安芸市は、室戸にほど近い南国の小京都である。安芸川、伊尾木川流域に広がる肥沃な安芸平野の中心にあり、自然条件を生かした施設園芸や粘土瓦、
内原野焼などの地場産業でも名高い城下町である。午前中は市内の名所旧跡巡りをしようと九時前には市内のホテルを発った。空は晴れ上がり爽やかな日和に
なった。
市街地から2キロほど北に行くと、安芸城跡の南と北に武家屋敷が続く。藩政時代の面影を残す土居廓中である。土用竹の生け垣の小道を二人はのんびりと歩く。ときどき土佐藩士の質実な武家屋敷を覗いたりしながら、気の赴くままに散歩する。
幕末の建造である野村家の縁側に腰掛けて、庭を見ながら例によってとりとめのない会話をした。
「ねえ、御蔵洞では何考えてたの」
「昨日室戸で気がついたんだが、僕は空海はどうも海に縁が深い人ではなかったかと思うのだ」
「何か理由があるの」
「直感みたいなものさ。司馬遼太郎の『空海の風景』を読んで少し勉強してきたけど、そういう見方はなかったな」
「だって、空海っていえば高野山だし、山に隠っているイメージですもの」
「イメージか。だから司馬さんにとっては人物の風景なんだな......」
「その本、私は途中までしか読めなかったけど、憲吾さんあまり感動しなかったのね」
「空海の生涯や思想はおおいにわかったけど、何か物足りないな」
「司馬遼太郎は人物と時代に関心があるのよ。あなたや私は、その人間が見ていた真実に注目しているのよ。彼をゆり動かしていたのは何だったのだろうかって」
「つまり、現象ではなく本質か」
「そう、つまり患者を診るとき、症状に対処するのではなくて、根本原因から解きほぐすような、まあ西洋医学と漢方の違いね」
「確かに歴史小説家だから人物に興味をもつのはわかるが、東大の著名な歴史学者なんかは"司馬史観"とまで呼んで司馬遼太郎を高く評価している。また、
『この国のかたち』が知識人の間で好評を得たように、思想家としても評価が高い。それだけの作家が書いたものにしては何か食い足りないなあ」
「年をとったのよ。私が司馬さんが面白かったのは、学生時代からせいぜい35,6歳までね。正直言うけど、この年になるとあんまり深いとは思わないわ。娯楽小説としては面白いけど」
「そうかもしれない。ただ『空海の風景』に関しては何か作家の熱情のようなものが伝わってこないのだ。幕末や明治の英傑を書くときのような著者の生き生き
した息吹が感じられないのだよ。司馬が本当に思想家なら、もっと空海の思想と対決するなり、共感するなりすべきだと思うんだ。その熱さがあれば物足りなさ
はなかったように思う」
「たぶん、彼にとって空海は大きすぎたのじゃないかしら。小説にするにはきっと荷が勝ちすぎたのよ」
「彼には体質的に宗教小説は書けないね。宗教って内面の問題だろう。一度徹底して自分を追い込んだ作家でなければ書けないのではないかなあ」
「外から眺めた空海は書けても、空海の内部にまで入っていけなかったのね。だから、空海の風景なんでしょう。司馬さんは日本人を描いているようでも、あれ
だけ史実と歴史考証に厳密な手法は西洋的な実証主義なのよ。あなたは空海の風景を眺めるのではなくて、空海の風に自分も当たりたいのでしょう」
「オレは、いつだって風景の中に存在する人間でいたいのだ」
「あら、きっとそれこそ空海が教えたことよ」
「仏教が日本の歴史と文化の基層にあるのなら、そしてその文化に新しい風を吹き込んだ巨人が空海なら、この国で生まれ育った自分の体にも同じ文化の血が流れているはずじゃないか。歴史上の人物空海や信仰対象としての弘法大師じゃなく、オレは人間空海に会いたいのだ」
「司馬さんは空海に会えたの?」
「あとがきにも告白しているが、彼は会えたという自信はもっていないよ」
「司馬さんですら会えなかった空海に、アンタみたいな凡人がどうやって会うの?」
「知れたことさ。同じ日本人の自分に聞くさ」
「んまあ?」
明るい日差しを浴びて、青々と育った稲が初夏の風にそよぐ。のどかな田園の中にちょっとハイカラな時計台がある。白壁に黒い安芸瓦の大きな農家の屋根の上に頭一つ飛び出し、同じ安芸瓦を屋根にもつこの時計台は今や安芸市のシンボルとなっている「野良時計」である。
まだ村の家々に時計がなかった明治30年に、畠中源馬という人が独学で作り上げたものだという。以来百年もの間村人に親しまれており、現在もなお正確に時を刻んでいるという「野良時計」は、明治というより大正ロマンティシズムの郷愁を漂わせている。
