昨日見た大岩に劣らぬ巨岩や、大小数々の奇岩が折り重なるようにひしめき合っている。そのすき間を小道は縫うように続く。岩々はみな海に向かって放り出 され、ぶつかり合い、収縮し、隆起し、そそり立ち、横倒しになっている。海岸全体があたかも大自然の暴挙の跡のように累々と重なる巨岩で埋め尽くされてい る。
これが室戸である。私たちは絶句した。
ほかに見えるものは背後の濃緑の山と空と海ばかりである。平日の朝、この惜しみない天地のふところに動くものは妻と私しかいない。あとは岩、岩、岩......、まことに天地の猛々しい神々が一同に会したかの観がある。
「スッゴイ!」
妻のすっとんきょうな声に、ようよう落ち着いて眺めわたす景観は、しかし天界でも無明の海辺でもなく明るい現実であった。私たちは岩場を飛んだり跳ねた りよじ登ったりしながら、大師ゆかりの場所ですっかり子どもに帰って遊び回る。岩山の中には「弘法大師行水の池」や「目洗いの池」などもある。
1キロあまり岩場を進んだあと、アコウやビロウなど亜熱帯植物の生い茂る密林の細道へと入る。森林を抜けて再び国道に出ると、幕末の英傑中岡慎太郎の銅 像が凛々しく立っていた。右手を腰に当てて胸を張り、左手に大刀を下げて堂々と西方の海を見つめる慎太郎は、桂浜の坂本龍馬像に向かっているという。
さて、この辺が室戸岬の先端にあたり、背後の山の上には室戸灯台があり、その奥に最御崎寺・四国霊場第二十四番札所がある。私たちは慎太郎像からいよいよ「
御蔵洞。
この巨大な洞窟は、若き空海を語るにはあまりにも有名な場所である。空海の四国行道でもっとも確かな場所の一つが、ここ御蔵洞である。山岳修行で求聞持法を修し切れなかった空海は、四国の辺地、最涯ての室戸崎に来ていた。空海という法名はここで生まれたといわれている。
大海に向かって一心に真言を唱えていたある曉暗のこと、虚空蔵菩の化身である明けの明星がにわかにその輝きを増し、突如空海のもとに飛来してきた。その瞬間、空海は悟りを開いたといわれている。ともかく、彼が室戸の洞窟で超常的な体験をしたのは確かのようである。
彼の処女作である『
「ここに一人の沙門有り。余に虚空藏求聞持の法を呈す。其の經に説かく、法に依って真言一百万遍を誦すれば、即ち一切の教法の文義諳記することを得。ここに大聖の誠言を信じて飛焔を鑽燧に望む。阿國大瀧獄に躋り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星來影す」
青年空海は、遂にこの四国の涯で虚空蔵求聞持法を修得した。
先ほどの文章をわかりやすくいえば
「私はあるとき一人の沙門(修験者)に出会った。その沙門から一種の記憶超能力の呪文(虚空藏菩薩・能満諸願最勝心・陀羅尼求聞持法経)を教わり、大聖 (仏様)の誠の言葉を信じて阿波の大龍岳(今の太龍寺)によじ登って、鑽燧(火打ち金と火打ち石を擦り合わせて)火柱を揚げて真言を唱えて修行を繰り返す うちに、遂に室戸岬で轟音とともに明星を呼び寄せた」という意味であろう。
「谷響きを惜しまず、明星來影す」とあるところから、耳をつんざくような衝撃とともに明星は落下したのかもしれない。あるいは、空海が悟りに開眼したときの内面的な衝撃を表現したのかもしれぬ。
また、晩年の『御遺告』によると、「土佐の室生門崎に寂留す。心に観ずるに、明星口に入り、虚空藏光明照し來て、菩薩の威を顕す」と空海はその超常的な体験を語っている。
その空海の洞窟は断崖の下に二つあった。私と妻はのしかかってくるような崖に圧倒されて、その下に押し潰されたような奇怪な口を開く洞門に唖然とした。 崖の下には観光客に混じってお遍路さんもいる。みな呆然と岩崖を見上げている。立ちはだかる巨岩は、その粗暴さが文明人を見下しているかのようである。室 戸の過酷な自然が人間の世を拒絶してきたことを物語っている。
