ホテル9階の部屋の窓から徳島駅前の大通りが見下ろせる。昨日阿波踊りを見たアミコビルは万葉集にも歌われた眉山を背にして朝の日射しを浴びている。最後の日は十三番から二十番札所まで八ヶ寺を予定している。さて首尾よく全部回れるかどうか。
9時にホテルを出ると、昨日焼山寺から徳島市へ戻った国道を再び逆方向に郊外へと抜ける。今日は寄り道なしのマジメな遍路行だから予定通りにいきそうな気がする。それに天気もよいし、ドライブは快適である。
「夫婦でノンビリとドライブ遍路っていいわね」
「盗人踊りも見たしな」
「えっ、何のこと?」
「阿波踊りは別名"盗人踊り"っていうんだってさ。地元の人がそう言ってたよ」
「何で盗人なの。あっそうか、阿波は蜂須賀だから?」
「それで納得がいったんだ。男踊りの頬かぶりスタイル、それにあの独特の足の運び、あれは抜き足差し足ってわけだ」
「そういえば女踊りも編笠を深くかぶって顔を隠すような踊り方ですものね。でも、そんな土地柄をお国自慢にするなんて、徳島の人はユーモアのセンスがあるのね」
「でも盗人踊りを楽しんで遍路するなんて、邪道もいいところだな」
「あら、十善戒の心を読んでいたの」
十善戒の心とは、遍路ガイドブックにあった遍路の心得のことである。すなわち、1・不殺生、2・不偸盗(盗まない)、3・不邪淫、4・不妄語(嘘をつか
ない)、5・不綺語(お世辞を言わない)、6・不悪口、7・不両舌(二枚舌を使わない)、8・不慳貪(欲張らない)、9・不瞋恚(怒らない)、10・不邪
見(不正な考えを起こさない)という修行中の戒めのことである。今二人は不偸盗を話題にしたのだ。
にわか遍路も4日目になると少しは宗教の話もするもので、道すがら無明の話になった。
「遍路が何も知らずに盗人踊りを楽しむ。こういうのを無明というのだろうかね。仏教では本質的な知恵のない状態を無明というんだ。悟りとは無明を滅して仏
の知恵に目覚めることらしい。でも、お釈迦さんですら難行苦行の果てにようやく悟られたのに、オレたち凡人が修行したくらいで悟りを得ることなんてことが
できるのかな。むしろ、お釈迦さんは人間は無明を滅することはできないってこと、知っていたんじゃないかな」
「それは同感よ」
「だが、無明を消し去るべきだという宗教家は多いぜ」
「やれる人は世界に何人かしかいないのじゃない。お釈迦様とかイエスとか、空海もその一人かもしれないけど、少なくともあなたじゃないわ」
「もちろんだ。僕は無明を消し去ろうと考えること自体が無明だと思っているんだ」
「消し去ろうと考えることは別にいいのよ。でも、凡人が本気になって、例えば修行や学問によって消し去ることができると考えるとすれば、それは大きな無明だと思うわ」
「じゃ、世間の宗教家は無明かい」
「......じゃないかしら」
「アッハハハ......実はお釈迦さんは修行なんかするなと言っているんだ。じゃ、どうするんだ」
「つまり日常の生き方の問題ね。ところでアンタはどうなのよ」
「僕は人間は自分が無明であることを自覚することが一番肝心なことだと思う」
「そう、滅することではなく、無明とうまく付き合うことだと思うわ」
「そう言うことだ。たかだか人間の頭のはからいでやった行為は、一皮むけばエゴのなすものであり、その根本が無明だと知って、人知の限界をわきまえているほうがいいと思う」
「そう言うと、何もしないでじっと生きることかって反論する人が必ずいるんだけど、じっとして生きることと人間のエネルギー溢れる創造性を発揮することとは全く矛盾しないわ。この違いがわからないのを無明というのよ。昔の日本人はそのことを潜在的に知っていたと思うわ」
「この感性が狂いだしたのが明治以降だな。僕は、実は西洋合理主義は無明を自覚しない文明世界だと思っているんだ」