その農家がアンティークな喫茶店になっていたのでそこでひと休み。部屋に上がって離れの広縁で冷たいものを飲みながら、安芸瓦を重ねたこの地方独特の土塀に囲まれた庭を眺めた。そこでまた、とりとめのない会話をする。
「昔は推理小説以上の面白さはないと思っていた松本清張が、ある意味では大人の読み物って思うときがあるなあ。ごく普通の人間が犯罪を犯すに至るまでの、
ほんのちょっとしたボタンのかけ違い。特に凶悪でもない普通の人間の身の上に起きるという設定には人生のリアリティーがあるよね」
「見えない糸に翻弄されてしまう人間の悲しいところね」
「この年になるとわかるなあ。自分が何の補償もない自営業を営んでくると、清張小説の根底には生活苦があることがよくわかる。生きていくことに精一杯な庶
民の現実だ。このいじましい、また逞しい民衆の現実を見る眼がなければ、歴史を動かす本当の力は見えないのではないかなあ。司馬遼太郎が好んで描くような
歴史の舞台を駈け抜けた人間もいいけどさ」
「そういう人物の波乱に満ちた人生が司馬文学の人気なのよね。でも、清張の小説を大人の読み物っていうと少し抵抗があるわ。だって、清張の小説には人間の救いがないもの。私そういう清張の世界って理解できるけど、好きじゃないのよ」
「してみると、司馬文学には明るさはあるが陰がない。清張の世界には暗さはあるが光がない。それでは、あるべき大人の精神的構えとは何かということになる」
「ほら、大学の頃、浪慢主義に対して散文精神こそ大人の精神の保ち方だっていう作家たちがいたじゃない。言い出したのは広津和郎だったと思うけど」
「ああ、人生はむやみに悲観もせず、楽観もせずっていうやつだ」
「清張に夢がないように、散文精神にも胸ときめかせるものがないわ。そういうのを大人っていうのかしらね。本当の大人は、私たちがいつも言っているよう
に、超現実と超理想の二つをもっている人間だと思うわ。私は学生の頃そう思ったけど、45歳になった今でも、いいえ、ますますそう思うもの」
「司馬さんの空海観にはそういう視点はないが、空海は超理想と超現実を一つにもっていたような気がしてならない。もしそうなら、空海は僕らにとっては身近
な存在なんだがなあ。ところが超現実と超理想というもの、たぶんこれが世間のいわゆる散文精神にはわかりにくいところなんだ」
「どうしてだと思う?」
「思うんだが、散文精神は現実主義のようだけど、実は幻想じゃないのかって。その点では、大正自由主義の流れを汲む白樺派の理想主義も同じさ。かつて武者
小路実篤が実現を目指してやった美しい村の建設運動に失敗したことがあっただろう。あれは、要するに村を運営する経済問題を克服できずに破綻したそうだ。
ということは、彼らの理想郷も幻想の甘さを抜け切っていなかったということだ。実篤さんは純粋だけど坊ちゃん育ちだものな。かつて全共闘が騒いでいたとき
に、僕は彼らにも同じような甘さを感じていたよ。若者は理想に走りやすいが、それは幻想であることが多い」
「そして、生活者である大人を現実主義というが、それも幻想の場合が多い」
「そうさ。だってバブルという大いなる幻想を日本中が信じたじゃないか」
「若者の理想といい、大人の現実といい、それは形の異なった幻想なのよね」
「結局、真実とは、自らつかみ取った実感とリアリズムの中にしかありえないんだ」
「つまり、彼らの真実は外から与えられたものなのね。イデオロギー闘争もそうよ。自分の中から生まれたものではない。他人の思想を自分の中に取り入れて、それを理想や現実だと錯覚してるのね」
「主観を軽視するからさ。その結果、知識や情報に呪縛されるんだよ。でも何か今日は意見が一致するね。まさにその通りなんだ。社会主義が幻想だったことが
やっと証明されたけど、じゃあ、はたして資本主義が勝利したと言えるだろうか。ぶっちゃけてしまえば、資本主義だって大いなる幻想なんだよ」
「そりゃそうよ。ぶっちゃけた話、紙幣なんて一皮剥けばただの紙切れなんだもの。特に90年以降、その経済の幻想化が加速してきたわね」
「実体経済から離れてきて、金で金を売り買いするヘッジファンドだろう。最近はユダヤ人のジョージ・ソロスとかいう世界的なトレーダーが仕掛けているらし
いけど。でもその紙切れすら、今はコンピューターの中を飛び交う電子マネーになっているんだ。貨幣経済のバーチャル化、ここに極まれりだ」
「でも、貨幣経済というものが本当は幻想だっていうこと、仕掛けの胴元は案外知っていたりして」
