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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第二十二回

◆第五日目(1998年10月12日)--日本の聖の原型と迫害・空也と一遍の悲しみの念仏踊り・般若心経は理解する必要はない--

 道後温泉で疲れを癒すと、9時にホテルを出る。小雨模様の空の下をまっすぐに札所に行く。

●第四十九番札所・浄土寺

 松山市の東、鷹子温泉近くの小高い山に浄土寺を見つける。喧騒な旧国道11号線から少し入ると、静寂な空気に包まれた境内に入る。石段を上がると、左右 に美しく伸びた屋根をもつ優美な造りの本堂が見えてきた。天平年間、恵明上人によって開基されたこの寺は、のちに弘法大師が巡錫して伽藍を再興した。本堂 右隣には大師堂がある。

 地元ではこの辺りを「空也谷」と呼んでいる。その昔、この寺に空也上人が三年ほど滞在したからである。空也(901〜972)は、平安中期に活躍した念仏宗の開祖であり、庶民から市聖いちひじり、阿弥陀聖と呼ばれた遊行僧である。

 左手に鹿の角をつけた杖をつき、首から鉦鼓を吊り、右手には撞木を持ち、口からは念仏の声とともに阿弥陀如来の小像(枝仏)を出しながら、痩せた体に素衣をまとってやや前かがみに歩く空也像は有名である。

 この寺にはその像があるというので拝観を申し出たが、予約がない人には見せられないと断られた。しかたがないので納経所に飾ってある写真で我慢した。

 ところで、現代人は「聖」という文字からは聖者とか聖人など、世俗を超越した偉人を連想しがちだが、わが国の歴史に登場する「ひじり」のイメージはかなり異なる。ヒジリに「聖」という文字があてがわれたのは10世紀から11世紀のことらしく、もともと修験者や念仏行者に与えられた総称のことであった。

 彼らは一言でいうとアウトサイダーであり、社会の底辺に生きた者たちのことである。当時、国家の庇護と貴族の愛顧を受け、権勢を欲しいままにしていた官 許の学僧とは異なり、あくまでも純粋な求道心を貫こうとした持戒忍辱の私的な行者のことである。空也も一遍も性空も「聖」であった。彼らの先輩には空海も いて、そのまた先輩が行基であり役小角(役行者)である。私は、親鸞が在家妻帯するまでは、日本の仏者の正しい姿は「聖」の中にあったように思う。何故な ら釈迦がそうであったからだ。

 だが、律令仏教による宗教行政は彼らをもぐりの僧として弾圧迫害をしていた。そのため庶民感情としても、一面では受容しつつも多くは排斥するという相反する対応が生じていたようである。

 苦行時代の空海の経験によると、
偶々たまたま市に入るときは即ち瓦礫がれき雨の如くに集まり、もし津を過ぐるときは即ち馬尿霧の如く来る」『三教指帰』
 というありさまであった。なにしろ里にあっては乞食でしかない。人々が卑しんで瓦や小石や馬の糞を次々と投げつけるのである。

 空海の自伝を読むと、その風体は空也の比ではない。痩せ細った顔に血色はなく、面は鍋の底のようで体は小さく醜く、手足は骨と皮ばかり、首は泥亀のよう に筋張り、五片に割れたものをつなぎ合わせた木の鉢を下げ、口の破れた水瓶をぶら下げ、駄馬の引き縄を帯にし、どういうつもりか床に縄を張った椅子を背負 い、の落ちた錫杖を持つ手はたきぎ売りかと間違われ、目は落ちこみ、口は歪み歯はおろそか、茅座ぼうざ常に提げておれば、まちの乞食も顔を伏せて恥じ入るという始末。

 さすが乞食道の大先輩である。その姿のもの凄さは、牢獄の隅で膝を抱えて寒さに震える盗人も天を仰いで嘆くだろうというほどのものであった。

 空海は以上を硬質な四六駢儷体しろくべんれいたいで見事に活写しているが、このユーモラスな表現に私と妻は涙が出るほど大笑いした。そこには「聖」の原型があり、あわせて里人による排斥の実態さえ描かれている。

