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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第三十三回

第6章 道草遍路〔第六回〕《1999年8月11日〜8月15日(4泊5日)》−四国遍路は新世紀への戦いの烽火

 昨日で夏期講習の前半がやっと終了して盆休みに入ったので、6回目の遍路旅に出ることにした。昨年、真夏の遍路をやってこたえたので夏場は避けたかったが、おととし私が倒れて予定が狂い、このようなことになってしまった。

 遍路を始めてから四国に渡るのは、これで6回目である。1996年5月に回り始めてはや3年以上たった。歩いて回れば2ヶ月足らず、車で一気に回れば 10日ほどで回れるというのに、ずいぶんと時間のかかる遍路旅ではある。半分以上は四国の名所観光を楽しんでいるせいでもあるが、振り返ってみると私たち は他のお遍路さんたちよりも各霊場で費やす時間も長い。時には奥の院まで行ったりするので、日数をかける割には先に進まない。

 しかし、遍路旅から帰っては空海を考え、また出かけては空海を訪ねるという私たちの霊場巡りは、回を重ねるごとに楽しくなり深まってきた。しかも、西暦 2000年には結願して迎えたいという所期の目的も達成できそうである。いや、ようやくわかってきたが、私はミレニアムを迎えるためというよりも「迎え撃 つ」ために2000年というタイム・リミットを設定していたようである。

 3年前、一番札所・霊山寺で初めて納札を書こうとしたとき、とりあえず切実な願文が浮かばないといったが、実はあるにはあったのである。ただ、私はそれ を願文という形で表現するほど四国霊場を真剣に受け止めてはいなかった。しかし、2年前に倒れたことがきっかけとなって、私は空海を識るようになった。そ れとともに、数々の霊場体験が徐々に私の遍路を変えてきた。

 今、ようやく思いの丈を言葉にすることができる。それは「日本の新生」である。「迎え撃つ」とは、欲望資本主義を迎え撃つことである。そのためには戦後 私たちを蝕んできたもの、すなわち自虐史観と金銭物欲主義という呪縛されてきた二つの鎖を断ち切り、真の日本人を見つけることである。四国八十八ヶ所巡り は新生の旅といわれるが、その行程に身をおきつつ「涅槃の道場」まで辿り着いてみると、大袈裟にいうなら、私の中に一人の「日本人」が甦ってきたような気 がするのだ。

 新世紀の幕開けに向けて、四国遍路という「行」を通して、さまざまな実感の中から湧きあがるパワーのようなものが「まず自分が変わることが日本を変える ことである」と確信をもって言わせるのだ。欲望資本主義を迎え撃つために、この国の一億三千万分の一である私にできることは、まず真っ先に空海の霊跡を巡 り、「結願」のメモリアルを打ち立てて、戦いの烽火とすることである。

 世間では、今年になって盛んにミレニアムという言葉が飛び交っている。キリスト再臨のミレニアムを迎えずとも、世界経済において、国際政治において、ハ ンチントンが「文明の衝突」などと危機感を抱かずとも、世界は十分に欧米文明がリードしている。今後キリスト教の至福千年期が訪れるかどうか私にはわから ないが、西洋に発する一神教絶対的価値観からくる合理主義と、欲望資本主義がこのまま増殖を続けるなら、世界はいつか大きな危機に直面するという予感だけ は募っている。

 二十世紀は、武力の衝突と資本主義の世界制覇の歴史であった。今世紀末は金融のグローバリズムが爆発した時代であった。巨大化した世界経済は、一方でモ ノと情報を氾濫させ、イデオロギーや国家体制の壁を崩壊させたが、反面、地球環境問題やエネルギー問題、南北格差や民族主義の台頭といった、新たな危機も はらんでしまった。

 その元をたどれば大量生産、大量消費を目指したイギリス産業革命に端を発している。すなわち、無限拡張を志向する「資本の意志」が技術革新と手を結ぶことによって、一方では植民地支配や搾取という人間疎外を生んできたのである。

 今日危ぶまれている地球環境問題も、環境ホルモンによる人体の危機も、やはり文明先進国のテクノロジーが招いた結果である。それは、自然を支配してきた人間が、今度は自然や生命から疎外されるというパラドックスである。

 そうであれば、今問わねばならぬ最大のテーマは、資本と手を結んだ技術文明が抱える生命倫理の問題であろう。すなわち、自然と人間との物理的、科学的関係を超えた生命哲学の問題に直面せざるを得ないのである。

 過酷な自然と戦ってきたアングロ・サクソンは、自然というものは人間が生きるために利用し、収奪するものと考えてきた。そのような精神文化の延長に、現 代の脳死による臓器移植という発想もまた生まれたのだと思う。自己が生きるために、他の人間の肉体から必要な臓器を取り出して利用することは、自然からの 収奪と同じ発想ではないだろうか。