「そりゃ、世界経済を牛耳る本家本元は知っているさ。世界経済を動かす金融マフィアが本当に信じているのはキンだって言うじゃないか。ところが、日本は世
界恐慌でも起きてお金が紙くずとなったとき、命綱であるキンの国家保有量は先進諸国の中で最低だよ。世界第2位の経済大国といっても、金準備はオーストリ
アやベルギーよりも低くて、世界で15、6番目なんだ。欧米諸国はしっかり貯め込んでいるんだってさ」
「ノーテンキなのは日本国家ね。でもアンタ、命綱って言ってもさ、キンは食べられないわよ」
「アッハッハッハッ......町のオバチャンのほうがよっぽどエライや。そうだ、究極の金すらも幻想なんだ。結局、国際金融資本は自らの幻想に自縛されているこ
とになるナ。こんな幻想を外資系企業がグローバル・スタンダードなどと主張して世界中に押しつける。真に受けることなんかあるもんか」
「そう考えれば、当たり前だと思っている資本主義の価値をどこかで疑ってみる生き方をしなければならないじゃない」
「そうさ、資本主義の幻想に身も心も吸い上げられる前にね。このままいけば、オレたち人間というよりもただの人生の消費者だ。市場経済に操られる奴隷だ。だからこそ、オレたちの理想の一つが生まれる。欲望資本主義という世界的モンスターと戦う街のオッサンとオバサンだ」
「カッコイイ、だから人生ってわくわくするのよ。その革命精神こそ超理想というのだわ。今日はいいこと言うぞ、アミーゴ。でも、世間の人はこんな私たちの
意見を書生論って言うのよね」
「冗談じゃない。オレたちは身を削る思いで働いて血税を払ってきたんだぞ。現実はヘドが出るほど知ってるさ。だから霊場巡りなんかしてるんじゃないか。だ
からこそ、革命精神が沸騰するんだ。マルクスなんか読んだからじゃないんだ。自分の実感だ。見てみろ、モノ、カネ欲しさにわが娘や息子たちが恐喝や暴行や
少女売春までするこの国を。日本中が欲望資本主義の餌食になろうとしているときに何も手が打てない。あのカラ元気はどこに消えちまったんだ?」
「だれに向かっていってるの?」
「決まってるだろう。今日本を担っている全共闘世代さ。資本主義と戦うならまさに今だろうが、肝心なときに意気消沈しちまって、出てこい、全共闘!」
「オオッ、オッサンとうとう怒ったぞ。出てきたらどうする?」
「決まっているだろう。今度こそみんなで本当の人間らしい生き方を見つけるんだ」
夫婦とは実にいいものである。思いっきり大風呂敷を広げ合い、気炎を上げ、肝胆相照らす。いや、ホラの吹き合いばかりともいえない。年を重ね、世故にも
長け、世の中のからくりを知るほどに、私たちは心底胸ときめいてきたのだ。日常は一気にとてつもない理想へとワープする。実感から発生する超理想へと。
田舎道を歩いていると、小学校の前に本を開いた形の大きな曲碑があった。大正から昭和にかけて活躍した作曲家弘田龍太郎は安芸市出身である。なかでも、
幼い頃離れたふるさと安芸を偲んで作ったといわれる童謡の数々は馴染み深い。彼の業績をたたえて、「春よ来い」「浜千鳥」などの歌詞を刻んだ曲碑がいくつ
か町には建てられてあった。
日本の古里に触れながら、私たちは安芸市を発った。
日差しの明るい国道55号線をさらに西へ向かう。夜須町の標識を過ぎると、海に向かって大きく走路がカーブしたかと思ったら美しい岬が見えた。
「ワーッきれい。ケンゴさん見て」
「歩いてみるか」
「さんせーい」
計画があるようなないような気ままな遍路旅行である。前方の小さな岬の風情が、私たちを魅了した。
松林を抜けると、青い海が一望に開けた。磯からは結構高いのである。崖の松の姿が実にいい。日本の海岸線はなんでもないところに素晴らしい美を有してい
る。浜辺に下りてみたくなったら、幸い釣り人が作った小径があった。磯の粗い玉砂利が砂に変わるまで岬を回ったところに、三角錐型の小振りの岩が二つ仲よ
く並んで立っている。岩は注連縄で結ばれているが、室戸で巨大なものを見てきた後だけにすこぶる愛らしい。
「ネ、ここで一枚撮らない?」
その岩の前で私たちも同じように手を引っ張り合うようにつないで、片方の手はそれぞれ後ろの岩を指し示すように高く上げて撮るのだという。中年のオッサンがジャニーズのマネをしているみたいである。
岩場にセルフタイマーを仕掛けながら、私は横目で辺りを見回す。
(よし、誰も人はいない。こんな変哲もない海岸に人なんかいるものか。今だ)私は勇を鼓してジャニーズポーズをとった。(シャッターが下りるまで何と長く感じたことか。だがシャッターは下りた!)