洞窟の入り口は、踏みしだかれた邪鬼を思わせる大石が重なっている。仁王の巨大な石の脚が一気に落下したまま凝固し、岩肌は小叢が繁るがままにまかせて、永遠に時を止めたかのようだ。それは降魔の崩落であった。
私は妻を伴って「魔窟」へ入って行った。
まず、「神明窟」と立札のある小さいほうの岩穴に入ってみると、洞窟特有の鉱物の冷気を感じる。中は思ったほど深くはなく、薄暗い岩組に護られた神明が あった。天照大神が祀られてあるだけで端然としている。社を見ながら空海と神道のことを考えていたら、暗がりの苦手な妻が早々に穴から出たそうでしきりに 急かせる。私は心残りだったが、御蔵洞の方に行くことにした。
こちらの洞窟はかなり奥行きがあるらしく、外見もいっそうおどろおどろしい。大人が二人並んで入れるほどの岩の隙間は、暗渠の底に通じているかのようである。私は入るのを躊躇する妻を入り口で待たせておいて、一人で岩滴に濡れた巌窟へ入って行った。
奥は深く、中はかなり広い。ここが空海が寂留した場所である。暗くはあるが、海から通う真昼の明かりで中はおぼろに見渡せる。寂とした窟の奥には灯明が 立ちならび、賽の河原の石積みがあった。他には特に目を引くものはなにもなかった。私は周囲をゆっくりと見回した後で天井を見上げた。岩の天井は黒々とし て焚火の跡のように煤けて見えた。
(この洞窟の中で護摩の火でも焚いたのだろうか......)
しばし時が流れた。私は何気なくふと後ろを振り返ってみた。暗闇の向こうには、今しがた入って来た洞窟の入り口がポッカリと海に向かって開かれている。空が見えていた。私はしばらく窟の中から遠い空に視線を放っていた。
そのとき、ある直感が忽然と閃いた。
(そうだ。空海はあの空を、あの海を見ていたのだ!)
ここから見えるものは空と海だけである。この室戸の広大な空と海のはざまで、虚空蔵菩薩の化身、あの明星が飛来した瞬間、まさに空海は「空海」として誕生したのだ。
たちまち、私のなかをイマジネーションが駆け巡る。夜空を仰いで巨大な火柱を上げつつ真言を唱える空海の姿が脳裏に浮かんだ。彼の決死の祈念は、
想像の翼はさらに恣意に広がる。阿波の焼山寺、太龍寺など、空海は好んで深山を行場としながらも、真に交感していたのは「空」であり「海」であった。空海のもと名は「如空」である。室戸にあるのは茫漠とした空と海ばかりだ。
私の抱いてきた山岳修行者という空海像は
海が大生命の母であるなら、天は御魂が宿る無為浄化の世界である。大地山岳はそれをつなぐ有為無常の世界である。しかも、天と地を結ぶには何か決然たる 純粋な行為が要ることを彼は本能的に知っていた。そのためには一切の俗世を遠離し、ひたすら身命を賭し、身を龍と化し、天翔る想念となるしかあるまい。そ れが、あの山岳修行と辺地行道の目的だったにちがいない。
空と海、その二つながらをつなぐところが四国の辺地であり、天と大地を結ぶ所が峻厳な四国山脈なのだ。宇宙に呼びかける空海は、この天地を浄化された想 念と、聖なる生命の大輪廻に戻そうと考えたにちがいない。1200年の昔、空海が岩籠りした暗闇の中で、私はある確信を得ていた。
御蔵洞の外に出た。
雲の切れ間には神の沙庭のような水色の空がのぞいている。妻が待っていた。妻の背後には清朗な海が広がっていた。
●第二十四番札所・最御崎寺
雑木林の間から海が見える。室戸岬の山道を登りながら、海と空海のことを考えていた。
私は、最終的に自分の感性を信じるところがある。例えば、解説書の知識によって芸術作品を観賞するのではなく、直接作品と向き合い、直に受ける感動を自
分の確かな認識とするようなところがある。ゆえに直接〈感動の洞窟〉に入って行こうとする癖のある私は、〈洞窟〉から出て来たとき、常識とは異なる認識を
もってしまうことがある。
客観性を重んじるインテリはこれを個人的主観としてむしろ排除する傾向にあるが、主観が排除された客観など実人生に意味をもたぬと思っている。学者は学
問嫌いの戯言だと言うだろう。だが、学者でない人間にはたとえ戯言でもリアリズムのほうが大切である。とにかく、私は「海の空海」が気に入っていた。
