甑岳聖海(出羽修験先達)
◆天上界へのゲート・羽黒
修験の山として知られる出羽三山は、月山、羽黒山、湯殿山の三つの山をさします。それぞれが独立した山ではなく、標高1,980mの月山を中心に広がる峰々が、羽黒山(412m)、湯殿山(1,504m)と呼ばれています。
その名の通り、夏でも雪をたたえ雲上に銀色に丸く浮かぶ容姿の月山は、先祖の霊魂が集う山とされ阿弥陀如来を本地としています。一方、羽黒山は聖観音を本地として月山の里の宮として信仰を集め、山頂の池には平安時代から貴重な鏡が収められて来ました。そして、お湯の湧き出る赤褐色の巨岩をご神体とする湯殿山は大日如来が本地で、三山の奥の院とされています。この出羽三山を歩く事を羽黒修験では「三関三渡」と呼び、単なる地理的な移動だけではなく現在(羽黒)、過去(月山)、未来(湯殿)という精神的な意識と空間を行き来する事を意味します。
この出羽三山の中で、羽黒山は庄内藩の城下町・鶴岡市に最も近く、地理的にも経済的にも羽黒修験を支える一山組織を形成していました。羽黒とは、先住民族・アイヌの言葉が地名になったとも云われていますが、その由来には諸説があります。私が聞いた中で、もっとも興味深かったものは羽黒修験本宗大先達・島津弘海先生による「八九六(はぐろ)」説です。八とは神仏が座す八葉蓮華を表し、九とは陽の極まる場所を指し、そして六とは易の六爻(上爻)の事で神仏の住む天上界を意味するというのです。島津先生の説によれば、まさに羽黒は天上界から神仏が舞い降りる聖地そのものであると云う事になります。その羽黒の宿坊街を手向と書いて「とうげ」と呼びます。峠を越えるときに神仏に祈り手向けたことからこの地名がつけられたといわれています。
山々を修行の場とする修験の世界では、里との境界は特別な意味が込められます。門前町からいよいよ山に入り行場に至りますと、女人の立ち入りを禁じる石碑が建っていたり(羽黒では荒澤寺境内に、鶴岡市の当山修験系の金峰山には登山道に建っています)、厳しい地形的な難所があったりするのですが、こうした場所を「吹き越し」とも呼んでいます。俗世との結界を乗り越え、神仏の息吹の洗礼を受ける場所です。羽黒山伏は、山の入り口の門前街で神仏に「手向」け、峰々の難所で神仏の息吹を「吹き越し」て「八九六(はぐろ)」に登るのです。
◆真の信仰を求めて・秋の峰入り
手向の六間程の通りの両脇には、大きな屋根の素朴な宿坊が並びます。その数は現在33軒です。手向の宿坊には霞場(かすみば)という制度があります。全国の市町村別に縄張りが厳格に決められており、出羽三山参りの参拝客は、出身地や住所に応じて宿泊する宿坊が決められます。しかし、近年、この掟が緩みつつあります。羽黒町によりますと、羽黒山を訪れた観光客は、平成11年度は115万9,800人でしたが、平成12年度は110万9,600人と、わずか一年間で5万人余りも激減しています。
羽黒町では、一連のオウム事件により信仰に対する嫌悪感が影響した上に、全国的に観光客の旅行先が国内から海外にシフトした為と説明しています。さらに今後は、アメリカテロ事件の余波で、宗教に対する偏見が増す事が心配されます。実際、宿坊街への影響は大きく、売上も落ち込んでいます。出羽三山参りの人たちも高齢化している中、宿坊の親方衆は今後の経営を考えていかなくてはなりません。これまで、参拝客のみ泊めていた宿坊の中には、一般の観光客も受け入れる処も出てきています。
観光客が激減する中、逆にその数が増えているのが、「秋の峰入り」への参加者です。秋の峰入りは「峰中行」とも呼ばれ、補任状など山伏の位や資格が与えられるため羽黒修験の四季の峰入りの中で、最も重要な行事とされています。明治の神仏分離以後、秋の峰入りは荒澤寺と出羽三山神社とに分かれて行なわれています。内容も仏式と神式とに分かれていますが、古来からの十界行が守られているのは荒澤寺の方です。荒澤寺は8月24日から9月1日まで、出羽三山神社は一日遅れの8月25日から9月2日までの日程となっています。
