現代日本を代表する「知」の巨人、編集工学の松岡正剛さんが亡くなられた。
「Aujourd'hui, maman est morte(きょうママン(母)が死んだ)」ではじまるのはアルベール・カミュ(Albert Camus)の『L’étranger(異邦人)』だったか。訃報に接し、このフレーズがなぜか急に思い浮んだ。
思えば、松岡さんはサルトル・カミュ全盛期(昭和30年代の終り頃)に、早稲田の仏文科に学ばれた。カミュなどは、おそらく高校時代に読んでいたに相違ない。偶然一学年上の私は東洋哲学科。同じ時代に、同じキャンパスで、同じ空気を吸い、同じことに関心を持ち、学んだ。早稲田の文学部の学生は、在学中マルクス・ニーチェという麻疹にかかりやすく、さらにキルケゴール・ヘーゲル・ハイデガーに感染し、サルトル・カミュ・ボーヴォワールに感染し、アンガージュマン(社会参加)・反権力を語ることを以てアイデンティティーとした。そういう文学部のキャンパスで、反米帝のアジ看板や派の名入のヘルメットをかぶった活動家に囲まれ、マイクを握ってマルクスを熱く語る松岡さんは異色だった、と松岡さんの古い友人から聞いたことがある。フランス映画のヒーローだったアラン・ドロンにどことなく似ていて、想像するに松岡さんが語っている間だけ、一文のキャンパスはカルティエ・ラタンのようだったろう。
松岡さんは「生涯一編集者」を座右の銘にしていた。八十になる老いの身にガンを背負い、未完・未着手のお仕事も相当にあるなか、「千夜千冊」を書き続け、天寿を全うされた。残されたお仕事に悔いや未練もあっただろう。しかし松岡さんのお仕事に「これでおしまい」はあり得ない。世に編集者は数多いが、編集工学という「アルス・マグナ」は松岡さんしかいない。松岡さんのお仕事はエンドレスである。それを自覚しそれを全うするかのように、最後まで仕事場におられた。ライフワークのようにしていた「千夜千冊」は、7月18日付「中国人のトポス」(三浦國雄)が絶筆。それから最後の肺炎との闘いになったのか、約1ヵ月後の8月12日、お盆の前日の午後、(菩提寺の真宗的に言えば)弥陀の来迎を受け極楽浄土へと旅立たれた。
松岡さんほどの人に、世間の型どおりのお悔やみの言葉は意味がないだろう。全て達観した上での病身老後そしてご最期だったにちがいなく、ありきたりのご愁傷様は無用かと。私は合掌して「般若心経」を唱え、ただただ「長い間、お世話になりました、学ばせていただきました、有難うございました」とつぶやくのみ。感謝のほかない。
松岡さんがはじめて胃がんの摘出手術をして一年経った頃、私が心筋梗塞で入院したことがあった。その時松岡さんからお見舞いのハガキをいただいた。最後に「(退院したら)仕事をなさいませ」とあった。それに勇気づけられて、私は今も現役でいる。松岡さんと私は、境遇の点でも似たところがあり、どこか通じ合うところがあった。
追悼の文を書きはじめながら、不遜にも私には松岡さんの「アルス・マグナ」を語る資格も能力もなく、あるのは松岡さんが四十才で上梓した『空海の夢』だけである。松岡さんご自身は「若書きながら、気に入っている」と言っていた。おそらく、平安期の日本を代表する「知」の巨人、空海の密教思想を現代の視座から「編集」することに成功したのである。工作舎を離れてまもなくの頃だった。
『空海の夢』(新装増補版)に書かれた空海は実に衝撃的で、早稲田(学部から博士課程)と大正大学(博士課程)でインド学・仏教学を専門に学び、その道の専門家のつもりでいた私だが、私の瑣々たる仏教学・真言学ではとても読み進むことができなかった。読みはじめたものの「序」で本を閉じた。難しいのだ。
「何だこれは?」、真言宗の祖弘法大師空海を書いた本が、真言僧でありかつ仏教を専門に学んだ私に、難しくてわからないという大きな衝撃が、そう私につぶやかせた。恥ずかしいやら悔しいやらで本を閉じたままにできず、気がついたら最初から読み直しはじめていた。高校時代に教科書予習でよくやったように、わからない箇所に赤線を付し、わからない単語は丹念に調べてノートにした。一日集中して読んでわずかに5~6ページ、遅々として進まない。前のページまでの理解が次の日には薄れているため、また読み直すことしばしばで、二歩進んで一歩下がりのようだった。数カ月かかって一応は読了したものの、前のチャプターを読み直すと、わかったはずがわからなくなっていた。つまり、ひととおり一冊読み終っても、何が書いてあったか頭に残っていないのである。たいして意味のない読み物だったら読み捨てでいいのだが、仏教研究者の私にとって空海は終生のテーマであり、一番理解をしておくべき宗祖大師である。このまま『空海の夢』から離れていいか、度々自問したが私には離れることができなかった。松岡正剛という未知の著者への敬意と関心が募るばかりだったし、何よりも『空海の夢』がろくに読めない自分の仏教学・真言学に腹が立ったし、同時に空海という高い山をいつかは極めなければならない覚悟めいたものも自覚した。