岬の頂上に着くと、最御崎寺は室戸灯台を背後から護るような位置にあった。土佐修行道場の最初の霊場である。山門の入り口には笠をかぶり、右手に金剛杖
を、左手に鉄鉢を持って立ついつもの大師像が出迎えてくれた。山門は仁王門である。東寺最御崎寺とある看板の左右では、褐色の仁王が蒼く色づけされた木彫
りの衣をはためかせて睨みつけている。
仁王様を見上げながら「土佐の鬼侍」という言葉を思い出した。「讃岐男に阿波女、土佐の鬼侍に伊予の学者」という言葉があるそうだが、その土地の人々の気質はその土地の自然風土と関係が深いのだろう。
昨日は阿波の日和佐にいた。ウミガメ荘での朝食のとき、この地方の人と思われる老人が、日和佐ではウミガメは龍宮の使者として昔から人々は大切にしたも
んだが、土佐では何とウミガメを食っておったと語っていたのを思い出した。老人の子ども時代には、土佐の海岸にウミガメの手首が散乱しているのをよく見か
けたそうである。竜宮の使者が土佐ではただの食糧にしかすぎなかったとすれば、阿波人からすればまさに鬼侍だと感じたのかもしれない。
一方、黒潮を相手に辺境の地で生きてきた土佐人にしてみれば、肥沃な平野に恵まれた阿波人のおとぎ話だと思っていただろう。背後は四国山脈に遮られ、隣国との海岸は断崖に阻まれ、太平洋の荒海にさらされて生きるしかない土佐は、それほどに過酷な自然環境だった。
お遍路さんの間でも、昔、土佐は「鬼国」といわれていたそうだ。これは当時、遍路にとってその行道の酷しさを例えたものだと思われる。二十三番・薬王寺
からここ二十四番・最御崎寺までは83キロもある。しかも室戸寄りの半分の行程は、断崖絶壁がそのまま海に落ちこむ凄まじい地形である。車で国道を走って
しまえば全く実感はないが、道なき時代に、あの波打ち際を岩伝いに行くことを想像すれば、鬼国という言葉がリアリティーをもつ。
それでも、街道筋が整備され、遍路宿も賑わった江戸時代以降のことだ。空海がこの地に足を踏み入れた当時はほとんど未開の地であったと思われる。旅の途中で鬼国といわれる歴史的な別の意味を発見するが、後述にゆずる。
山門入り口からは
境内は思っていたとおり奥へ長く伸びており、大師堂、多宝塔と諸堂が並んでいる。寺は古刹である。大師堂には「御本尊虚空蔵菩」とある。求聞持法の仏で
あり、空海が若い頃最初に出会った菩である。虚空蔵菩を本尊とする札所は十二番・焼山寺・二十一番、太龍寺とここの三ヶ所だけである。いずれも事歴に残る
空海の修行地である。
空海(774〜835)は四国讃岐(香川県)の生まれである。今は七十五番札所になっている善通寺付近は空海の頃は海辺になっており、「屏風ヶ浦」といわれたその辺りが、空海の生誕地であると司馬遼太郎は記している。
むろん、司馬の『空海の風景』には海の修行者などという視点はない。これは私の勝手な「空海の風景」ではあるが、空海が幼少期より海の近くで育ったという事実は私には重要な意味をもつ。空海にとって海はもっとも原初的な体験ではなかったのではないだろうか。
司馬によると、摂津の難波ノ津を発した丹塗りの華やかな遣唐使船団が、一度、屏風ヶ浦の沖を通り過ぎたとある。宝亀8年(777)のことである。当然、大勢の里人とともに浜に立って空海もその姿を見たであろうと書いている。空海数えて4歳のときである。
司馬はこの出来事の意味を、幼くして遣唐使節を身近なものとして感じられる空海の上質な環境に見ている。この船団を率いる遣唐大使(佐伯今毛人・さえき
のいまえみし)が空海の生家(讃岐佐伯氏)と遠縁にあたることが、空海にとって入唐をごく現実的な風景として夢想できる環境を用意したと考えている。
確かに、成長期の空海に及ぼした遣唐使船の刺激は大きいものがあっただろう。だが、私は4歳の幼児にとってのこの体験は、まず海への新鮮な印象として刷
