朝のテレビで四国四県に雷、大雨、波浪注意報が発令されていることを知った。外は曇っている。だが札所に向かうころには青空がところどころに見えてきた。今日は五十九番から六十一番まで打って、その後伊予三大名湯の一つ「
ドライブコースはいったん蒼社川に出て今治市外の国道196号線を南下する。やがて見えてきた唐子山の麓に伊予の国分寺はあった。天平時代に聖武天皇の勅願によって全国に建立された国分寺の一つ。見渡すかぎりの田園風景は、昔、この辺りに国府があったとは思えない。
寺に着くと日の光が射してきた。私たちが一番乗りなのか、お遍路さんの姿は見えない。
「おはようございます。お嬢さんどちらから?」
元気のいい声が妻を呼び止める。参道では今治特産のタオルを並べた土産物屋のお兄さんがタオルのハンカチを"お接待"してくれた。お嬢さんと呼ばれた妻はテレている。
境内に入るとすぐ「握手修行大師」の石像が立っていて、妻は握手なんかしている。最近は弘法大師の生まれ変わりらしいから、きっと自分と握手しているつ
もりなのだろう。かつて4キロ四方に境内が広がっていた大寺院も、たび重なる兵火によって縮小されている。わずかにその堂々とした本堂から往時を偲ぶばか
りである。
朝の札所参りをすませると、遍路衣装を解いてタオルを買いに市街に入った。先ほどのお兄さんもお接待してくれた今治の特産物であるタオルである。繊維リ
ソースセンター「テクスポート今治」へ寄って、ついでにタオルの製造工程を見学し、中元用の品々を買い求めた。今治のタオルは伝統、技術、質、量とも日本
一である。
そのあとで今治城へ行く。関ヶ原の戦功で伊予半国を領した藤堂高虎の築いた平地平城である。三重の堀を巡らせた海岸近くの城は内濠まで海水を引き入れている。
二の丸広場では海洋少年団の子どもたちが手旗信号の訓練をしていた。きっとカッター訓練のあとだろう。海の男の基本は、手旗信号とカッター(短艇)訓練
と昔から決まっている。子どもたちは教官のホイッスル(笛)に従って一原画、二原画と紅白の旗による文字の基本を覚えていた。実際の手旗は規則正しくかな
りの速さで描く。風の強いマストの上にふんばって立ち、疾走する艦上で手旗を振るのはかなりの体力が必要だ。
カッターは規律と団結心、克己心と闘争心を養うのによい。私はプロだったから地獄の訓練だった。江田島名物厳冬訓練は、柔剣道に短艇寒稽古がある。
江田島の海面に月が影を落とす午前6時、静けさを破って突如"総員起こし"のラッパが鳴る。一斉に跳ね起きるやいなや上半身裸の生徒たちが生徒館から脱
兎のごとく飛び出し、自分たちの短艇めがけてまっしぐらに殺到する。厳冬カッター訓練は各班ごとの競漕で、ダビットからカッターを降ろし沖合の特設ブイ
(浮標)まで力漕、それを回って帰り再びカッターをダビットに吊るし終わって教官に届けるまでの時間を競う。
「第五カッター用意!」「ストッパーとけ!」「降ろせ!」「乗艇!」「カイ用意!」「おもて離せ!」「カイそなえ!」「防舷物入れ!」「前へ!」で、12本のカイは海面を渦巻き、各艇は滑るがごとく海面を走る。
はたから見ていると華麗に見える漕艇だが、艇内は怒号の飛び交うガーリー船みたいなものだった。信じられないだろうが、両手でひと抱えもある4メートル
のオールをへし折ることもある。それほど力いっぱい漕ぐものだから、霜の降りた船板が素足に冷たいとも感じず、その代わりに手の皮も尻の皮も剥ける。
日頃鍛えたところで分隊対抗短艇競技が行われる(全校計16隻)。ダブルス(24人)で漕ぐ六海里(約一万メートル)の遠漕は、海の棒倒しのようなもの
で、このときだけは無階級の男の闘いとなる。当時の教官はほとんどが元海軍軍人だったから、訓練も旧海軍式だった。海上で接近戦になると敵のカイをからま
せるは、オールで相手の艇を突き飛ばすは、コースは邪魔するは......そんなことをしているうちに他艇が追い抜いて行くのでスピードは落とせないしで、ゴール
インしたときにはみんなぶっ倒れた。これが本当のカッター訓練というものである。
海兵伝統の「棒倒し」は先輩も後輩もなく、蹴り飛ばそうが、投げ飛ばそうが、ぶん殴ろうが、全て公認の紅白対抗集団格闘競技。毎週金曜日には自衛隊病院
の救急車待機のもとで行う公式行事。週に一度天下御免の大乱闘をやっていたようなものである。そんな育ちをした私は、今では妻と手を取り合って四国遍路な