双方とも峰中行を行なう行堂の広さが限られているため、荒澤寺は120人前後、出羽三山神社は150人前後と参加出来る人数に制限があります。以前は峰入りの希望者が定員を超える事はまれでしたが、昭和の終わり頃から次第に増え始め、ここ数年間は荒澤寺で20人から30人、出羽三山神社では100人以上もが定員オーバーとなっており、抽選で参加者が決められる程の人気となっています。宗教離れと言われている一方で、本当の信仰に触れたいと願う人たちは、年々増えているのかもしれません。
◆確信犯の参加者たち・羽黒への思い
私が初めて羽黒の秋の峰入りに参加したのは、ちょうど修験が脚光を浴び始めた平成2年8月24日の事でした。山形市から車で、国道112号線(今は高速道路が通っています)で羽黒町に入り、羽黒山のシンボルの大鳥居を過ぎると、至るところに山伏の看板が目に付きます。気分はもうすっかり修験者です。しかし寺の仲間と共に、集合場所の正善院(荒澤寺別当)へ放り込まれるように置いていかれると、周囲に見知った人はなく、誰に挨拶をしてよいやら分からず急に不安になります。
忙しいこのご時世に、10万円近い参加費を払い(出羽三山神社の方が、参加費用が安いです。神社の方が応募者が多い一因です)、9日間に渡る行事に参加するのは、物好きの域を超えています。参加者はそれぞれに仕事を工面し、全国から集います。私は今も2ヶ月前から前倒しで仕事をこなさなければ、峰入りに参加する時間的余裕は作れません。
当然、ほとんどの参加者は、それぞれが明確な目的と強い意志を持っています。これまでの参加でこんな事もありました。羽黒に来れば超能力者に出会えると思い参加した東大生が、厳しい行儀作法や苦しい行に根を上げ、「こんな事ならハワイに行けばよかった」と嘆くのです。電気も通っていない道場と、高級リゾート地のハワイというアンバランスさに、どう反応したらよいか分からなかったのを今でも覚えています。大峰の奥駈けも同様かと思いますが、峰入りの本質を見誤ると、とんでもない後悔が生じる事になります。あの東大生の場合は例外であり(彼はお茶の入れ方も知らなかったナァ。今ごろはお役人にでもなったかナァ)、参加者のほとんど全員は明確に目的意識を持って来た人たちばかりです。
僧侶の参加は以外と少なく(新興宗教の方も若干いらっしゃいます)、大半の方が一般社会人です。信仰のため、世俗から逃れるため、供養のため、これまでの生き方を見つめ直すため等、言葉にすれば単純ですが、真剣な目的を持っている方が少なくありません。
青森からいらっしゃる80歳を越える元関東軍の参謀は、戦友の供養と懺悔のため、地元の男性は交通事故で死亡させた人を弔い続けるため、外国人女性は修験の調査研究のため、北海道から参加している男性は神仏と出会うため、そしてある人は来年また参加する時まで頑張るため。
正善院に集う羽黒修験の確信犯たちは、自信と落ち着きを持っています。そうした雰囲気に初入峰(初参加者)は圧倒されます。先輩の行者たちが相当な変わり者か別の生き物のように見えたりもします。しかし、この峰入りの行を終えれば、大抵の初入峰の者も、その変わり者の仲間入りをしている事に気づく事になるのです。
◆まず死ぬ、擬死再生の儀式
正善院では、市松模様と獅子の図が入った羽黒修験独特の摺衣など装束一式が貸し出されます。見よう見真似で身に付けると、そのうちに観音経や心経などを唱える勤行が始まります。勤行が終わると、そのまま精進料理のお膳が運ばれ、自己紹介の後に早速、酒盛りが始まります。顔合せの宴会かと調子に乗っていると、何とこれが「笈からがき」と呼ばれる自分への葬式なのだと、こっそり教えられます。
羽黒修験者の魂が宿る笈
