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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第二十五回

◆第一日目(1999年6月26日)--空海入唐滑り込み

 午後2時、今治市着。  せっかく晴れていた空が札所に着いた頃には小雨模様に変わる。前回最後に打った今治市中部の第五十五番札所・南光坊から、西に4キロほど離れた田園地帯に第五十六番札所はあった。

●第五十六番札所・泰山寺

 この寺には、弘法大師の工事伝説がある。この地を流れる蒼社川そうじゃがわは、人取川ひととりがわと呼ばれるほど毎年氾濫して多くの人命を奪った。当時国司の力ではどうすることもできなかったが、例によって巡錫中の弘法大師が村人を指導して堤防を築いて人々を救い、土砂加地の秘法を修して死者を弔ったというものである。

 空海が実際やった工事で明らかなのは、有名な讃岐の「満濃池まんのういけ」の大修復工事である。そちらは史実で、こちらのほうは記録が残っていないので伝説かもしれない。空海が実際に唐国で土木工事の知識技術も修得していたので、このような伝承が生まれたのだろう。

 空海は万能の人である。また知れば知るほど面白い人物である。空海のことを考えていると、彼はもしかすると僧侶になったのは結果であって、本人は形など どうでもよかったのではないかとさえ思えてくる。空海には最澄に感じるような「真面目さ」はない。空海に感じるものは「真剣さ」である。車の中でその違い を妻に話すと「真面目は堅苦しい。真剣は清々しい」とウマいことを言った。そうなのだ。最澄と空海にはそういう違いを感じるのである。

 どうしてそう見えるのか。最澄との比較で少し見てみよう。
 幼少より仏教一筋に学び14歳で得度した最澄に比べると、空海はその生き方があまりにも対照的である。前にも話した通り讃岐の名門の子弟であった空海 は、一族の期待を担って上京した。彼に望まれた進むべきコースは官界、政界であったから、最澄のように始めから仏教を学んだわけではない。空海の幼少は儒 教が中心であった。

 15歳で叔父の阿刀大足あとのおおたりに連れられて都で学んだのは、大学入試科目である「論語」「孝経」「史伝」等である。これは、官僚養成を目的とする科目である。大学では明経科(今の法学部行政科に相当する)に入り、文官として要求される教養を積んでいた。岡田牛養おかだうしかい博士からは「春秋」「左氏伝」、味酒浄成うまさけのきよなりからは「毛詩」「尚書」など、主に儒教中心の学問に励んでいた。要するに、仏教を専門に学んでいたわけではなかった。

 次に、最澄が19歳で正式な僧(公認僧)になったのに対して、空海が公認の僧資格をとったのは31歳になってからである。それも、遣唐使船に乗るには国家公認の留学生るがくしょうに ならねばならないという理由からである。遣唐使船は頻繁に出ていたわけではなく、空海が乗船した第十六次派遣は20年ぶりであった。空海にとっては千載一 遇のチャンスだった。そういう重大な時期にどこで何をモタモタしていたのか、入唐の最低資格である受戒得度を受けたのは乗船のなんと7日前(延暦二十二年 4月7日)であった。まさに滑り込みぎりぎりセーフである。

 これらを見ても、空海にとって僧の資格など求道目的を果たす手段に過ぎなかったようである。第二船の最澄が知ったら「不真面目な奴」と言って怒り出すかもしれないが、空海は空海でそうしながらも真の仏教を求めていたのだ。

 また、最澄が早くから官僧となって奈良仏教を糾弾した体制内批判者であったとすれば、空海は体制外にあって、反律令制の乞食僧となるによって反逆を試みたといえよう。空海は自らの退路を絶って実存的反逆をした。私たちはそこに空海の「清々しさ」と「本気」を感じるのだ。

 今治市から国道317号を山手に向かい、蒼社川の清流を渡ると前方になだらかな山並みが見える。あの山の一つ、府頭山の山麓をカーナビは示している。3時、第五十七番札所に到着。

●第五十七番札所・栄福寺

 里山の急な坂道を上って行くと、途中で右に入る脇道があり目的の札所に辿り着いた。脇道の入り口に「栄福寺」という石標がなければ、うっかりそのまま山 奥へ入って行きそうな参道である。そういう雰囲気を漂わせるのも、昔はこの奥にある勝岡八幡宮が札所だったからであろう。栄福寺はもとは八幡宮の別当寺で あり、現在は札所がこちらに移されている。
八幡の本地仏は阿弥陀如来だから、この寺の本尊は阿弥陀如来となっている。弘法大師が海中出現の阿弥陀如来を祀って荒れ寺を再興したというこの霊地は神仏混合である。

