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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第十回

◆第6日目(1996年6月29日) −竜馬が求めた男のロマン・私の中の遍路と封殺した過去−

 翌日、二人はまた龍馬像の前に立っている。龍馬は晴れ上がった空を背にして堂々と立っている。何を考えているのかわからないが、妻も見上げてい る。今朝の彼女は半袖の淡いピンクのニットウエアに赤いジーンズ。遍路旅を続けるにしては派手な装いである。まさか昼間の龍馬に会うためにお洒落をしたわ けではあるまいが、彼女も龍馬に好感をもっている。

 二人がまた桂浜に来たのにはわけがあった。ここ桂浜公園から歩いて10分のところに「坂本龍馬記念館」があるからだ。妻が最後の日に私を誘った道草は「龍馬と語り合う」ことであった。

 龍馬を育てた海を見ながら、観光客で賑わい始めた桂浜を二人は端から端まで歩いてみた。何一つさえぎるもののない太平洋は、初夏の陽射しを浴びてどこまでも続いている。水平線の彼方に夏雲は立ち上り、遠く青春の日へと思いを誘っていく。

 龍馬はこの海を見ながら、この潮風の中で、夢多き少年として生い育ったのだろう。そして、風雲急を告げるやいなや幕末の志士となり、激動の日本を燃える奔馬となって駆け抜けていったのだろう。

 だが、龍馬の生涯の軌跡をたどれば、彼は一貫して海の男だったと思う。勝海舟に師事して海軍を志した龍馬は、海舟とともに日本海軍の礎を築く。そして、私設艦隊である海援隊を興した。世界の海援隊を夢見た龍馬は、何を志し何を守ろうとしたのだろうか。

 海は私にとっても青春そのものであった。遠くは勝海舟と龍馬にも縁をもち、かつて東洋のアナポリスとうたわれた旧帝国海軍の聖地「江田島」で海の男の日々を送った(江田島は旧海軍兵学校のあった島で、現在、海上自衛隊幹部候補生学校・同生徒隊術科学校などがある)。

 故郷を飛び出して海を目指した私は、江田島を巣立つと護衛艦の艦上に立っていた。日々の訓練終了後、気がつくと一人甲板で艦旗はためく烈風の海を眺めていた。龍馬の血は青春の血でもあった。

 龍馬のロマンを自らの血に訪ねよう。私たちは記念館へと向かった。 「坂本龍馬記念館」は海に向けて羽撃くようにして太平洋を眺める高台にあった。館内には龍馬ゆかりの遺品や資料が数多く展示されている。手紙や、寺田屋で捕り手と戦ったときの拳銃や、京都近江屋で襲撃されたときの血痕の飛び散った風や衝立などもある。

 龍馬の素顔は手紙の中に見られた。「此の頃は天下無二の軍者、勝麟太郎という大先生に入門となり、ことの外かはいがられ候、すこしエヘンがを(顔)をし てひそかにおり申し候」と、江戸での龍馬の活躍を喜ぶ姉乙女に宛てた手紙には龍馬の得意顔が浮かんでくる。「猶エヘン、エヘン」と続くところは、まことに 稚気愛すべき人間性がにじみ出ている。

 幕府の長州に対する失態を「姦吏を一事に軍いたし打殺うちころし日 本を一度せんたく(洗濯)いたし申候事......」という手紙は、まさしく維新回天の志士坂本龍馬である。手紙の一つひとつに時にはいたずらっぽい、時には激情 して叱咤する気迫に満ちた龍馬の顔が浮かんでくる。ニッポンとわざわざ振り仮名をつけているところなど、いかにも新しい日本を思い描く龍馬らしい。

 治療のために妻お龍と出かけた九州の旅先から乙女に宛てた手紙は、丁寧にも絵入りである。誤字、当て字などいっこうに頓着せず、あの独特な書体で縦横無 尽に書き散らかしている。まるで天真爛漫な子どもの絵日記でも見るようだ。意外に筆まめな彼に、行動家龍馬の隠れた一面を見る。

 土佐男児の金看板は豪放磊落性である。大言壮語して天下国家を論じ、言いかえれば細やかさに欠け家庭を顧みないタイプが多い。天衣無縫な龍馬にも、土佐 男児の気風は大いに見られる。しかし、彼は女性に対して案外やさしかったのではないかと想像する。そうしてみると、鬼侍ぞろいの土佐勤王党の中で、龍馬が きわだって人間味を感じさせるのである。