上座には我々入峰者の魂が閉じ込められているという笈が据えられます。この一年間の所業を噛み締めながら酒を飲み、自分への弔いを行うのです。「本当にいま死んだら、どうなるのだろうか」と思うと、家族や友の顔が浮かんだりします。中途半端になっている仕事を思い出す事もあります。己の死を想像しては「実際にはなかなか死ねるものではない...」などとこれまでの自分を反省しつつ、いつの間にか葬式の幕は閉じます。
葬式が明けた翌25日の午後には、直ぐに転生の儀式が行なわれます。正善院と道路を挟んで建つお堂が、藤原時代に作られた三十三観音黄金堂を祭る黄金堂(こがねどう)です。この黄金堂に大きな梵天を投げ入れるのが「梵天たおし」です。梵天は男根、そして黄金堂は女陰のメタファーです。入峰者はこうして、受精というイニシエーションを経て参道(産道)を登ります。
道行き、薬師神社など、かつては仏が祭られていたと分かる神社が目に付きます。羽黒は明治の神仏分離の洗礼を手荒く受けました。神仏を祭っていた宿坊の仏像群は悉く打ち捨てられたのです。焼き討ちに合った堂宇も多く、立ち上る黒煙は数日間に渡ったと当時の記録に記されています。根本中堂だった寂光寺も、出羽三山神社の三山合祭殿に変わるなど、羽黒はわずか四ヵ寺を残し、すべて神道に転じました。
山頂へ累々と続く2,446段の石段の両側には五百数十株の老杉が佇みます。古いものになると五百年を越える杉並木は、国の特別天然記念物に指定されています。法螺の響きや貝ノ緒に絡めた鈴の音が、響くが如く、吸い込まれるが如く、まるで異空間に紛れ込んだようです。この杉並木こそが、開祖・能除仙以来の法燈を伝えた神仏混淆時代の栄華や、芭蕉による奥の細道行、そして神仏分離の混乱など、一山の歴史を見つめてきた物言わぬ目撃者です。羽黒山の霊気のシャワーを浴び、道場となる荒澤寺へと駈け入ります。この荒澤寺を子宮として、入峰者は十界行の洗礼を受けながら胎児として成長して行くのです。
◆深甚秘密の道場・荒澤寺での篭り行
経を読む行者
入峰者は羽黒での行中に、「ここは深甚秘密の道場なれば、娑婆に出て友人、知人、たとえ女房、子供と云えども他言は堅く禁制で御座る」と、導師からしばしば修行の内容を口外する事に釘を刺さされます。あの芭蕉も「奥の細道」の中で、「...山中の微細行者の法式として他言する事を禁す仍て筆をとゝめてしるさす...」と、羽黒での詳細は明らかにしていません。もし禁制を破れば「たちどころに御開山様の御罰を被る」のです。口が軽い私は、この御罰をまともに被っているらしく、娑婆世界で疎んじられてばかりいます。御罰ついでに、少しだけこの軽口を開き羽黒の峰中行の一端を紹介しましょう。
羽黒の秋の峰は、大峰の駈走行とは異なり、篭り行が主体です。拝所を回峰する他は荒澤寺に篭り、夜半と明け方におよそ3時間に及ぶ勤行を行います。その間に作務や礼拝を行い、十界行を修めて行きます。一週間余りにも渡って、顔や洗ったり、水を浴びたり、歯を磨く事すら禁じられ、垢で苔が生えた様になるため「苔の行」とも呼ばれています。これは回峰で険しい峰を4本の手足を使い登る事とともに畜生道の行を修めるためです。
断食は餓鬼道、そして唐辛子や糠で燻し攻めにされる「南蛮いぶし」が地獄の行です。中でも修羅の行として執り行われる天狗相撲は、峰中最大のイベ ントです。入峰者の中には、草相撲が盛んな東北各地で力自慢を自認する者も多い上に、精神修養に入峰するスポーツ選手もおり、見ごたえ充分の試合が展開されます。
私が初入峰の時は、あの柔道の吉田秀彦選手が参加していました(当然、彼は優勝し、その後バルセロナで金メダルを獲得しました)。優勝者に与えられる梵天を目指し、時には骨折者が出る程の熱戦が繰り広げられます。天狗相撲の梵天を授かる事は大変な名誉とされています。かつては梵天を授かった者は山を下り里に帰ると、盛大に宴席を設けお披露目をしたといいます。
◆半僧半俗の世界・それぞれの十界行