「西洋合理主義の欠陥は無明の自覚の欠如だなんて、すごいこと言うわね」
「いいや、すごいのは君のほうだよ。西洋は確かに罪の文化ではあるんだが、それは神に対する罪であって、本質的には人間や動物や自然に対する罪の視線は乏しいと思うんだ。お釈迦さんはきっとそれを無明と言ったのじゃないかなあ」
「ということは、神に赦された瞬間、無明が暴走する恐れがあるわね」
「いいぞ、いいぞ、無明の暴走なんていう思想家はどこにもいないぞ。そういうことだ。神すら無明のエゴの正当化に利用してしまうのだ。異教徒を殺戮した宗
教戦争がそうだった。現代でいえば、人類に寄与するはずの科学技術が、今地球規模で人類を危機に陥れている。その背景には、まさに人間の大いなる無明が横
たわっていると思うよ」
「日本人は本来そのへんのところがわかっていたと思うの。そういう感性が秀でた民族だったと思うわ」
「それが少しずつ崩れていった。特に戦後はひどいね。人間主義だけでは人間の傲慢性を助長するということを考えもせず、ひたすら西洋仕込みのヒューマニズムを金科玉条にしてきたからな。無明の頭で無明を克服しようということ自体無明じゃないか」
「賢い人はどこかしら頭で全てが解決できると信じているのね。特に男はそうよ。何でも力ずくでやりたがるのよね」
「それが男性原理というものさ。同時に男の欠陥なんだよ」
「あのね、無明は消し去るものではなく、消え去るものだと思うわ。年齢とともにね」
「そら出た。それがオマエサンのすごいところ。インテリの男の頭からはそれがスッと出ないのさ。それが君の方法論なんだ」
「そうよ。もっと具体的に言えば......」
「わかっている。日常の問題とは要するに全力を尽くして生きろということだろう。実人生に根を下ろして実存を深めることだろう」
「だから、道草遍路を楽しんでいるの。遊びだって全力投球なんだから」
「なるほど、だから無駄さえ無駄なくやろうとしたんだな」
「あら、昨日のスケジュールのことね。昨日は体力があったからたまたまそうしただけ。無駄さえ無駄なくやるって発想そのものが、そもそも男の考えそうなこと。やっぱり私よりもアンタのほうが無明だわ」
「わかった、わかった、無明と共に生きようぜ」
そんなとりとめのない会話を延々と楽しんでいるうちに、つい行き過ぎて途中でUターン。
「しまった! 40分はロスをしたぞ」
なにしろ妻の立てたスケジュールには無駄がないので、途中でロスタイムを取り返さなければ。少々いやな予感。途中で道を尋ねに尋ねて、ようやく大日寺へ到着。すでに11時。ああ、すんなり徳島からくればこんなに近かったものを。
のちに空海の著作『秘密曼荼羅十住心論』で知ったことではあるが、空海はそのなかで菩の十善戒をかくのごとく語っている。「十善業とは、菩は性殺生を離
れて怨恨を懐かず常に利益慈念の心を生ず、性偸盗せずして自の資材に於いて常に止足を知りて乃至草木も与えられざれば取らず......」以下、「性邪婬せずし
て......性妄語せずして......性両舌せずして......」と続く。
妻は、日本人は本来゛少欲知足゛の心をもっていたと言いたかったのである。世界史が「自の資材に於いて常に止足を知りて」おれば、西洋列強の植民地支配
は起こらず、ペリーも日本に砲艦外交を迫ることもなかったろう。さらに、近代化を急がされた日本が先の戦争に巻き込まれることも。だが、彼ら欧米資本主義
の背景に「神の名のもとの正義」があったことを思い出してみよう。妻の言った無明の暴走とはこういう意味である。
富の蓄積と山上の垂訓(汝ら己のために財宝を地に積むな)の矛盾に対して、神を央にした西洋文化がどこかで偽りの見取図を作ってきたのではないか。最近