 山門はない。入り口で手を清める。ヒョウタンの柄杓は柄の部分にあたるほうが筒になっていて、汲んだ水を傾けると穴の開いた柄の先から出てくる。面白いので、二人で何度も筒先から水を出して遊んだ。

 こぢんまりした境内の石段の奥には、例によって鴨居や軒の天井に夥しく貼られたお札が目に止まる。お経を唱えながら、妻に気づかれないように上目使いで 観察する。屋号のようなものが多い。ほとんどが歌舞伎の番付に書かれる筆太で丸みをもった勘亭流である。どうやってあのような高い所に貼ることができるの か、やはり気になる。

 我慢できなくなって納経所のご住職に質問してみたら、あれは長い棒の先に糊をつけてお札を貼る道具があって、それでペタペタ貼るのだという。遍路がそん なものを携帯してくるのかと尋ねたら、そうではなくそういう仕事をする人がいるのだという。驚いたが納得もいった。あとは勝手に想像した。きっと大店の主 が忙しくて霊場順拝ができないので、代参の者にそういう仕事を依頼するのだろう。あんまり御利益はなさそうである。

「何聞いていたの?」
「いや、別に、世間話さ」
 ようやく胸のつかえがとれた私は、とぼけて先を急ぐことにした。

●第五十八番札所・仙遊寺

 栄福寺から4キロほど離れた作礼山の山頂にあるが、カーナビには映らない。寺号から何か仙人でもいそうなイメージを抱いていたが、はたしてガイドブックには、この山に四十年間籠っていた阿坊仙人が、ある日雲とともに忽然と大空にかき消えたことに由来するとあった。

 霧雨はいつのまにか真っ白く辺りを覆い、山頂付近では低く垂れ込めた雨雲の中に入ってしまった。寺の所在がわからない。時計は4時をすでに回っている。 気ばかりあせりながら雨雲の中を行ったり来たりする。まるで仙人の雲に行く手をはばまれたような気になった。近くで鐘の音は聞こえるのだが、道がわからな いのだ。車から降りて確かめると霧の中に脇道があった。何のことはない、寺の前をうろついていたのだ。

 霧の中に白装束の遍路たちが亡霊のようにうごめいている。この世のものとは思われぬ幽気が漂う境内には塔頭の影が黒くかすんでいる。読経の声ばかりが聞こえる冥界に、私たちも足を踏み入れた。

 二層屋根の本堂は堂々としている。本尊の千手千眼観音菩薩は、龍女が刻んで竜宮から届けたという言い伝えがある。
「オン、バザラ、タラマ、キリク......」
真言を呟きながら、千の手と眼をもって自在に姿を変えながら救いの手を伸べる竜宮出身の観音様を思い浮かべていると、「琴姫七変化」を歌いながら変身するカミさんとだぶってきた。

 この山の下を流れる龍灯川を伝って、龍女たちがぞくぞくとこの境内にある龍灯籠とうろうに献灯したという龍女伝説や、海中から出現する阿弥陀如来を拝む大師伝説など、海にまつわる幻想的な伝説の数々に頭がクラクラしてくる。

 伝説の背景には、それなりの理由があるのだろう。栄福寺の阿弥陀如来は、海難の平穏を祈って海を鎮める弘法大師の前に現れてくる。龍女伝説も阿弥陀伝説も、そこには海洋宗教のルーツを感じる。

 仙人伝説は仏教が影響力を及ぼす以前の道教の影響だろう。海洋信仰が農耕社会の発達とともに山岳信仰へと内陸化し、そのころに中国からきた道教と混合し たのかもしれない。岩屋寺にも法華仙人がいた。あれは勇ましい女仙人だった。大和の久米寺にも久米仙人がいたという。こちらは、女性の白いふくらはぎを見 て空から墜落したことで有名である。ふくらはぎ一つで仙人さえ空から落とす女性の威力もすごいものだ。空海ですら海女の脚を見て心乱れたそうである。

 そんな空海がいよいよ好きになっていた。だから、寺を出るとわざわざ旧参道にある「弘法加持水」の井戸を探して山を登り、涌き水を飲んだ。弘法大師の加持水だったと伝えられる万病に効く霊水である。

 6時、今治のクアハウスで水着になって温泉入浴。ゆっくり骨休めをしたあとで10時頃今治駅前のビジネスホテルに入った。隣のビルでは愛媛県の最大手の学習塾がようやく授業を終えたところだった。いきなり現実に引き戻された気がした。(私は学習塾の経営者)

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