●第七十三番札所・出釈迦寺
あいにく今朝は曇っている。空模様を気にしながら、昨日見つけておいた曼荼羅寺の脇の道標に従って山道を奥に進むとすぐに
「私、飾り気のないこんな小さなお寺が好きなの」
そんな感想をもらした妻は、本堂のさらに左隣にある虚空蔵堂に向かって熱心に祈念している。虚空蔵菩は彼女の守り本尊であるが、同時にそれは空海の守り本尊でもあるのだ。この三つの堂宇だけで、出釈迦寺は大師と釈迦如来に縁深き霊場であることを説き明かしている。
私は、虚空蔵堂の前にある我拝師山の遥拝所に立って、苔むした石碑を見ていた。碑には絶壁から身を投げる幼い子どもと、それを両手を差しのべて受け止め
ようとする天女と、その様子を空から見守る釈迦如来の姿が浮き彫りにされている。合掌したまま膝をそろえて無心に投身する稚児は七歳の真魚、のちの空海で
ある。投身したのは目の前にそびえる480メートルの山頂付近にある絶壁である。そこを「
18歳、空海は大学を捨てたとき、何と大胆にも大学での諸学問は先人の知識の残りカスであると言い、わが真の師は釈迦如来であると宣言して仏道に入った。寺の縁起は、仏道の志はすでに幼少のころから芽生えていたと伝える。
縁起は言う。弘法大師は7歳のとき仏道に入る証しを得ようとあの山に登り、「我れ、仏道に入りて一切の衆生を救わんと欲す。我が願いかなうものならば、釈迦よ現れて我れに霊現を、さもなくば賭したこの身を諸仏に捧げん」と言って断崖絶壁より飛び降りた。
そのとき紫雲たちまちたなびき、白光とともに釈迦如来が出現し、羽衣をまとった天女が大師を抱きとめたのである。ゆえにここは釈迦出づる寺「出釈迦寺」なのである。我拝師山とは、空海が我が師(釈迦仏)の影現を拝した山という意味である。
事実ならば、何という無茶をする子どもだろう。無邪気な子どもの身投げをお釈迦さんが看過ごせるわけがあるまい。いや、大胆不敵というべきか。無垢であ
るがゆえに、この話にはどこか空海の底にある本質的な強さを感じる。ニーチェの「運命愛」「権力の意志」といった超人性のようなものを感じる。
伝説はこのくらいにしよう。空海に逢うには「その場に行く」ことだ。私たちは納経をすませると、その足で捨身ヶ嶽へ登って行った。
生い茂る樹林の中の、つま先上がりの小径は粗くて踏み馴らされた様子がない。杖を頼りにどこまでも続きそうな草深い坂道を息せき切って登って行く。雨の浸潤した
「憲吾さん......不思議ね。私、初めの頃は山の中のへんろ道って少し気味が悪かったの。でも、だんだんそんな感じがしなくなって、何て言うのかしら、私たちの先輩というのか、胸に迫ってくるのよ。特に行き倒れたお遍路さんのお墓を見ていると......」
遍路を続けているうちに思いが変化していたのは、私も同じであった。
40分あまり登ると質素な山門にたどり着いた。奥の院はすでに霊気に包まれている。石仏の並ぶ切り出した岩の間道を登りきると、
御堂の床下をくぐって裏側に出たところに捨身ヶ嶽の岩禅定を見つける。ここから先は岩場鎖場である。
「7歳の子がこんなところまで登れたのかしら」
「男の子ならこれくらい登るさ。ともかく行ってみればわかるよ」
湿った岩壁を30メートルほど、足を滑らしそうになりながら鎖を伝って登って行く。最後は岩をつかみながらようやく登り切ったと思ったところでふと見上
げると、岩の上に稚児大師像が立っていた。今しがた着替えたばかりのような真新しい金糸の衣をまとい、帽子までかぶって出迎えてくれた。その表情は笑みを
浮かべているように見えた。
「まあ、可愛いい!」
これが妻の第一声である。彼女はまるでそこに幼い空海がいるかのように話しかけた。
「
妻はわが子にでも再会したように感激している。
「君も来て崖の下を覗いてみるかい」、私は崖の端まで行って彼女を振り返った。
「ううん、いいの。ここで真魚を見てるから......」
私は空海を想像する。下を覗くと一瞬足がすくんだが、谷底までは雲がかかって見通せなかった。いずれにせよ、ここから飛び込めばまず助かることはないだろう。