はアメリカ発のグローバル・スタンダードなる市場ルールが世界を跋扈しはじめた。弱肉強食の資本の原理を背景にしたヒューマニズムとはどういうものだろ
う。
マックス・ウェーバーの説いた神の意志のおかげで、資本の裏に隠された差別の真相や、救いがたい無明と直面することもなく、文明の営みの底に破壊的な原
理など発生するわけもないと妄信してきたのではあるまいか。私が彼らを「無明の自覚なき文化」と呼んだのは、そういう意味である。
●第十三番札所・大日寺
大日寺は歩道のない車道に面しており、境内はあまり広くはない。今日は午前中から団体のお遍路さんが続々と訪れてくる。(遍路講だな)などと考えていたら、法螺貝の音が盛んに聞こえてきた。遍路ツアーが山伏を伴って来たのだ。
本堂に向かって最前列には先達の山伏たちが、その後には数10人のお遍路さんたちが並び、境内はあっという間に白一色で埋まってしまった。
空海の創建した金剛峯寺は、高野山の奥深くにある山岳寺院である。山岳信仰に生きる山伏にも高野山信仰があるのだろうか。お寺には少し場違いな感じがしなくもないが、まあ空海も山伏もともに山岳修行者には違いあるまい。
山伏が声高らかに経文を唱え始めると、お遍路さんたちも一斉に唱和し始める。と同時にブォー、ブォーと法螺貝が鳴り渡る。景気のいいことこの上ない。
運よく彼らより一足先に本堂のお参りをすませていた私たちは、大師堂へ順拝に来た。こぢんまりとした大師堂でもすでに先客がいた。こちらは私たちと同世
代の若い(?)夫婦のようだ(お遍路さんにはお年寄りが多いので、私たち団塊の世代は若い方に属す。もっとも、若者も混じっているから遍路イコール年寄り
ともいえないが)。
ところで、このカップルの般若心経の朗唱は実に見事である。私はホトホト感心し、しばし聞き惚れてしまった。ピッタリと息の合った合唱は、まるで夫婦和
合の極地を感じさせる。しかも、双方片手に何という仏具か知らないが、シャン、シャンと鳴る楽器でリズムをとりつつ、その唱和には毫もよどみがない。ひた
すら仏の境地に迫っている。表情は恍惚とし、崇高ですらある。
わが妻はといえば、どこかそのあたりで遊んでいるらしく、姿が見えない。(よし、うちのカミさんにも般若心経を教えよう。自分だって本気で唱えればあの
人たちぐらいにはやれるのだから。それにしてもあの楽器はいいなあ。それに法螺貝もいいなあ。風格があって本物みたいだし......。山伏グッズでも揃えよう
か、トキンをつけたら似合うかな)などと、またアホなことを考えていたら妻が飛んで来た。
「ケンゴさん、大変、大変。急がなければ納経所が混むわ」
急いで納経所へ行くと遍路ツアーの添乗員(背広姿)が二人、それぞれ納経帳をドッサリ包んだ大きな風呂敷包をカウンターに置いたところだった。(ははあ、団体さんは納経は添乗員に任せるのか)
おかげで私たちの順番が来るまでタップリ待たねばならなかった。
「こりゃ、団体さんと鉢合わせになったら大変だな。ヘタをすると、今日は一日中この団体と一緒になるぞ。
先回りしなければ......」
私たちはあたふたと寺を出た。
●第十四番札所・常楽寺
十三番から鮎喰川の橋を渡って、間もなく常楽寺に着く。
ここは驚いた。石段の参道や境内はごつごつした岩石がむき出しのままになっていて段差がひどい。歩きにくいこと甚だしい。
「なんだ、こりゃ? 横着な寺だな、もっと歩きやすいように平坦にしろ」
「なに言ってんの、このバチ当たり。これは、自然のままの岩の断層を活かした流水岩の庭といって常楽寺のシンボルじゃない」
「あっ、そう。へえー、それにしても奇妙な岩肌だな、よっこらしょっと」
「まったく本物の良さがわかんないんだから。法螺貝なんか欲しがってないで本物を味わいなさい」