 龍馬の短い生涯には、なぜか多くの女性が関わっている。12歳で母を亡くした後、落ちこぼれ龍馬をたくましい少年に育てた姉の乙女、龍馬の京都滞在中い つも面倒をみた寺田屋の女将とせ、龍馬を生涯慕い続けたといわれる千葉道場の佐那子、そしてあの寺田屋襲撃には体を張って龍馬を救ったお龍。

 女性がその本能で「漢」を愛し育てるものであるなら、龍馬はその意味からもまさしく「漢」ではなかったか。彼が女性に愛された純粋さは、同時に女性にや さしさを求めるナイーブさでもあったろう。美人の誉れ高い士族の娘山形万須子が、結婚してくれなければ切腹すると龍馬に迫られて玄関に座り込まれたという 話もあるそうだ。龍馬は恋においても熱血漢であった。

 龍馬所持のピストル(複製)と愛刀・吉行(写真)を見る。

 龍馬は江戸三大道場の一つ、千葉道場の塾頭を務めたほどの腕であったからいうまでもなく剣客であった。それは、致命的な二度の深手を負いながらも、第三 の太刀を鞘ごと受け止めたあの壮絶な最期が生々しく語っている。だが、彼の剣は攻撃型の剣ではなかったのではないかと思う。

 よばれたれ(寝小便たれ)の劣等生であった龍馬が自信を得たのは剣道であった。剣の獲得は彼にとって「漢」へと成長する必修過程であり、その後さらに視点が高まる。幕閣勝海舟を斬りに行った攘夷の剣客は、勝との出会いによって尊皇開国の志士となる。

 このときから龍馬の立ち向かうべき対象が、剣の対戦相手を飛び越えて世界となってしまったのだ。剣客龍馬の攻撃意識は目前の剣敵を見失う。剣技に漬かり切れなかった彼の器の大きさが、攻撃型の剣士の道を阻んだと想像するゆえんである。

 剣がその人間にとっての「命」であるとき、剣もまた己を愛する者の傍らを離れようとしないものである。戦いが個人技を超えてしまったとき、剣もまた龍馬 から遠のいた。その距離わずか一間、それが彼の命を断つこととなった。襲撃された京都近江屋二階での、龍馬と愛刀吉行との運命的な位置関係であった。

 龍馬が剣術修業のため江戸に上った19歳といえば、私にとっても剣道一筋の頃だった。技が互角の場合にはわずかな心の隙が勝敗を決する。まして実戦にお いておや。見敵必殺の技を磨いた江田島武道館で、全国から集まったさまざまな剣士と立ち合った経験から、龍馬の剣を考えてみた。

 では、龍馬とは革命思想家なのか。

 それも違うようだ。北辰一刀流の免許皆伝となるまで龍馬の青春は剣一筋である。彼は学問や思想を学ぼうとして江戸に上ったのではない。龍馬の漢詩が残っ ていないのは、漢籍に親しんだことがなかったからだといわれているが、彼は本来学問には興味のない人間である。さらに運動組織やセクトにもなじまない人間 である。

 その辺りの事情を、龍馬の幼なじみである土佐勤王党の盟主、武市半平太に聞いて見よう。
「肝胆元より雄大にして。奇機自から湧出す。飛潜誰か識る有らん。偏に龍名に耻じず」、龍馬脱藩を知ったとき、武市は「土佐にはあだたぬ奴」(土佐一国に はおさまりきれぬ奴)といって、このような詩で龍馬を評した。適評であろう。龍馬は志士というには、あまりにも自由であり独立独歩である。

 現代の革命家や、何事かをなさんとするときすぐに徒党を組みたがる者には、龍馬の独立性と自由の精神には決して触れることはできないだろう。龍馬の自由の翼は「組織にはあだたぬ奴」だけではすまされない。こういう落ちこぼれが、新しい日本の方向を見通したのである。

 藩を超え日本を丸ごととらえる彼の視野の広さは、どこからきたものだろう。龍馬の特徴は何よりも耳学問程度で時局の本質を見抜いたことである(龍馬は革 命理論やマルクス経済学など勉強すまい)。さらに、何か本能的な感覚が促したかのようにみえる確信的な行動力がある。彼の思想と行動の原理とは一体何だっ たのか。