やれやれ、と思ったとき、岩陰から釣竿をかついだ老人がひょいと出てきた。私は思わず、
「いやあ、今日はいい天気ですなあ。釣れましたか。ここはいいところですなあ。この岬は何といいますかあ」
などと大声で喋っていた。
「
「てい?」
「手を結ぶという意味じゃよ。それに、ホレ、この岩は同じ大きさじゃろう。塩谷の夫婦岩といってな、まあ夫婦対等型の夫婦岩じゃよ」
老人は妻といっしょに笑っている。しょうがないので私も笑った。
塩谷の夫婦岩は青い海を背にして寄り添うように立っている。
赤岡町を過ぎて龍河洞スカイラインを目指して山手に入る。後部座席の金剛杖の鈴がときおり澄んだ音色を響かせる。同行三人のドライブは次の「龍河洞」へ
と向かう。途中で「龍馬歴史館」に立ち寄る。坂本龍馬の生涯を臘人形で生々しく再現しているが、二人とも臘人形があまり好きではないので、館内をざっと一
巡するとすぐに先を急いだ。
スカイラインを飛ばしていると、切り立つ崖の上に忽然と西洋の城が現われた。何ごとかと思って山頂まで行ってみると、四万十川とその自然を紹介した学習
展示館だった。四万十川は日本最後の清流といわれており、次の遍路旅では是非寄ってみようと話し合っていたので、思わぬところで予備学習ができた。中世
ヨーロッパの城郭を再現した屋上からは、四方の山並みや田園、そして土佐湾が一望できた。
途中のドライブインで昼食をすませて土佐山田町に到着。
ここは土佐刃物発祥の地である。駐車場から龍河洞へ続く坂道には土産物店が並んでいるが、なかでも目を引くのが刃物屋である。包丁、レジャーナイフ、ハ
サミ、鯨を切り割く薙刀のような物まである。土佐刃物はその品質の良さでは全国的に定評があり、しかも現地で購入すれば市販よりはるかに安い。
冷やかしのつもりで入った店で、母親が生け花をやっていることを思い出した妻はハサミを土産に買った。サービスで持ち主の名前も彫ってくれた。
日本三大鍾乳洞の一つに数えられているという龍河洞は昭和6年に発見された鍾乳洞で、天然の織りなす奇岩の洞内はスリル満点である(全長4キロ、見学
コースは1キロ)。以前見学した秋吉台の秋芳洞は、天井が高くスケールの大きさに圧倒されたが、こちらは人ひとり体を横にしたり、腰をかがめたりして通ら
なければならない場所がいくつもある。
延々と続く暗がりの洞窟内のあちらこちらで見物客の興奮した奇声が聞こえる。洞窟とは、まことに神秘と冒険の世界である。ここにも大昔の先住民の生活跡
が残っていたが、現代人が洞窟に心高ぶらせるのは、洞窟生活をしてきた人類の集団的無意識がなせるわざなのかもしれない。
洞窟の苦手な妻はといえば、人が大勢いる観光地ならにわかに元気づく。そして、ちょっと冒険でもしてきたような得意そうな表情を見せる。見ていると、私
はいつもディズニーランドではしゃぐ子どもを思い浮かべてしまう。面白くはあるが冒険というほどのものではない。自宅の庭で毛虫でも見つけようものなら、
それこそ1週間は怖がって庭に出てこない臆病な彼女にしてみれば、洞窟は確かに決死の冒険なのであろう。
ママゴトに付き合っているような気がする私は、ときどき男の世界が恋しくなる。身の危険を感じるほどの冒険にこそ血が騒ぐものだが、男がそのまま野性的
であることができた時代はもはや過去のものとなった。結婚してからの実感を言えば、文化とは男女が一段高いレベルで融合するもののような気がする。
しかし、それは男女が均質化することとは異なる。だが、どうも戦後の進歩的文化人とやらはどこか女性的であり、反面、進歩的女性の方はその思想と行動において男性化してきたように感じるのは私の偏見だろうか。
「戦後強くなったのはナイロンの靴下と女」だといわれたわが国の民主主義は、人権思想と平和主義を掲げて半世紀、しだいにマミー社会(母権支配社会)と
なってきた。反戦思想は父性的権威や秩序や訓練という男性原理までも否定し、そして今や父親たちは自信を喪失して孤独な給料運搬人となってしまった。一
方、自信を得たのは女性の方で、現代は行きすぎたきらいがある。逆に女性が暴走し始めたようだ。
女性の解放と復権を主張するフェミニズム運動が、性の解放に結びつくのにも時間はかからなかった。彼女たちは、貞操観念や母性などは、男が女を支配するための差別的な倫理観であるといってそれを否定した。おかげで日本の女性は「性」の束縛からも自由になった。