以来、私は『空海の夢』を読むというより調べることを日課とした。読み終わっても読み終わっても、くり返しくり返し、全てのチャプターの意味するところがわかるまで読み調べた。3年間、おそらく100回以上は読み調べただろう。その間メモや気づきをノートにしたのが「『空海の夢』ノート」である。このウェブサイトは、松岡さんのご指導のもと、編集工学研究所の精鋭が制作してくれたもので、日本仏教の開祖のポータルサイトとしてははじめてのもので、『空海の夢』のデジタル姉妹版とも言える。
青葉台時代、赤坂時代、空海フォーラムでの各種コラボレーション、イシス編集学校の思い出など、綴りたいことは山ほどあるが、私などより松岡さんをよく知る方々が、いろいろなところにいろいろな追悼の文を寄せられるだろうから、私は次の思い出を以て締めることとする。思い出ごとにあふれくる涙を抑えきれなくなる。来なければいいと思っていた日がとうとう来てしまった。今は、ガンと死神を恨むしかない。
今から約30年前、ある書店で『空海の夢』(新装増補版)という本に出会った。
その帯に、「万能の天才・空海とその密教をめぐって、生命科学と東洋思想を背景に、雄渾なスケールのもとに描く出色の論考」とあり、その下の楕円形の黒枠に「新稿「オウムから空海へ」」とあった。私は「オウムから空海へ」というキャッチに鮮烈なものを感じ、なかも確かめずにまた著者の松岡正剛という人をまったく知らずに、即購入し、早速その夜読んだ。地下鉄サリン事件のあった約半年か1年後のことだったと思う。
『空海の夢』を読みはじめて「序 オウムから空海へ」の最後、松岡さんが挙げた宗教哲学の「十」あたりで読み進めなくなった。ホワイトヘッド? 折口信夫? 反射的に空海をこんなふうに書く松岡正剛とは何者だと思った。うかつにも、『空海の夢』の初版が出て11年も経っているのに、『空海の夢』も松岡さんも知らなかった。初版本が出た翌々年(昭和61年)には、東京と高野山で、コリン・ウィルソン(神秘主義に詳しい作家・評論家)やフリッチョフ・カプラ(東洋思想「タオ(「道」)」に詳しい物理学者)やライアル・ワトソン(生命科学に詳しい生物学者・人類学者)をゲストに、松長有慶博士を交え、松岡さんをナビゲーターに行われた「高野山大学百周年記念シンポジウム」があったことも知らなかった。
仏教学者ではなさそうな松岡正剛という人が、自信にあふれて空海論を書いていることにもおどろいた。司馬遼太郎の『空海の風景』には少々不満を感じていたが、松岡さんの空海は難しいが本格的だと直感した。博士課程まで勉強したはずの私の仏教学がまったく役に立たない。読みはじめてすぐ『空海の夢』のすごさに圧倒された。毎日少しずつ読んで、読了までに約半年かかったろうか。ほぼ読み終える頃、私は松岡さんに会う機会を得た。
真言僧のボランタリー組織「密教21フォーラム」を10人で立ち上げ、会員募集をしたところ、会費が年額3万円を越す高額にもかかわらず、230人の申し込みがあり、その設立総会に合わせて記念講演を行うことになった。講師選定を任された私は即座に松岡さんを考えた。そこで、松岡さんを知る友人から松岡事務所の電話番号を教えてもらい電話をかけた。
電話に出たのが、その後ずっと変わらずにお世話になっている太田香保さんだった。途中で、松岡さん本人に代った。低く太い声だった。空海も低く太い声だったという。空海と話している気分になり緊張した。はじめての会話の上、講演のお願いをする電話なので、失礼のないようにまた私のことを信用してもらえるように、言葉を選んで話した。一面識もない私を松岡さんがどう受け取ったかわからないが、突然の電話だったにもかかわらず快く応じていただいた。
ほどなく、講演の打ち合わせを兼ね目黒区青葉台のオフィスにお邪魔した。はじめての松岡事務所は高級マンションらしい建物の一角で、応接の部屋はその後の赤坂や今の赤堤と同じく本の壁のなかだった。ほとんど私が聞き手だったが、松岡さんは静かに現れ、タバコを時々くゆらせながら、静かに語る知的な紳士だった。話は順調に進んだ。それから何回、青葉台に通ったか、お邪魔するたびに空海ではないが「実(み)ちて帰る」青葉台だった。
その時がきて、私たち「密教21フォーラム」の設立総会が目白の椿山荘で行われた。出席者200名の前で松岡さんの記念講演「21世紀と空海思想」があった。大成功だった。宗派ではこういうことはできない。私は、今後も松岡さんの力を借りる必要を感じ取った。