 ここに、その謎を解く一節がある。『維新土佐勤王史』には「坂本龍馬は一個の彗星なり。故に必ずしも瑞山(半平太)を中心とせる軌道を回転するものにあ らずして、時にこれを遠ざかり、時にはこれに近づく」とある。これを見ると、龍馬はおのが主観で必要に応じて動いていたことが察せられる。教条主義の志士 たちには、その姿が勤王に見えたり佐幕に見えたのだ。

 龍馬の世界はそのような偏狭なイデオロギーをはるかに突き抜けていた。龍馬の中心にあった直観、それは学問知識やイデオロギーではむしろ見失われる性格のもの、私はそれを「聖なる男のロマン」と呼びたい。時代を飛び超える龍馬の「超理想」はまさにそこからワープする。

 ゆえに龍馬はうそぶく。「世の人は己をなんともゆはばいへ、己のすること己れのみぞしる」と。そして、彼は「超現実」へと再び舞い降りてくる。そのとき、人の目には彼が現実主義者、合理主義者に映って見える(司馬遼太郎の龍馬像もこれに近い)。

 龍馬にとって、これほどの誤解はあるまい。時の現実的合理主義者とは、脱亜入欧を進むべき国の基本とし、文明開化を極端な欧化政策に舵取りしていった明治の元勲たちではなかったか。

 以来、この国の精神はひたすら脱亜の坂道を駈け下っていった。慈悲を説く仏道は廃され、「祈」の日本古神道は、武人たる神、天皇すめろぎを頂点におく「武」の国家神道となったのである。

 近代化を急ぐ啓蒙主義者がまず捨てたものは、この国の風土が育ててきた三千諸仏と八百万の神々との共存であった。列強覇権主義に対抗するため、キリスト 教に伍する一神教の国民国家に統轄し、こうして急拵えの近代国家が完成した。かくして、わが国は先の敗戦に至るまで、欧米帝国主義の後を追って世界のパ ワーゲームに参加していった。

 龍馬の戦いは、むしろそういう近代史に巻き込まれていく日本の将来に向けられていたのではないか。怒濤のように押し寄せる列強の、力の論理に立ち向かう 龍馬の正義がそこにあったような気がする。その正義感が西洋植民地主義の真の意図を見抜いたのではないだろうか。このような「漢」こそ資本主義がもっとも 恐れる人間である。 龍馬の声が聞こえてくるようだ。(目覚めよ日本人。私が暗殺された真の意味を知れ......)

 西洋資本主義は、なぜ龍馬を恐れるのか。

 龍馬を考えると、血みどろの幕末維新にあって、ある筋の通った清々しさが見えてくる。それは、彼に「守るべきもの」がはっきりと見えていたからではな かったか。絶えざる経済拡張を目的とする資本主義にとっては「守るべき価値」があってはならないのだ。資本の意志は、人間の価値のすべてを欲望の原理に解 放することによって増殖しようとするからである。それが、資本の正体である。

 龍馬が世界に立ちはだかったものは、近代文明の「知」の底に潜む何かだったような気がする。だが、龍馬の「至純」は、近代の「知」に葬られることになった。

 龍馬が夢枕に立ったという話がある。明治37年、2月、日露開戦前夜のことである。葉山御用邸で時の皇后陛下(照憲皇太后)は龍馬の夢を見た。血塗られ た一人の侍が夢の中で「誓って皇国のために帝国海軍を護ります」と奏上したという。話を聞いた待従たちがもしやと皇后に龍馬の写真を見せたとき、「間違い なくこの人でした」と証言して廷臣一同を驚かせたということである。明治天皇ではなく、皇后に奏聞したところはまことに龍馬らしい。しかし、この有名な話 は、はからずも龍馬の至情と守るべき価値を象徴しているようだ。

 資料館の外へ出た。火照った頬を爽快な潮風がなぶる。

 死してなお護国の鬼となる......だが、私はなお鬼の素顔を海の彼方に探す。風雲児の影にはもう一人の風雲児がいる。母を早くに失った悲しみとさびしさを耐 え、今なお求め続ける龍馬がいる。海を見つめる龍馬の眼差しに、どこか望郷の思いを感じとるのは果たして私だけだろうか。

 もはや龍馬が守らんとしていたものは明白である。彼は日本文化の核心にある「聖性」を、欲望と力の原理から守ろうとしたのだ。「武」の文字が矛を止めるの意味をもつ通り、龍馬の剣は侵略と征服の剣ではなく、まさに「武」の剣であった。

 西洋覇権主義がこのニッポンに恐れたもの、それは近代化のパワーや技術力などではない。わが民族の意識の底にある、明るく、直き、そして気高き精神性であった。

 もし龍馬が生きていれば、明治という近代国家の精神は異なり、世界のパワーゲームから身をかわす国家戦略を示唆してくれたような気がしてならない。そう して彼はいずれ国事からも去り、子どもの頃の、泣き虫龍馬が求めていた故郷を探して、新たな船出をしたような気がしてならない。

 それら全てが、われら後世への遺言となっている......。

 妻と海を見た。天馬空行く龍馬の魂が南海に翔ぶ!



