かんぽの宿を9時出発。幸い、今日は薄日が射している。真っすぐに札所を目指す。讃岐平野にある札所は密集しているので片っぱしから打って行こう。再び琴弾八幡の前を通過して札所を見つける。
実は江戸時代までは琴弾八幡宮が第六十八番札所であった。明治の神仏分離の際、琴弾八幡の本地堂と本尊を観音寺境内に移した。それで、同じ敷地内に神恵 院ができたのである。だから、神恵院の本尊は阿弥陀如来(八幡神の本地仏)である。このように古い霊場には海の神を祀る海洋信仰が色濃く残っている。一方 の観音寺はそれ以前からの札所で、琴弾八幡の別当寺であった。こちらの本尊は聖観世音菩だが、両寺の縁起はともに「我は八幡大明神なり」と日証上人に答え た八幡大菩の伝説に由来している。
寺伝や伝説は布教の方便にもされるが、そこには歴史の状況証拠のようなものがあると思う。だから、伝説自体の真偽をとやかく議論することは、状況証拠に埋もれた歴史の真意を見落とすことになるのではないか。なかんずく宗教史はそうであろう。
私がずっと考えているのは、弘法大師一尊化となる仏教以前の四国霊場巡り、または古代辺路修行において、日本人は何を拝んでいたかということである。それを考えることは、空海が仏教でなく密教を選択した理由に到達するような気がするのである。
空海が密教を確立するまでの放浪の十数年間、彼が四国の海辺や山林、畿内の山岳地帯で修行を積んでいたというのは彼の自伝からも明らかだが、それらの場 所は古代の神々がおわす霊場である。つまり、空海は日本の土俗の神々と語り合いながら、仏教を考えていただろうということである。
空海が神仏習合を推進したのは、多神教ともいえる密教思想の包括性がそうであったと同時に、空海の、いや日本人の精神風土がもともと密教的であったから にほかなるまい。自然に神々が棲むとする日本人の信仰心の奥に、私は辺地にあっては「海」を感じ、山岳にあっては「水」を感じるのだ。
●第七十番札所・本山寺
観音寺の市街地を抜け財田川の流れに沿って行くと、青々とした田園の向こうに五重の塔が見えてくる。第七十番札所・本山寺である。四国八十八ヶ所
のうち、五重の塔があるのは、竹林寺、志度寺、善通寺とここの四ヶ寺だけである。寺に着いたときは青空が広がり、平地の広い境内に五重の塔は高々とそそり
立っている。
大師堂はすっきりしており、お札は一枚も貼られていない。時々貼紙を禁止している寺もある。お堂に何でも貼りつけたり飾ったりするのは見かけは確かに汚
らしいが、悲喜こもごもの思いがじかに伝わり、妻も私もそういう大師堂のほうが好きである。遍路を始めたときは迷信的な猥雑さと異様なものを感じたが、今
はすっきりした大師堂のほうが奇妙に感じる。
「すみっこに供えてきちゃった」
五色の折り鶴を大師堂に奉納してきた妻は、何かイタズラでもして逃げてきた子どものような表情をしていた。
本山寺を出て3キロほど離れた奥の院を探したが、なかなか見つからない。やはり滝があるそうだが、それがわからずに道に迷っていると、遠くの山肌に一筋
白い水の帯が見えた。車で行けるところまで行くと、奥の院ではなく、別の滝だった。だが、この数日来の雨で水量を増した滝は青空から
ひと休みしたあと、私たちはまた遍路コースを離れて空海の故郷をさらに東の山地へ20キロほど走り、のどかな丘陵にある巨大な池にたどり着いた。
「今は昔、讃岐国多度の郡に、万能の池と云ふ極めて大きなる池有り。其池は、弘法大師の、其の国の衆生を哀れつるが為に築給へる池也。池の廻り遥かに広く
して、堤高く築き廻らしたり。池などとは見えずして、海とぞ見えたり。池の内底ひ無く深ければ、大小魚ども量りがたし。また龍の
『今昔物語集』にも記されている空海の築いた満濃池である。
この池は周囲約20キロ、空海以来1200年間、灌漑面積実に4600平方キロの広大な田畑を今もうるおしている日本最大の溜池である。四方を山に囲まれ、一方に谷があり、山内36の谷の水がみなここに集まるといわれ、水量が多いために古来、度々
空海が、この修復工事をして讃岐の農民を救済したことはあまりにも有名である。済世利民。空海のこの願いは、満濃池の修復や綜芸種智院の創設など、社会事業の精進に端的に示されている。
私たちは空海の偉業の跡に佇んでみたかったのである。池は海原のような満々たる水を湛えて静まりかえっている。今は公園にもなっているこの池の端には、
家族連れや散歩するカップルもけっこう多い。だが、夏の陽を映す水面は時折さざ波が立つばかりで、真昼の物音をすべて吸い尽くしてしまったかのようにしん
としている。
(空海の行くところ水がある......)