 特に有効性を最大の価値と考えるアメリカン・プラグマティズムは、脳死による臓器の有効利用が社会的コンセンサスを得ている。それにともなって臓器移植 の先端医療技術もここ十数年来急速に進歩し、現在は臓器不足に悩んでいる状況である。生命倫理に支えられているはずの医学の「悩み」が「モノ不足」である とは、いかにも物質文明の先進国らしい姿である。

 臓器移植はあくまでも患者とドナーと担当医の倫理観の問題であり、たとえ合法的行為であってもあくまでも、例外的、補完的な領域に留めるべきではないだ ろうか。ドナー・カードは確かに「個人の命」を救うかもしれない。しかし、その発想が「人類の命」を救う行為なのか自問する余地はないのだろうか。

 なぜならドナー・カードの制度普及は臓器移植の社会的合意を推進するものであり、いったん市民権を得たものは容易に社会システムに組み込まれてしまうか らだ。もともと臓器を提供する人の善意や、受ける側の感謝が息づいていた人間的な行為が、やがて無感情な科学的データ処理と、需要と供給の経済的システム にすり換えられる可能性があるからである。

 臓器不足の需要に応えるために、発展途上国の子どもをさらって闇で取引されているという記事を読んだことがある。臓器売買も、欲望資本主義が生んだ市場 主義経済の奴隷となった悪魔の所業である。脳死による「生きた肉体」(臓器は人工呼吸器で生きている)は、臓器の貯蔵や、新薬の実験や、解剖実習や人体実 験として、すでに静かに利用されているという報告もある。

 大阪府立大学の森岡政博氏によると、アメリカでは死んだ人間の身体をバラバラに分解して、それを心臓弁や皮膚や骨や細胞などの各パーツごとに収拾し、使 いやすいように加工して、医療の材料として売りさばく商売があるという。臓器移植は、現在取れる臓器は全部取り尽くす時代に入っており、まるで生肉に群が る禿鷹のように、使える部分はすべて使い尽くしてしまおうという時代に入りつつあるそうだ。

 いったん社会的に認知されたものは、やがてシステム化し、権力化し、そして日常化するのである。自分が生きるために他人の臓器を渇望するカニバリズム(人肉食)のような不気味な文明社会を招かぬと誰が言い切れよう。

 考えてみれば、ある意味で彼らアングロ・サクソンほど「死」を恐れる民族もあるまい。あくまでも「生」に執着する彼らは、さらに命を操作するテクノロ ジー(遺伝子操作)を進化させている。バイオ・テクノロジーの徹底的な発展にたずさわる彼らは、クローン人間の研究によって、資本の増殖のみならず、生命 についても無限追求を続けている。

 『リメイキング・エデン』で衝撃的な未来社会を描いたD・シルバー博士は、21世紀はバイオ・テクノロジーが核兵器をしのぐパワーを社会に叩きつけるだろうと言っている。しかも、その開発は企業の自由競争に委ねられていると。

 博士は言う。
「バイオ・テクノロジーを制御するのは科学者ではない。強力なテクノロジーの使用を科学者が決めたことなぞ歴史を見てもない。この使用を決めるのは国家で もなく、人々の欲望なのだ。その欲望に応える技術はお金さえあれば科学が供給していくものである。全ては市場が決めていくことなのだ」と。

 欧米人には理解できにくいことかもしれぬが、日本人は彼らほど死を恐れない民族なのである。死は生と二分割されるものではなく、生の延長上にあり、命が 自然に「消えていく」ような安らかなものなのである。つまり、生と死は連続した環であって、このワンセットを一巡りすることを「人生を生きる」と感じる民 族なのである。一遍にも見られるように、日本人には死は生の中にすでに組み込まれていることを知る深い知性があったと私は思っている。

 だから、生命までも市場原理に飲み込もうというのなら、私はこれと戦うしかない。私の超理想はこのように一人でにワープしてしまうのである。この自発的 衝動が、人類のエゴイズムをそそのかす欲望資本主義に立ち向かい、これを迎え撃つことのできる民族は、日本人であると信じさせるのだ。空海が決死で守ろう とした、清水が育てた民族、この極東の島の民である。

 私が人心荒廃した戦後社会に生きて、今、思いの丈を空海に訴えるなら、それは「日本の新生」である。

 今回は、第七十八番から第八十八番までの十一ヶ寺の遍路旅である。八十八番札所・大窪寺が結願寺となるが、徳島県との県境にあるため、結願したあとその まま徳島県に入るお遍路さんが多い。大窪寺からひと山越えれば阿波(徳島県)の十番札所・切幡寺につながるために、そこから数珠つなぎに点在する札所を 九、八、七と逆打ちして元の一番札所・霊山寺に戻るのである。これを「結願のお礼参り」といっている。