だが、長い歴史の知恵に培われた精神文化を急激に破壊すれば、大衆社会は規範を失い欲望の地滑りを起こす。その結果、不倫がトレンディーとなるご時世と
もなった。もはや性の野放し状態である。歯止めなき価値観の多様化は伝統を消失させ、伝統の消失は秩序感覚を麻痺させ、秩序感覚の麻痺は倫理感覚さえ崩壊
させる。そして美的感覚すらも破壊するのである。これを論理の飛躍というだろうか。
一例を挙げれば、その名も高きマルクス主義フェミニストの旗手上野千鶴子東大教授は、次のような認識を称賛している。
「女たちが自分の経験やフィーリングを、他人のコトバを借りずに堂々と言挙げしはじめたことこそが新しい。女について男がつくった神話や思いこみは次々に
化けの皮がはがれた。山田詠美さんは女も男と同じく能動的な性欲を持っていることを示し、伊藤比呂美さんは、出産はウンコを出すのと同じであると証明し
た。こんなに新しい『発見』があったのだろうか?」
上野の提唱する「女性学」とは、女性に対して聖性を抱く男性の憧れやロマンを、貞操倫理を含む家父長的家制度を支える政治性と直結させてことごとく粉砕
することであるらしい。例えば、売春は女が男に「買われる」女性差別であるが、女子高校生の「オヤジころがし」は女の方に主体性があるという。売春ではな
く「援助交際」という、そのネーミングが素敵であるとさえ言う。女のしたたかな打算と欲望の解放こそが、男の幻想(聖性神話)を打ち砕く有効的手段なので
あろう。
上野教授等のオピニオン・リーダーたちによって、「性」は「聖なるもの」という化けの皮を剥がれてただのセックスとなり、子どもは夫婦愛の結晶というロ
マンを剥奪されてウンコの兄弟となる。かくして美は地に落ち、フリンもまた結構な世の中となったのである。なるほど全ての歴史過程を経済闘争だとする唯物
史観に立てば、コギャルが身体を、マゴギャルがパンツを売ることも立派な経済闘争だということであろう。
この身も蓋もない状況を唯物的現実だとでも考えているのだろうか。援助交際という言葉に寄りかかって、女子高生たちはどれほど安易に性を売り、どれほど
病気や都会の危険にさらされているか。フリンという刹那の快楽が、どれほど孤独な自分を糊塗し、どれほど現実から逃避しているか。それこそが幻想ではない
か。
ならば、性の解放を叫ぶフェミニストの方が幻想に手を貸し、巷の好色オヤジたちよりも根深いところで女性をモノ扱いしているのである。そして、性の商品化は欲望資本主義の最も歓迎するところである。
私は、彼女の高踏な学説を云々言っているのではない。上野がいくら卑猥な四文字言葉を表立って使おうが、知識人の間では洒落やエスプリで通るかもしれ
ぬ。しかし、そういう言説がまき散らす無責任な空気が、川下では未熟な娘たちの野放図な性につながると言いたいのだ。街のギャルには逆説も機知も通じぬ。
上流でタガをはずされると、教育現場で奮戦している学校や私たちにとっては迷惑極まりない。だから、心底腹が立つのである。
さて、私に言わせれば、男性と女性の対等な融合とは、相互の存在原理を開花させ合うことにほかならない。それは、女が真の女性となり、男が真の男性となることである。
妻は、男のもつ野性の魂を正常に生かせるのは、母性の中にある女の「聖性」しかないと信じている。学生時代、進歩的女性の旗手であったボーヴォワール
(フランスの女性哲学者)を"今世紀最大の阿呆"だといったものだ。以来、この国でフェミニズム運動を展開してきた知的女性やマルキストもやっぱりオツム
が弱いと思っているようだ。
というのも、同性の妻にしてみれば、フェミニストたちは世界をすでに男性中心に見ているからだ。例えば、ボーヴォワールはその著書『第二の性』で「女性
は男性によって作られた」と主張して多くの女性たちの共感を得た。女性は女性である前に人間なのであり、「女」に仕立て上げたのは、歴史を支配してきた男
の権力システムであったというわけだ。
社会学的にはそうである。初期の女性運動家はこの差別を打ち破ろうとしてきた。だが、イエローキャブや東南アジアに「男買い」に行く若い女性の出現を見
るまでもなく、「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということもあるのだ。それにしても、神は一体何のために身体的性差をヒトに与えたのか。
