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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第二十四回

第5章 道草遍路〔第五回〕《1999年6月26日〜7月3日(7泊8日)》

−五木寛之氏に問う「仏の教えは民草のものか? 浄土他力は新世紀を拓く日本の哲学となりうるか?」

 5月1日、四国と本州を結ぶ三本目の橋が架かった。このところ新聞やテレビで話題になっていた「しまなみ海道」である。正式名を「本四架橋西瀬戸自動車道」といい、中国側の尾道市から四国側の今治市まで大小九つの島々を結んでいる。

 第五回のドライブ遍路は今治市から始まるので、早速この完成したばかりの自動車道を通って四国に渡ることにした。「しまなみ海道」の走る芸予諸島は瀬戸 内海のほぼ中央にあり、瀬戸内最高の景観美を誇る。この架橋を歓迎する声もあれば、自然景観を損なうという声や、何故三本も必要なのかという疑問などさま ざまな意見もあったが、結局近代技術の粋を結集した巨大な人工物が海の上を走った。

 世界一の斜張橋(多々羅大橋)の見事さに舌を巻きながら、左右に美しい海を臨みつつ愛車を飛ばす。島々の頭を飛び越えるように快走しながらも、気持ちは ちょっと複雑でもある。島はやはり船で渡るものだ。そんな情緒を懐かしむ私は、もう時代遅れの人間なのか、それとも国の経済のこともわからないのんきな旅 行者なのか。

 妻は無邪気に喜んでいる。いい性格だ。私は何でもつい深刻に考えてしまう。カラオケに行くと「アンタは何唄ってもエレジーにしてしまうのね」と言われ た。女房が唄うと何でも小学校唱歌に聞こえる。基本的に健康なのであろう。最近は「私は空海の生まれ変わりだ」などと言い始めた。彼女によると、空海は死 ぬ前に来世は女に生まれ変わろうと決心したそうだ。男に生まれて世界を救おうと頑張ったが、最後の一点はどうしても女性でなければ救えないことに気がつい たそうだ。

 以前はアルファー星から地球を救いにきた使者だった。アホな政治家や知識人などよりも、はるかに地球の未来を見通せる市井に埋もれた男を手伝いに来た 188人の使者の一人だと言っていた。他のみんなは任務を果たして母星に帰還したのに、自分が担当してしまった私の出来が悪いのでまだ帰れないのだと文句 まで言われた。こんな言いがかりに、私は何と反論してよいのか困窮してしまう。しかたがないのでただ「ゴメン」と言う。

 彼女はその時どきに応じて複数のキャラクターが自由奔放に現れてくる。いろいろなことを言いながら、言っているうちに本人はスッカリ変身してしまうので 渡り合うのに骨が折れる。変幻自在な女性を相手にしたお大師さんのご苦労までが偲ばれる。私も長い間少なくとも七人の女性と暮らしていたような気がする。 私は女性七人と付き合えるほど精神的にタフではない。この苦労を本人に訴えると、「エ〜ェ、エ〜ェ七変げー♪」などと「琴姫七変化」など唄いだすので(例 の小学校唱歌で)、手のほどこしようがない。

 こんなくだらない話をしている暇はない。今は四国遍路の途中である。

 さて、瀬戸内海は古来から交通の大動脈であり、大陸文化もまたこの海域を東上した。遣唐使船も盛んに往来した。古代日本の大陸文化の吸収はある意味で最 澄と空海をもって完結したといえる。歴史の意志とでもいうか、国家規模での情報収集である遣唐使派遣は、この二大巨星を入唐させた第十六次遣唐使をもって 実質上は終了したのである。以後わが国は国風文化といわれる時代へ移っていく。

 ところで、最澄や空海らが移入した「仏の教え」は、その後正しく後世に伝えられただろうか。我々は平安仏教を貴族仏教、鎌倉仏教は武士や庶民の宗教とい うように教わってきたように思う。平安仏教に貴族仏教というレッテルを貼ることによって、一部権力者のためのもの、加持祈祷を行う怪しげな仏教というイ メージをもたされてきたようだ。反面、まともな日本仏教は鎌倉時代に始まったかのような印象をもっていないだろうか。