 このように、四国遍路はぐるっと回って振り出しに戻るという特異な巡礼形態である。つまり、どこから回り始めても元に戻る円環の世界なのである。始めは終わりであり、終わりがまた始めである。死と生が一つに繋がった循環の世界なのである。

 私は、四国のバアサンたちが八十八ヶ所を何度も回る意味がやっとわかってきた。あれは生命の循環運動を本能的にやっているのだろう。四国遍路には女性が 多いことも、それに関係があるのかもしれない(私の場合も妻が言い始めた)。生命の連続性と循環は、命を宿す女性が本能的にわかることである。その意味か らも「まんだら四国」の弘法大師信仰は、その本質が母性原理にあると思えるのだ。

 母性原理は円環的であり、父性原理は直線的である。父なる神を最高神とする西洋文明は父性原理の文明といわれるが、それは聖地巡礼の型にも表れているよ うだ。キリスト教のエルサレム巡礼やスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラは聖地へ直線的に向かう、いわば男性的行動様式が見られる。また、イスラム教 のメッカ巡礼も一つの聖地を目指す目的論的な男性的思考であり、多くの霊場を一周する日本の巡礼とは異なっている。

 このように、聖地へ向かう直線形態と四国の循環形態とはまさに対極にある。西洋の直線型思考は目的論的な理想主義であり、モア・アンド・モアの無限発展 を志向する精神構造が見られる。クローン人間はそういう永久に満たされない男性的発展思考の果てに開発された生命科学であろう。

 飽くなき欲望、それを東洋の釈迦は「渇愛」と呼んだ。日本各地に霊場巡りはあるが、それらは「巡礼」と呼ばれており、「遍路」というのは弘法大師信仰の 四国だけである。また、始点と終点とが連結するのも四国八十八ヶ所だけである。海に面した辺地行道の辺路、それは此岸と彼岸をつなぐ象徴的世界であり、生 死は一体であることを知る古代日本人の自己確認の聖地でもあった。

 そのような循環型死生観こそ、今見直されるべきではないだろうか。何故なら我々の命はもともと循環運動の宿命から離脱することはできないからだ。母なる 地球は、自転をしながら太陽を公転する壮大な循環運動の中から生命を生み出してきた。万物は太古より循環に支配されてきたのである。大気は風となって絶え ず地球を循環し、水は水蒸気となって空と海を循環し、血液は肉体を循環している。ミクロの生命細胞は生成滅々を繰り返しながらマクロの宇宙生命とともに循 環しているのだ。

 それは、人間の倫理観や生命科学などを超えた、宇宙の壮大なる生命讃歌である。すなわち、神がこの世を創造したとする西洋の思想以前のものとして、無限 と連続のうちに「すでに存在していた」ものである。空海はこの宇宙精神を密教の真理とし、両界曼荼羅の思想として私たちに教えてきた。草深い四国の八十 八ヶ所の霊場巡りのうちに、空海はその根源的な真理を人々に伝えてきたように思われる。だから、空海を求めて「四国に(かえ)る」ことが、私と妻にとっての新世紀へ踏み出す第一歩なのである。

 今回が最後の「結願の旅」となる。

◆第一日目(1999年8月11日)--『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』に見る空海の怒り 四国霊場と空海の特徴 灌頂と霊水信仰

●第七十八番札所・郷照寺

 午後3時、香川県丸亀市に到着。今回は岡山の倉敷市と四国の坂出市を結ぶ瀬戸大橋(瀬戸中央自動車道)を渡ってきた。七十八番札所「郷照寺」は瀬戸大橋 の橋脚のある宇多津町にある。港の奥にある古い町並みに入ると、狭い路地に軒を並べた家々が漁師町の面影を残している。そこに車を停めて辻にある地蔵堂を 拝んで歩いて行くと、道端に閻魔堂があって、すぐにゆるやかな坂道にさしかかった。郷照寺の参道である。

 眼下に街並みが開け、先ほど走ってきた瀬戸大橋の巨大な姿や化学コンビナートが見える。坂道を登りつめると鐘楼がある。撞き終えた余韻の中で合掌する妻 の背中に、南無大師遍照金剛の文字が少し色あせている。3年間着た笈摺である。輪袈裟を掛けた後ろ襟には、金色の輪袈裟止めが遍路旅最後の夏の陽を浴びて 光っている。結願成就の旅となる第一日目の鐘を、私たちは海の見える郷照寺で打った。