地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人、声聞、縁覚、菩薩、仏という十界行の中身はいちいち説明される事はありません。全ての行事は、いつ吹かれるか分からない法螺の音の合図で執り行われます。睡眠不足で疲労が増して行く中、時間の流れがまるで生き物のようにうごめき始めます。一瞬が永遠のようでもあり、長時間が瞬時のようでもあり、時の流れが決して一様でない事に気が付きます。
何年か経験を積むと、そうした時間の歪みを契機にして、自分が峰中で取り組むべき課題が見つかる事があります。例えばそれは、掃除や配膳などの作務であったり、供養であったり、真言の念誦であったりと、決して大それた事ではありません。昨年の自分にとっては勤行でした。羽黒は第50代座主の天宥別当以来、天台に帰属し、勤行の際には法華経を中心に独特の節回しで唱えます。毎回、3時間も続く勤行は、正直いって苦痛です。
しかし、昨年は、勤行中、不意に御仏が集うヴィジョンが飛び込んで来ました。超常現象が起こった訳ではなく、これまで雑然としていた意味や内容が突然、整理がつき理解出来るようになったと言うべきでしょうか。経文がそのまま映像となり、皆の読経の声と一体化して行くのです。感動しながら夢中で勤行したのは初めてでした。
入峰者の中には、毎年の様に自分の知識を自慢したり、横柄に振舞う者が必ず出てきます。半僧半俗の修験の世界には、柔道の吉田選手ではありませんが、娑婆の世界で成功した人も少なくありません。そういう方ほど、自分の経歴や身分を隠して行に打ち込まれます。そうした下向きさに付け込み、尊大な態度を取りがちなのが娑婆の世界を知らない一部の僧侶です。私は僧侶の宗教的知識が、娑婆世界で一生懸命働いて来た方々の発心に勝っているとは思いません。毎年、彼らの不遜な態度に不快な思いをする場面がありますが、それもまた十界行の一つなのかもしれません。
◆生まれ変わりの時・悠々たり...
柴燈護摩
羽黒修験の秋の峰入りで最も重要な儀式が、十界行のクライマックスとして、29日の深夜から30日の未明にかけて焚かれる「柴燈護摩」です。深夜に荒澤寺の境内で執り行われる様は、まさに荘厳です。沿道にロウソクが燃える中、漆黒の闇に浮かぶ100人を超える入峰者が行道をします。外部の立ち入りは禁じられていますから、入峰者が当事者であり、また観客でもあります。
修験懺法が響く中、ブナの護摩木が音を上げて燃え上がり、流れ星のように火の粉が空に飛びます。一般に修験者が行う法斧や法弓などの山伏作法はありません。代わりに羽黒独特の六根を清浄する火箸作法や、邪気を払う為に禹歩を踏む火箸作法が繰り広げられます。入峰者が最後に護摩壇の東西南北を巡り、荒澤寺に戻ると、祝いの謡いの席が設けられます。
三鈷沢へ向かう行者
昨年はその席で能も舞われました。30日は三鈷沢や月山への回峰が行われ、篭り行からの開放感に大いに浸ります。31日は羽黒の石段(参道=産道)を一気に駆け下り、黄金堂の前で産湯を意味するかがり火を飛び越え、この世に再生を果たし、疑死再生の十界行を成就します。その晩は盛大な直会が催されます。
羽黒の十界行は、大峰の奥駈けとは違い、肉体的な負荷は大きくありません。羽黒修験本宗の秋の峰入りは、戦後早くから女性の入峰を解禁しており、男女一緒に小学生から80歳を超えるお年寄りまでの老若男女が参加します。羽黒の峰中はまさに娑婆世界のうつし世です。羽黒修験の研究者・戸川安章氏の言葉を借りれば、羽黒の十界行とは娑婆世界の代表者が、「世間に生きるものたちの苦しみや、束の間のたのしみを体験し、これらの世界に生をうけたものを救う方法を考える機会とする」ものなのです。
最後に、空海のあの「悠々たり」の詩を手向け、神仏分離の混乱を乗り越えて、疑死再生の秋の峰入りを今日に伝えた羽黒の先達たちへの供養としたいと思います。