 五木寛之氏ほどの著名な作家でも、鎌倉仏教こそが本当の仏教であると認識しているようだ。ベストセラー『人生の目的』の中で次のように語っている。

  〈仏の教えは誰のためにあるのか〉
「法然、親鸞、 蓮如といった仏教者たちは、積極的に賤視された人々のなかに入っていく。『河原の石、つぶてのごとき』人々こそ、一向衆と世間に眉をひそ めさせた念仏者たちであり、それが門徒の大多数であった。明治の頃もなお、真宗の寺のことを、陰でひそかに〈エタ寺〉と呼んで蔑む向きがあったことも事実 である。このセックスをタブーする、という一点を突破することで(これは前項〈性のタブーを超えて〉の文脈の続き注・筆者)、親鸞はこれまでの出家仏教、 修行の仏教から、在家の俗人たちの仏教、民衆のための仏教を身をもってひらくのだ。仏の教えは一体誰のためにあるのか。朝廷か。国家か。貴族か。豪族たち のためか。そうではないだろう。『河原の石、つぶてのごとき』、民草たちに、生きる力と希望を与えるための仏教ではないか」

 なるほどと共感する向きも多いだろう。だが、この一見ヒューマニスティックな仏教観は、民衆の情緒に訴えるだけで、仏教を正しく語ってはいないと思う。 何故なら、仏の悲願とは万人を等しく救済するものだからである。民草はむろんのこと、そこには貴族も豪族も入っているのだ。それとも、貴族は人間ではない と言いたいのだろうか。

 そうではないだろう。仏の御前では万人が平等に「生きる力と希望」を与えられるのが仏教である。のみならず、山川草木に至るまでことごとく仏性が宿るとするのが仏の絶対平等智である。慈悲とはそれらに等しく与えられていると自覚したのが、わが日本仏教の根本智である。

 これはもの凄いことなのだ。人類共存どころか、万類共存という究極の哲学思想なのである。あらゆる対立が消える世界が仏の世界であるならば、あらゆる差 別を克服しようとする私たちの希望の源泉もまたそこにあり、氏が主張するような一向宗という派閥概念や、〈仏の教えは誰のためにあるのか〉などという対立 概念も消える世界が正しい仏の教えだと私は思う。

 私は親鸞を尊敬しているし、若い頃は一番身近な存在であった。「悪人正機説」に救われた思いがしたこともある。それに比べると、最澄や空海は縁遠い歴史 上の人物のように感じていた。私のように日本人は昔からそうだったのだろうか。そうではない。江戸時代までは弘法大師空海は日本人に最も崇拝され、最もポ ピュラーな人物だったのである。

 その証拠に、弘法大師伝説は全国津々浦々にある。その数三千数百編。四国や近畿地方だけでなく関東地方にも多い。北海道にも沖縄にも移入されている。こ れは他の高僧の追随を許さぬ多さであり、キリスト伝説に勝るとも劣らぬ勢いである。昔から日本には「大師は空海にとられ」という言葉があるが、お大師さん といえば弘法大師のことである(大師号を授与された名僧は二十人以上いる)

 身分の上下を問わず、門徒、非門徒を問わず、親鸞や日や道元と比べてはるかに広域の人々から親しまれた弘法大師がどうして現代人の意識から遠のいたの か。思うに明治の近代化政策と思想統一、戦後の左派知識人たちによる反体制思想教育など、さまざまな要因が重なってきたからにちがいない。しかし、平安仏 教を貴族仏教、鎌倉仏教を庶民仏教と図式化するあまりに、私たちはどこかで仏教を矮小化してきてはいないだろうか。