 次が大切である。石もて追われる空海は、このあと次のように語っている。
阿毘私度あびしどは常に膠漆こうしつの執友たり。光明婆塞こうみょうばそくは時に篤信の檀主なり」と。つまり、私度僧はにかわうるしでくっつけたような固い交わりの同志であり、光明婆塞(在家の仏教信者)は時に信心の篤い施主になってくれたということである。

 この一文の前半は、空海には結束強固な同志仲間がいたということである。空海が大僧都に任じられたあとも、反律令系の私度僧や修験者グループから崇拝さ れた理由の一つには、「同じ釜の飯を食った」仲間意識があったのではないかと思われる。また、後半はそういうアウトサイダーたちの社会的需要があったこと が読み取れる。

 柳田民俗学によると、彼らが卑しめられた理由は、住所不定の風来坊であるという以上にその役割にあったそうだ。彼らは常人の忌み嫌うことや、常人には不 可能なこと、しかし人間の生活には必要不可欠なことをすすんで引き受けてくれたのである。葬送鎮魂呪術、死体の埋葬、豊穣祈願、請雨祈願(特に空海の請雨 修法は験力があった)、悪霊怨霊調伏、病気災害予防呪術、運命予言エトセトラ......。日本の「聖」とは、高みに輝く聖人というよりも、社会の下層部に生きる 人々のそのまた底辺に生きた人々であったのだ。

 彼らは、その道心の方向によって一つは修験的(山伏系)となり、一つは念仏的(私度僧)となる。さらに巫祝陰陽師系なども含めて、それぞれが俗聖としてわが国の民間信仰を担い広めてきた。

 生産活動に従事しない彼らの生き方は、神仏に仕えるという極めて高貴な一面をもつとともに、葬送や死体処理の仕事にたずさわって生活の糧を得るという、ある意味では肩身の狭い立場にもあった。聖の極みと俗の極みに生きたのであろう。空也もそういう「聖」の一人であった。

 ちなみに、寺が葬式を始めたのは江戸時代に檀家制度が成立した後のことで、本来寺と葬儀は無縁である。寺院は仏教哲学を中心とした知識を修する学府であり、現代の総合大学に近いアカデミズムの府であった。

 さて、空也は孤高である。彼は青年時代から一笠一杖に身をまかせ、常に念仏を唱えながら諸国を遊行し、行き倒れの屍体を集めて弔ったという。伝えによれ ば、ここ浄瑠璃寺のほとりに庵を結び、三年留錫したが、悪病の流行した京都の庶民の救済におもむく際、別れを惜しむ里人たちのために自像を刻んでこの寺に 残したという。

 念仏行によって庶民信仰に融け込んでいった空也の、かの有名な踊り念仏はこうした「聖」の一人が創始したものであった。

●第五十番札所・繁多寺

 浄土寺からほんの2キロ。ここ繁多寺も行基の開基である。当時の寺名は光明寺で、弘法大師が訪れた折、東山・繁多寺と改名したという。いずれも聖たちの歴史のリレーがうかがわれる。

霧雨の降る中を静かに水をたたえた池を右手に眺めながら山門をくぐると、広い清楚な境内に心が落ち着く。背後の森を借景に堂宇が建ち並び、本堂の裏山でさやめく竹林が、この寺をいっそう清冽なものにしている。

 空也谷からこの寺にくれば一遍に会える。

 繁多寺は一遍上人の修行場として、今にその名を残している。一遍はいわずもがな鎌倉時代の名僧であり、時宗の開祖である。彼は「空也上人は我が先達な り」と言ってその精神を引き継いだ約百年後の念仏僧である。家も捨て、家族も捨て、何もかも捨てて16年間。そしてついに旅の空で亡くなった。

『一遍上人絵詞伝』には、「正応元年、伊予へわたり給て菅生岩屋巡礼し、繁多寺にうつり給云々」とある。
「菅生岩屋巡礼し」とは、第四十四番札所・菅生山大宝寺と、第四十五番・海岸山岩屋寺を詣でたということである。空海も一遍も(そして私も)、男はみんな テッペン野郎になりたがるあの行場にも登ったのである。正応元年とは、一遍51歳のときである。(私も51歳、ちょうど同じ年に菅生岩屋を巡拝してきたこ とになる)