起伏に富む大きな岩床を越えて本堂へと向かう。改めて境内を眺めれば、古色蒼然とし幽玄な風情が漂う。本堂の右手が大師堂。赤や青の「南無大師遍照金剛」の幟が何本も奉納されている。
菅笠をかぶった数人のお遍路さんが、金剛杖をつきながらやって来た。男性だけのグループでみんな年配である。背中の荷物から、一目で敬虔な歩き遍路と察せられた。
みんな経本を開いて熱心に般若心経を読む。横目で見ると経本にはひらがなルビが印刷してある。(便利なものがあるんだなあ)などと妙に感心しながら、遍路もどきの私も一歩後ろに控えて同じお経を唱える。そらで朗唱した私の方は早々と終わってしまった。
見れば、妻も経本を開いて時々つっかえながら小さな声で唱えている。本尊の弥勒菩薩は慈しみの菩薩である。若いころから妻が一番好きな仏様だ。
●第十五番札所・国分寺
町はずれののどかな田園の小道をカペラは走る。後部座席に積んでいる金剛杖につけた鈴が、ときおり澄んだ音色を響かせる。杖はお大師さんの分身というなら、さしずめ私たちはお大師さんを乗せた同行三人のドライブ旅である。心の中の空海を先達に次の札所を求めて行く。
正午を少し過ぎた頃、国府町の国分寺に着く。一瞬目を見張るほど広大な感じを受ける。門の脇には「聖武天皇勅願所」と彫られた大きな石碑が立っている。だがしばらくすると、ここは何か「流れ」というものを感じないことに気がついた。何かが絶えているようなのだ。
中門左右の柱には、右に菊の御紋、左に桐の紋所。古びてはいるが、権威の正統性を物語る由緒正しき門構えである。対照的にその向こうは遮るものとてな
く、はや境内が広々と見通せ、ゆくてに屹立するは鞏固な本堂のみ。樹木すら散逸したかと思われる広い敷地にあって、他には鐘楼など一つ二つの建物が遺るの
みである。曰く言い難い感動を覚える。
ともかく境内へと歩を進める。正面目近に迫りくる堂々たる本堂は、荘厳な気位を持して独り残存する。それは零落の陰画から蘇った廃虚に立つ古城のようで
もある。本堂だけが青空を背にして仁王立ちする姿は異様な美しさである。荒寥の中に今なお矜持を保とうとする仏塔の無残さ、死の影......。夏の日の残骸、原爆ドームが脳裏をよぎる。
後で調べてみたら、この寺は天平13年に聖武天皇が五穀豊穣、鎮護国家の祈願所として、全国に建立させた国分寺の一つであった。当時は七重大塔を備えた大伽藍であったが、天正の兵火でことごとく焼失した(現在の本堂は文化文政年間に再建されたもの)。
白き虚空を仰ぐ夢の跡。「場所」とはあまたの想念の棲まいでもある。「場所」は時を超えて何事かを人に語りかける。
●第十六番札所・観音寺
想念といえば観音寺に一枚の絵馬があった。絵は火だるまになった女性の姿が描かれている。文章も添えられている。それによると炎に包まれている女性は宮
崎シヨといい、淡路島の出身で、四国霊場巡りの途中雨に濡れてここ観音寺の茶堂に雨宿りをした。濡れた着物を焚火で乾かしていたとき、突如着物に火が燃え
移りかくのような次第となったとある。
彼女は告白する。自分は若い頃姑と仲が悪く、家人の出かけたある日のこと、姑を柱にくくりけて火のついた薪で折檻した。その罪をお大師様がお戒めになら
れたのだと。まことに恐れ多いことであると、そういう内容である。明治17年のことであった。この絵馬は深く反省したシヨ女が奉納したものである。
さて、着物に火が燃え移ったことを単なる偶然と思えば、この絵馬は奉納されなかっただろう。そこに「ある意味」を感じとったからこそ彼女は懺悔をした。そのリアリティーは本人にしかわからない。
想念とはまことに不思議なものである。あることを契機にして、意識の奥底にある本当の自分を知らしめることがある。そのとき、意識と空間との間に何か意