では、投身したというのは作り話なのだろうか......。稚児弘法大師と崖を見比べながら、幼い空海が飛び降りる場面を想像しているうちに、どうも実際に飛び
降りたように思えてきた。これは、私のヤンチャ坊主の血が教える直感である。子どもはそういう無茶をやることがあるものだ。
空海は幼少の頃から神仏への敬慕が強かったという『空海僧都伝』の記述が事実なら(例えばお釈迦様の夢をよく見たとか、泥仏を祭って遊んだとかいう話な
ど)、彼の心の中に仏がリアルに存在していたことは想像に難くない。夢想と現実が入り混じった精神状態はよく幻覚を見る。幼い子どもはある種の仮想現実の
中に生きることがある。今日でも憧れのスターの死を悲しんで投身自殺をする少年少女がいるくらいだ。まして純粋に仏を信じている7歳の子どもならありうる
ことだ。加えて、空海には全てを投げ打って事を決行する行動力がある。私は現場に来てみて、空海は実際に身を投げたとほぼ確信するに至った。
では、天女伝説をどのように解釈すればよいのか。次はその論証である。そのヒントはこの崖にあった。崖の途中には松や灌木が所どころに枝を伸ばしてい
る。おそらく途中の樹木にでも引っかかったのではないだろうか。幸い、真魚は7歳の子どもであった。しかも、枝に引っかかるほどに全国平均よりも体が小さ
くて軽かった。見てきたようなウソを言うというなかれ。空海本人が若い頃の自分は貧相な体格だったと語っているのだ。おそらく、奇跡的に一命をとりとめた
この事件が、後の世に天女伝説を生ましめたのだろう。
ちなみに捨身ヶ嶽とは、もともと捨身の行(投身)をする所で、奈良時代までの遍路修行者は実際に捨身をしたという記録が残っている。『日本霊異記』には
養老二年(718)に「焚身捨身を禁ず」という条項が僧尼令に載せられたというから、よほど盛んに命を捨てる「行」が行われていたと考えられる。もちろん
助からない。当たり前である(焼身、捨身の行は身の穢れを落として再生するための日本の古い宗教の特徴の一つ)。
遍路には死や地獄と切り離せない歴史的な背景があることが、ここまで来るとまざまざと実感する。だが、遍路文化から漂い上る「暗部」とは、はたしてそれと関係があるのだろうか。
話をもどす。
もし私の仮説が当たっていれば、捨身をした讃岐の7歳の子どもが「生きていた」という衝撃的なニュースは全国の行者たちの間に瞬く間に広がったはずであ
る。当時のことだから、おそらく奇跡の子、いや神の加護を得た子どもとして喧伝され、長く伝承されたのではないだろうか。弘法大師が多くの山岳修行者に崇
められてきた理由の一つに、こういう仮説を加えてみるのも面白い。
彼らが誰一人なし得なかった霊験を、7歳の幼な子が顕現して見せたのである。神仏の霊力を期待する修験者たちの歓喜が目に浮かぶようではないか。こうし
てみると、この伝承は神の子イエスの誕生を待ちこがれる東方の賢者の話さえ彷彿とさせる。空海がなぜかくも神格化されてきたのか、その謎に迫る私の勝手な
想像ではあるが。
もう一つ気がついたことがある。梅原猛氏は、空海は何度か自殺を試みたと言うが(『仏教の思想』)、私はそれらしい話は寡聞にして捨身ヶ嶽ぐらいしか知
らない。梅原氏は、どこかでこの伝説を耳にしてそう書いたのかもしれない。空海の苦悩を見逃すまいとする氏の姿勢は、内面から思想に肉迫する梅原哲学らし
い着眼である。
だが、空海はいわゆる現代人が考えるような個人的な苦悩から自殺を試みるような人間ではない(内的苦悩というなら親鸞のほうが現代人には理解しやす
い)。7歳の真魚が苦悩の末に投身したとはとうてい考えられない。否、逆であろう。むしろ母親の豊かな愛情に育まれ、あまりにも純一無垢な心が育っていた
がゆえに、この崖で「仏を信じる行為」に出たのではないだろうか。これは、いわゆる自殺とはいえない。だがここにこそ、その後の「空海の苦悩」を解く鍵が
あるように思われる。他の名僧とは本質的に異なる「空海の苦悩」が。
捨身ヶ嶽を後にした。
私たちは幼い空海の魂に触れたような清々しい気持ちでもと来た道を下った。寺に戻る山道の途中に、お大師さんが杖を突いて湧き出したという泉を見つけ