 『人生の目的』が出版される前には氏の『他力』という著書もベストセラーになった。彼はそこでも法然、親鸞、蓮如に限定し、鎌倉以前の仏教には触れてい ない。もっとも浄土教の「他力本願」を通して人生や世相を見直そうとするものであるなら、それも一つのアプローチとはいえる。それならば「他力」はどこか ら出てきた信仰であるのか、もう少し掘り下げてもいいのではないか。

 法然、親鸞の浄土教のみならず、栄西、道元の禅宗、日蓮の日蓮宗など、平安末期から鎌倉初期にかけて台頭した新宗教のこれらの祖師は、もとはみな比叡山で学んだ学僧である。平安に華開く壮大な仏教哲学があればこそ、鎌倉仏教もまた華を咲かせたのである。

 例えば法然の「易行念仏いぎょうねんぶつ」や、親鸞の「自然法爾じねんほうに」や、そして如の「他力本願」にしろ、鎌倉以前の仏教を母体として換骨奪胎したものである。そうであれば、平安仏教は何を伝えたかということは、決して見過ごしにはできない。少なくとも、最澄の天台宗や、空海の真言宗を無視して日本仏教を語ることはできないはずである。

 この二大宗派に共通するものは、密教思想が中心教学になっていることである。一般的には天台密教は「台密」、真言密教は「東密」と区別されているが、鎌倉諸宗は天台宗から分派発展したものであるからには、日本仏教の基層には密教思想が流れていることを否定できない。

 さて、そうなると私たちは密教のことなどほとんど知らない。つまりは、日本人でありながら日本仏教の本質とは何か、広くは日本文化とは何かということ を、知識としては全く知らされていないのだ。これは戦後の思想界をリードしてきた知識人と教育の責任である。おそらくマルクス主義階級闘争史観にとって、 天皇とつながる平安仏教よりも下層階級と結びついた鎌倉仏教のほうが好ましく、思想的にも高く評価すべしという風潮があったからではないかと思われる。だ から五木氏のように、仏教はあたかも一部下層民のものだと主張しても不思議に思わないのである。

 だが、これは危険なことである。仏教にイデオロギーが少しでも介入すれば、その瞬間仏教そのものを殺す。仏教自体がわからなくなる。仏教とはイデオロギーごときで把握できるものではなく、はるかに壮大な哲学思想なのだ。

 現代日本の末期的症状を憂う五木氏に、私は多くの点で共感するものがある。ゆえにこそ「他力」を一つの突破口とする氏を取り上げた。だが、「浄土他力」が新世紀を拓く日本の哲学となりうるのか。それを考えるには、ここはざっとでも平安仏教を復習さらったほうがいいと思う。そのために、迂遠なようでもまずは最澄とはどういう人か、彼のプロフィールと人となりを見ておこう。

 比叡山延暦寺を開いた天台宗の祖師最澄(伝教大師=767〜822)は空海より7歳年上。近江(滋賀県)の帰化系の家に生まれ、幼名を広野ひろのといった。12歳のとき近江の国師、大安寺の行表に就いて三論、戒律、禅などを修学し、14歳で得度。名を最澄と改める。19歳、東大寺で具足戒を受け国家公認の僧となったが、まもなく比叡山に草庵を結んで学問や修行に入った。

 主に法華、金光明、般若経などの諸経を転読し、「摩訶止観」「法華玄義」「四教義」等々を修学し、21歳で草庵に一条止観院(延暦寺根本中堂の前身)と いう堂を建て、比叡山寺と称する。その頃、世の中は大きく動いていた。784年、桓武天皇が平城京から長岡京に遷都。さらに794年に平安京に遷都した。 ために、比叡山は都の鬼門(北東)に位置することになった。のちの皇城鎮護の寺という延暦寺の性格は、ここに決定づけられることになる。