「静かね......空海の心みたいね」
「うん、僕も空海に水のような静けさと透明さを感じてたんだ。この池がそう感じさせるのかもしれないが......」
それにしても、人間とはこうも見方が違うものなのか。私は司馬遼太郎の『空海の風景』を思い出していた。小説は司馬が空海の故郷讃岐を訪ね、ここ満濃池を訪れるシーンから始まる。
「実は私もこの間、『空海の風景』を少し読んでみたのよ。司馬さんがここに来て延々と満濃池を説明しながら空海という人物を描き始めるのよね。もうそのあたりから何だか面白くなくなったの」
「僕もそうさ。それがどうしてなのか少しずつわかってきた。彼はきっと醒めた眼で空海を見ることが、人間空海に会えることだと思ったんだ。知識人の悪い癖
だ。空海の人間的本質は宗教的情熱だろう。少なくとも、その情熱や苦悩をわずかでも共有しようとしなければ、空海を知ることはできないと思うよ」
「一体、何が司馬さんに空海を書かそうとしたのかしら。あの人は本質的に宗教には縁のない作家だと思うけど」
「それは空海の明るさだよ。彼が龍馬の陽性に魅かれたのと同じ動機だよ。彼は作品の中で空海の明るさや快活さや、同時に終生つきまとう胡散臭さについてし
ばしば語っている。大岡信もあとがきでこのように解説している。『空海自身が、この国の出家遁世の常である、無常の風に吹かれて世をはかなんだ末、という
思考類型とはまるで異質の思考方法によって、最初から快活であったり、明るかったこと、それに司馬遼太郎の思想と感性が言いようもなく共鳴しているのであ
る。こういう明るさや快活さは、裏面からながめれば、この国の風土においては異様で胡散臭くあらざるを得ない。司馬遼太郎の筆は、そういう意味での空海の
現実の日本社会における異様さを執拗に描く......』とね」
「あら、それじゃ大岡信も司馬遼太郎も宗教が全然わかっていないわ。確かに空海のスタートは、恵まれた家庭環境から想像できるように明るくすくすく育った
ことでしょう。でも、明るくて快活なだけの人間だったら、何で宗教の世界に飛び込む必要があるの。オバチャンにでもわかることだわ。もてる幸福条件をみん
な投げ捨て、どうして乞食なんかになるの。やむにやまれぬ苦悩があったからでしょう」
「その通りだ。空海は儒教でも道教でも救われず、釈を唯一の師と仰いで仏教を求めて修行僧になり、その苦行の果てにあの大日如来の密教によって救われたんだ」
「空海はそこで再び明るさを取り戻したのよ。闇の中から光明を得る。それが信仰というものじゃない。空海の心の闇を見ずに、終始明るさや快活さばかりに共鳴していて、何で空海の心がわかりますか。ナショナルの蛍光灯じゃあるまいし」
「アッハッハッハ......司馬さんにナショナル電気と見えたのはだな。密教には釈迦教にはない現世の命や欲望を肯定する陽性があるんだ。司馬さんがそう書いている」
「生命や欲望の肯定はいつだって俗世の最大の価値じゃないの。密教がそんなレベルのものなら、どうして宗教になる必要があるの。その程度のものから、どうして壮大な密教の世界と空海の神秘性が生まれるのよ」
「当然そういう疑問が生じるだろう。ところが、司馬遼太郎はその問題と向き合っていない。思考的格闘がないとはそういうことだ。となれば空海をどうとらえ
るか、司馬は第一章でこう書いている。『筆者は空海において、ごく漠然と天才の成立ということを考えている』、大岡信は、だから天才の成立。これが空海の
風景という大作の明確なモチーフであるというのだ」