た。出釈迦寺のご住職に教えられていた山の湧き水である。妻と飲んでみると、これが実にうまい。「柳の水」と呼ばれるその泉は、どんなに干ばつが続いても
一度も枯れたことがないという。我拝師山の懐から今も渾々と湧き出ている。
田園風景の広がるのどかな車道を第七十四番札所を求めて走る。どのあたりなのかカーナビで位置を
このあたりは空海が馴れ親しんだ故郷の山河である。幼いころ野山を駈け回って遊んだであろう真魚を思い浮かべながら行くと、やがて小高い丘ほどの甲山が見えてきた。目指す第七十四番札所は甲山のつけ根にある。
白壁の塀に囲まれた小さな寺は、周囲ののどかな景観に馴染んで気分が安らぐ。この寺は満濃池の築堤工事を完成した空海が朝廷より下賜された報奨金で建立
したものだという。境内の一番奥には空海が石を割って毘沙門天を刻んで安置したという洞窟がある。本尊の薬師如来も空海作である。四国霊場にはどこにでも
ここにでも空海作の仏像がある。空海作と伝えられている仏像や仏画はかならずしも彼の作ではないらしいからその万能ぶりには今さら驚かないが、弘法大師空
海の故郷ともなると大師にまつわる伝説で溢れている。
弘法大師伝説は全国で三千数百にものぼるといわれ、その多さは日本の他の祖師伝の中でも異常なほどである。そのほとんどが超人的な大師観によって貫かれ
た奇蹟に満ちている。大師信仰が多くの伝説で支えられているところは、空海をしてキリストを連想させるところがある。無論イエスキリストと異なる点はいく
つも挙げられよう。ここでは伝説の生まれた経緯とその伝承のされ方に注目したい。捨身ヶ嶽でふと思ったことだが、神と奉られる二人の相違を伝承から考えて
みたくなったからである。
まずキリストの奇蹟や伝説の特徴は、後世の教会の意図的な産物であるという点である。聖書研究家の田川健三氏によると、例えばイエス誕生を描く泰西名画
(マリアに抱かれるイエスを三人の賢者が礼拝している図)で伝えらている馬小屋の話(ルカ福音書)は、イエスの死後半世紀たって創作されたものであるとさ
れている。同時期、別の伝承ではイエスはダビデの再臨として王者イエス・キリストとしてベツレヘムで生まれたことになっている。ベツレヘムはイスラエルの
王ダビデの生まれた土地である。
このマタイ福音書と先のルカの伝える馬小屋イエスは、その伝承者の精神において正反対である。一方は貧しき民、一方は支配者である。処女マリアから生まれたというのも、信仰に「聖」なる理念を付加した教団側の創作であるという。(『イエスという男』)
それに対して、これまで四国霊場を回って見聞してきた弘法大師の伝説は、庶民信仰の中から自然発生したと感じられるものが多かった。日照りに苦しむ民百
姓のために雨を降らせたとか、悪さをする龍をやっつけたとか、言ってみれば地方民話に近いもので宗教権威による布教的作為が働いていると感じたものは少な
い。
こう言うと反体制知識人たちはすぐに反論してくる。天皇と結びついた空海こそ国家体制を背景にした宗教権力であると。確かに高野聖たちの全国的な布教活動が空海を神格化していった側面はあるだろう。
だが考えてもみよ。高野山は空海の私有地であり金剛峯寺は空海の私寺である。その造営費用はすべて庶民の喜捨(施し)によるものである。国家からは一銭
も供出されていない。私たちは、空海の高野開創事業を国家権力の援助によって易々と成就したように考えがちだが誤解も甚だしい。あの寺は空海が一銭一粒一
本の釘の喜捨を庶民に乞うて建立したものである。
また造営の勧進を支援した高野聖とは無名の聖たちである。すなわちもとは律令体制外にあった山岳優婆塞の系列にあった。奈良時代から一所不在を旨として
全国を遊行しながら庶民信仰の要求に応えてきた沙門たちである。もっと言えば彼らの大先輩は役小角という国家が全国指名手配をした「おたずね者」である。
彼らは南都七大寺の官度僧からもぐりの坊主(私度僧)として迫害されていたにもかかわらず、空海は仏道を極めるにあたってまず彼らのなかに飛び込んだの
だ。ということは空海ははなから庶民の側にいたということである。