 802年、最澄は高雄山寺(神護寺)での法会で「摩訶止観」など中国天台智顗ちぎの 著述を講義するため下山する。桓武天皇の目に止まるのはこのときだったと伝えられている。奈良仏教が隆盛を極めた末に、孝謙天皇にとりいって起こした道鏡 事件などを見た桓武天皇は、遷都をして政治、宗教の一新を図ろうとしていた。そこに独り山林に隠り瞑想に耽る最澄に本来の仏者の姿を見て、彼は最澄に白羽 の矢を立てた。遷都にあたって奈良の寺院の移転を許さず、それに代わる仏法を天台宗に求めたのである。これが、最澄が中央仏教界にデビューするきっかけで ある。最澄35歳。

 桓武天皇の信任を得た最澄の叡山一条止観院は、国家鎮護の道場として公認され、翌年内供奉(天皇の侍僧)の勅命を受ける。804年、最澄は法華一条をさ らに究めるために(天台教は法華経を根本教典としている)入唐求法を請う。天皇の勅許を得て通訳僧を伴い請益僧(国益のために唐仏教文化を輸入する国費に よる還学僧・短期視察団)として第十六次遣唐使船団の第二船に乗船する。このとき空海は第一船に乗っていた。9月1日、唐国明州に漂着したのちまっすぐに 天台山を目指す(最澄は長安には入っていない)

 諸寺で天台教学を学んだ後、帰りに越州で密教を学び、延暦二十四年(八〇五)6月に帰国する。同年9月、早くも高雄山寺で秘密灌頂かんじょう(密教の重要な儀式)を行う。灌頂の種類は多種あるが、この灌頂がわが国最初といわれている。翌年には朝廷より年分度者(得度者)の割当てを受け、ここに国家公認の日本天台宗が開宗する。

 大同元年(八〇六)10月、空海帰国。最澄に遅れて帰国すること一年四ヶ月。『請来目録』を朝廷に提出するが、三年間行方知れず。この間、空海の『請来目録』に瞠目したのは朝廷ではなく最澄だったといわれている。

 最澄だけが密教の価値に気づいていたのであろう。彼は自らの法門である天台宗において素早く遮那業しゃなごう(密教の経科)を設定した。彼は「経」は天台宗に、「行」は密教に求めた。空海との交流はこのように密教を機縁として始まる。それは、大同四年(八〇九)空海が上洛を許可されてからのことである。

 ここまでが密教と関り合うまでの最澄の前半生である。
 さて、最澄という人であるが、彼は一度は正式な僧になったものの、21歳で叡山に草庵を編んで引きこもったときから、深い無常観を感じていたようであ る。彼には南都仏教の腐敗が耐えきれず、そういう世界での栄達を投げ打つ純粋さがあった。その意味で、最澄は国家独占の奈良仏教に反逆した最初の官僧だっ たと言える。

 彼は内省的である。常に厳しい倫理的精神と、息づまるような自己反省とともにあったようだ。それは19歳のときに書いた『願文』や、晩年の『授菩薩戒儀』に血を吐くような自己懺悔の言葉が綴られていることでもわかる。

 法然、親鸞が比叡山で学んだことを思えば、この二人に始まる内的自己を凝視する精神は最澄から受け継いだという梅原氏はさすがに鋭い。親鸞は「真言法華 の行は修しがたく行じ難しとなり」と言って叡山を下り浄土教に帰依するが、彼の「他力本願」は、天台摩訶止観の自己凝視と、厳しい戒律(自力本願)がなけ ればやはり生まれなかったのではないだろうか。

 最澄は、生涯を通して純潔で倫理的な生き方を理想とした。この精神は一生を通して儒教を重んじるが、空海が『三教指帰』で儒教を老荘よりも下に見たこと を思えば、二人はあまりにも対照的である。(『三教指帰』は儒教、道教、仏教を比較し、仏教が最高であることを論証した上で、仏道に入る理由を記した決意 の書)空海は儒教を治世道徳の秩序として高く評価しつつも、有為の世の哲理であり、おのが委ねるべき真実の世界は別にあると感じていたのである。