「んまあ! 理解できない偉人は天才にしてしまうのね。だんだん腹が立ってきたぞ。明るい性格の天才宗教家だから、空海はこの国の風土では異様で胡散臭い
人物として映るのね。わかった。司馬さんの小説には空海の苦悩の部分がスッポリ抜け落ちてるわ。それじゃ小説としては完全に失敗よ。アンタが感動しなかっ
た点はそこね」
「だから、彼は空海の心と向き合っていないと言うのだ。司馬さんはこの世にナマ身で存在した人間が、その死後千数百年を経てもなお半神として崇め続けられ
るという空海のつらさに思いを馳せている。しかし、異能の天才と見ることは、それ以上に人間空海から遠ざかることだよ。空海が天才であることは誰にでもわ
かっている。その天才性が花開く過程にはどれほど空海の闇の世界があったことか。空海ほどの名僧を描こうという作家なら、そこを見過ごしてはいけない。天
才なるがゆえの空海の苦悩に肉迫すべきだろう」
「それに司馬さんが空海の策謀や政治力に注目することは、単純に人間を知らないとしか言えないわ。だって、僧侶として成功したいのなら、最澄みたいにその
道にまっすぐ行けばいいじゃない。空海の学識と家柄なら、すぐにでも一角の僧侶になれたわよ。そのほうが効率的でしょう。社会的な成功を目的とする人間な
らみんなそうします。三十過ぎまでプー太郎なんかして、一歩間違えれば生涯日の目を見なかったのよ。官僚でも政治家でも学者にでもなれた空海が、何故仏者
になったのか。そこに迫らなくては空海を描いたことにはならないわ」
「神格化された弘法大師を虚像とし、人間空海に会いたいと思ったのは僕も同じだった。だから、司馬さんの気持ちは理解できるが、彼は手法を間違えた。人を
知るのは知識や情報だけではない。論じるよりも苦悩や喜びを共有することだ。僕は四国遍路をして空海からそんなことを教えられた気がする」
幕末や明治の英雄を好んで描く司馬は、日本の歴史を称揚しているように見えるが、朝日新聞が彼を高く買うように、司馬の底に反権力精神があることは明白である。司馬は、密教の普遍的世界を知った空海をこう語る。
「国家というものは指の腹にのせるほどにちっぽけな存在になってしまっていた。かれにとって国家は使用するべきものであり、追い使うべきものであった。日本史の規模からみてこのような男は空海以外にいないのではないか」
確かに密教は、天皇さえ指の腹にのせるほど壮大な思想ではある。だが、このような一見胸のすくような空海像は、しかし反面、計算高い野心家として司馬の眼には映ったようだ。
司馬は、空海を後世万民の救世主とした満濃池の治水工事に、空海の深慮遠謀があったかのごとく描く。それは、多度郡の豪族(支配者)である佐伯氏出身の空
海が、領民を救うことによって支配側の政治的効果を上げ、一方それによって僧としても天下の感謝を集めたと見ている点である。
また、築堤に乗り出すにあたって、中央や地方の官人を奔走させ、勅命のかたちをとらせたこと。つまり、国家権力を用い、工事の別当という世俗の長官とし
ての国家的装飾をほどこしたこと。一方、自分自身は僧になりたての若い沙弥と召使の童子四人を連れて、いかにも俗を脱し、行雲流水の飄々としたこしらえで
ゆく劇的構成を考えたという、これらの司馬の指摘がそうである。彼はそこに空海という人物の面白さ、すなわち生身の空海を見ようとする。
だが小説の冒頭、空海がすでに権力を背景にして登場してくるあたり、はしなくも司馬の意識下にある空海像が露呈されている。それは、小説の要所要所で語られる空海の政治志向であり、権力志向であり、彼の言葉でいうなら「あざとさ」である。
