、誰かの身体のなかで生き続けられるなら」とか、「日頃、人をやさしくお世話していたから」などといった情緒的な理由であったらしく、みな日頃から家族間で話し合っていたものではなかったという。
 おそらく、看病疲れや精神的なストレスによって思考力や判断力が低下している時に、お世話になっている病院側から臓器提供への打診・誘導があれば、それを容易に断れない。悩んだ上で、普段は臓器提供の問題など話し合ったこともない家族に思い浮かぶものは、せいぜいそんなことだろう。誰も「美談仕立て」で「納得」したくなるのだ。脳死移植の悪がしこいところは、それに乗じて家族を「当為」の「心当たり」やその場の「付会」の「納得」に追い込み、徐々に臓器提供へと強制することである。
 曽野綾子氏はそれを、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と聖書などを引いて茶化す(8/27付、産経新聞「小さな親切大きなお世話」。のん気なものだ。陳腐もはなはだしい。
 「友」とはいったい誰か?生きとし生けるものすべてか、人類全体か、隣人か、それとも親友か、単なるお友だちのことか?キリスト教徒にとってそんなに「友のために自分の命を捨てること」が「これ以上に大きな愛はない」のなら、クリスチャンはみなすすんでドナーになるべきだし、彼女は「キリスト教徒<友のために命を捨てる会>」でも組織し、シラーが書き、ベートーヴェンが「合唱」にした「フロインデ」のために自ら命を捨てるところを見せて欲しい。

 その曽野氏であるが、昨年の7月だったか、産経新聞の同じコラムで<これまでこの国の脳死移植がはかばかしくなかったのは、4人の「脳死臨調」委員(日弁連所属の弁護士?)が強引に(「脳死移植」を)否定したからだ>といった旨の八つ当たりを日本弁護士連合会に対してしたばかりだが、今度は哲学者の梅原猛、東大特任教授で生命科学者の米本昌平、弁護士の故原秀男(いずれも「脳死臨調」委員)の3氏をやり玉にあげ、<この国の脳死移植がすすまなかったのは、専門家の医師でもないこの3人のせいだった>とばかり叩いた(8/27付、産経新聞「小さな親切大きなお世話」。)
いわく、
1990年に始まった「臨時脳死及び臓器移植調査会」は、当時委員だった私の記憶の中で後味の悪いものを残している。20人前後だったと記憶する委員の中には専門家の医師たちがたくさん含まれていた。私のように全く患者の側にしか立ち得ない人はごく少数であった。しかし結果は医師ではない3人の委員の強硬な論調に引きずられて、現実問題として今まで、脳死を死と認めた上での臓器移植手術が困難な情況を続かせることになった。当時、そちらの方向に強力に牽引の力を果たしたのは、哲学者の梅原猛氏、東大特任教授の米本昌平氏、それと弁護士だった故・原秀男氏の3人であった。

 名指しで叩かれた梅原氏と米本氏は日本の哲学と生命科学の第一人者で現代日本を代表する知性である。原秀男氏も教養豊かな法律家であったが、残念ながらすでに故人となられた。こうした尊敬すべきすぐれた有識者のことを、後味が悪かったといって20年近くも前のことで持ち出し、新聞紙上でしかも実名で叩くとは失礼千万ではないか。彼女には亡き人への畏敬もなく、識者への敬意もないらしく、あるのは記憶にのこる後味の悪さが高じた敵意だけのようだ。とても「汝の敵を愛する」クリスチャンとは思えない。きっと、待ちに待った改悪臓器移植法が施行され、移植手術が立てつづけにあったことを無邪気に喜ぶと同時に、<ざまあ見ろ>とばかり、そのような状況を阻んでいた(彼女の思い込み)人らに意趣返しをしたかったのだろう。まるで子供の悪ふざけだ。この人は「全く患者の側」(臓器提供を受ける側)からしか脳死移植を見てないことが判明した。だったら、あの「命を捨てよ」という聖書の引用は、脳死者とその家族への体のいいブラフではないか。

 ときに私たちは、縁あって梅原先生そして原先生に脳死移植の問題点を教えられ、脳死移植にずっと反対をしてきた。お二人の名誉のために、かつてお二人から私たちの会員誌へ寄せていただいたご見識をここに掲載しておく。曽野氏がやり玉にあげた人のご見識がどんなもので、彼女の八つ当たりが正しいか、事実か、参考にしていただきたい。