 したがって、二人のその後が多いに異なる。最澄は世俗を離れ草庵に隠り、ひたすら学問と思索と瞑想三昧に耽る。空海は反対に野性化し行動的となる。彼は 書物や思索だけでなく、生きた自然の中から生の何たるかを問う。修験者の仲間入りをして修行したり、山岳を跋渉し、海辺や巷を放浪して、全身で無常を突き 破ろうとする。仏教の学び方が、最澄を「静」とすれば、空海は「動」であった。

 さて、最澄の純潔な精神は、儒教的現実主義者である桓武天皇によって見出され、桓武帝は政治改革とともに仏教の再生を最澄に託す。天皇の外護げごを 得た最澄は奈良伝統仏教に向かって一個の革命児となる。彼は南都六宗を仏教の腐敗と見て一人果敢に立ち向かった。「論」に堕落した仏教を「経」に戻せと批 判攻撃をする。最澄もまた自己の信念に従った宗教改革者であった。そして、奈良仏教は天皇という後ろ盾を得た最澄に屈することになる。

 彼は一躍時代のスターとなるが、別に世俗に染まったわけではない。それどころか、日本仏教の正しいありかたを求めて戦っていたのである。梅原氏は、最澄ほどの理想主義者と、自己を律するに完璧なモラリストがわが国にいたことに感激する、と言うが同感である。

 比叡山の冬は想像を絶する。最澄は弟子にその山で十二年もの間一歩も外に出てはならぬと言う。ひたすら仏道に専心せよと言う。正式に僧になった弟子にす ら、官から渡される給与を全て返上し、己の欲望を禁じてひたすら国家と人民のために尽くせと言う。このような厳しい戒律を守れるのは最澄ぐらいであろう。 法然や親鸞が叡山を中退する気もわかるが、しかし、最澄はそれが僧たる者のあるべき生き方だと信じていたのである。最澄もまた苛烈であった。

 一方、空海は批判の先により深い無常観を抱いていた。「経」や「論」などの知的闘争ではどうにもならぬ、底知れぬ人間の闇と格闘していた。

 最澄の一生を見ると、入唐求法のあたりが最も理想に燃え意気軒昂なときではなかったかと思う。だが、帰国後、桓武天皇の死に遭遇した最澄は大きな後ろ盾 を失う。彼は、天運が我を見放したと感じたか、いや天与の試練だと思ったかもしれない。南都仏教は一斉に反撃を開始する。最澄は天台教団の存続と法華一条 の悲願を賭けて激しい論戦を展開する(梅原氏はこれを量質ともにわが国思想史に比類なき論争と言う)。私はそこに純粋すぎた最澄の悲劇性を感じる。

 かたや封じ込められていた旧奈良勢力は、最澄に対決できる唯一のリーダーを空海に求めた。折しも桓武天皇没後即位した若き嵯峨天皇は、空海を「我が父」と呼んで帰依崇拝する。ここに、空海が歴史の表舞台に登場するのである。

 空海の出現によって、晩年の最澄は見放されたものが何であったか気がついたのではないだろうか。彼が見放されたと感じたものこそ、空海がつかんでいたからだ。それが密教であった。

 密教の価値をいち早く見抜いた最澄は、帰国後真っ先に灌頂をすることによってこの新しい教えを天下に知らしめた。ところが、最澄の請来したものは地方密教であり、いわば密教の断片的なものであった。そこへ空海が遅れて帰国する。空海は青龍寺の恵果阿闍梨あじゃり(密教法灯第七祖)より、その全てを正統密教の継承者として譲り受けていた。空海は、大日如来から数えて第八祖の伝法阿闍梨として帰国したのである。皮肉にも最澄の伝えた密教は、空海の露払いとなってしまった。奈良勢力が空海を歓迎したのはいうまでもない。

 最澄がひそかに見放されたと感じたものは、しかし法灯の資格などではなく密教の内実ではなかっただろうか。何故なら、空海はもはや決して人間を見放すこ とのない宇宙にいたからだ。最澄は宇宙という母体回帰を果たすことができなかった。彼の真摯な求道の魂は、あくまで学問と思索と冥想において仏教を極めん とした。ある意味では、生涯男性的思考を貫いた人であった。そのあまりにも一途なストイシズムが、どこかで彼自身を蝕み孤独の晩年を迎えたように思う。