味のあることが起こるのかもしれない。ユングはそれをシンクロニシティー(共時性)と呼んだ。宮崎シヨは、この霊場で起こった出来事を、埋もれていた自分
の罪の裁きだと感知したのだ。
「四国霊場には関所寺っていうのがあるそうよ」
妻はそう言いながら、いたずらっぽく私の顔を見る。心がけの悪いお遍路さんがおとがめを受けて通過を阻まれるという寺のことである。観音寺は関所寺ではない。だから、私は絵馬に興味を持った。関所寺なら話が出来すぎているから、むしろ興味を引かなかっただろう。
天正の兵火でほとんどが焼失したという観音寺は、今では通りに面した、さほど人目を引かぬ寺になっていた。街の生活空間にあり、人々の生活意識のなかに今も静かに溶け込んでいるようだった。
遍路旅は自己発見の旅だといわれる。それは実際に歩いてみなければわからないのかもしれない。しかし、人生もまた旅である。懸命に生きれば、人は日常生
活の中からでも自己発見はできるのではないだろうか。懸命に生きるとは生活の汚濁にまみれることでもある。「智者は空門を破る」という。仏道を究めた高僧
は、「空」を説く仏教の枠にとらわれることなく、積極的に世俗と交わり民衆と融け込むという意味らしい。
私たちは、世俗の荒海を今日までかろうじて泳いできたように思う。生きること自体がある意味で修行だったような気がする。汚濁の中からなお聖なるものを
見失わずに生きようとすれば、世俗こそが厳しい修行の場であるように思う。だから日常の塵労のなかで埋めきれない渇きを、ときには聖なる空間で癒したくも
なるのだ。私たちにとって、遍路旅は修行ではなく日常を離れた「遊行」なのである。
井戸寺に着く。
●第十七番札所・井戸寺
さて、ここは聖なる空間とは裏腹な観光化された場であった。この落差、このバラエティーの豊かさ、遍路旅はまったく退屈しない。
まずあでやかな朱塗りの仁王門に驚いた。山門というよりも間口の広い長屋門に近い。雰囲気は色鮮やかな平安王朝の華麗さである。中に入ると、左手奥には鉄筋コンクリートの近代建築による立派な納経所があり、宿坊もホテル並みである。
ずいぶんお金持ちのお寺さんのようだ。納経所は御守やら、アクセサリーやら、数珠やら、なんやかやと土産物店さながらである。商売繁盛、ササ持ってこい!
本堂もコンクリート造り、見事なサツキの植え込みが花盛りである。境内もかなり広い。境内の中ではタコ焼屋が店を出している。アイスクリームを売る屋台
も出ている。私はさっさと参詣をすませて屋台でアイスクリームなど舐めている(チョッピリなくせに200円もとる。やっぱりここは商業主義なんだ)。そう
思ったら本尊を知りたくなった(私はいちいち本尊を確認して参拝しているわけではない。するときもあるがしないとき
もある)。
やはり、この寺の本尊は薬師如来であった。それで納得。薬師如来とは文字通り無病息災の仏様である。だが、現世利益を代表するところから、経済的繁栄の仏様にもなっている。
そんなとりとめのないことを考えつつ、相変わらず念入りにお参りをしている妻を急かせに行く。妻は納札を書き終わったところであった。例の「家業繁栄」
の願文を書いて納札箱に入れたと思ったら、思いっきりよくお賽銭を放り投げた。さすがわが妻、たくましさにおいては人後に落ちぬ。
彼女は本尊を知ってか知らぬか、きつく瞼を閉じ、真剣に祈る。もはや薬師如来に対する脅迫である。この妙な迫力はお経を見事に唱えた大日寺の夫婦とはま
た別のものである。彼女は本尊が何であろうが本質的にはどうでもよいのだ。彼女自身は意識上はきわめて敬虔であり、かつ熱心に祈願してはいるのだが、祈る