 まず梅原先生のものを紹介する。

◆不可欠な「倫理的決意」
 今回、国会で臓器移植に関する新しい法が成立した。それは衆議院で絶対多数で可決されたはずの脳死を人の死とする中山案と、少数で否決されたはずの脳死を人の死と決めない金田案の折衷案として、ドナー(臓器提供者)が書面によって脳死判定と移植を受け入れる意思を示し、家族もそれに同意する場合にかぎって脳死を人の死とするという案である。
 私はほぼ金田案に賛成であり、脳死を法で決めるのは大政翼賛会的暴挙であると批判した。脳死を死とすることに、日本の宗教界も日本弁護士連合会も反対である。おそらくそういう宗教界や弁護士会の声を顧慮したのであろう。参議院に突如として新しい案が提出され、それがろくに討議されることもなく成立してしまった。
 その法案は法律として整合性がないと批判されているが、ある意味で名案である。なぜならそれは法で人の死が決められるのかという批判をかわし、逆に脳死を死と決めなければ安心して移植手術ができないという移植医の心配をも解消することができるからである。
金田案を一部取り入れ、中山案のメンツを立て、まあまあといって宗教界、弁護士会の頭をなで、医学界の意思に沿おうとする妥協の名案というべきであろう。

 私は今、あの脳死臨調の席における苛烈な論争を思い出す。臨調の委員は15名であったが、ほとんどの委員の意見は脳死は当然人の死であり、臓器の提供は家族の意思でよいというものだった。これがおそらく臓器移植を熱望する医学界の意見にちがいない。しかしこの問題について考えれば考えるほど、脳死を死とする科学的理由はなく、それはただ臓器移植をせんがための強弁であることが分かった。それに臓器移植を家族の意思にすれば、肉親の脳死によって動転している家族が、ひたすら新鮮な臓器を求める医者によって巧妙に説得され、後で深く恨むようなことがあるかもしれない。
 脳死臨調では、脳死は死であるかそれとも死ではないか、臓器移植は家族の意思か本人の意思かという2点について激しく論争が行われたが、脳死を死とせず、臓器移植を本人の意思にすべきだという論を立てたのは、委員では原秀男氏と私、参与では光石忠敬氏、米本昌平氏のみであった。われわれは委員の数では13対2、参与を加えて16対4の劣勢であったが、少数意見を多数意見とほぼ同じ長さの文章にして答申案に入れ、そして多数意見にも臓器提供は本人の意思を主とするという文面を入れさせたのである。

 日本の政府が催した調査会、委員会、研究会でかくも激烈な議論が戦わされた例はほかになく、また答申(1992年1月)に少数意見を多数意見とほぼ同じ長さで書き加えたのは前代未聞のことだろう。もし政府の委員会にしていつもこのような議論が起こっていたならば、例えば同じ厚生省が行った非加熱血液製剤の継続使用の研究会など、良識が勝利し、あの大量のエイズウィルス(HIV)感染者など出さなかったにちがいない。
 もしわれわれが頑張らず、脳死臨調が満場一致で脳死を死とし、臓器の提供は家族の意思でよいという答申を出していたとすれば、おそらく金田案などは出されず、宗教界も弁護士会もあえて口をはさむことに躊躇したであろう。なぜならば元文部大臣を座長とし、元東大総長を二人も委員に加えている脳死臨調の全員一致の結論に逆らうことは、日本の知性そのものに敵対するかのように思われるからである。法によるにせよよらないにせよ、今ごろ臓器移植は盛んに行われていたと思われるが、さまざまな非人道的事件が新聞紙上をにぎわせ、脳死臨調そのものが社会の批判にさらされていたであろう。

 このたびの案は、移植医からみて脳死臨調の多数派の意見より後退している。中山案で突っ走りたかったはずの移植医学界がこの妥協案をのんだ底意はどこにあるか不安を感ずるが、噂によれば、とにかく法案を通し、臓器移植をやってみて、それからまた、これでは臓器不足にならざるを得ないので家族の意思でよいことに変えればよいとのことである。噂が真実でないことを信じたい
 この移植医学を現代のカニバリズム(人肉嗜食)であると批評したフランスの哲学者がいるが、生きているとしか思われない温かい人間の臓器を利用するこの医学はどこかにおぞましいものを秘めている。移植医学には、人の命を救うためにはそういうおぞましいこともあえて行うのであるという倫理的決意が必要である。そういう決意なしに移植が安易に行われるとき、やがて日本でも、海外で行われているといわれるように、臓器を売ってテレビを買ったなどということが起こるかもしれない。
 この問題はここで終わったわけではない。私は、この移植医学の将来をいくばくかの期待と大きな不安をもって今後も見守り続けていきたいと思っている。
(1997年6月18日付下野新聞、転載許可済)