り込まれたのではないかと考える(遣唐使船の意味は成長とともに学んだだろうが)。水平線に消えていく華やかな船団は、幼い彼にとって海そのものが鮮烈な
憧景として意識の奥深く焼き付いたのではないだろうか。
そして、潮騒を聞きつつ海という大洋自然を身近に感じて育ったとすれば、海は空海の本質に何か核心的な影響を及ぼしたような気がしてならない。これが、私の「空海の風景」である。
海は、太古より万物の生命を育んできた羊水である。空海の幼名は
さて、延暦7年(788)、空海は15歳のとき、一族の期待を一身に担って讃岐の国を出て都に上った(奈良、長岡京の二説あり。私は平城京だと思う)。
都で猛烈に受験勉強をした空海は、延暦10年、大学の明経科に合格した。当時の大学は一部の上流貴族しか入れないエリート中のエリートコースであった。い
かに空海が誉れ高い神童といえども、地方の一豪族の子弟が入学できたのは異例のことであった。天子の学生という身分を得た空海の前途は、まさに洋々と開け
ていたのである。
さて、ここからが空海の空海たるゆえんである。彼は、高等官僚養成の学問が自分の知的苦悶に何も答えていないことを知る。明経科とは現在の行政科に近
く、儒教を基礎とした経書(周易、尚易、周礼、儀礼、礼記、毛詩、春秋左氏伝、考経、論語)などの注疏の暗誦を中心とした修学コースであった。唐の学制に
倣った大宝律令に定められたもので、当時としては最高の教育コースであった(ちなみに幼少の頃より20歳前後まで正式の儒学教育を受け、ことに国家の最高
学府に入学して学んだのは、わが国の各宗の祖師の中では、実に空海一人のみといわれている)。
だが、空海は何よりも真実を求めていた。だから苦悩する。彼は「生」そのものの意味を問うていたのだ。そういう空海にとって、大学は彼の知的欲求を満たすには偏狭すぎた。そして、仏道に道を求める。
『空海僧都伝』には「我の習ふ所は古人の
彼は大学を捨てる。同時に処世の栄達も、郷里も、さらにはおのれのアイデンティティーさえ捨て去り、得体のしれぬ
以後約10年間、空海の行方は遙として知れない。空海が謎多き人物であるといわれるゆえんである。
だが、彼は厭世観で遁世したのではない。ここが無常観から隠棲した多くの仏者と決定的に異なるところである。空海はなによりも「生きていた」。青白きイ
ンテリを捨てた彼は、これより荒々しい自然の中で野性化していく。山野を跋渉していた乞食僧こそ若き日の空海であった。「名山絶嶮の処、石壁孤岸の奥、超
然として独り往いて滝留苦練する」空海が、密教の第一の扉を開いたところが、最御崎であった。
寺からしばらくマムシの出そうな山道を海に向かって行くと、室戸灯台があった。狭い崖っぷちには空海を思わせるそのずんぐりした体形を、青みを帯びてきた海へ向けていた。
車に戻りスカイラインを走ると、室戸の町と土佐湾が一望できた。次は、あの港街にある第二十五番札所・津照寺だ。
●第二十五番札所・津照寺
漁業の町室戸市に入る。漁船が賑やかに停泊する室津港を走っていると、津照寺の入り口を見つけた。駐車場が見当たらないので、少し離れた漁業市場の近くに車を停めて寺まで歩くことにした。遍路姿の二人は漁港をひとめぐりして街中をテクテク歩いて行く。
輪袈裟をかけ、杖も持ったいつものニュー遍路スタイルであるが、広島市では金剛杖すら人目を引くのに「お遍路さんのくに」四国では遍路姿も全く気にならない。
今日は白衣の下に妻はマリンブルーのセーター、私も水色のTシャツ、港町にマッチする色の組合せである。この二人はよく見るとおしゃれである。白や青色のペンキに彩られた漁船の休む港を歩いてくる妻は、なかなか絵になっている。
角の薬屋の横丁を入ると、その路地の奥に入り口が見えた。そこから山に向かって急な階段がまっすぐに伸びていて、途中に龍宮城の門のような可愛らしい鐘
楼門がある。山門にはたいてい山号の書かれた縁額が掲げられているが、ここはなんと船舵のマークであった。説明を待つまでもなく、ここは漁業の守本尊だと
知れる。文字通り、