 鐘を撞いて階段を登ると、周囲を松に囲まれた境内が広がって、右に真っすぐに伸びた石畳の突き当たりに本堂があった。本堂はあいにく修理中のためにシー トに覆われて全容は見えなかった。大師堂は、本堂の脇を上ったもう一段高い場所にある。妻は持参してきた鶴を大師堂に供えた。お経を上げたあとで大師堂の 地下にある万体観音洞を一巡りして境内の奥まで散策してみる。

「郷照寺のご詠歌は変わってるのね」
「"踊りはね念仏申す道場寺 拍子をそろえ(かね)を打つなり"って言うんだろ」
道場寺は以前の寺号である。この歌からもわかるように、郷照寺は一遍が滞在した時宗の寺である。もとは行基によって開かれ、その後ここを訪れた弘法大師が 第七十八番札所と定めた。そして正応元年(1288)一遍がしばらく滞在したことがきっかけとなり、江戸時代には時宗に改宗している。四国八十八ヶ所では 唯一の時宗寺院。その意味では希少な霊場である。

 四国霊場は真言密教の開祖弘法大師が開かれただけに、霊場の九割は真言宗の寺である。ただ、同じ真言宗とはいっても、大師の没後、鎌倉時代には真言宗豊 山派や智山派などの分派が起こっている。そのなかでも、さすがに四国は空海のお膝元だけあって、高野山金剛峯寺を中心とする昔ながらの真言密教、いわゆる 古義真言宗に属する寺が圧倒的に多いそうである。ということは、四国霊場は空海密教の原流にあると見ていいだろう。

 ところで、空海密教を詳しく研究し始めると、おそらく一生がかりの大仕事となる。空海の著作物すべて難解な漢文で書かれているので、たとえ書き下し文で あっても、空海の教養に精通していなければ正確には理解できない。また、空海の学識教養は、儒教、道教、仏教をはじめ極めて広範囲に渡っており、しかも著 作は浩瀚(こうかん)であるために素人にはむずかしすぎるのだ。結局、専門家の解説に頼るしかない。

 幸い、密教の解説書は一般向けのものから専門書まで最近は数多く出版されている。『空海の風景』でも司馬遼太郎がわかりやすく解説しているし、梅原猛氏 の『仏教の思想』でも詳しく述べられているので、かなり知ることができる。それでも、密教は知識だけでは実感できない。それは、最終的に「行」によってし かその神髄に到達することができないようになっているからである。

 結局のところ、文字や言葉では理解できないと空海本人も言っているのだ。それは仏教も同じである。「空」は、文字や言葉では伝えることはできないのであ る。にもかかわらず、今日仏教や密教の解説書が多く出回っていることは、それ自体すでに自己矛盾を犯しているともいえる。だが、もともと釈迦の教えを説く 教典そのものが、文字で後世に伝えられ、しかも万巻の経典が存在してきたことを思えば、仏教はとりあえず文字言語の可能性に挑戦してきたともいえる。だか ら、専門家(坊さん)たちが経典を学ぶ理由もわかるが、その代わり経典の解釈をめぐって百家争鳴が生じるということにもなった。特に奈良仏教はそういう時 代にあった。

 空海はそういう各宗派の教義の対立や混乱を整理統合し、体系的にまとめ上げるというもの凄いことを成し遂げるのである。空海の金字塔といわれる『秘密曼 荼羅十住心論・全十巻』がそれである。そのためには、空海があらゆる経典、諸学説(奈良仏教は宗派というより学派に近い)に精通していたことは想像にかた くない。そういう空海が当時の学界(仏教アカデミズム)をどのように見ていたか。『秘蔵宝鑰』の冒頭に空海の「本音」が記されている。

   悠悠たり、悠悠たり、(はなは)だ悠悠たり、
   内外の??(けんしょう)千万の軸あり。
   杳杳(よみよう)たり、杳杳たり、甚だ杳杳たり、
   道をいい、道をいうに、百種の道あり。
   書()え、諷死えなましかば、もと(いかん)がせん。
   知らじ知らじ、我も知らじ、
   思い思い思うとも、聖も心しることなけん......。

   (むずかしいので、以下専門家の口語訳を引用する。『空海密教』阿部龍一)
   遠くほの暗く記憶の光さえとどかぬ太古から、
   伝わり来た数千数万の書物。
   仏教を説くもの、そうでないもの、
   深遠なもの、曖昧なもの、さまざまに意見を述べ教えを説き、
   自らこそ最高の道を言い競う。
   いたずらに写し取り読み耽って
   死に至るまで飽きぬ人々。
   一体どうして究極の真理を得られよう。
   いくら思いあぐんでもわからない。
   仏陀はこのように教えられたはずはない。
   彼は心の病んだ者を憐れんで、
   かつて神農がしたように薬を投じられ、
   周公旦が羅針盤を発明したように、
   迷える者を慈しみ道を示された。
   しかし、迷える者は自らの迷いに気づかず、
   四生に迷う盲者は盲なることを識らない。......