史実はどうであろうか。梅原猛氏も大書『仏教の思想』を執筆するにあたって参考にした『沙門空海』(渡辺照宏・宮坂宥勝)という不朽の名著がある。それによると、以下のようである。
「・・・朝廷は弘仁十一年(820)に築池使路浜継を派遣して修築工事にあたらせたが、池が大きい割に人夫が少なくて、容易に完成することができなかっ
た。そこで、国使から改めて空海に工事監督として来てもらうように願書が朝廷に差し出された。もっとも『行状集記』には、これ以前にも空海の下向を願い出
ているが彼の都合がつかなかったので実現をみなかったように記されているから、再度の出願である。『行状集記』『行化記』に見える国解は次のとおりであ
る。
〈伝灯法師位空海をして満濃池を築く別当に宛てんことを請ふ状〉さて、どうであろう。ここには淡々と史実が述べられているだけだが、むしろ空海を「追い使った」のは国家であったことがうかがわれるのではないだろう か。「転んでもタダでは起きない空海のしたたかさ」を見ようとする司馬の眼に、私は少々辟易するのである。いずれにせよ、空海の下向により人夫は讃岐の各 地より雲霞のように集まったようである。
略・・・然るに池大にして民少なく、築成未だ期せず。今、諸郡司等申して曰く、僧空海は郡下多度郡の人なり。行、離日に高く、声、弥天に冠たり。山中に座禅せば、鳥巣 ひ獣狎 る。海外に道を求め、虚 しく往 きて実 て帰る。これによって道俗、風を欽 び、民庶、景 を望む。居るときはすなわち生徒、市をなし、出づるときはすなわち追従、雲のごとし。今、久しく旧土を離れて京に住す。百姓、恋ひ慕ふこと実に父母のごとし。もし師来たると聞けば、郡内の人衆、履 を倒 にして来り迎へざるなし。伏して請ふ。別当に宛て、その事を成らしめたまへ云々。 弘仁十二年四月」
これに対して、五月二十七日付けで讃岐の国司に太政官符が下った。そして空海に沙弥一人、童子四人を従者につけて讃岐に下向することを命じたのであった。・・・略
司馬は続ける。
「これほどの難工事がこのあと一ヶ月ほどのあいだで完成しているのである」
まさに歴史に残る空海の超人ぶりが発揮された瞬間であるが、これは一応の通説である。記録によると、空海が讃岐に到着したのは6月10日頃、京都に帰着したのは9月6日であるから、この間約三ヶ月で工事は完成したという学者もいる。
弘任十二年といえば、すでに始まっていた高野山開創のため、空海は多忙を極めていたときである。司馬のいうように「ぶらりと行ってやろう」どころの騒ぎ ではなかったはずである。司馬は書いていないが、空海は満濃池の修復後、大和「益田池」の完成のためにも力を貸している(築池工事の別当は弟子の真円)。 さらに、天長五年には摂津国大輪田船瀬所(現在の神戸港)の湾岸改修工事の別当を命じられている。天長五年は大僧都に任じられた翌年で、綜芸種智院の開設 された年でもあり、京の東寺と高野山の運営をかけもつこれまた多忙なときであった。空海は席を温める暇もなく各地を移動していたようである。
池の近くの神野寺に来た。
四国霊場別格第十七番の築池霊場は静黙とした小高い丘にあった。丘には空海立像がある。五鈷杵と数珠を持って池を見下ろすその厳しい表情と迫力に、空海の決死の思いが伝わってきた。
(私はこの工事に命を賭けた。幸い、唐で学んだ土木技術と万民の協力があればこそ、天がこの奇跡を私に与えてくれたのである。司馬のいう余裕なぞとてもなかった)
私は、空海がそう言っているように思えた。満濃池の静けさの中に、司馬の書く空海の「ずるさ」や「日本史上類のない大山師」という側面を、私にはどうしても感じることができなかった。