よし下積み時代の空海はそうであったとしても、官僧就任後は違うというなら(空海は大僧都の高位につく)、天皇に奏上した書簡を読むとよい。それらの多
くは公用文書にもかかわらず官職の肩書はほとんどない。空海は常に自らを「沙門」と規定している。その書き出しは「沙門空海言うす」で始まり、「沙門空海
上表す」で締めくくられている。(私の知るかぎり肩書を大僧都空海としたのは一通、沙門空海が十六通)ここに空海の本質を見るべきであろう。
(天皇と聞いた途端にパブロフの犬みたいにすぐに反発する左派のインテリが多いので余計な説明をした。彼らの反論をいちいち相手にしていると遍路旅が前進しないので今後は無視して進もう)
そういう反律令体制の系譜をもつ高野聖の伝えた伝承に対して、キリスト伝説はローマ帝国支配下のもとに、神学者たちが死後のイエスをキリスト教に囲いこんで作った教会権力の所産と言えよう。
次に伝承のされ方を比較してみよう。ルカ福音書の馬小屋の伝説から生まれるイエス像は従順な神の僕であり、それは謙虚でおとなしい博愛のシンボルとされる。王宮に生まれるダビデ王の再来よりもローマ帝国にとってはその方が都合がいいにきまっているからだ。
そこから始まるキリストの伝説はある意味をもった「説教」として迫ってくる。ずばり言うと伝説の「おち」は奴隷に対する説教である。説教は支配者にとっ
て都合よく導かれなくてはならない。「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」(支配者にはむかうな)「汝の敵を愛せ」(支配者を憎むな)「地に宝をつむ
な」(貧乏人はいつまでも貧乏人のままでいよ)「貧しきもの、幸い」(貧困階級こそ天国に近いのだぞ)エトセトラ。そしてこれらはすべて神の子イエスが世
界に伝えに来た「神の真理」であると説く。
だが説教の「おち」とするところは隷属と服従である。
ナザレにいたという大工職人のイエスが知れば激怒することだろう。彼こそはまさに隸属と差別と貧困をしいる者たちに反逆したのではなかったのか。ローマ帝
国とその支配下にある領主ヘロデの圧政、そのもとで権勢をふるうユダヤ教のラビたち。彼は二重三重の重荷を背負わされたガリラヤ人の苦しみと怒りを、神の
真実において彼ら支配者に問い詰めたのである。(だから殺された)
神を信じたイエスの魂は封殺され、人間は宗教さえもエゴの支配下におく。主なる神に対する絶対服従の倫理は、主人とそれに仕える下僕という現実社会の支
配秩序に投影されていく。西洋キリスト教世界の封建支配体制はこのようにして確立した。あとはご存じのように、彼らの宗教的論理が文明的正義となって他民
族の土地を収奪していったのである。
大師伝説にはそのような作為的な「おち」はない。創作の跡はせいぜい因果応報を説くか、「お大師さんは偉かった」という尊敬心に訴えるものである。「人
はみな罪人」などという「しもべ」(奴隷)の原理に帰着する説教ではない。だから伝説の受けとめ方はカラスの勝手であり庶民の自由である。捨身ヶ嶽の天女
伝説は、妻にとっては「可愛いい真魚ちゃん」なのである。
四国を回っていれば判るが、庶民が勝手にお大師さんに惚れ込んで奇蹟伝を信じているだけである。遍路たちも同じようである。天気になれば「お大師さんのお陰」雨が降ればこれも「試練を与えてくれたお大師さんのお陰」だと受け止める。
大師ファンの四国のバアサンたちは、猫がニャーと鳴くのも犬がワンと吠えるのも何でもかんでも「お陰」だと思って喜んでいる。わざわざ寺院(教会)とい
う宗教組織を通して教えられたものではない。無論空海の著作など読んだこともなければ、密教が何かも曼荼羅が何たるかも知らない。ただバアサンたちはお大
師さんを身近に、そして直接的に「感じる」ところからそうしているだけである。ここがキリスト伝説と弘法大師伝説の違いのような気がする。
犬がワンと吠えるのを遍照金剛(お大師さん)のお陰だというバアサンたちを見れば、西洋の神学者は未開人だと思うかもしれぬ。だがそれは明らかに間違っている。バアサンたちにその理由は答えられないが、それこそが大日如来の説法なのである。