   (最後はやはり空海の肉声を聴こう)
   三界の狂人は狂せることを知らず、
   四生の盲者は(めしい)なることを(さと)らず、
   生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、
   死に、死に、死に、死んで、死の終わりに(くら)し。

 私が空海に衝撃を受けたのは、この詩を読んだときである。
「生まれ、生まれ、生まれ、再び生まれ来て、死に、死に、死に、さらに死に来て、去りゆく涯もまた無明のかなた......」

 ここには、空海の絶望的な嘆きが聞こえる。この世の無明の海を見つめる空海の底知れぬ暗い眼差しを感じる。私が空海に共鳴するのは、この闇を見据える眼 であり、その孤独性においてである。(それは空海の明るさに共感する司馬との対極ではあるが)空海の人知れぬ苦悩の深さはそこにあったように思う。

 さて『秘蔵宝鑰』はアカデミズムに突きつけた専門書であるから、盲人とは明らかに当時の知識階級、僧侶のことである。空海は彼らをまさに三界の狂人と呼ぶ。無明の凡夫一般を指していないことは、この書を著した背景を考えればさらにわかる。

 淳和天皇の天長年間(824〜833)、勅命により当時の各宗が自らの宗派の立脚点を明らかにした。
ちなみに、このとき朝廷に上納された諸論は、「華厳宗」六巻、「三論宗」四巻、「律宗」三巻、「法相宗」五巻、「天台宗」一巻、それに空海による『秘密曼 荼陀羅十住心論』十巻及びその略論ともいうべき『秘蔵宝鑰』三巻である。これらを「天長の六本宗書」という(秘蔵宝鑰は、十住心論があまりにも大書である ために要約してくれという天皇の要望に応えて書かれたものである)。仏教伝来以来、正統かつ伝統的な奈良旧四大派に、最澄の天台宗と空海の真言宗という二 大新宗派がここに加わり、旧派と同列に公認されたのがまさにこのときだともいわれている。

 空海はそこで日本のアカデミズムに君臨する彼らを「三界の狂人」と呼ぶのだ。三界とは一切の衆生が生死輪廻する三世界のことであろう。ゆえに何度死に変わり、いくたび生まれ変わっても、坊主どもは救いがたい精神病患者だと言ったようなものである。

 空海がそう言わなければならなかった理由は、彼らがひたすら経典を書写し(当時の学問は筆授と読誦が中心)いたずらに議論(空海はこれを戯論という)に 耽る姿を嫌というほど見てきたからであろう。それこそ釈尊の教えに背くことであり、自我に惑わされた無明以外の何ものでもない。彼らの悟りは盲人の錯覚で あるという失望と嘆きがここに聞こえてくる。錯覚を悟りと幻惑した者が、どうして衆生を済度できるものか。嘆きは空海の怒りでもあった。

 つまり、空海は、仏の心に到達するには、最終的には学問知識ではなく「行」だと言いたいのである。「行」を通じて無明の闇を自覚し、そこから初めて芽生 えてくる清浄な心の成長に応じて救いもあり、真実が見えてくると言っているのである。そして、その精神的発達段階を十の段階に表したのが『十住心論』で あった。しかも、その最高段階が「秘密荘厳心」と彼が呼ぶところの密教の神髄である。ここに、顕教(仏教)の統合原理として真言密教の極地があるという。 それは、文字言語では最後まで識ることはできないと教えるのである。

 これが、荒野で試練を受けたイエスや、王位継承を捨てて乞食となった釈迦と同じように、独り神と向き合う実存のうちに悟りを得たものの実感であろう。かくして空海は無明の闇を突き抜け、光明の中に輝いている。それが真言密教のもつ明るさであり、空海の明るさであった。

 司馬遼太郎はそこに空海の「陽性」を見たのであるが、それはあくまで結果である。
 空海が人間の心の闇を知らずして、このようなことが言えるわけはない。空海の著作物から、まず私が感じるのは、ある種の暗いトーンである。そこには、あの世や浄土を観想させるような甘いロマンティシズムはない。