学生時代、妻には彼女らの叫ぶ女性の自立が、男に対するルサンチマン(怨念)とコンプレックスによる集団ヒステリーに見えたようだった。男に戦いを挑み、対等の位置を占めようとする女性たちを、妻は女を捨てたアマゾネスのようだと言った。
アマゾネスであれば、女性による自己否定である。女性否定である。ゆえに男と張り合おうとする戦闘的女性たちは、実は女性蔑視の差別主義者だと言ったの
である。さもあろう、イヴ(女)はアダム(男)の肋骨の一部から生まれた(旧約聖書)と考える国の女性たちが言い出した思想である(フェミニズムはもとも
とフランス革命を背景にして興った異国の文化思想)。
だが、日本人である妻はそうは考えなかった。彼女は昔から女のほうが宇宙の中心に近いと思っていた。つまり、彼女は社会学的性差以前のことを言ったので
ある。その感覚の底には生命観があったようである。それほど偉大な存在である女性が、宇宙を(命を宿す子宮を)もたない男と「男の論理」で対抗することは
愚の骨頂であるというわけだ。知的アマゾネスの嫌いな妻は、だからコムズカシイ本は読まない。女性学にも、女性運動にも興味はない。有能なキャリアウーマ
ンに憧れるようなところもさっぱりない。
こういえば、男顔負けのインテリ女性が多くなった昨今、妻のような女性は男にとって都合が良いと思うかもしれない。だが、本当に手強いのはこういう女性
なのである。自らが宇宙の中心であると考えるような女性は、良妻賢母や婦道などという他律的な倫理や思想に盲従しないことはいうまでもなかろう。
アマゾネスは男の得意な論理で打ち破ることができる。だが、妻には論理で対抗するという戦法も通用しない。いかに男が権力を振りかざそうが、哲学者を相
手にしようが、いっこうに平気である。おそらく「それでもアンタは女に産んでもらったんでしょう」という一言でカタをつけるだろう。まさに、ボーヴォワー
ルを超えた女の実存で勝負するのである。
妻を相手に20余年、赫々たる戦歴を持つ私は、よくよく考えた末、自分が男から産まれ直さないかぎり妻には(女性には)勝てないと悟った。これは男の根
本的な存在に関わる問いであった。そこに気がつけば、釈迦もイエスも、女なくしてはこの世に存在しなかったことがわかる。彼女の前では、哲学も政治もすべ
ては
要するに、妻の言わんとする女性の「聖性」とは、命の根源性のことなのである。女性の「性」が「聖」を秘めているゆえんである。それを妻は母性と言い、
愛と表現するだけである。女の実存の武器はまさしく「聖性」(それは処女にも老女にも等しく備わっているもの)であり、同時にそれこそが男女のエゴ(暴
走)を押さえて両性を開花させ、新たな歴史の地平を拓く原理だと思っているのだ。
妻は、相手が女性だとすぐに理解を示したがるリベラリストの欺瞞をもつとに見抜いていた。そういう似非知識人を、彼女はただ「オトコ」としか呼ばない。逆に、聖性を至高のものと感じる男性を「漢」と呼ぶ。
妻は、すべからく女性は、娘に「聖性」を、息子には「漢」の魂を伝えるべく母性を育てなければならないと考えているようだ。ようだというのは、彼女がこ
のような言葉で語ってきたのではなく、彼女との生活の中で、私にはそのように聞こえてきたのである。妻があえて口にするなら、きっとこう言うだろう。
「漢は母性によって育てられる」と。
それは、彼女の中に眠る原日本人が言わしめるのであろう。私には、日本人はもともと他民族よりもはるかに厚く女性を敬う民族だったように思われるのだ。原始ヤマトの国は天照大神(女神)を最高神と仰ぐ、命みなぎる漢たちの「くに」であったような気がする。
再び龍河洞スカイラインを龍馬歴史館方面に戻って、第二十八番札所へと車を飛ばす。龍河洞で大冒険?をしてきた妻は少し疲れたのか、幼な子のように眠っていた。
●第二十八番札所・大日寺
広々とした田園に囲まれた三宝山の西麓にその寺はあった。寺巡りも二十八ヶ所目になると飽きてきそうなものだが、それが少しも飽きない。毎日米食をして
飽きないのと同じで、特別感興はないが何か気分がやわらぐ。これが文化というものだろう。境内に入ってそこはかとない線香の匂いがしてくると心静まるの
は、仏教がやはり私たちの精神文化の根底にあるからだろう。
石段を上り境内に入ると、鐘楼の先に無数の石仏群が並ぶ。よく見ると一つひとつに表情がある。大日寺の山号は法界山である。全宇宙を包含するという意味