という行為のなかから、無意識に自分自身のパワーを引き出しているのである。つまりは自力本願なのだ。その姿勢が仏を従わせるように見えるときがある。
故に妻は祈りのさなかで恍惚となることはない。たとえこの先お経を覚えても、仏の世界で法悦を求めることはないだろう。夫である私にはよくわかる。妻に
とって法悦とは日常の中になければならず、涅槃は現世に顕現されなければならないのだ。私たちは共に生きてきた歳月の中から、互いの自己を発見してきたつ
もりである。
●第十八番札所・恩山寺
高知まで続く国道55号を途中で右に折れて少し山に入ると周囲はすこぶる静かでのんびりした風景に変わってくる。そんな山裾でなにやら心をほっとさせる寺に辿り着く。恩山寺である。
石段を上って境内に入ると、左手に大師堂があり大きな大師像が出迎えてくれた。脚絆を締め、杖を立て、鉄鉢を持った旅僧の空海は、こうして必ず霊場で遍路を待ち受けている。目深にかぶった網代笠の中の表情は、下から覗いてみたがやはりよくわからなかった。
境内には等身大の地蔵菩薩一体と、その周囲に20センチほどの小さな地蔵がびっしりと並んでいる。打ち水をしたばかりの京の街のような清々しさを感じる。
本堂へはさらに長い石段を上る。本堂では七、8人の中年女性のお遍路さんが、横一列にきちんと並んで合掌している。白衣の背中に「南無大師遍照金剛」の墨字も晴れやかである。
もともとこの寺は女人禁制であったそうだ。延暦年間、空海がこの寺で修行していると、空海の母親が善通寺(空海の故郷)から息子に会いに来た。そこで、
空海は山門で女人禁制を解く秘法を行い、母親を迎え入れ孝行を尽くしたという。何やら空海の人柄を偲ばせる話だ。以来ここは養老の地となった。ために山号
は「母養山」、寺号は「恩山寺」。その母を祀る母公堂が大師堂と廊下で繋がれて寄り添うように建つ。
《子を産めるその父母の恩山寺、訪ひがたきことはあらじな》(御詠歌)
ここが、激しい修行を積んでいた空海がはるばる訪ねてきた母を迎え入れ、ひとときの安らぎに触れた場所だとしたら、想念の磁場のようなものはあるのかも
しれない。恩山寺に詣でる人やお遍路さんの表情は一様に柔和である。人の語らいの声々にもそこはかとなく穏やかさを感じた。
恩山寺を打つと続けて第十九番札所を目指して車を走らせる。
助手席で妻が何やらぶつくさ呟いている。私はしばらく無視して運転している。彼女は車の中では絶えず話かけてくるので、私は時々受け答えするのが面倒臭
くなるからだ。私が取り合わなくなって会話が途切れたら、そのうちに独り言を言い出すか、歌でも唄い出すかだ。先ほどまで「♪ドンと鳴った花火だ、きれい
だナー、空いーっぱいに広がったーっ」などと勝手にやっていたので、私は他のことを考えていた。
今度は少し様子が違うので何を言っているのかちょっと耳を澄ませてみた。
「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ......」
私は思わず吹き出した。何とマントラ(真言)を唱えているではないか。
いつぞや、ウチの庭で洗濯物を取り入れながら例のように独り言を呟いていたので、何を言っているのかと聞いてやった。そうしたらアルファー星と交信していたと言うのである。そのことを思い出して急におかしくなったのだ。
「何がおかしいのよ」
「いや、ふじ乃がマントラを唱えていたからだよ」(妻の名はふじ乃という)
「あっ、これ真言なのね。ちょっと勉強したのよ。井戸寺の本堂に書いてあったのよ。恩山寺にも書いてあったでしょう」
井戸寺も恩山寺も本尊が薬師如来だから真言は同じなのだ。そのくらいのことはわかる。しかし、会話が発展するとまた道を間違えるといけないので私は黙る。