どしている。今治城を見学すると、次の霊場に向かった。
「へんろ道」は、また四国山中奥深く入って行く。横峰寺は四国霊場中の難所として有名だが、現在は車で登ることができる。かつて女人禁制であった石鎚山の遥拝所でもあった山岳寺院である。
昭和58年まではここに車を止めて、札所まで1,5キロの山道を徒歩で登らなければならなかったそうだ。現在は林道ができて小型バスで札所まで往復でき
るし、一般車も林業組合に料金を支払うと通らせてもらえる。道は舗装もされておらず離合もできないが、林道に入って行くとどういうわけか、バスはいつも途
中の避難帯で待っていてくれた。あとで入り口と出口で一般車の出入りを監視しながらバスに無線で連絡していることがわかった。
現代はまことに便利になった。麓から登っていたら大変である。徒歩が主流だったひと昔前は、この難路を越せずに旅を断念する参詣者が多かったそうであ
る。まして阿波から歩いてくるお遍路さんはよほどの信心深さと信念がなければ境内に到達することができないだろう。四国「へんろ道」は一口に全長1400
キロメートルというが、東京から青森まで往復できる距離である。今でこそ歩いても50日で回れるが、道路や橋の不備だった江戸時代は100日以上かかった
そうである。だから、行き倒れも多かった。
林道を登って新しいパーキングに駐車すると森の中の参道を行く。深山幽谷の清浄な空気を吸い込みながら15分ほど歩くと、やがて大師堂の前に出た。仁王
門とは反対側、つまり裏から入ったことになる。駐車場が寺の裏側にあるため参道も逆になっている。幸い、雨は降りそうもないが、少し蒸し暑くなった。
境内は山の斜面を切り開いたような地形で、山岳霊場特有の神秘的な雰囲気に包まれている。「へんろ道」は海沿いの霊場を辿りながら、突如山岳霊場へと奥深く入り込む。このような険しい場所に来るたびに遍路の難行苦行は修験道と深い関係にあることに気がつく。
修験道は日本古来の山岳信仰に道教や密教が習合して成立したものだが、国有化された奈良仏教に対して、体制外にあった有婆塞たちの民俗信仰のリレーが横
峰寺でもよくわかる。この霊場は、修験道の開祖である役行者小角が白雉二年(651)に蔵王権現を刻んで開基したことに始まる。次に天平年間(729〜
749)行基が入山して大日如来を刻み、さらに大同年間(806〜810)、空海が巡錫する。古代山岳信仰と密教が習合していく課程が、この三人の入山順
序でもよくわかる。
役小角は道教の要素が強いが、彼はインドの孔雀明王の呪術を心得ていたというから、すでに不完全ながらも雑密は取り入れていた。空海が正統な密教を伝え
たことによって、この国の雑密は高度な密教思想(純密)に吸収整理される。ゆえに横峰寺は道教の姿は消え、密教寺院として今日まで伝わってきた。この寺の
本尊は、したがって大日如来である。
修験者は中世には山伏として活躍するが、四国霊場を巡ることもまた重要な修行であったという。このような背景をもつ四国遍路に身を置くと、表面的には仏
教寺院を順拝しているようでも、遍路は古代日本の宗教形態である自然崇拝と、それにつながる修験道を実践しているように思える。朝廷の支配が行き届きにく
い島であればこそ、日本人の原形である古代信仰が息づいてきたのだろう。
遍路そのものが修行得験であれば、四国を回ることによって起こる数々の奇跡的現世利益が何によるものか洗い出されてくる。修行得験とは、前にも言ったよ
うに苦行を遂行することによって、験力、すなわち超能力を得て病を治したり悪霊を祓ったりすることである。遍路の途中で現代医学で見放された難病奇病が完
治した例が無数にあるのは、遍路が自ら験力を発揮してきたのではないだろうか。
参拝をすませた後で妻を納経所で休ませて、私は一人で「星ヶ森」に行った。星ヶ森峠は石鎚山の全容を真正面にして足元から頂上まで仰ぎ見られる峠で、こ
こが昔ながらの本当の石鎚山の遥拝所である。ご住職に道を教えられた私は、山門を出ると森林の急な坂道を登った。そこはまた、弘法大師が星供養を修したと
される有名な霊跡でもあり、お遍路さんも多いだろうと思いきや、その姿は一人も見えない。現代はスタンプを押してもらうと、さっさと次の札所に向かうよう
である。
「
伝承では、悪星の巡りによって西日本一帯に干ばつ疫病が流行した折、時の帝・嵯峨天皇の勅を受けた弘法大師が再度入山して、悪星の供養をして吉星を呼び甘露の雨を降らせたことになっている。