●第三十一番札所・竹林寺

第三十一番札所・竹林寺  最後の道草のあとは、もっぱら遍路行である。予定は第三十一番札所・竹林寺から第三十五番札所・清滝寺まで一気に回ることにしていた。これら五ヶ寺は市内周辺に点在しているので、車なら半日あれば何とかなる。

 市街地をはずれると、標高430メールの五台山に竹林寺はあった。寺の開基は神亀元年(723)、聖武天皇の勅命を受けた行基である。その後、寺は一時荒廃するが、弘仁年間に弘法大師によって修復され四国霊場と定められたとある。

 長い時の流れに滑らかに擦り減った石段は、数多の遍路の思いに踏み締められてなだらかに続いている。誰もいない石段は、さやめく葉影がこぼれ陽とひそや かに戯れている。二人は黙って歩いて行く。山門をくぐれば青葉に覆われた石畳の参道が真っすぐに伸びている。土佐歴代の藩主の手厚い庇護を受けた高知随一 の名刹竹林寺に到着した。

 境内は広く諸堂は見事である。特に本堂の柿葺きの屋根は心を和ませる。納経をすませてから境内を散策する。すぐに目を引いたのが朱塗りの五重の塔。境内の小高い一角にそれは高々と建っていた(高さ32メートル、木造の塔では日本でも一級の高さ)。

 緑つややかな樹々の向こうに、白雲浮かぶ青空を突き上げるようにして、朱色の五重の塔が真昼の陽を受けている。その下を石段を登ってって行く白い笈摺おいずる姿 の妻が見える。その後ろ姿には遍路のあの孤独な影はない。彼女の赤いジーンズが陽光に映えて、塔の朱と見事に呼応している。青、白、緑、赤、それら絵のよ うなコントラストを浮かび上がらせて、彼女はただ「塔のある風景」の中に融け込んでいくばかりだ。私はその美しさに軽い感動を覚えてしばし眺めていた。

 そのとき、またいくつかの遍路のイメージがだぶって現れた。私は思わず頭を振ってそれらを振り分けた。すると、それは明瞭に三つの遍路姿となって脳裏に 浮かんできた。一つは浜辺をよろめきながら歩く孤独な昔遍路の姿である。次は菜の花畑を行く叙情的な巡礼遍路の姿であり、最後は今向こうを歩いて行く色鮮 やかな遍路である。

 この三つの遍路のうち、最もかけ離れているのが、浜辺をさまよう孤独な昔遍路と色鮮やかな妻の遍路姿である。私は何か新鮮な世界を垣間見たような思いが した。もしかすると、それは二人の生い立ちの違いを表しているのかもしれない。そう考えたとき、ようやく遠い記憶が甦ってきた。

 お遍路は心を癒す旅であり、菜の花の咲くころ回り始める四国の春の風物詩なのだろうか。いや、私の記憶にあるものはそうではなかった。時を定めず家の門 々で鈴を鳴らし、念仏を唱えて立つ乞食であった。彼らは帰るところのない宿無し遍路であった。子どもの頃、彼らの胸に下げた頭陀袋や差し出す椀の中に、米 やいくばくかのお金を施すたびに、幼な心にも私は人の世の絶望的な何かを感じた。遠い記憶の中にふと漂い上るその「暗部」が、妻の提案した遍路旅行に賛同 しつつも心が沈む理由だったのかもしれない。

 今になって思えば、彼らの多くは病苦や貧苦を背負い、行くあてのないホームレスであった。だから、正しくは遍路と呼べないのかもしれない。しかし、わず かな施しを受けた後も鈴を鳴らし、経を唱えて静かに立ち去る乞食であった。そうして死ぬまで独りで歩き続ける遍路でもあった。