なぜ松岡さんだったか。結論を先に言うと、伝道の「方法」の問題である。とくに「メディア性」「情報化」のこと。空海の「密教」を、宗派の外で、社会に、わかりやすく、正しく、直接伝えるには、情報の世界に参入する覚悟がいる。「メディア性」が問われる。ところが、私たち出家僧の一番の弱点は、布教だ教化活動だ伝道だと言いながら、宗教的教義や信仰の世界を一般的な社会用語あるいは生活言葉、すなわち普通の日本語で「言い換える」、情報化することがまったく不得手なのである。
『空海の夢』は仏教学で書かれた本ではなく、出家僧侶の仏教用語で書かれたものでもなく、松岡さんという「知」の巨人が普通の日本語で書いた本である。そのコトバがいい。松岡さんは、「書きコトバ」も極上だが「話しコトバ」も非常にすばらしい。松岡さんはコトバの達人で空海の「密教」の「通訳」として最高だと、私は直感したのだ。
私が考えていた伝道、ミッションとは、伝統的な布教伝道の方法ではなく、例えば、アートや音楽や芸能や文字デザインやIT技術やメディアやウェブなどを動員してでも空海の「密教」を「現在化」する情報活動で、中心軸にはメディア性が常にある。それは松岡さんにしかできないと思った。それは的中した。松岡さんに企画・ディレクションしてもらったいくつもの活動は期待通りになった。松岡さんを通じて、現代日本社会のメカニズムを最先端で動かしている有能な人たちと出会い、直接空海の「密教」に接してもらうこともできた。「母なる空海」も「よみがえる空海」も何とかできた。
トーク/松岡正剛さん
聞き手/長澤弘隆
トーク/松岡正剛さん
聞き手/長澤弘隆
平成22年(2010) 6月18日 別院真福寺講堂
松岡さんは昭和19年(1944)生れ、私は1年早い18年(1943)生れ、松岡さんは早稲田の仏文科、私は東洋哲学科。私の方が1学年上であるが、頭のなかは松岡さんが横綱、私が序の口で格段の差がある。お互いに高校時代、60年安保(国会デモ)をテレビで見ていた。
松岡さんは文学部のキャンパスで一時自治会活動すなわち学生運動に参加、私は「一文自治会」「反米帝」といった大きな立て看板やアジ演説を横目に、集会の横を通り過ぎるノンポリ。松岡さんはヘーゲルとマルクスを同じ頃読み込みサークルなどで議論したとのことだが、私はと言えば、わかってもいないくせにショウペンハウエル・ヤスパースをかじり、マルクス・サルトルをかじり、和辻哲郎・鈴木大拙を読み耽り、それが哲学科の学生らしさだと思っていた。
松岡さんと私は、境遇の点で少し似ていて、松岡さんは20才代でお父さんを失くされそのあと苦労された。私も25才の時父を失くし、全山を焼失してから100年経っても本堂すら再建できない寺を継いだ。いずれもゼロどころかマイナスからのスタートだった。
松岡さんが胃を全摘出した1年後、私は私で心筋梗塞を発症し、お互いに「死神」に出会った。松岡さんの2度目の大手術の時は、松岡さんに「大毘盧遮那殿」と揮毫してもらった堂額のかかる新本堂で手術の無事成功を祈っていた。
最初の出会いから25年が経ち、私が事務局長を務め25年続けてきた真言僧によるボランタリー組織「密教21フォーラム」も会員の老齢化のためにピリオドを打つことになった。松岡さん率いる編集工学研究所のデザイン・編集・コンテンツ作成で制作した公式ウェブサイト「エンサイクロメディア空海」は、多彩かつ豊富なコンテンツに上質な空海情報を満載し、質量ともに他の追随を許さない、日本初の仏教開祖の専門サイト、空海の専門サイトになっている。私たちの活動が残した社会情報の遺産と言っても許されるだろう。すでに何10万件のアクセスを得ている。
松岡さんには長年のご協力に感謝の意を表するべく、「空海賞」大賞をさしあげて、少しだけ報いたつもりである。太田香保さんにもいつも親切かつ丁重にサポートをしていただいた。感謝以上の感謝の言葉があれば、それを贈呈したい。
以上、けっこうな長文となった。人生の最後に松岡さんに一言お礼が言いたかったのである。前にも言ったが、松岡さんという「知」の巨人と『空海の夢』に出会っていなかったら、私は空海知らずの真言僧に終わっていたし、私の後半生が「空海遊学」で充実することはなかった。
松岡さんには、古今東西の豊饒な「知」で編んだ「ジャポニスム」とともに、その「ジャポニスム」のマトリックス的な「あや(文・彩)」としての「母なる空海」「父なる大師」を教えられた。また、その空海を東アジアの宗教・風土・諸芸・言語などといった広い視点で見ること、さらには空海の言語思想を世界の言語哲学の視座で見ることも。それで私は空海に「開眼」したのだった。
元密教21フォーラム事務局長 長澤弘隆
平成29年(2017)5月25日 ホテル椿山荘東京