大日如来は、犬はワンと吠えることによって犬の命(存在)を肯定し、猫はニャーと鳴かせることによってこの世に猫を生み出しているのである。それを遍照
金剛(大日如来)のお陰だと「観じる」ことが人の智慧だと教える。智慧あるものは菩薩である。だから人はみな本来菩薩になれる命を授けられているのだ。そ
れこそが即身成仏の奥義なのである。そこには罪人や奴隷の思想はかけらもない。
午後2時、善通寺の近くにある喫茶店で遅い昼食をとった。店のママは私たちの遍路姿を見ても全く無関心である。オーダーを運んだらさっさとテレビばかり 見ている。なにしろ善通寺は四国霊場最大のメッカであり、町はお遍路さんで溢れている。遍路は町の通行人と何ら変わらない。
私はママが同世代だったので、最近毎週放映されている「四国八十八ヵ所」のテレビ番組の感想を聞いてみた。しかしママは当たり触りのない返事をする。お 遍路さんは全国各地から来るので無難な対応をしているのだと思った私は、自分は生まれが四国であることを明かした。そしてテレビで放映されている遍路は子 どもの頃知っているものとは違うと話すと、彼女は警戒心を解いたのか急に話し始めた。
「NHKの遍路は全然違うわよねえ。きれいごとすぎるわよ。昔はこの裏で首を吊ったり、死んだりした遍路は多かったわよ。顔がくずれたり、手足を失った人がこの寺付近に固まっていてね。子どものころ、悪いことをしたらそこに捨ててくると親に脅かされたものよ」
「僕らにとってはへんどだったからな」
ママはちょっと辺りをはばかるような小声で
「乞食だったものね。遍路がへんどになったって言わなかった?」
彼女の言葉には遍路に対する蔑視が込められていることに気がつくであろう。四国では遍路を「へんど」と言う。それは乞食と同義語なのである。実際、遍路 には疫病患者や素姓の怪しい者なども紛れ込み、村外れのお堂や寺の床下などにたむろした者もいたのである。そういう遍路の暗い過去が彼女の記憶には残って いたのである。
九州からの遍路は豊後水道を船で渡り、愛媛県の八幡浜市に上陸してまず東へ向かって行った。四十三番・明石寺から打ち始める「逆打ち」遍路もいた。いずれにしろ広大な敷地を持つ善通寺は、もしかすると食い詰め遍路の溜り場となっていたのかもしれない。
四国人は遍路の影の部分を知りながら遍路を受け入れてきた。善通寺の塔頭を土地の人々は親しみをこめて「お大師さん」と呼んで信仰する。お大師さんは遍 路の元祖である。ゆえに遍路を忌避しつつ受入れてきたというアンビバレンツがある。信仰と現実の明暗分かちがたい狭間で四国遍路は受け継がれてきた部分が あるのだ。それがわかる彼女にはNHKの遍路が「きれいごと」に思えたのである。
かつては全国津々浦々に見かけられた日本古来の巡礼習俗は、今となっては唯一四国に残るのみである。江戸時代まで盛んだった西国三十三所観音霊場巡り は、観光的な要素が強いこともあって近畿地方の上層階級の人々が多かったそうである。だが「接待」という施しを求めて(接待の風習は他国にもあったと言わ れている)乞食巡礼が増えたために、それはすたれていったそうである。
そのような時代に「四国に行けば食える」ことから全国の乞食が集まるようになった。そうであれば、へんどが集まる四国には棄民を受け入れる精神風土が あったことになる。ただ遍路姿であればどんな人間でも弘法大師の影として「接待」されればこそ、四国では乞食も生きのびられたのである。例えそれを「施 し」という差別的行為と非難されようとも、棄民を受け入れてきたことは私の記憶としても歴史的事実としても疑うべくはない。
巡礼習俗を解体したもうひとつの絶大な力は日本の近代化である。生産効率と近代化を国是とする明治政府は、物乞いを社会的弱者と見なして排斥してきた。 例えば明治四年(1871)10月14日には早くも「平民廻国修行者(遍路、巡礼)に米銭等の施しを今後一切禁止する」旨の太政官布告が発令されている。 同月28日には普化宗(虚無僧)が禁止され、翌明治五年には僧侶の托鉢行為そのものが禁じられた。近代日本の為政者、知識人は遊行宗教者=乞食という図式 に当てはめて、一般の民衆までがその認識を共有していった。