「常楽寺はオン マイタレイヤ ソワカ っていうの」(これは弥勒菩である)
「大日寺はオン マカキャロリキャ ソワカ って書いてあったわ」(これは十一面観音菩である)
「焼山寺はノウボウ アキャシャキャラバヤ オン アリキャマリボリ ソワカ っていうのよ」
「わかった、わかった、いつの間に覚えたんだ」
「だってボク、お兄ちゃんよりも頭いいモン。きのう学校の廊下でお兄ちゃんバケツ持って一人で立ってたでしょう。みんな教室でお勉強してたのに、ネ、ネ、何してたの?」
「知るもんか」
「わーっ、ごまかしてる。私、由紀子先生に聞いたのよ。お兄ちゃんは一生懸命に勉強するんだけど、まだ九九が言えないんですって。ふじ乃ちゃんは来年小学校なのにお兄ちゃんの勉強を横から見ていて先に覚えてしまうんだって。ねえ、七の段言ってみてよ」
「いやだ」
「わーっ、言えない、言えない」
「るっせえなあ。四国の各霊場にはそれぞれ本尊真言があるんだ。それを唱えたあとで結語、すなわち光明真言を唱える。いいか、七の段唱えるぞ。七、一が、七......? じゃなかった。オン アボキャベイロシャノウマカボダラ マニハンドマジンバラ ハラバリタヤ ウン」
「すごい。ネ、ネ、どうして知ってるの」
「昔......オヤジに教えられたんだ」
そう言ったとき、私は真言を繰り返しながら遊んでいた滝行場の自分を思い出した。私は天津祝詞もうろおぼえだが言える。やはり神がかってしまった父親が
床の間の天照大神に向かって唱えていたからである。浮世離れしてしまった父と、生活苦を抱えた母の姿が二重映しになって脳裏をよぎった。
そういう父親に反抗してきた自分が、今妻と遍路などしている。これは一体どういう理由だ。
時刻は四時になった。最終予定の鶴林寺は焼山寺に次ぐ難所である。急がねばならない。四国霊場には4つの関所寺があり、立江寺はその第一関門。何とか無事にパスして二十番まで打ちたいものだ。
●第十九番札所・立江寺
立江寺は小松島市と羽ノ浦町の中間にあった。「心がけの悪い人は、この山門から先へ進めなくなる」という第一関所を前にしても、「心がけの悪いお兄ちゃ
ん」は全く意に介していない。本人は二層の壮観な仁王門にひたすら感心するばかり。仁王門の前にコンクリート造りの擬宝珠のついた橋が架かっている。渡ろ
うとすると、さっそく、
「杖をついちゃダメよ」
背後で妹の声。関所寺よりもお兄ちゃんと呼ぶこの変幻自在な妹(?)のほうがよっぽど苦手である。
本堂、大師堂、観音堂、多宝塔、書院など多くの諸堂を配する境内は広く、かつ宿坊も完備されているせいか、お遍路さんたちで賑わっている。本尊の延命地
蔵菩薩と大師堂を参拝後、時間があまりないので納経をすませると足早に寺を出る。お大師さんの「おとがめ」とやらもなく、第1関所無事通過。
そもそもこのお兄ちゃんは関所寺などという言い方が気にいらなかった。嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる、といったたぐいの脅しと同じに思えたからであ
る。空海とは無縁のものではないかと勝手に想像している。親鸞の「悪人正機説」(善人なおもて往生す、いわんや悪人をや)を持ち出すまでもなく、仏教思想
に本来関所は不似合いだと思っているのだ。本人は恐れ多くも遍路信仰と論争する気でいるらしい。
●第二十番札所・鶴林寺
4時20分、寺を出てガイドブックを確かめると、鶴林寺は立江寺より車で30分とある。間に合いそうだ。立江寺周辺の田園地帯を右に左に道を探し、やっと手元の地図に載っている踏切を渡る。さあ、左右どっちだ。
「地図から見ると左だな」
県道を左にとって、車を飛ばす。
「いいや、おかしいぞ。反対だ、Uターン」