らしいが、私たち人間も一つひとつの個性がついには全宇宙に一つとなって包まれているのだろう。本尊は"宇宙の中心におわす"といわれている大日如来で
あった。
●第二十九番札所・国分寺
土佐の国分寺は南国市国分にある。物部川を渡ってしばらく車を走らせると迷わず目的地に着いた。仁王門の正面からは田圃に向けて一直線に農道が伸びてお
り、青々とした周囲の稲田が爽快な空間を作って寺を取り巻く。二期作地帯を誇る香長平野のど真中だ。まことにのどかな場所である。
山門をくぐれば杉の木立ちが並ぶ参道がやはりまっすぐに伸びており、境内も広くその立派な寺観に驚く。芝生もきれいに刈り込まれていて、一木一草にいた
るまでよく手入れがゆきとどいている。桜や紅葉の樹木も多く、その時期になれば、さぞや自然の眺めも素適だろう。全体的に手厚い保護を受けていることを感
じさせる寺である。
「同じ国分寺でも阿波の十五番とはずいぶん趣が違うのね」
「まったく対照的だな。徳島の国分寺は廃墟みたいだったのにね」
四国霊場には阿波、土佐、伊予、讃岐にそれぞれ国分寺があるが、ここはなかなか立派である。納経所でちょっとそのへんの事情を尋ねてみたら、やはり土佐藩主山内氏の帰依が厚く、諸堂の造営が行われ現在の寺観が整えられたということだった。
では、なぜ阿波ではあのような殺伐とした想念を感じたのか。少しずつ四国の寺に興味をもち始めた私は、その晩、高知市内の本屋で札所に関する本を1、2冊買ってきて調べてみた。結論をいえば、以下の通りであった。
阿波の国分寺が焼失した天正の兵火とは、戦国時代阿波を侵略した長宗我部氏の仕業であった。そういえば、阿波の寺は天正の戦火で焼失したという寺伝が多かった。侵略者はまず寺を焼き尽くしたものらしい。焼き打ちは織田信長の専売特許ではなかったのである。
ただ、信長は宗教権力そのものの殱滅をはかったが、長宗我部は城郭化する恐れのある(あるいは戦闘中すでに城郭化した)寺を戦術上破壊したのではなかっ
たか。土佐の国分寺も聖武天皇の勅願によって建立された国分寺の一つであったが、一時は廃寺同然に荒れ果てた。それが、永禄元年(1558)、四国の覇者
長宗我部氏によって再建され、さらに土佐藩主山内家の保護を受けて現代に至っている。長宗我部氏は仏教権威そのものを破壊する気はなかったようだ。
事情はどうであれ、寺はその土地の拠り所である。侵略された阿波人からすれば寺を焼き尽くす者は鬼であろう。そう思ったとき、私は「土佐の鬼侍」のもう
一つの意味を知った気がした。400年後のつい最近まで、阿波の坊さんは土佐出身の遍路には心穏やかならぬものを感じたということだ。怨念とはげに凄まじ
きものである。阿波の国分寺の壮絶な景観は、やはり侵略された者の無念を伝えていたのかもしれない。
本堂の前で休憩しながら考えていると、そのような男の歴史物語とは無縁であるかのように、オバアサンが一人せっせと境内の草むしりをしていた。オバアサンはこうしているときが一番幸福だと語った。
●第三十番札所・善楽寺
南国市から国道32号線を少し走れば高知市に入る。国道沿いにある「一の宮土佐神社」の松並木の参道横の車道を行くと寺の境内に入った。ここが善楽寺である。霊場という重々しさは感じられず、市民の憩いの広場に着いたという感覚である。
こぢんまりとした本堂と大師堂が並んで建っている。本堂はコンクリート造りの真新しい建物だ。近代建築の中での仏様の住み心地はいかがなものかと、愚に
もつかぬことを考えていたら、白装束に身をかためた女性の団体遍路が本堂を囲んだ。中には赤ん坊を背負ったお母さんもいる。読経の間、赤ちゃんは涎を垂ら
しながら小さい手を振っている。母親の眼差しは真剣であり、赤ん坊は
傍らの石には、杖に顎をのせて腰掛けた老人が、やはり涎を垂らして視点の定まらぬ眼を大師堂に向けていた。その表情も笑っているように見える。老人はこ
うして日永、大師堂の前に座っているのだろうか。この二人の惚けた笑いの前には、人の執着心というものがまるで無意味に思えてくる。
この寺は大同年間(804〜810)、この地を巡錫した弘法大師によって、土佐一の宮の別当寺院として建立された。かつては隣接の一の宮神社とともに大
寺を誇ってきたが、今は古刹の面影はない。明治元年の神仏分離令により一の宮と分離させられ、次いで明治3年の廃仏毀釈令によってついに廃寺とされたから