私は、寺伝の内容よりも「星ヶ森」と「星供養」と「再度入山した」というキーワードに魅かれるものがあった。再度入山ということは、以前にも入山したと
いう意味である。"以前"とは青年時代の石鎚山での修行のことを指しているにちがいない。私があの石峯に股がったとき、突如脳裏に浮かんだ星空を仰ぐ空海
と、星供養をする空海の姿が頭の芯でリアルに重なってしまい、「星ヶ森の空海」に逢わないではすまなくなっていたのだ。星と空海は私の心象風景では一つに
なっている。「星ヶ森」における以前の入山とは、古代修験道の霊域において石鎚山の暁天に輝く明星を拝しつつ、虚空蔵求聞持法を修した若き空海のことにち
がいない。「星ヶ森」は空海の魂が宿る行場なのだ。
杉林の遥拝所は人の気配の全く感じられぬ場所であった。石鎚山の山頂方向だけが遥かに開けていて、赤
広場に立ったとき
前方に気をとられていた私は、木立に囲まれ、墳墓のような苔むした
帰りは下り坂なので走った。
海抜750メートルから一気に下山する。薄曇りの空の下に西条市街地の町並みと、さらに向こうには瀬戸内海の眺望が広がる。
香園寺に着くと驚いた。まるで東京の国立劇場でも見ているようである。山岳の密教寺からやって来ただけに、この落差は大きい。寺は大聖堂と呼ばれる褐色の巨大なコンクリートのかたまりで、公園のような境内の正面に堂々と建っている。
「これが寺なのか」
「驚いたわね」
ともかく観音開きになっている一階正面の拝殿で参拝をすませたが、中は幕が下ろしてあって何も見えない。あたりに大師堂らしきものもない。境内の一隅に は赤ちゃんを抱いた子安大師像が立っていた。妻は子安大師をお参りしている。私たちは、これで大師堂をお参りしたことにした。
縁起によれば、弘法大師が当山の麓で難産の婦人をご祈念になり健康な男子を安産した。この勝縁により四国第六十一番の霊場とされ、安産、子育て、御身代 わり、女人成仏の四誓願の祈をされたという。大師伝説には女性にまつわるものが多い。子安大師の名は、何と海外にまで知れわたっているそうである。
納経を終えてから、このまま寺を去るには何んとなく物足らないので建物の両側にある階段を上ってみると、大聖堂の中に入ることができた。ここで再び仰 天。広い聖堂内には巨大な大日如来がまばゆく輝いている。テレビの撮影隊がちょうどライトアップをしていたので、金ピカの本尊はいよいよ輝きを増してい る。
「そうか、ここが本堂なんだ」
「ほら、お隣にお大師さんがいるじゃない。大師堂もここだったのね」
ようやく納得した私たちは、改めて参拝をする。遍路の邪魔をしてはいけないと撮影隊は機材を寄せてくれた。このところ毎週日曜日午前6時30分にNHK総合テレビで放映している「四国八十八か所」の先発撮影隊である。
「あのまま先に行かなくてよかったね」
「もう少しで仁和寺の和尚になるところだったわね」
そんな会話を交わしながら寺を出ると、私たちはまた順拝コースの逆方向に行く。私たちは、兼好法師の感想にあるような先達を頼らずに遍路の世界に入っ た。だから、時々はヘマなことをしてきたかもしれない。高野山の奥の院で弘法大師をお参りしてから四国を回り、再び高野山に登るのが正式だと言う人もいる が真偽は定かでない。私たちは、最初から人に頼るというのがどうも性に合わない。できるところまでは自分でやりたがるところが基本的にある。特に信仰に関 しては絶対的に頑固である。人から授けられるよりも自力で得たものでなければ納得がいかない。
だから、仁和寺の和尚のように「山までは見ず」と言って帰ることはせず、時には山そのものを見に行くというメズラシイ(?)こともする。私たちは、これ からまた山に入るのだ。香園寺の御詠歌に《のちの世を 思へばまいれ香園寺 とめて止まらぬ白滝の水》とあるが、そこに詠まれている白滝に行くのだ。
2キロほど山中に入ると白滝不動に着いた。思った通り
滝の水で手を清めてお参りをしていると、弘法清水、弘法加持水、弘法井など全国的に広がる空海と水のつながりがわかってきた。山岳修験の
それにしても、お遍路さんたちはなぜここへ来ないのだろう。奥の院に来なければ四国霊場はわからない。三階建ての近代建築の香園寺を「かばかりと心得て」先を急ぐのであれば、そのほうが仁和寺の和尚のように思える。
白滝を発つと渓谷を見下ろす山間の「