「苦しいかな末学、大虚を小室に(かく)し、鳴鍾(めいしょう)掩耳(えんじ)(ぬす)み、水を(にく)みて火を愛し、心を捨てて色を愛する」『十住心論・巻一』 
「哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子、苦しいかな、痛しいかな、酔狂の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を(あざけ)る」『般若心経秘鍵』
「本に背きて末に向かい、源に違して流に順ずる」
「常に三毒の事に酔うて幻野に荒猟して帰宅に心なく、夢落に長眠す。覚悟いずれの時ぞ」『吽字義』
「ああ自宝を知らずして、狂迷を覚と思へり、愚にあらずして何ぞ」
「心病多しといえどもその本は唯一つ、いわゆる無明これなり」『十住心論・巻一』

 だが、その暗い眼差しの背後には、常に何か明るい世界の存在を感じるのである。
「法身いずくにか在る、遠からずして即ち身なり。智体いかん、我が心にして甚だ近し。(もと)よりこのかた無去(むこ)にして、(とこしえ)に満月の宮(胎蔵界)に住し、いま不生にして赫日の台(うてな・金剛界)常恒(じょうごう)なり」『性霊集・巻七』
「一切衆生身中みな仏性あり、如来蔵を具せり。一切衆生は無上菩提の法器にあらざることなし」『十住心論・巻八』
 
 空海は、これらの実感を大自然を師とした原始的実存のうちに悟ったようである。

 もし行者がこの境地を得んとするならば、密教では、煩悩を捨てて悟りに到達する仏教とはやや方法論において異なるようである。「手に印契を作し、口に真言を誦じ、心三摩地に住すれば、三密相応して加持するが故に早く大悉地を得」『即身成仏義』

 仏と一体になるために、密教では他に見られない独特の祈り方をする。これを「三密」という。手は「身密」(印契を結ぶ)、言葉は「口密」(真言を唱え る)、精神は「意密」(仏を瞑想する)と呼ぶ。仏教は宗派によって、念仏(口密)を唱えたり、座禅(瞑想すなわち意密)を組んだりなど、どれかにウェート を置いているが密教はこの三つをすべて同時に行うところに大きな特徴がある。これが密教修法の基本とされている。

 また、密教といえば護摩壇に火を焚く加持、祈祷を思い浮かべる。空海によると、「加」とは「仏の力が太陽の光のように心に映ること」で、「持」とは「人 の心がその光を感じること」だと説かれている。つまり、宇宙の絶対原理と同化することが人をプラスに導く加持の力だということらしい。

 加持の口密は真言である。真言は神仏との交信であるから、心正しき者には絶大な効能を現すという。
「真言は不思議なり、観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み即身に法如を証す」『般若心経秘鍵』
 即身にということは、具体的に身辺に何かが起こるということであろうか。

 釈迦は呪法を禁じている。生兵法の密教は身を滅ぼすことにもなるから、釈迦当時、迷信との境目のない未完成な呪法を禁じたようである。野生児空海は雑密 をも飲み込んだようである。そして、厳しく精選して純密に完成させた。純密の中にある生命解放の原理を濃縮した「行」を重んじる空海にとって、教典の字面 を学び取ろうとする学者どもは何ひとつ命の実存には応えていないと思えたのであろう。

 ここで注意しておくことがある。密教は加持祈祷をする低俗な仏教であると考える知識人がいるようだが、空海のいかなる撰述にも〈加持祈祷〉なる造語はない。これは元高野大学教授の宮坂宏勝博士の詳細な研究によって明らかにされていることである。

 さて空海の人柄であるが、梅原氏は空海を包容と和合の人と見ている。奈良仏教の長老たちがすすんで空海の傘下に収まったあたり、確かに包容の人のように見える。しかし、空海は信と礼には厚いが、その本質は最澄以上に激しい情熱の人であったように私には思える。

()く言うこと鸚鵡(おうむ)の如し、説のごとくすれども賢良を()る」
「哀哀たり末世の元元、聾聲(ろうこ)にして聖者の言を(もののかず)にせず。久しく無明の酒に酔うて本覚の源を知らず。長く三界の夢に眠って四蛇の原を愛す」
睚眦(がいさい)して寒暑に(たえ)たり、劇談して痍瘡を受けしむ」(目を吊り上げて四季を費やし、激しく議論して傷つけ合う)「仏身の(うち)に地獄を見、七宝の上に玉を()ず」云々。『性霊集』

 空海がひとたび日輪を飛ばせば奈良も吹っ飛ぶというような過激な言葉は至るところに見られる。和の中に収まるどころか、国際政治の場にでも出したいよう な日本人離れした論述ができる人である。この自信と確信は一体どういう修行の中から出てきたのか。そういう疑問を抱きつつ、私は空海の重んじる「行」の独 自性に「火」と「水」を使うことがずっと気にかかっていた。