 いつしか乞食と言い切るには忍びない、ある暗いこだわりのようなものが私の心の奥に沈殿していった。今、それを言葉にするなら、それは人間の嘆きのよう なものである。さまざまな事情で世の中のあらゆる救済の手を自ら断ち、あるいは断たれ、ただひたすら孤独と絶望を見つめて歩き続ける彼らの心中を察する手 立てはないが、もし自分がそのような境遇にあれば仏の御手にすがる以外にはないだろう。

 世間からは「へんど乞食」と蔑まれ、行き倒れと死の不安を道連れにただ独り仏を念じるなら、それも彼らなりの仏道だったのかもしれない。

 いや、法然や親鸞が最後にたどりついた阿弥陀仏の救いとは、結局はそういうことだったといえる。現世の価値からの脱落者や疎外者......彼らの呻き声を聞き 届けるのは仏の世界だけではなかったか。あの遍路の中には村八分になった極悪人もいたのかもしれない。親鸞においてはむしろ絶望は癒されるべきものではな く、徹底しておのれの罪を見つめることであった。彼はその血を吐くような自己否定と懺悔の中にしか真の救いはないと信じた。

 生涯を念仏巡礼に捧げた一遍や空也とて、その思想は「捨てること」であった。空也は「念仏はいかが申すべきや」と問われたとき「捨ててこそ」とのみ答 え、あとは何とも仰せられずと西行は記録している。一切の事を捨てて念仏を唱えることが阿弥陀超世の本願にかなうことだと語っている。

 一切の世俗を拒否するそれらの原点が、四国遍路行においては空海の乞食行にあるというのなら、遍路は安易に仏になれるどころか、まさに死と絶望に裏打ちされた世界を突き進む「死国遍路」ではないか。

 いずれにせよ、昭和30年の始め頃まではそのような棄民的な遍路もいたのである。最近よくテレビなどで四国遍路が美しい映像とともに紹介される。そし て、大師信仰の厚い四国の人たちの、お遍路さんを迎える「お接待」の光景などが放映される。それはまごうことなき四国人の温かい遍路文化である。人は四国 巡礼に憧れ、心を洗う旅路を夢見る。にもかかわらず、私の遍路にはやはり絶望と死とがつきまとう。私はそのことを幼い頃からうすうす感づいていた。

 私の中にある遍路の心象風景は、お大師さまに逢う救いの旅などではなく、自己の絶望に直面する旅なのである。仏に出逢うのではなく、地獄を覗き見る旅な のである。霊場を巡ったくらいで人が仏になれるものか。人の心には仏も住めば鬼も棲む。遍路の原点は、おのれの心の奥底の闇と向き合う旅なのだ。無慙無愧 の救われようのない鬼の心と向き合う旅なのだ。

 中学3年のとき、私の町の山に弘法大師の巨大な像が建立され、開眼式の祭の夜、両親とともに参拝したことがあった。私の家はいわゆる家族の団欒など縁の ない家庭であった。私はめずらしく夫婦仲よくお大師さんをお参りに行く両親を、子ども心に嬉しく思った。山頂にはあの旅姿の大師像が満月に照らし出されて いた。

 だが、その帰り道、父と母はあることで言い争いになった。父はいつもの父とは思えぬほど激怒し、このとき初めて母を殴ったのである。草叢に殴り倒された 母に駈け寄った私は、次の瞬間父に向かって突進して行った。私を止めようとする母の悲痛な叫び声が耳の遠くで聞こえた。私は父を「殺そう」と思ったのであ る。

 もう思い出したくもない封じ込めてしまった過去である。そんな三人の姿を、満月を背に夜目にも黒々と巨大な弘法大師が見下ろしていた。思えば、私は妻よりもはるかに遍路のそば近くにいたのだ。私はそういう四国に生まれ、そして育った。



●第三十二番札所・禅師峰寺

第三十二番札所・禅師峰寺  下田川を下って次の札所に着く頃には太平洋の眺めが開けてきた。竹林寺からは浦戸湾や、遠く太平洋まで一望できたが、禅師峰寺もまた土佐湾をすぐ眼下に見下ろす山の上にあった。境内からはやはり太平洋の海原が見渡せた。

 空海はよほど海が好きだったらしい。寺の院号は求聞持院とあるから、空海はここでも求聞持法を修行したのかもしれない。思い出したが、第二十四番の最御 崎寺は明星院であった。両所とも明けの明星、宵の明星を見るには絶好の位置である。明星は虚求蔵菩薩の化身といわれる星。空海がここを修行の場とした理由 は、やはり海と空と星に関係があったはずだ。