 その後、一遍はこの寺で約三ヶ月ほど参籠した。彼も弘法大師空海を偲び、四国八十八ヵ所の成立に寄与した遍路の一人でもあった。さらに一遍も空海と同じ四国を郷里とし、私と同じ伊予(愛媛)の生まれである。

 大師堂で灯明を上げ納札を入れて合掌すると、堂の柱や天井には夥しい数のお札が所狭しと貼られている。この高い天井に一体どんな方法で貼るのか一番札所以来ずっと気になっていた。そんな疑問を抱いて般若心経を上げながら時どき見上げていたら、

「キョロキョロするんじゃないの」
 隣でお経をあげている妻につつかれた。だいぶん流暢に般若心経が読めるようになった妻は、ちょっぴり得意なのだ。何やらお遍路さんの風格も出てきた。しかし、本人は般若心経の意味はわかっていないのだ。

 わかってはいないし、あえて知ろうともしない。だが、その意味を理解している私から見れば、妻は意味としては知らなくとも、実存としては(知っている) ようなところがある。彼女曰く「お経なんて唱えていればそのうちにわかるでしょ」ってなもんである。まさにその通りなのである。彼女の「わかるでしょ」と いう意味は、頭で理解するのではなく、いわば存在自体が、すなわち彼女の実存が理解を証明してくるという意味なのだ。

 般若心経というお経の真義は「意味を知ること」ではないのである。私のように全文が舎利子(釈尊の弟子シャーリープトラー)にしつこく「空」を講義するお釈さんの言葉として浮かんでくるようでは、むしろ駄目なのである。いや、これは本当のことである。

 般若心経の解説書はたくさんあるが、それらの多くがいずれも大般若経(六百巻)の説く「空」の精要を述べたものとして取り上げている。「色即是空・空即是色」で有名な「空」のことである。

 冒頭、「観自在菩薩。行深般若波羅密多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄」とある。わかりやすくいえば「観自在菩薩が、深般若波羅密多じんはんにゃはらみたを行じられた時、五蘊ごうんは皆空なりと照見おわかりになって、一切の苦厄から解放された」という意味である。

 五蘊とは、われわれが日常感得している現象界(仏教でいう諸行無常の有為の世界)を生み出す源である五つの要素を指す。これを色・受・想・行・識とい う。この五蘊の働きによって人間は欲望を生じ、変転極まりない因縁生起の現世に生き、諸行無常の現象界に翻弄されているのである。生老病死など、それらを ひっくるめて、釈迦は人生は「苦」であるという。

 先の冒頭文は、苦を生じる根本原因である五蘊が、実は「空」であるということを悟られて、お釈迦さまは「苦」を解脱されたということである。これが本文262文字にわたるこの教典の主文である。

 各文を解説すると長くなるので、以下を簡略していうならば、般若心経とは「空」を悟らせるための「実践」であるということに結論づけられる。「実践」で あるから、「解説」ではない。解説でなければ「理解」の必要はないのである。ゆえに般若心経を理解しようとしない妻は「理解している」ともいえるのであ る。

 私の話が禅問答のように聞こえるとすれば、それは般若心経が「空」とつながる「しゅ」であることがピンとこないからであり、同時に「空」がどういうものか実感としてわからないからである。かくいう私もぼんやりとしかわからないのであるが、実は仏教の専門家はもっとわかっていない。いや、むしろこの経典を全く誤解さえしている。

 これは私が言うのではなく、この経典を30年以上も研究された重松昭春氏が『誤解された経典・般若心経の真義』で述べられていることである。氏は別に僧侶ではないが、私の知るかぎり重松氏ほど般若心経の核心を突いた人はいない。

 私はこの経典の意味がわからなかった頃、般若心経を宇宙に遍在する響き(耳の世界=音楽)のように感じていたが、のちに仏教専門家の解説書を読んで、かえってこんがらがってしまった経験がある。ところが、重松氏の著書を読んでようやく腑に落ちた。

 結論をいえば、私が宇宙と交感する「響き」と感じていたままでよかったのである。宇宙の「響き」は理解するものではなく、「感じる」ものである。心身が何かに感応するとすれば、それは理解ではなく「ある実践」なのである。