126段の急な階段を一気に登ってみると、山の斜面を造成した境内は思ったよりも狭かった。
本尊は空海作と伝えられる延命地蔵菩だが、秘仏で拝観できない。この菩は「
私は寺伝よりも、ここは昔沖合を航行する灯台のあったところではないかと勝手な想像をめぐらせていた。「照らす」という文字が、そう連想させたのかもしれない。寺からはやはり海が見えていた。
●第二十六番札所・金剛頂寺
室津港を出ると、まもなく山道に入る。
「ウーン、チクショウ......」
助手席の妻が声を上げた。
「ああビックリした。どうした」
「兄者よ、オレ、財布を落っことしちまったぜ」
「えっ、どこで?」
「最御崎寺よ。確かお大師さんにお賽銭をあげたときまではあったのだけど......中身は小銭だからいいのだけど、財布が惜しいのよ。ほら、知っているでしょう。クジラの形をした青いの」
「ああ、あのビニールの子どものオモチャみたいな小銭入れかい? また買えばいいさ」
「ううん、ボクあれがとっても気に入ってたんだもん。探しに行こうか」
「落とした場所に心当たりはあるのか」
「境内の中か、灯台か、山道かね」
「ばか、そんな広い範囲を探せるものか。いいじゃないか、魚の形をしたビニール製の財布なんか、縁日かオモチャ屋に行けばいくらでもあるさ」
「あんなに可愛いのめったにないの。それにクジラは魚じゃないわ。兄貴何も知らないな」
「わかった、わかった。いつか見つけてきてやる」
「その天然ボケで大丈夫かなあ。イルカやサメじゃないぞ。クジラだぞ。せっかくお大師さまにお賽銭あげたのになあ」
財布の口よりも妻の口のチャックを閉めさせて、つづら折の急カーブを一気呵成に山頂まで登りきると、龍頭山・金剛頂寺であった。厄坂の階段を登って神さびた山門をくぐると、境内は広く古刹の風格十分である。
峻厳な山の中にあるこの寺は、室戸岬の最御崎寺を「東寺」と呼ぶのに対して、「西寺」というそうである。岬にいる感覚はないが、寺の地名は「行当岬」である。「行当」とは「行道」がなまったものだろうか。山頂からは室戸岬が遠望できる。
最御崎寺にしろ津照寺にしろ、そしてここも祈祷の火を焚けば、沖ゆく船の目印になるはずだ。私がそう考えるのは幼い頃海で育ったせいかもしれない。海から眺める陸地の火は、夜目には何より目印になる。鯉のぼりを数えたあの故郷は漁村だった。
●第二十七番札所・神峯寺
国道55号線をさらに西に向かう。扇形の壮大な土佐湾の東海岸の中ほどに、小京都「安芸市」があるが、その手前の山中に
山の透明な気が充満する山門はすこぶる清々しい。森閑とした山の霊気は心を清浄にしてくれる。今回訪ねた霊場の中でも印象深かった寺の一つである。参道
の途中に「土佐の名水、神峯の水」が岩陰から流れ出ていたので、二人は早速、咽喉を潤す。そこから山の斜面に見事に刈り込まれたサツキの植え込みに沿って
急な階段を登って行くと、大師堂は一番上にあった。この寺からもやはり海を望むことができた。
「ね、ね、仕事引退したら日本の名水巡りっていう旅をしない」
「いいな、僕は日本の祭り見て歩きっていうのをやりたいんだ」
「それ、それ、それにね、日本の名瀑も訪ねましょうよ」
「ようし、キャンピングカーでも買ってフーテンするか。オレは年をとったら不良老人になるぞ」
「アミーゴ、話せるぜ」
「おまえこそ不良バアサンになりそうだ」
「私Jリーグのサポーターにもなろうかって考えてるの。サンフレッチェ広島の追っかけサポーターよ。顔にペンキなんか塗ってさ、若い人たちといっしょにオーレ、オーレってやるの」
「ときどきは若い連中に説教なんかしたりしてナ。だけどおまえ、本当に元気になったな」
「うん......私ね、四国遍路は元気になれたお礼参りなの」
妻は4年前、子宮筋腫のため手術をした。定期集団検診で子宮癌の疑いが濃厚と診断され、街の産婦人科で再度検査すると、即刻入院という緊急状態であった。筋腫が肥大化し、分娩状態になっていたのだ。私はすぐにその病院で紹介された広島市民病院に入院させた。