●第七十九番札所・高照院

 多度津を発って坂出市に入ると、JR予讃本線に沿ったバイパスを国分寺町の方に抜け出る。八十場駅の踏み切りを渡って山裾に向かうと、はて、それと思しき山門はなく、白峯宮の赤い鳥居の前に着いた。立派な神社である。
「あれ? お寺どこかしら」
「妙だな。どこにもないぞ」
 キョロキョロ探すと鳥居の脇の方に「四国第七十九番霊場天王寺」と刻まれた新しい石碑があった。鳥居の先をのぞけば石畳の長い参道があり、奥に神社が見 える。石碑の方から入ってみると、境内は参道を中心にして両脇に諸堂があった。左側に本堂、大師堂、鐘楼などがあり、反対側に納経所や庫裡などがある。

 これまでもいくつか見てきたように、四国霊場は神社の中に創建された寺が昔はかなりあった。社殿と本堂が同じ敷地に建つ眺めは、現代人には奇異な感じがするが、明治の拝仏毀釈が起こる以前の遍路はこれを普通の風景として拝んでいたのであろう。

 そう思って見るせいか、神仏仲よく祀られているはずのこの寺が、真っすぐに延びる石畳によって二つに分割されているように見えてきた。明治政府の神仏分 離令......そんな思いが過ったのも、神社だけが正面に出て、寺の影が薄い「天王寺」という寺号のせいだったのかもしれない。

 さて、天王寺という寺号にはわけがある。保元の乱に敗れて讃岐に流罪となった崇徳上皇(1119〜64)は、悲運な生涯をこの地で閉じた。上皇の死を京都に知らせ、勅命を待つあいだ遺骸はこの寺域の八十場(やそば)の泉に浸して腐敗を防ぎ、やがて勅許により「白峯寺」(第八十一番)で荼毘に付されたという。その上皇を祀るのがここ「白峯宮」であり、その宮の管理に携わってきたのでこの寺は天王寺と呼ばれてきた。

 白峯宮と白峯寺はまぎらわしいが、別々のものである。だが、それも20世紀以降の話である。
歴史を遡って空海との縁を探れば、9世紀の初め、正確には弘仁年間(810〜824)に弘法大師がこの地を感得して霊場と定めたのがこの寺の始まりである という。もとは「金華山摩尼珠院妙成就寺」といった。現在は「金華山高照院天王寺」がフルネームとなっている。白峯宮の建立によって、妙成就寺が天王寺と 改名されて別当寺となり、神仏分離令で廃寺となり、末寺高照院が第七十一番札所となったそうである。

 ややこしいが、時代の波に翻弄されてきた寺にはよくある歴史である。それだけに、現在の札所の姿からはそのルーツがわかりにくいが、寺号を遡れば霊場の 発祥の根に辿り着くこともある。現在、摩尼珠院は天王寺の裏山(金山・現在の城山)まで登って行くと奥の院として残されている。お遍路さんはほとんど行か ないが、崖下には珍しい北向きの不動明王座像が鎮座し、「城山不動の滝」がどうどうと流れている。

 金華山摩尼珠院は、金山権現が弘法大師に舎利を与えたのでそういう山号がついたとあることから(『四国遍路日記』)ここが霊場発祥の地だと思われる。同 時にそのルーツが水源信仰にあったことも、ここまでくれば実感する。空海がこの地を霊場と定めた理由、それは「霊水」にあったのだ。

 古事によると、この地の悪魚退治にやって来た日本武尊(やまとたけるのみこと)が 悪魚の毒で八十八人の兵士とともに倒れてしまった。そのとき、横潮明神が霊水を飲ませて蘇生させた「八十八の水」が「八十場(矢蘇場)の水」である。寺の 縁起では、弘法大師が八十場の泉のほとりに十一面観音と阿弥陀如来と愛染明王を祀ったとある。その水源こそ奥の院の不動の滝である。

 話は前後するが、私はこの年の秋に四国の二大山岳霊場である剣山(つるぎさん)に登った際、このことを確かめてみた。古代の行者は何を拝んでいたのか。山頂の裏にある行場の洞窟の奥に入ってみると、やはり水である。それも何と轟々たる滝が流れ落ちていた。

 境内を抜けて坂を下りた所に「八十場の泉」があり、茶店になっている。そこで休憩することにして、山から流れてくる八十場の水で咽喉を潤した。
「わあ、おいしい!」
妻が喜ぶ。非常に冷たい。暑さを一気に忘れる。泉で冷したトコロテンに酢をかけて食べながら、涼やかな茶店でひと休み。ラムネもある。縁台に腰掛けて風情を楽しみつつ話ははずむ。