 「咒」とは、真言のことである。空海の『般若心経秘鍵』を読むと、そのことがよくわかる。奈良仏教以来多くの学僧や注釈家が「般若心経」を「大般若経」 との関係でその内容を「経」もしくは「論」として解釈しているのに対して、空海はこれを密教の「真言」と見た。すなわち「大般若菩薩の大真言の三摩地の法 門」と見たのである。三摩地とは、心を一境に専念集中し、諸仏、菩薩の境地に近づくことである。つまり、具体的に体現された法(仏の心の中の悟りに至る実 践)としてとらえている。これを要約すると、空海の解釈は、般若心経のすべては「咒」(真言)に帰一するということである。これは、重松氏の解釈とほとん ど一致しているのである。

 般若心経の話をしていると尽きないのでこの辺で切り上げるが、妻の癌が消えたとき私は一心に般若心経を上げていた。「信じていなくてもよいから」と、そ れを「実践」することを私に勧めて下さったのが、実は重松昭春氏であった。また私のヘルニアを治した妻に、その手当の仕方を教えて下さったS先生とは重松 氏のことである。

 遍路をすると、いろいろと考えが深まってくる。またさまざまなことを見聞する。霊場を訪ねれば現実に起こった奇跡は山ほどある。歩けなかった人が突然歩 き出して、お礼参りで納めた松葉杖や車椅子など、寺が置き場に困っているほどである。多くのお遍路さんは意味もわからないままひたすら般若心経を唱えてい るのだ。だが、空海はおそらく「それでよし」と言うだろう。

 一遍上人の話にもどろう。一遍の宗教は踊り念仏、空也踊り、鉢叩きといい、和讃・和歌、念仏を節おもしろく唱えながら、老若男女、上下の分け隔てなく拍子をとって踊り、念仏の功徳をもって極楽に往生する喜びを感得するものである。

 空也や一遍の念仏宗は、むずかしい教理よりも直接的な宗教的体感が庶民を救うと考えたのであろう。日蓮はそういう狂態を愚かなる人々と非難したそうだが、末法思想の世に、庶民の救いは待ったなしであったことを一遍は切実に知っていたのではなかろうか。

 一遍の信仰とは、身体全体で受け止めて全身で表現するものであった。信仰は心の内部の問題と考えるインテリ僧からすれば、跳ね踊る様は狂人のごとく見えようが、さて身体を除いた心というものがありえようか。また、心を切り離した身体というものがありえようか。

 現代にも「唯脳論」なるものを唱える著名な学者もいるが、いかに哲学したとて、脳や心だけで「苦」や「無明」を克服できるとは私にも思えない。それは、自分の体を自分で持ち上げようとするに等しい、まさに無明の姿のように思える。

   こころより、こころをえんと、こころえて、
   心にまよふ、こころなりけり     (一遍)

 踊ればよい。唄えばよい。手を振り、足を上げ、踊躍歓喜して。泣きながら、笑いながら......人生そのものが念仏踊りなのだから。

(無明は消し去るものではなく、実存のうちに消えて行くものよ)
 いつか妻の言った言葉を思い出す。

●第五十一番札所・石手寺

 石手寺の由来。
 昨日参詣した衛門三郎の話の続きである。弘法大師を追って四国遍路に旅立った衛門三郎は四国霊場を21度回ったもののどうしても大師に巡り会えず、今度 は逆に回り始めた。「逆打ち」である。順打ちよりもつらい路程を逆打ちを重ねること七度、ついに第十二番・阿波焼山寺の麓で行き倒れとなる。

 いよいよ息を引きとる直前、忽然と目の前に一人の旅僧が現れた。弘法大師であった。泣いて詫びる衛門三郎に大師は一つの小石を握らせた。衛門三郎はその石を握って大師に見守られて安らかに往生した(墓は焼山寺のへんろ道にある)。

 後年、道後湯築城主の河野息利やすとしの妻が男児息方やすかたを生んだ。ところが、その子は生後三年経っても左手が開かない。そこで安養寺の住職に祈してもらったところ、一寸八分の小石がころげ落ちた。しかも、その石には「衛門三郎再来」の文字があったという。寛平四年(892)のことだったという。

