長澤の質問に答えて、松岡氏は子供の頃の書との出会いから成人前の時期の空海への興味を紹介、一方「編集」という現在の仕事に至る過 程で学んだ空海の編集的知性との出会い、そして『空海の夢』の執筆に至る空海密教の探求とくにその書や言語哲学の特異性への関心を開陳した。
日本では、あまりカリグラファーCalligrapherという言葉になじみがありません。私が空海をカリグラファーと呼ぶ理由は、彼が非常にグローバル であるためなんです。インド・中国・朝鮮半島のすべての文字、書法、さらには音声まで、森羅万象の形すべてを引き取って書く書家であったと思うんです。
いま書道という言葉は、残念ながら狭いものになっています。書道という伝統の重みのゆえに書道の奥行きが出にくいものになっている。 そこで空海のような人を敢えてグレートカリグラファーと呼ぶことによって、今日の狭くなりすぎた書道というものに対して、原点の広さを伝えたいという思い があるんです。
例えば、『聾瞽指帰』、後に『三教指帰』という名前になりましたが、これはすごいですね。『聾瞽指帰』と最初に書いてあって、また最後に『聾瞽指帰』と 書かれるんですが、最初の字と最後の字が違うんです。最後の『聾瞽指帰』には「鳥」が出てくるんですよ。ウワッと羽ばたくような鳥が。こういう書を書く人 は今は皆無です。書の一字一画がすべて森羅万象と戦いあっている、というより共鳴しあっているというんでしょうかね。
しかも驚いたのは、次々と変化していく。書というのは普通、頭の字と最後の字が変わるということはまずないですね。楷書で始まれば楷 書で終ります。たまたま卒意の書とか手紙くらいだと、最後は書きなぐったりしますが。空海の場合、自分の著作に自分のそのときの感情と生命力をリアルタイ ムでたぎらせて書き換えているんです。ものすごい「卒意」ですね。
破体書というものは、空海が日本に持ち込み、創案し、やりきって、それ以後誰もやれなかったんです。これは、日本書道の謎ですね。なぜ、空海にはこんな破体、雑体が書けたのか。
空海は、言葉のなかに真実があるとするんです。そこから言葉を表す文字のなかにも真実がある。声にも真実がある。それを使う身体にも真 実があるという。これを「身・口・意(しん・く・い)」と言ったりします。「身体」と「口」と「意(こころ)」、そういうものをこれだけだいじにした宗教 あるいは言語哲学は今までなかったと思います。そういうものが、現在の私たちには遠いものになってしまったんです。
ギリシャ哲学以来のヨーロッパ合理主義においては、部分が積み重なると全体になり、全体を分割していけばかならず部分になるわけです。そこには部分と全体の極めて合理的な関係がきっちりとあります。
それに対してアジア、仏教、あるいは空海の考え方では、全体のなかの部分一つ一つに全体がある。空海の書や梵字でも、最後に打たれた点とか線の伸びのなかに、今まで書かれた作品全体が含まれているんです。
ステージは松岡氏のソロトークから長柄師の梵字デモンストレーションへと進むが、ここに松岡氏自身がその著『空海の夢』で述べている「カリグラファー空海」の一節を紹介しておく。
密教では文字にふたつの表情を読む。字相と字義を言う。字相は表面的なイメージを、字義はその奥にひそんでいるイメージをさしている。 空海はそのどちらにも眼をくばり、どちらもほうっておかなかった。よく「字面にとらわれる」と言うが、空海はその字面にこそ本意がはためいているとみえ た。そういう"文字の人"だった。
空海は後世にいう文人ではなかったかもしれないが、アヤの人ではあった。「文」の文字に「×」を読みとれる人だったし、その文字の秘 める力をとりだして書いてみせることもできる人だった。そこに書聖空海の面目がはじまっている。いちいち筆をとってみなくても文字の魂がよみとれたらしい ことは、空海自身の「いまだ画墨せずといえどもやや規矩をさとる」の言葉からもうかがえる。
その『聾瞽指帰』にはやくも鵠頭(こくとう)の書法が認められることを、みずから筆をとって私に教えてくれたのは書家の樋口雅山房氏であった。「聾」の字の旁の上部の「ヒ」の部分にすでに鵠頭の筆の動きが認められるという指摘である。
ところが、当時の日本人は誰一人として鵠頭の書法に達していた者はいなかった。すくなくともわれわれが知る奈良時代の書に鵠頭はない。
『聾瞽指帰』には王義之や李(りよう)もいるが、いくぶん肉太で大き目の韻字には隋の「浄化閣帖」の智果の僧体も影をおとしている。つまり雑多な用筆がいろいろまじったカタログ的な成果であった。
ところでこの「勅賜の屏風を書し了って即ち献ずる表」には、有名な蔡?(さいよう)の「書は散なり」という言葉が出てくる。空海自身はこう説明する、「た だ結裹(けっか)をもってよしとするに非ず、必ずすべからく心を境物に遊ばしめ、懐抱を散逸す。法を四時に取り、形を万類に象るべし。これをもって妙なり とす」。
天長二年(八二五)、空海は大和国高市郡益田池の構池工事の記念碑の銘文と揮毫を頼まれる。益田池碑銘は一時づつ書体を変えている。 単に篆隷真行草を変えているのではなく、その一字の背後に棲む景物気色に応じて、それぞれ恰好の象形を選んでいる。最初の「若」の草かんむりは草のように萌え・・・。
ここにはやはり、「生命の海」からぬっと出現する多彩なイメージの群像をとらえてはなさない空海がいる。
松岡正剛 『空海の夢』