 そう考えたとき、ふと海洋信仰という言葉が浮かんだ。もと船乗りの私には直感的にわかるのだ。海と空と星は外海に出た船乗りにとっては世界の全てであ る。なかんずく星は天文航法には欠かすことのできない、いわば船乗りの命綱でもある。「板子一枚その下は地獄の海」で生きる船乗りにとって、海への信仰心 は身を危険にさらす者が自然に抱く感情でもあるのだ。

 さて、本尊の十一面観音菩は、土佐沖を航行する船の安全を願って大師が彫ったものだと説明されている。別名「船霊観音」とも呼ばれ、今でも船乗りや漁師 たちの厚い信仰を集めているという。日本の航法は沿岸航法から始まっている。これは文字通り陸影に沿って航海するものであるから、夜間の航海には陸の灯が 目印となる。つまり、灯台の役割をするものが必要なのだ。もしかすると、その火とは、もとは空海たち修行者の祈祷の火、山岳修験者の修験の火だったのでは ないだろうか。

 奈良時代の頃、山の中に分け入って修行することを禅定といい、そういう修行者を禅師と呼んだから、禅師峰寺ぜんじぶじとは、つまり山岳修行者たちが修行した峰という意味になる。彼らの修行には修法の霊火はつきものであったろう。一方、霊火を絶やしては航海者にとっても意味がない。とすれば、霊火を絶やさぬことは信仰上の意味とともに実用的な意味もあったことになる。

 私はまた「消えずの火」という言葉を思い出した。広島の平和公園の慰霊碑の前で燃え続けている霊火のことである。そういえば江田島の生徒時代、海兵の伝 統を受け継いで、毎年秋には弥山登山という過酷な訓練があった。厳島の鳥居のある山麓から530メートルの弥山山頂めがけて一気に駈け登る心臓破りの訓練 である。山頂に「消えずの火」という霊火があり、平和公園の火はそれを移したものであると分隊長から聞いたことがある。

 船乗りの信仰と空海の修験の霊火がつながるならば、空海はやはり海洋修験者といってもいいのではないだろうか。私は山中の空海も好きだが、広大な海のイ メージをもつ空海のほうがさらに空海らしいと思う。何故だろうかと自問してみると、答えはすぐに返ってきた。「風」だ。海は風が吹く。私自身「風」を求め て海に憧れたことを、今でも体の芯が覚えているからだ。幼い空海が屏風ヶ浦で帆をはらませて沖ゆく遣唐使船に見たもの、それはもしかすると「風」だったの かもしれない。



●第三十三番札所・雪蹊寺

第三十三番札所・雪蹊寺  海沿いの国道に出ると、また浦戸大橋から桂浜を越えて三十三番を探す。この辺りになると霊場探しも慣れてきて、おおよそ辺りの様子で勘が働く。少し内陸に入ったところに雪蹊寺せっけいじを見つける。

 やはり弘法大師の開創で、はじめ真言宗の寺であったがその後荒廃し、戦国時代になって長宗我部元親の援助によって再興され、臨済宗に改宗。明治の廃仏毀釈によってまた廃寺となり再々度復興。人の世の栄枯盛衰は寺も同じ。生き残って今日に至る。

 境内にはどういうわけか、傘をかぶって袈裟を着た素焼きの狸が大小たくさん並べてある。みな頓狂な表情をして口を尖らせている。狸を横目で睨みつけて南無大師遍照金剛と染め抜かれた幟が並ぶ参道を本堂へ向かう。本尊は薬師如来。本堂には真言が書かれてある。
「オン、コロコロセンダリマトウギソワカ」

 コロコロ肥えた先ほどの狸が頭に浮かぶ。妻がオン、コロコロ......とやっている。呑気なものである。オバアサンのお遍路さんが狸たちに一礼して納経所へと急いでいた。この国では狸も狐も信仰の対象になる。まことにのどかでよい。午後の日差しが汗ばむほどになってきた。
「ご苦労様。今日はお大師さんも暑かろうから、出しておいてあげなさい」

 御印集軸の墨書を終えて返却するとき、納経所の住職がそう言った。軸の中央にはお大師さんが描かれている。軸を紺のビニールケースに収納するのは暑かろうと言うのだ。

 納経所を出ると、妻は
「私、はっとしたのよ。あの一言。そうだ、ケースの中は暑いだろうって。本当にそうよねえ」

 そう言う妻は幸福そうである。
「赤いジーンズおかしいかしら、やっぱりお遍路さんらしくないかしら、お遍路さんはみんなやっぱり地味ね。ちゃんとしきたりを守って白っぽいものにしたほうがいいのかな」