 衛門三郎は、来世は生まれ変わって郷里の人々に尽くしたいと大師に願って死んだのであった。そのことにちなんで、安養寺は「熊野山・石手寺」と改められて今日に至っている。

 石手寺は、四国霊場でも類を見ないほど観光客の多い霊場である。年間五百万人の観光客で賑わう日本最古の道後温泉に近いからである。また、八十八ヵ所随一とされるほどの寺宝や文化財も宝物殿に陳列されている(衛門三郎の玉石もちゃんとある)。

 大師堂は大きくて中に入れるようになっている。間近で拝める弘法大師の表情は柔和で、妻はここのお大師さんがことのほか気に入っていた。

 三重の塔を中心に境内は諸堂も多く相当広い。奥の山際に胎蔵界、金剛界の深い洞窟が掘られていて、入り口はいかにも不気味に造られている。入るのを渋っ ていた妻も、意を決して私の腕をしっかりとつかんでついに入った。中は人を怖がらせるようなものがたくさんあって、お化け屋敷のようである。

「南無大師遍照金剛......南無大師遍照金剛......」と呟いていた妻は、いつしか般若心経に変わっている。私は吹き出した。

「どうしたんだ。今度はお経か」
「だって怖いモン」

 そんなことを言いながら明るい外へ出ると、とたんにもうすっかり元気になって鼻歌で拍子までとっている。よほど怖かったとみえる。よく聞くと、般若心経がそのまま替え歌になっているのだ。実にその時々の気分に正直なのである。

 歌はいいが、それが昔、新宿の歌声喫茶で流行った革命の歌ではいかがなものか。無茶苦茶である。
「シャーリーシー(舎利子)ヘイ!」とやり出したので、その辺に謹厳なお坊さんがいないかとハラハラした。

   遊びをせんとや生れけむ
   戯れせんとや生れけむ
   遊ぶ子どもの声聞けば
   我が身さへこそ動がされ     『梁塵秘抄』

 生きることは踊ることである。沖縄のカチャーシーは楽しく愉快な集団の踊りである。だが、本当は過酷な歴史の中で生きてきた人々のミルク(弥勒)の世を求める悲しみの念仏踊りだったのかもしれない。妻の後ろ姿を見ていて、ふとそんなことを思った。

●第五十二番札所・太山寺

 道後の温泉街を抜け、路面電車の走る繁華な松山市内を突っ切って三津浜に近い海辺の山林を目指す。「へんろ道」はこうしてまた「辺地」へと近づいて行く。

 国道196号線から北へ約30キロ。瀧雲山の麓で車を止めると、三間一戸の八脚門(仁王門)が広い石段の上から見下ろしている。長い参道を200メート ルほど登って行くと、右手に納経所と本坊があり、さらに道の両側から照葉樹が梢を差しのべる小道を登る。歩くほどに静寂な気分になる。街からほど近い距離 にあるにもかかわらず、霊場は現代のタイムマシンであり、異次元の世界へ運んでくれる。

 300メートルほど歩けば、やがて幽玄な雰囲気に包まれた第三の門の下にたどり着く。石仏の密集する水屋で手を洗い急な石段を上がってようやく境内に入 る。予想以上に広やかな空間には、山麓に溶け込んだような古刹が並んでいた。二人で本堂の横にある逆さ打ちの鐘撞き堂で思い切り鐘を撞く。

 この寺は、豊後の国の真野という長者がこの三津浜の沖合で難破しかけたとき、瀧雲山の頂に五色の光明とともに現れた十一面観音によって救われたという伝 説がある。真野長者は観世音菩に感謝して瀧雲山に一宇を建て、十一面観世音菩を本尊として報恩した。太山寺草創の物語である。

 遍路信仰には、海難を神仏によって救われたという伝説や、それをもとにした縁起が実に多い。海と結びついた「辺地」の信仰であろう。

●第五十三番札所・円明寺

 太山寺を出て196号線に引き返す途中にあるこの寺は「打ち戻りの寺」といわれている。静かな和気町のアスファルトの道路沿いに小さな山門を見つける と、霧雨の中をお参りした。境内は広くはないが、小ぶりの本堂は風雪に耐えてきた歴史の風韻を感じさせる。今から350年前の「慶安銅板」という銅板の納 札があることで有名な寺である。この寺も、古くは海岸沿いに円明密寺として創建されていたものを慶長年間に移設されたというから、もとはやはり海の札所で ある。

