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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第十八回

第4章 道草遍路〔第四回〕《1998年10月8日〜10月13日(5泊6日)》

◆第一日目(1998年10月8日)--空海の教育観と綜芸種智院--

 先日また妻と喧嘩した。何かのはずみで口論となり、とうとう四国遍路もやめようということになった。
だが結局、また来てしまった。三津浜港に着いたときはドシャ降りだった。

 私たちが、平日こうして休暇をとれるのは仕事を前倒しで済ませているからである。私の塾は中学生だけを対象にした高校受験専門塾。中学三年生が大半を占 める。各学年とも指導科目五教科。週三回、一回2時間30分休憩なし、週7時間30分と決めている。テスト週間は休塾。生徒は家庭で自学自習(それまでに 教えるべきところは教え終わっている)。その振替授業を土日を使ってやるために、テスト前は三週間ほど無休で猛烈に忙しくなる。今日から休みに入ったの で、予定していた遍路に出てきたのである。

 さて、唐より帰国してからの空海は、消息を絶った三年後入京を許可されて高雄山寺に住す。大同四年(809)、空海36歳のときである。最澄との交流もこのあたりから始まる。以後空海の活躍は一瀉千里いっしゃせんりで ある。あたかも、蓄積されたエネルギーが爆発したかのように歴史の表面に躍り出る。翌弘仁元年(810)にはすでに東大寺別当(現在の東大の総長のような 立場)に任じられている(空海37歳)。そして承和二年(835)、62歳で高野山において入定するまでの事歴はほぼ明確に残っている。

 その中でも「綜芸種智院しゅげいしゅちいん」 の開設は広く知られている事歴である。これは、わが国最初の庶民のための学校として記憶されるべきであるが、この業績に対する現代人の受け止め方について 二つ不思議なことがある。私は仕事がら日本の私塾史を研究している塾長たちとの交流もあるが、不思議なことの一つとは、彼らの研究に空海の教育事業がどこ にも見当たらないことである。

 私塾の発生はおおむね近世からとするものがほとんどである。すなわち16世紀末、京都の松永尺五の「春秋館」「講習館」「尺五堂」あたりを起点とする説 である。近江の中江藤樹、京都には伊藤仁斎や木下順庵、江戸の荻生徂徠などの私塾は、いずれも同時代ではあるが松永尺五の後に開設されたものである。これ らは、当時の一流の学者や門下生による近世初期の最高学府的な私塾であった。(尺五の門下生に木下順庵、木下の塾生に新井白石や室鳩巣、雨森芳洲、また藤 樹に熊沢蕃山、仁斎に東涯、並河天民、徂徠に太宰春台などを輩出している)幕府や藩が旗本や藩士の教育にあたる「藩校」や「家塾」というものに対して、官 の援助を受けずに自ら一流一派の学問を教えたのが、これらの「私塾」であるといわれている。

その後、生産力と商業流通の発達を背景にして庶民の教育要請が高まり、特に江戸中期以降は爆発的に広まる。成人に対する教育としては「私塾」、町人の子ど もには「寺子屋」や「そろばん塾」、農民には「農民塾」など、武士階級のみならず全国的に学問に対する要求が高まってくる。シーボルトの「鳴滝塾」(長 崎)や緒方洪庵の「適塾」(大阪)は特に有名である。なかでも、吉田松陰の「松下村塾」は学習塾の塾長たちにとっては、憧れの的となっているようである。

 彼らの私塾史の研究に空海の「綜芸種智院」が出てこないのは、あまりにも時代が遠すぎるということか、それとも他に理由があるのか知らないが、いずれにしろ無視されている。

 梅原猛氏によると、空海は明治以後のインテリによってその評価を落としめられてきたそうである。理由としては、空海の万能ぶりに近代の実証主義が懐疑の 目を向けたことや、空海が天皇と結びついたことが胡散臭いものと映ったことなどを挙げている。それに、平安仏教は貴族仏教、祈祷仏教という説が加わり、空 海は天皇や貴族のご機嫌をとった俗物であり、宗教家はもっと宗教家らしくあらねばならないと考えたからだという。

 確かに、例えば親鸞の人気などと比較すると、空海の評価は高くないようである。とすれば、わが国最初の庶民学校(塾)の創設を私塾史の研究に入れないのもわかる気がする空海は謎めいており、どこか怪しげな僧だという印象を現代人はもっているようだ。
梅原氏はこの偏見を厳しく批判している。鈴木大拙氏などは、ろくすっぽ空海の伝記も研究せず、密教思想も知りもしないで空海を俗物と片づけるのは、われわれ祖先の知性への冒であると手厳しい。

 戦後のそのような評価の中で、梅原氏は昭和40年半ばから空海に関する一連の論考を発表した。その後、司馬遼太郎の『空海の風景』が世に出るなどして、ようやく空海は一般人にも知られるようになった。その意味では著名な両氏の功績は極めて多大であったといえよう。
 にもかかわらず、「綜芸種智院」が教育関係者の間でほとんど語られないのは、やはり戦後の反体制思想の強い知識人には受け容れがたいものがあるのだろう。だがこれは、はなはだしき誤解である。私は空海をもって日本の近代的教育は開眼したと考えている。