 ふとそんなことを妻が言い出した。周りに白装束のお遍路さんが多いので、さすがに真っ赤なジーンズは場違いだと思ったのだろう。殊勝なことを言うのでおかしくなった。
「いいじゃないか。赤いの履きたかったのだろう」
「うん、だってボク、赤い色が好きなんだもん。でも、マナーがあるのなら従わなければいけないのかもね」
「いや、普段着の人もたくさんいるのだからそれでいいよ。ふじ乃はそのほうがいいんだ。そういう明るい色のお遍路さんでなければいけないのだ」
「どうしたの? 真剣になって」
「暗い遍路は嫌なのさ。遍路モドキの僕たちは好きな格好でいいさ。そのほうが正直だよ。それに空海が白に統一しろなんて言うはずがない。第一、密教の世界 とは絢爛豪華な極彩色の世界じゃないか。理屈をいえば、空海の思想を踏襲するのなら遍路は本来カラフルであるべきだ。南海のトロピカルカラーだ。俺には俺 の遍路がある」
「私も同感。でも、トロピカルカラーのお遍路さんなんてすごく異端ね」
(俺のなかにはもっと救いようのない遍路の世界がある)
「さっき竹林寺でお前を見ていてとても新鮮だったよ。ハイビスカスの花を連想してたんだ」
「あら、私のこと? 嬉しいわ、どうもありがとう。女房を、口説く遍路に功徳あり、ナーンチャッテ」
「ばか、そういうことじゃないんだ」
「いいえ、そういうことです。古女房の魅力を再発見させるお大師さまったら霊験あらたかね」
「.........」
何か言いたいことがあったのだが、わからなくなってしまった。



●第三十四番札所・種間寺

第三十四番札所・種間寺
 見渡すかぎりの田圃を青々と育った稲の風が吹き抜ける。のんびりした田園の風光に見とれて、つい目的地を通過してしまった。途中で三十二番あたりから抜 きつ抜かれつしていた車遍路の若いカップルを見つけて跡を追って走っていたが、いつしかそれも見失った。行けども行けども、あるはずの霊場の標識が出てこ ないのでおかしいと思っていたら、くだんの車が逆方向ですれちがった。
「あら、あの人たちもう打ち終わったのかしら」
「いや早すぎるぞ、道を間違えて戻っているんだ。俺たちも行きすぎたんだ」

 急きょ車を回す。一度、地元の人に場所を確認してようやく到着すると、先ほどの車はやはり寺の駐車場に停めてあった。駐車場の空き地では水たまりで子スズメが水遊びをしている。

 種間寺たねまじは、 周囲を田園に取り囲まれた明るく静かな寺である。広場を右折すると「四国霊場第三十四番・種間寺」と彫られた大きな石碑があった。その前に赤い涎掛けを付 けた可愛いお地蔵さんが並んで参詣者を出迎える。後ろには青田が爽やかに広がっている。お地蔵さんに列なる美しい白壁に沿って少し歩くと境内へ入った。山 門はない。「修行の道場」土佐の荒々しさのなかで、心休まる寺である。

 種間寺なる寺号は、平安時代初期に大師が来錫されたおり、唐からお持ち帰りの五穀の種をここにお蒔きになった伝説にちなんでいる。周囲の豊かな稲田を見ていると、この寺の表情にもいっそう味わいがでてきた。
「恵みの寺だね」

 妻に声をかけたら、彼女は本堂の前にある観音堂で、観音様に合掌して深い祈りを捧げている。

 鐘撞き堂のような観音堂の縁額には、金文字で「子育て観音」とある。周囲の梁には底の抜けた柄杓がズラリとぶら下がっている。めずらしいのでガイドブッ クを見ると、柄杓は安産祈願の奉納だとあった。柄杓の底を抜いてあるのは「通り」を良くする願いが込められているとある。地元では「安産の薬師さん」と信 仰され、若い夫婦で賑わうとあった。

 もはや妻には無縁の「恵み」である。かなわぬ祈りと知ってか知らずか、黙って祈る妻を見ているとちょっとつらくなった。妻の丸めた背中を、祈願を終えた先ほどの若いカップルが楽しそうに通り過ぎて行った。 その後、先ほどの子スズメが飛んで来て観音堂の屋根に舞い下りた。