 円明寺を出ると、文字通り四国の「辺地」である。左に瀬戸内海を眺めつつ、白砂の海岸に沿って今治市に車を走らせる。時折、歩き遍路を見かける。

「今度四国を回るときは歩きにしようか」
そんな会話が二人の間で自然に出ていた。

●第五十四番札所・延命寺

 円明寺と似たような寺号である。地元では間違わないように五十三番は「和気の円明さん」、五十四番は「阿方の延命さん」と呼ぶそうだ。海抜240メートルの海を望む高台に寺はあった。今治城の城門を移したという山門をくぐって境内に入る。

 今日はこれで六ヶ寺目だ。だんだん頭の中がこんがらがってきた。寺はみな個性があるが、やはり寺である。似たような雰囲気であるからゴチャゴチャになっ てくる。私たちは自分で探しながら走っているのでまだ印象が残っているが、バスツアーで先達に引率されて回るとほとんど区別がつかなくなるのではないだろ うか。まして一週間あまりで八十八ヵ所も回れば、一つひとつの寺の区別をつけることはまったく不可能だろう。私たちはここまで来るのに三年かかっている。

 境内にはどの寺にも諸仏諸堂があり、すべてにお経を上げればいいのだろうが時間がかかりすぎる。このところ、妻は何でもかんでも南無大師遍照金剛で通し ている。本堂まで同じように唱えるので、本堂ぐらい本尊の御名を唱えろと今度は私がつついてやった。私は遍路を始めた頃と違って、今では本尊を確認した上 で参詣する教養の身についた(?)遍路である。

「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
 本尊不動明王の真言を舌を噛みそうになりながら唱えた。

 私たちは、今日中にもう一ヶ寺打っておこうと今治市の南光坊へと急いだ。

●第五十五番札所・南光坊

 196号線はJR今治駅に近い市街地に入る。市役所を過ぎた国道沿いに南光坊を見つける。4時45分、納経所が閉まる寸前にすべり込んだ。

 納経所の若いお坊さんと話すと、南光坊はもとは今治市の沖に浮かぶ大山祇神社の別宮だったとのこと。やはり、この寺も海との関係が深い。

 江戸時代に出版された日本最古の遍路ガイドブックである『四国遍路道指南』によると、著者の真念は「是は三島の宮のまへ札所なり。三島まで海上七里有 り。故に是より拝む」と記している。「三島の宮」とは大山祇神社のことで、瀬戸内海の大三島に鎮座する元河野水軍(伊予の領主)の氏神のことである。

 真念は島に渡らず、ここから三島の宮を拝んだそうだ。五来博士は「宮のまへ札所」とは「別宮の札所」のことだから、正式には大三島まで渡って本宮で札を 打っていたことが推察されるという。つまり、本来の札所は大山祇神社であり、古い辺路修行には島に渡るという修行形態があったことがわかるのである。

 一遍ほどの人になると、真念のように別宮から島の本殿を遥拝するようなことはせず、ちゃんと島まで渡っている。『一遍上人絵詞伝』には、繁多寺を発った一遍は大三島に詣でたことが記されている。その下りの文末に「越智益躬は当社の氏人なり」とあるのは、越智益躬おちますみは河野一族の先祖であり、一遍は河野水軍の末裔(父は河野通広)だったからである。彼は弘法大師を偲びつつ、先祖の菩堤を弔ったのかもしれない。松山の道後の生まれである。

 一遍は、一度は故郷を捨てた人であった。しかし、捨て切れなかったのか生涯に三度故郷の伊予(愛媛)に帰っている。捨聖すてひじりといわれた一遍でさえ、最後に残したもの、それは父母への思いだったのかもしれない。大三島の先祖参りをしたこのときは実に12年ぶりの帰参であった。そして彼は、翌年旅の空の下でその生涯を閉じた。正応二年(1389)8月2日のことである。

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