 だが、鎌倉で華開かせる日本仏教の基質、天台本覚思想(草木国土悉皆成仏)は、最澄の求道の魂を汲み取った比叡山から生まれるのである。日本の美学(芸 能、華道、茶道)の底流に天台本覚思想が流れていることはいうまでもない。しかも、本覚思想の源をたどれば、行き着くところは彼が求めていた密教であり、 故に密教なくして鎌倉浄土教もありえなかった。

 一方、空海は密教そのものになっていた。自然を師とし、十年以上も荒々しい修験の行を積み重ねた空海は、逆に宇宙の母体の中に帰って行ったのである。彼 の孤独は何か異星人が地球人の中にまぎれ込んだような孤独であって、宇宙という胎蔵の中に充足するおおらかさがある。空海は孤独であって満たされている。 闇の中にあって光明の中にいたのである。

 「真言法華を行じ難し」として、浄土絶対他力に帰依した親鸞に対して、空海はおそらくこう言うだろう。
「親鸞よ、汝らこそ自力本願である。密教はすでに本源において他力である。他力は汝らのごとく求道の果てに到達するものではない。この世の始源からすでに 存在しているものである。そのことを知を捨てて五体で感じ取るものである。天台密教の自力行を修し難しと思うのもまた、最澄と同様の悲劇である」と。

 浄土教の系譜を辿れば、私はむしろ捨聖一遍の方に徹底した「他力」を感じる。一遍から見れば親鸞や法然はまばゆい高根の花に見えたのではないかと思う。一遍は言う。
「念仏の機に三品さんぽんあり。上根は妻子を帯びし家に在りながら、じゃくせずして往生す。中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食えじきとを帯して、著せずして往生す。下根は、万物を捨離して往生す。我等は下根のものなれば、一切を捨てずは、定て臨終に諸事に著して往生し損ずべきなり......」と。
 著すとは執着するという意味であるが、ここで上根は親鸞を、中根は法然を想定しているように思われる。一遍は己を下根と規定するほどに徹底して追いつめ たのではあるまいか。俗衆からすれば親鸞上人は精神的ブルジョワジーに見えたかもしれない。最下層の無明の民と共に生きた一遍は、共に泣きながら、共に笑 いながら踊り唄い狂うことしかないと悟ったのではないか。

 おそらく彼にとっては、最澄が苦悩した倫理の選別も、善悪の問題も、親鸞が悩んだ自力も他力も、仏教の難行も易行も問題ではなかったのではないか。「信 不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」と言い切って、民衆を念仏踊りの歓喜のるつぼに引き込んだ一遍には、共に地獄の底まで突き進まんとする凄絶な気迫を感じ る。

「生きながら死して」という一遍は、「生きることは日々死ぬことであり、死ぬことは日々往生する」という、一刻一刻を生命の始源に身を委ねた「他力本願」 ではなかったか。一遍の「空」は全てを捨て去った後、おのずと満ちあふれてくる命の喜びではなかったか。つまり、宇宙と一つに融け合った実存......。ここに は、浄土教よりもむしろ空海密教に近い魂を感じる。

 五木氏のように「仏教は貴族のものにあらず、民草(プロレタリアート)のものだ」と言うならば、一遍からすれば「仏教は上根のものにあらず、我ら下根の ものだ」と言いたくなるだろう。かくして仏教は限りなき相対主義に陥る。このような宗教の相対化がもとで人はどれほど対立し、どれほど争ってきたことか。

 真の平等とは何か。鎌倉仏教を知るには平安仏教に戻らなくてはならない。それは密教の世界でもある。他力は、本来密教が発見した宇宙回帰のことである。一遍もまた四国霊場を回った一人であった。

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