政府は国家神道を中心とした政策の中で、巡礼道を社会的脱落者として切り捨てた。それによって明治から昭和の中頃までは、四国でも乞食遍路を排斥する風 潮が高まり、宿無し遍路を疎み、蔑み、哀れみつつ、しかし一方では受容するという葛藤のなかにあった。だが最終的には「切り捨てなかった」のである。
何故か。思うにそれは、四国そのものが歴史的に「見捨てられた国」だったからであろう。四国は「流人の島」であった。一部を除いてほとんど切り立った山 岳地帯であり生産効率の低い土地である。畿内に近くはあるが、都人からすれば利用価値の薄い辺地であり、遍土であった。古代四国は流刑地とされ、中央での 政争に敗れた多くの人々が流刑されている。
近世はところ払いになった罪人や疫病持ち、乞食や難民が集まるようになった。彼らはみな遍路であった。山本和加子氏の『四国遍路の民衆史』によると、明 治の終わりころ、四国はハンセン病患者がもっとも多い地域であったことが報告されている。同書によると、明治、大正、昭和にかけて四国のいたる所に発生し ており、手のつくしようもなく蔓延していたとある。
著者はここで四国に挑戦した二人のインテリ女性を紹介している。一人は熊本出身の高群逸枝(女性史研究家)である。大正七年遍路に旅立ち、病人遍路の恐 ろしい世界に身をおきつつ、遍路体験と遍路世界を描写しては九州日日新聞に送った。当時ジャーナリズムで全国的に注目された「娘遍路」の紀行文である。
もう一人は小川正子(1902〜42)である。
同書によると「高群逸枝が四国に来てはじめて見たという癩病患者は、明治・大正・昭和にかけて四国全域に広がり、多くの人びとに地獄の苦しみを与えてい た」とあり、その苦しみを救った一人の女性、小川正子を紹介している。(現在癩病という言葉は特別な場合以外禁止用語である。注・筆者)
曰く、「そして、大正期にいたって、ようやく救癩運動が起こった。その運動は県当局からではなく、社会主義運動からでもなく、また仏教徒からでもなく、 まず全国のキリスト教徒の間から起こったのである。(略)キリスト者は、山陽・四国に人目をはばかって苦しむ癩病患者を説得して、愛生園に収容する行動に 出たのである」
遍路の民衆史を伝える山本女史の労作によって、私たちは遍路の「暗部」の意味を知ることができる。私が遍路を始めるときに、ふと知りたいと思った遍路から漂い昇る死の影は、空海密教からではなく、四国のルーツと暗い遍路の歴史にあったのだ。
彼女は言う。「かつて大師信仰の接待という福祉活動によって癩に苦しむようになった四国住民が、大正・昭和のキリスト者の愛の福祉活動によって、病魔か ら解放される結果となった」「昭和二十八年、『らい予防法』が公布され、国立十一か所、私立三か所の療養所が設立され、癩で呻吟していた四国はやっと病魔 から解放されたのである」と。
四国のハンセン病患者をキリスト者と国とが救済したのなら、仏教は、いや大師信仰は何もできなかったのだろうか。著者はハンセン病を「接待」という接触 によって四国全土に蔓延したというが、ハンセン病の感染力は極めて微弱で、「接待」程度では感染しない。四国が全国一患者が多かったのは、感染ではなく、 病人遍路が集まったからである。それは行き場のない彼らの境遇だけではなく、四国には弘法大師の救いという最後の希望もあったからではないだろうか。
当時は不治の病として恐れられていた彼らを、結果として四国は受け入れてきた。そう考えてみれば四国は大師信仰を通して「弱者を棄てない」精神文化を育てたことにもなる。イエスは病人遍路を隔離収容するだろうか。いいや、ともに悲しみ、黙って抱きとめたに違いない。