である。
神社を挟んでもう一つ神宮寺というのがあり、その昔は神仏両部の道場として大いに栄えたが、こちらは廃寺のままである。善楽寺は廃寺になった際、先ほど
訪れた土佐の国分寺に寺宝類を預けた。それを昭和4年に引き継いで再興し、第三十番札所となる。国分寺に他寺の寺宝類を預かる余力があったとしたら、明治
政府も天皇勅願寺には手ごころを加えたということか。
明治はもともと無理を押し通した感がある。王制復古と近代国家建設という相反する命題を抱えて、急きょ国民国家として統一するために強引な行政措置を講
じた。明治政府の神仏分離政策、それに伴う廃仏毀釈はすさまじく、維新前土佐にあった615ヶ寺が、この布告後、167ヶ寺にまでなったという。
そのあおりをくって、再興されたとはいえ、寺は寺で内輪もめが起こる。国分寺に預けられた寺宝のなかの本尊阿弥陀如来が、明治9年に近くの安楽寺に移さ
れたために事は起こった。爾来、善楽寺と安楽寺の間で本尊を返せ返さぬの争いが、明治から昭和まで続いたという。世にいう「札所の奪い合い」という争奪戦
である。この争いは安楽寺が善楽寺の奥の院となることで昭和17年に一応解決をみたが、その後は両寺とも三十番札所を名乗っているとか。
神仏一如として祀ったのは空海であった。それを引き裂いたのは人の世の政治だった。この地に仏の心を伝えたのは空海だった。それを紛争の種にしたのは坊
さんたちだった。さても浮き世は源氏の共喰い、胡蝶の夢。ただ変わらぬものは庶民の心に生きるお大師さんだけである。この寺を復興させたのは、地元の人々
の厚い信仰心だった。素朴な大師信仰は激動の歴史をくぐり抜ける。
母親の読経が終わった。背中の赤ん坊はまた笑った。閉まらぬ口元の老人も笑っている。
「浮き世のことすべて雑!」
生と死に旅立つ二人がそう言って大師堂の前で笑っていた。
今日は三十番で打ち止めである。三十一番に行くには納経時間を過ぎていた。今夜の宿泊は高知市内だが、まだ陽もあったので市内を抜けて、明日の最初の札
所である竹林寺へ行く道を探しておくことにした。いったん繁華街に入り、高知が初めてだという妻のために歌に名高い「はりまやばし」を見せた。周知のとお
り橋は埋め立てられて赤い欄干が残るだけである。
五台山にある竹林寺の登山道入り口を確認した後、土佐湾に向かって下田川沿いの車道を迷いながら、ようやく武市瑞山(半平太)旧宅の標識を見つけて急い
だ。吹井の峠道にさしかかると、ほどなく左手に武市半平太の生家が見えた。標識がなければ通り過ごしてしまいそうなありふれた畑中の農家である。
路上に車を止めて、田の中の農道をブラブラ歩いて土佐の英傑の家を訪ねる。かつての郷士の住まいは今でも住人がいるらしく、外観だけで我慢をした。裏山にある簡素な瑞山神社がこの英傑の墓になっている。英傑は
峠を越えると海である。海沿いに再び高知市に向かった。高知港を右眼下に望みつつ浦度大橋を渡ると、龍馬像の立つ月の名所「桂浜」だ。公園の駐車場から小高い丘の上まで松林の中を歩いて行く。まだ明るいが、六時をまわっているために観光客はほとんど絶えていた。
桂浜の龍馬に会うのは私は三度目だが、妻は初対面である。浜を見下ろす一等地に龍馬は立っていた。
「大きいのねえ」
妻は巨大な像に驚いていた。龍馬は皮靴に懐手、右肘を寄りかけるようにして、やや半身に構えたあのお馴染みのポーズで薄暮の太平洋を見つめている。この
銅像と私が最初に対面したのは20歳の時だった。土佐の、というよりも日本の風雲児に憧れて、この像を見上げた若者は数知れないだろう。そんな一人だった
私もすでに五十路にさしかかろうとしている。人は老い、銅像の龍馬は30年前と同じである。龍馬は永遠に青春のシンボルである。
私の周りにも「何々界の龍馬」などと自称するファンがいる。私はかの偉人と自分をなぞらえることなど考えたこともないが、唯一親近感を覚えるのは、茫洋と海を眺める龍馬の眼差しである。少年時代の私も、あのようにいつも水平線の彼方を見つめていた。
空海もきっとそうだろう。男というものには本来、海洋に魅かれる何かがあるような気がしてならない。憧れから発するその衝動が、その後、形を変えて行動
へと駆り立てる。若き空海は真理を求めて万里の波濤を越え、龍馬は海援隊を創設した。私もまた海辺の育ちである。そして......かつては私も船乗りだった。