 少し当時の教育事情をうかがってみよう。
 平安初期の教育制度は、大宝律令に定められた大学が京都にあり、あとは地方に国学があったが、いずれも国立の官吏養成機関であった。むろん一般庶民には 入学資格は与えられず、大学は貴族、国学は地方の豪族の子弟と限られていた。もっとも貴族階級の間では氏族の子弟教育のための私立学校は多く設けられては いた(例えば、淳和天皇の恒貞親王によって建てられた淳和院、和気一族の弘文院、藤原一族の勧学院、橘一族の学館院、大江・菅原一族の文章院などなど)。 しかし、これらも一般庶民にはまったく無縁な教育機関であった。

 空海はそういう時代に、すでに教育の機会均等を考えていたのである。空海の開設した「塾」は、貧しく無知な庶民の子弟のために分け隔てなく開かれたものである。1200年前である。これは、考えて見れば驚くべきことである。

 では、「綜芸種智院」の教育理念はどういうものであったのか。まず校名の「綜芸種智」とは、真言密教の根本経典である「大日経」巻一「具縁品」の一節「物の阿闍梨(先生)衆藝を兼ねぶ」から名付けられた。諸学問をべ学び優れた智慧(種智)を引き出すという意味である。種智とは、すなわち大日如来の絶対智のことである。一切の学芸は人間として平等な仏性の現れであると考えるところに、空海の教育観と理念の高さが感じられる。
 空海は、自己の所有する京の東寺(教王護国寺)の東隣に、藤原三守ただもりから二町あまりの土地を寄贈され、そこに夢の一つを実現するのである。ここに儒教、道教、仏教の三教を教える「綜芸種智院」が誕生する。天長五年(828)、空海55歳のときである。

 渡辺照宏・宮坂有勝両博士によると、開校するにあたって空海は、教育の諸条件を四つの骨子にまとめているとある。第一は教育環境がよくなければならな い。第二はあらゆる学問を綜合的に教育し、その眼目は人間教育でなければならない。第三は優れた先生が必要である。第四は学ぶためには教師と生徒の生活を 保障しなければならないということである。

 空海の『綜芸種智院式并序』によれば「然れば則ち智を得ることは仁者の処に在り、覚を成ずることは五明ごみょう(言語学、論理学、教理学、医学、建築工芸などの造形学)の法にる。法を求むることは必ず衆師しゅしの中に於てし、道を学ぶことは当に衣食のたすけに在るべし。四つのもの備わって而して後の功有り。是の故にの四縁を設けて群生を利済す」とある。

 また、「青衿黄口せいきんこうこうの文書を志し学ぶ有らば(青少年で読み書きを学びたい者がいれば)絳帳先生(儒教の先生)、心慈悲に住し、おもい忠孝を存して、貴賤を論ぜず貧富をず、宜しきに随って、提撕ていぜいし(適宜に指導を与え)人をへてまざれ。三界は(この世のすべての人は)吾が子なりといふは大覚の師吼しく(釈尊の言葉)、四海は(世界中の人々は)兄弟なりといふは将聖の美談(孔子の名言)なり。仰がずんば可べからず(このことはよく忘れないようにしなければならない)」と、生徒を受け入れる先生と学校教育の姿勢まで明示している。(訳・『沙門空海』)

 これを要約するならば、「綜芸種智院」の特徴は教育の機会均等、優れた教師、総合的人間教育、完全給費制の四点に尽きよう。日本は明治五年にようやく学制がかれたが、近代的な教育理念は空海の私学校によって出尽くしている。この内容は、今日そのまま通用するといっても過言ではない驚嘆すべきものである。

 9〜10世紀の唐やインドなどにも官吏養成大学や僧院大学はあったが、いずれも大規模な国立大学であり、特定の者しか入学できなかったそうである。その ことを考えると、たとえ小規模なものであっても空海の教育理念と教育内容は世界史上まったく類例を見ないものであった。私塾こそ教育の原点であると主張す る私塾教育研究者に、このような内容の一言半句も出たためしはない。

 もう一つ不思議なことは、司馬遼太郎の描く「空海」にも紹介されていないことである。空海の「教育への思い」(それは最終的には高野山開創につながる情熱である)を看過みすごして空海をることはできまい。

日本の将来を憂えたという司馬ならば、『この国のかたち』はこの国の民度によって形成されることは自明であったはずである。ならば、その根本は教育にたねばなるまい。そうであるなら、空海の私塾の創設は真っ先に注目すべき業績ではないのか。「進取気鋭の日本人を描く」司馬が、世界に先駈けて近代教育の扉を開いた「綜芸種智院」を削除した理由がわからない。私は、やはり自分の「空海の風景」に入って行きたいと思う。

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