著者が『四国遍路の民衆史』を書くきっかけになったのは、1988年に遍路をしたことである。遍路の「この世のもとのはいえないほど幻想的な美しさに思 わず胸があつくなった」そうだが、遍路を避けようとした私とはずいぶん違う。著者は四国人ではないせいか、ママや私のような地元の人間の感覚とは何か違 う。四国人にとって遍路は特別なことではない。「お接待」で感染するなどと自覚したことも、そんな話を大人から聞かされたこともなかった。まして愛の福祉 活動で収容しようというような話題も耳にしたことはない。ただこの島で、日常的に「へんどと共にいた」という感覚の方が近い。
どんな子どもでも最後まで棄てることをしない。それは
喫茶店を出ると私たちは善通寺に向かった。
少年時代の空海がいつも眺めた山は、我拝師山を中心に火上山、香色山、中山、筆山の五岳である。その五岳を北に遥拝する善通寺は、また空海の生誕の地で あるとされている。「五岳山」と彫り込まれた縁額を仰いで南大門をくぐる。東院の境内に入ると、高さ45メートルの五重の塔が夏空を背に堂々たる姿を現わ す。
広大な境内には金堂、釈迦堂など多くの仏塔伽藍が建ち並んでいて、その規模と風格は札所の中でも別格である。さすがに真言宗、善通寺派の総本山である。西院に入っていくと地蔵堂、本坊、宝物館などがあり、仁王門を入ると正面が「御影堂」(大師堂)である。
御影堂は改装工事のための屋根瓦の喜捨を募っていた。妻に勧められて住所氏名と願文を書いた一枚2000円の瓦を寄進した。
「完成したら、あなたの瓦が新しい御影堂の甍の一枚になるのよ」
妻にそんなことを言われながら、御影堂の前に立つ。
「南無大師遍照金剛」と三回唱えたあと、奥殿に向かって二人で大きな声で般若心経を上げていると、私はいつしか心の中から故郷に対するわだかまりが消えて いることに気がついた。否、「へんどの島」は父母の島である。それは遠く空海にもつながる祖先の島である。遍路から漂い昇る暗部。近親憎悪にも似た感情は そのまま故郷に対する葛藤と重なっていた。その愛着と逃避の感情は(それはもしかしたらママにもあったのかもしれないが)多くの場合、自分の生い立ちと郷 里に対して抱く恨みでもある。しかし「へんどの故郷」を心の中から消し去ろうとしたこと、それは郷里の父母を捨てようとしたことであった。そして自己を捨 てることでもあった。
しかし、人は自分の宿命から逃れることはできない。宿命を受け入れることからしか自由への道は開かれないのではないか。弘法大師を信仰する四国の人々 は、遍路を通してこの葛藤の中からさらに大きな自由を探りあてたのではないだろうか。私は「涅槃の道場」といわれる空海の故郷に来て、ようやく自分を愛せ るような気がしてきた。
納経を終えると作務衣を着たお坊さんが「戒壇めぐり」を勧めて下さった。何と空海の声が聞けるというのである。最新のコンピューターが合成した空海の声だというが、科学的に95パーセント以上の精度が保障されているというのである。
御影堂の地下へと降りて行くとまさに暗黒の世界である。暗闇を怖がっていた妻も私の腕をしっかりとつかんでついてくるが、振り返っても互いの顔さえ見え ない漆黒の闇である。教えられたとおり、「南無大師遍照金剛・・南無大師遍照金剛・・」と唱えながら、左側の壁を伝って曲がりくねった闇の中を延々と進ん だ。
丁度御影堂の真下あたりだろうか、やがて灯明の薄明かりが見えてきた。灯明の前に小さい祭壇があり、ようやく私の顔が見えた妻はホッとしている。(ここがお大師さんのお生れになった場所だと言われている)
二人がそこに正座して合掌したとき、どこからともなく空海の声が流れてきた。声量のある低い静かな声である。それは私が想像していたとおりの温かく包み 込むような声であった。人工の声と知っていながらも、私は今、そばに、空海がいるような錯覚に陥った。空海に逢いたいと願ってここまできた私は、動転し狼 狽した。
空海は「あなたとこうしてお逢いできるのは仏様のご縁です」とゆっくりと語った。要するに、辛いことも理不尽に思うことも、腹の立つこともあろうが、自 分を大切にして、しっかりと生きて行きなさいというような、ありきたりの内容だったと思う。うろたえていた私は、情けないことに落ち着いて聞いていなかっ たが、そんな言葉が心に染み込んで、不覚にもただ胸突き上げてくるものに堪えていた。