だが癌といわれても、私と妻には実感がなかった。何かの間違いであろうと感じていた。といっても、癌ではないという科学的根拠が私にあろうはずはない。
強いて言えば、当事者(私たち夫婦)に実感がないものは、人生に起こり得ないという確信だけである。たとえ相手が近代医学といえども、おかしいものはおか
しいのである。癌が転移でもして万一生死にかかわるような重大事が待っているのなら、本人がどこかで予感するはずである。しかし、産婦人科を開業している
友人に電話して誤診の確率について尋ねてみたが、その種の誤診はほとんどないということだった。
そんな頃、ある人から般若心経を唱えることを教えられた。そんなものを唱えてみてもどうなるものかと思ったが、私が妻にしてやれることは祈ることしかないので手術の日まで毎晩唱えることにした。
子宮の入り口を塞ぐほど肥大化した筋腫の摘出手術後、続けて子宮内部の細胞診をした。やはり癌は間違いないだろうとの結論が下された。もはや摘出しかなく、二回目の手術で妻は子宮を失った。手術の間じゅう、部屋の前に立ったまま私は般若心経を唱えていた。
摘出後、最終精密検査のため妻の子宮は東京のガンセンターに送られた。ところが、癌はついに発見されなかった。事実、癌細胞があったものなら消えてし
まったとしか言えない。担当医はどうにも説明がつかないと言う。婦長も先生に間違いはありえないと言う。集団検診の担当医は広島大学病院のベテラン医師で
あるし、妻の執刀医も誤診は一度もなかったと言うのだ。結局、真相はいまだに闇の中である。
だが、私にはおおよそ見当がつく。もし癌細胞が本当にあったのなら、当事者がそれを信じていなければ癌細胞も張り合いがなかろう。とすれば出かかった癌も消えるしかあるまい。証明はできないが、そういうことはこの世にありうると思う。
般若心経のご利益だと断定せずとも、当然のことだが人体と心とは連動している。連動していないと誤解していたのは西洋医学で、現代医学は西洋医学だけを
医学だと思い込んできたから、こういう場合の説明がつかないのだろう。子宮筋腫の手術を受けるべく、妻と同じ病室にいた女性は癌でもないのに心配ばかりし
ていた。手術をしたら、この女性が癌になっていた。こちらの説明もつかない。
奇跡やご利益を信じるのは宗教だが、人間の意識が物質(自然現象)にある種の作用を及ぼすことを主張するのは、今日の新しい理論物理学である(これをサイ現象とか超常現象という)。
しかし、こんなことは利益信者や物理学者でなくとも、普通の日本人はかつては誰でもある程度わかっていたことなのだ。ここでは、癌という物質に関与した当事者の意識が謎を解くカギなのである(具体的には妻や私や看病にきていた妻の母親の意識状態)。
妻も私も現代医学に対する依存心は低い。むしろ疑っているぐらいである。しかし、妻は懐疑的な気持ちで手術を受けたわけではない。彼女は執刀医の先生を
全面的に信頼して身を任せたという。私にはこの矛盾した彼女の気持ちがよく理解できる。妻が本当に身を委ねていたのはあの予定調和の世界であった。担当医
という現象を通して彼女は静かに「あるがままの世界」に身を任せていたのである。
とにかく極度の貧血と腰痛に悩まされてきた妻は、その後見違えるように元気になった。妻のお礼参りとはそのことである。
さて、神峯寺は立江寺に続く土佐の関所寺であるが、そのような遍路知識などさっぱり忘れていた私たちは、老後の遊びの話に夢中であった。妻にとって老い
は愉しみであり、「苦」ではない。確かに、人生は「苦」(ままならぬもの)の連続であろう。だが、苦を楽に変える力もまた人間には与えられているのだ。と
にかく問題は一つ解決されたのである。そして、妻はふと四国遍路を思い立った。これが彼女の次なる問題解決の道なのである。事実、遍路を始めてからの妻の
体質は一変し、ますます元気になってきた。
安芸市に着いたときは、すっかり陽が落ちていた。