「僕は、やはり日本人は水を拝んでいたと思うよ。空海はきっとその水を大切にしていたから神になったんだ」
「霊水が日本人の信仰心に関係があるのね。司馬さんはそのへんどう考えているの」
「彼は全く触れていない。彼は歴史上の空海を書いてはいるが、空海の信仰の背景には触れようとしない。僕も人間空海に魅かれるのだが、空海が宗教家である かぎり、その思想と行動には何か信仰的原点があるような気がするのだ。そうであれば、真言密教を確立する基礎となった長い優婆塞(うばそく)時代、空海は自然の中で何を考え、何を拝んでどういう修行をしていたのかが問題になる。僧侶は普通15歳から18歳で得度して沙弥(しゃみ)(小 僧)になり、20代前半で受戒して僧になるのだ。ところが、空海は31歳まで沙弥ですらなく俗人のまま修行する優婆塞だった。『性霊集』には、空海がまず 吉野に入ったことが明らかにされている。吉野は日本固有の山岳信仰から原始修験道が発祥した所だ。ならば、古代修験道と空海との信仰上の関連が重要にな る」
「空海を突き動かしたものは何かっていうことね」
「そうだ。次に八十八ヶ所を遍路する弘法大師信仰も司馬さんは全く無視しているが、僕は逆にそこを突きつめれば空海の特異性も浮き彫りにされてくると思うようになったんだ。作品から作者に迫る作家論に似た方法だが、四国霊場という作品に触れることで気がついたんだ」
「八十八ヶ所を空海の作品と言い切る理由は?」
「海に向かったからさ。吉野で山岳行者が所有する虚空蔵求聞持法を得た空海は、その後阿波の太龍獄、室戸など、海、または海を臨む辺地を修行地としたからさ」
「でも、辺地行道は空海以前からあったんじゃなかった?」
「そうだよ。そこで調べてみたんだが、四国霊場は行基が開いたとされるものが二十四ヶ寺、それ以前の聖徳太子や役行者やその他混在したものが二十七ヶ寺。 ずばり空海の開基とされるものがあとの三十七ヶ寺だ。そこで地図を確かめてみると、行基が開いた霊場は若干山に入った所が多い。それに対して空海が開いた 霊場の中には極端に海辺に位置するという特徴があるんだ。室戸岬の最御崎寺、足摺岬の金剛福寺などが典型的だ。港を見下ろす津照寺、海を見下ろす金剛頂 寺、唐から独鈷杵を放り投げた青龍寺にしろ、種間寺、雪渓寺なども全て海に近い場所を四国霊場に追加している。その辺りを回っていた頃から海洋修行者空海 を感じたんだよ。空海は海を見てたんだ。それが彼の作品なんだよ」
「そこでアンタは空海と海がつながったと。古代山岳修験道との関連は?」
「うん、稲作文化以前は狩猟生活だったから山の神だ。山の神は水だ。しかし、内陸化する前は魚撈生活だったから海の神だ。神話にも海幸彦(兄)、山幸彦 (弟)の話で残っているじゃないか。役小角や行基は山岳宗教を愛した。大陸の道教の影響が強かったんじゃないかな。ところが、空海は海洋宗教まで里帰りし ちゃったんだよ。つまり、なんだな。海水信仰から山水信仰へ移行するヤマト民族のルーツを体の中に叩き込んだのじゃないかな」
「なーるほど。で、司馬さんの空海と、水信仰をする空海のアンタの説は?」
「密教には灌頂という重要な儀式があるんだ。司馬さんは、元は王位の即位から連想されたものだろうという。キリスト教の洗礼に似ていて、特に法をゆずり与 えるとき、これ伝法灌頂ってんだけど、瓶に入った五智の水を行者の頭に注ぎかけるのだと説明する。説明だけだ。先がない。オレ、それを読んだとき灌頂はバ ステスマの模倣かと思ったさ。歴史的にはそうなのかもしれない。だが、それじゃ空海は日本人の神仏にはなれない。だって、日本人を見ていないじゃないか。 冗談じゃない。空海は日本人に霊水信仰があることを知っていたから、水の儀式の密教に確信をもったのさ」
「そのほうがきっと日本民族に適合すると考えたのね」
「当然さ。日本人にとって水は清めさ。行者は昔から滝行をやっているじゃないか。そこに神霊が宿ると信じていたんだ。洗礼っていうのなら、滝の下で頭から 景気よくぶっかぶる日本人は大昔から洗礼を受けてきたさ。こちらは自然の豪快なバステスマだぞ。気持ちいいゾ。それに神道の水垢離(みすごり)はもとは潮垢離(しおごり)だったんだぞ」
「やったぜアニキ!」
 城山温泉で夏期講習の疲れをいやし、温泉会長とたっぷり湯に浸ってリフレッシュした私たちは、朝の早いうちから空海探訪に出発した。

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