 梅原先生は人も知る「日本の霊性」の研究者であり、日本人の生命観・死生観・宗教観について永年その学識を公にしてこられた。京大人文科学の台頭でもある。その先生が、珍しく声高に「脳死は人の死ではない」と主張された。
 日本人の精神性に深い知識をもつ人なら「脳死は一律に人の死」と決めつけるような、それも「日本の霊性」に無知蒙昧の国会議員の議論に委ね「人の死」を法律で決めることなど、断じて認めるわけがない。「人の死」は法文で謳うのではなく、人類が永い永い年月をかけて受容した「共有の承認」でなければならないからだ。
 先生はそれでも妥協して、厳しい手続き(書面による本人の意思確認と家族の同意)を条件に脳死移植の法制化に賛成している。「日本の霊性」の専門家(の代表)として苦渋の判断だったにちがいない。
 この夏、梅原先生の危惧は現実となった。あの脳死臨調での少数派の議論と金田議員の折衷案はものの見事に葬り去られた。梅原先生の耳に達していた「噂」は本物だったのである。この国の脳死移植にかかわる人たちは、姑息に姑息を重ね、政治の力まで動員して、「倫理的決意」どころか欺瞞と暴走に拍車をかけている。人の生死にかかわる真剣な議論を無にされた梅原先生はどんなお気持ちでこれを見ておられるだろう。

 もう一人、故原先生のものである。

◆「二つの死」を決めた法律
■脳死移植法
 平成9年(1997)6月17日、国会は議員立法により「臓器の移植に関する法律(臓器移植法)」を成立させました。10月16日から施行されます。この法律は「二つの死」を決めたといわれています。
 イギリスでは、脳死になった妊婦については正式な脳死判定はしないそうです。脳死判定をすると、死体が赤ちゃんを産んだという奇妙なことになるからです。判定しなければ、お母さんは生きていたことになります。
 臓器移植法は、移植に使わない患者は、脳死判定をしないことにしました。だから心停止のときに死んだことになります。
 参議院における提案者の説明を参考にこの法律を読んでみましょう。
 ①「脳死した者の身体」が「死体」になるのは、本人が臓器提供の意思と、脳死判定に従う意思を書面で表示しており、家族が臓器提供と脳死判定を拒まない場合です。
――だから、主治医が「脳死になりました」といっただけでは、まだ「死体」になりません。生きていることになります。
 ②脳死判定は、2人以上の権威がある医師(摘出医と移植医を除く)の一致による。
――だから、判定医のうち1人でも反対すれば、「死体」になりません。摘出医と移植医は判定に関与できません。
 ③判定医は、脳死判定前に、本人の書面と家族の意思を確認しなければならない。
――だから、「脳死になりました、臓器を提供しますか」と聞く今までのやり方とは逆です。
 ④判定医は「的確に判定した」ことの証明書を摘出医に交付する。証明書をもらわないで摘出すると1年以上の懲役または罰金。証明書にウソを書くと3年以下の懲役または罰金。
 ⑤変死体からの摘出は、検察官、警察官の検視が終わってから。 
 ⑥移植に使わなかった臓器の処理、記録の作成と保存、閲覧、臓器斡旋の許可については、厚生省令で決める。臓器売買の禁止と同様に違反には刑罰を科す。
 したがって、脳死判定と移植に関係する医師が、いままでのように自分だけの判断で実施すると大変なことになります。

■脳死臨調から移植法成立まで
 私は脳死臨調(臨時脳死及び臓器移植調査会)の委員として、平成4年(1992)、梅原猛委員と共に少数意見を述べました。
 「脳死は人の死である」という多数意見に対し、脳死は人の死ではない、人の死とすることに疑問を持つ、という意見です。
 脳死臨調の結論は、「人の死については、いろいろな考え方が世の中に存在していることに十分配慮しつつ、良識に裏づけられた臓器移植が推進され、これによって一人でも多くの患者が救われることを希望する」というものです。
 少数意見の私どもはこの結論に賛成しましたから、臨調の結論は全員一致です。
 平成6年(1994)、衆議院では議員の立法権に基づいて森井忠良議員らが、脳死が人の死であることを前提とする臓器移植法案を提出しましたが廃案になり、中山太郎議員の再提案(中山案)が可決され、脳死を人の死としない対案(金田案)は否決されました。参議院では、中山案を修正、衆議院の同意をえて、脳死移植法が成立しました。
 本来一つでなければならない人の死を、患者個人や意思の都合で二つ認めることは、法社会の安定を害するので、法律学者の多数は反対し、脳死臨調でも採用されませんでした。それなのに国会は、「二つの死」を認める法律をわずかの審議で成立させてしまいました。「脳死を死と法律で決めなければ、心臓移植を待つ患者が救われない」という声に応じたのです。