●第三十五番札所・清滝寺

第三十五番札所・清滝寺  さあ、今回の遍路旅行はこれが打ち止めである。時間は十分にあるが、先を急ごう。種間寺を後にいったん、仁淀川に出てそのまま道なりに進むと、海沿いの国道に突き当たった。運良くそこに「清滝寺・右折」の道路標識を見つける。
「右折だ」
「急ぎましょう」

 土佐湾を左に見て海岸通りを飛ばす。しばらく走ると妻が、
「宇佐の方向に向かっているわ。おかしいよ」と言い出した。間もなく、また霊場案内の標識。
「あら、ケンゴさん、私たち標識を読み間違えたのよ。このまま行けば三十六番に先に行って打ち戻りになるわよ。さっきのは清滝寺じゃなくて青龍寺だったのよ。ほら、標識を見て」
「あっ本当だ。清滝寺じゃない。青龍寺だ」

 車で一瞬のうちに見る標識は、読むというより字の形を見る場合がある。青龍寺を清滝寺と見て取ったものらしい。しかも清滝寺は三十五番、青龍寺は三十六番である。何とも急いでいるときにはまぎらわしい。
「でも、確かに清滝寺に見えたのだが」
「二人ともそう思って見たからよ」

 Uターンして最初の標識の所まで戻って落ち着いて眺めると、まさに「三十六番霊場・青龍寺」と書いてあった。鹿追う猟師は山を見ずというが、標識を誤認 したまま寺追う運ちゃんは海辺を走っていたのだ。清滝寺は、歩き遍路にとっては土佐路に入って初めての難所となる山中の寺である。

 清滝寺へ至る最後の山道は、その名も「流汗坂」と呼ばれる延々と続く坂道。坂の下の自動販売機のそばで真っ黒に日焼けした若者が汗をぬぐいながらジュースを飲んでいた。私たちも咽喉が乾いていたのでウーロン茶を飲む。若者(大学生)はこれから歩いて登るそうだ。
「ずっと歩きですか」
「そうです」
「大変でしょう」
「いいや、これぐらい楽なものです」

 若者はそっけなく言ってのけた。(これぐらい楽なことをこちらは車を使っている)

 山頂への車道は狭く、戻りの車遍路に出会わぬことを願いつつ一気に駈け上がる。
「また歩きたくなったんでしょう」
「.........」
「いいのよ今はこれで......、仕事を引退したら二人で歩きましょう」

 妻が察知して慰める。だが、私が真面目に四国霊場を歩くとは思えない。今の気持ちは若者に挑まれたような気がしたのだ。妻と手を取り合って歩くのとは意味が違う。あの若者が40日で回るというのなら、私は35日で回ってやる。これは女にはわからない男の意地である。

 寺は、眼下に仁淀川流域の穀倉地帯を見下ろす森の中にあった。養老七年(723)、この地に強い霊気を感じた行基が、自ら薬師如来を刻んで安置したのが その発祥とされる。その後、弘法大師が来錫して五穀豊穣を祈願して、四国霊場第三十五番目の札所に定めた。清滝寺の寺号は、大師の修法満願の日に金剛杖で 地面を突くと清水が湧き出てそれが滝になったという由来による。空海は水とも縁が深い。山門をくぐると、正面に唐破風の堂々たる本堂と大師堂が並んでい る。手前には高さ15メートルもある厄除け薬師如来像が目を引いた。

 第二回の遍路は予定通り全て回ることができた。納経所から出ると、私たちは見晴らしのいい場所で改めて御印集軸を広げてみた。田園の彼方の山並みを越えて海の風が届いてくる。

 35個の霊場宝印はビッシリ並んでいる。生真面目に順打ちで回ったので、三十五番まで隙間なく埋まった軸には重みが出てきた。

 のみならず、私にとって四国遍路は心を無にするどころか、忘れ去った過去が重く甦ってきた。龍馬とともに青春の海に再会したような気がした。記憶の彼方 に封印していた父親を思い出し、母の声を思い出した。そして暗い「へんどの国」(四国人は遍路を『へんど』と言う)に育った自分を......。全ては捨て去った 過去であったはずなのに。

 遠い海の方向を臨みながら、そのわけを空海に尋ねてみたくなったが、海からはただ涼やかな風が届くばかりであった。

 明けて1997年6月、三度目の遍路に出ようとしたとき、私は突然倒れた。

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