■臓器移植法の問題点
 交通事故で主治医から「脳死になりました」と診断された人がいたとします。「臓器提供と脳死判定に従う」というカードを持っていれば、脳死判定医が正式に判定、証明書を作成し、移植医に交付するでしょう。
 いざ、摘出というときになって、賛成した家族と別な家族が「やめてください」と言ったらどうしますか?
 直前に血液検査をしたらエイズということがわかったらどうしますか?
 臓器移植は中止すべきでしょう。この人を生き返ったことにしますか?市区町村に死亡届を出していたら、戸籍を訂正しますか?
 結婚式がすんで、結婚届を出しに行った夫が交通事故で脳死状態になったとします。結婚届が受理されると、奥さんは夫の遺産を相続できます。
 そこで、奥さんが「結婚届を出すまで脳死判定を待ってください」と言ったら待ちますか?もらえる遺産が少なくなった兄妹が裁判所に訴えた場合、判定を待った医師の責任はどうなるでしょう。
 子供も両親もいない夫婦が、一緒に交通事故に遭い、同時に「脳死状態です」と医師に宣告されたとします。夫がカードを持っており、妻は持っていなければ、夫は志望したが、妻は生きていることになります。そうすると、夫の遺産は妻がいったん相続し、妻が心停止になると妻の兄弟がその分をもらえます。妻だけがカードをもっていると、その逆になります。
 民法を改正しなくてよいでしょうか?こういう疑問の審議をする時間を与えなかったのが、国家のスピード可決です。

■私が見た脳死
 脳死状態になった患者は、顔色がよく、静かに眠っているように見えます。お棺の中の顔とはちがいます。死相がありません。汗をかきますし、涙も出します。排尿、排便もします。時々動きます。だから、私は、脳死者は「生きている」と思います。
 集中治療室では、医療手段がなくなっても、脳死患者を死体にしないで看護を続けております。私はこれを見て、お医者さんと看護婦さんに合掌して部屋を出ます。
 脳死状態は一つの自然的事実です。
 京都の龍安寺の縁側に坐ってあの庭を眺めますと、海の中に島が点々とあるように見えます。ふと横を向いてまた見直しますと、雲の上に山頂が出ているようにも見えます。何個かの石が白い砂の中に配置され、それが島に見えたり山頂に見えたりするのです。何に見えようとも石と砂の配置に変わりはありません。
 医学的、生物学的に見た脳死状態は石と砂の配置です。人の生と見るか、死と見るかは、同じ自然的事実に対する見方のちがいです。
 臓器移植法が成立しても、移植に使わない脳死患者は、霊安室に移されず、看護を続けられるでしょう。人工呼吸器は、家族と医師の阿吽の呼吸ではずすことになるでしょう。もし、「移植に使わない脳死体も死体だ」という人がいたら、私は反対です。
(書下ろし寄稿)

 原先生は法律家ながら、日本人としての生命観や宗教観を矜持としてもっておられた。その上先生は、法律の専門家として冷徹に脳死状態の患者と医療現場の事実関係を観察し、「脳死は人の死ではない」との確信をもっておられた。先生は梅原先生と同様、最終的に「二つの死」に妥協したが、それでも出てくる脳死移植のさまざまな法的矛盾点を指摘されておられた。先生が反対しておられた「移植に使わない脳死体も死体だ」がこの夏大手を振って闊歩することになった。さぞ、草葉の陰で唇をかんでいることだろう。

 先日施行された改悪臓器移植法は、「書面による本人の意思表示」を省き、「家族の同意」だけで臓器提供を可能にした。今後は肝心の「家族の同意」も次第に安直になるだろう。ドナーには大きなお金が動くかもしれない。美談の陰に、おぞましくやましいことが潜んでいる。
 かつて「脳死臨調」で戦わされたあの激論はいったいどこにいったのか。抹殺の憂き目に遭ったあの激論はいったい何だったのか。脳死移植推進のためには「罪悪感」すら捨てている人たちの自惚れは、今日の日本社会の倫理観欠落症候群に通底している。

 改めて言う。
 脳死移植は、生きているドナーの臓器を切り取る殺人行為なしには成り立たない。脳死状態であっても、救命装置で生かされていても、心臓が動き体温がありヒゲも伸び排便もする患者は生きている。これを無理やり法律で死んだことにして、その生きている患者の生体から動いている臓器を切り取り、その結果患者をあの世に強制送致することは誰が考えても立派な殺人である
 脳死移植は、きわめて政治的に、しかもきわめて姑息に、法権力を借り、きわめて密室性の高い、きわめて犯罪性の高い、医療行為である。
 「脳死」は人類共有の「死」ではなく「脳死は一律に人の死である」という決めつけは、移植医の殺人行為を正当化するために遅れた日本の脳死移植件数を国際レベルのものにするためにつまりは移植学界のエゴと功名心のためにあるいはそれを「臓器移植でしか救えない命を救う」という美談で糊塗するために政治的に強制された不当な「死」の概念である。人の「死」の概念と共通理解は人類共有のものでなければならず、限られた一部の人間や組織の都合によってもてあそばれてはならない。

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