途中で野良仕事をしているおじさんに道を尋ねる。
「お鶴さんかね。あの山の突き当たりまで行って左方向だ」
あの山の突き当たりだ。急げ、急げ。山裾でまた迷う。
「おかしいな。少し感じが違うぞ」
今度はクリーニング屋に飛び込む。
「お鶴さん(地元の人は鶴林寺をお鶴さんと言うらしい)なら、この道を左折してその先三叉路を右です」
(この道でいいのだ)
4時40分。時間が迫ってきた。お鶴さんはなにしろ阿波三難所の一つである。
「一に焼山、二にお鶴、三に太龍寺といって、これらはみんな1日がかりの難所だったそうよ」
「よく知ってるな」
「頭いいもん。それにね、遍路ころがしって言うのはね。歩きのお遍路さんが途中で歩けなくなって、倒れて転がってしまうからよ」
妻はまたおしゃべりを始めている。私は気が急く。
平野を離れ蜜柑畑や段々畑を縫うようにして登ると、見る見る深い山峡に入っていく。急勾配の険しい坂道が延々と続く。また焼山寺のようになってきた。欝蒼とした山道でようやく標識を見つける。
「鶴林寺まであと12キロ」
昨日はこの標識のあとが意外に長かったのだ。ハンドルをしっかり握る。
「ぶっ飛ばすぞ」
「私、もうしゃべらん」
さあ、カーチェイスのようになってきた。急カーブの連続する山中深くどんどん登っていくと先の車に追いついた。林業か何かのノンビリした軽トラックに前を遮られる。追越しできない狭い山道にイライラしながら時計を見るとあと8分である。
やっと軽トラが脇道にそれた。それっとばかりに猛然とスピードアップ(といっても山道なので時速40キロがせいぜいだが)。遍路というよりもほとんど山岳ダービーである。あと2キロの標識。あと0.9キロの標識。寺は近い!
「駐車場に着いたら納経帳と掛軸を持って納経所に走って。私はあとから行くから」
妻は指示をしながら下車の準備をしている。昨日の学習の賜物だ。
4時56分、寺の駐車場に滑り込む。私は妻が準備していた2品を受け取ると、脱兎のごとく山門めがけてダッシュした。いや他に金剛杖も持っていた。どう
いうわけか持って走った。その姿が妻にはおかしく見えたのか、後ろでコロコロと笑う(杖は突くもので持って走るものではない)。
帰りのお遍路さんが、
「納経所は閉め始めていますよ。急いで」
と声をかけてくれる。昨日とまったく同じだ。どこだ? どこだ? 納経所は。
息を切らせて境内に走り込んだ私の見たものは、ああ......またもやシャッターの降りた納経所であった。何てことだ。
でも、このお兄ちゃんは学習しているぞ。そら、そこにブザーがある。まだ1分前だ。まだ閉めるには早いぞとばかりにブザーを押す。
「はい、はい、こちらへ回ってください」
間に合った! 遂に二十番まで全部回ったぞ。山岳霊場ダービーのゴールインだ。
深い杉木立の境内をニューファッションの妻が杖を突きながら、おっとりと近づいて来る。
「どうだった?」
「間に合ったよ」
「やったぜ、アミーゴ」
そういって妻が杖を上げる。私も杖を高々と上げた。
鶴林寺は標高570メートルの山頂にある。徒歩で登る参道は焼山寺以上の難所といわれている。境内は杉や檜の大木に囲まれ、厳しい修行の地といった雰囲気が濃厚に漂う山岳寺院である。
運慶作と伝えられる仁王像の立つ山門を入ると、六角堂、忠霊塔、護摩堂、大師堂と並んでいる。参道奥の本堂は2羽の白鶴像が左右に安置されている。「お鶴さん」の愛称はここからきている。
弘法大師がこの地に来たとき雌雄の鶴が小さな地蔵像を羽に包んで守っていたという伝説にもとづいている。さらに本堂脇の階段を上がると見事な三重の塔が
建っている。総素木造り。文政10年(1827)建立といわれている。空気はすがすがしく、いつまでも散策したい気分になる深山幽谷の霊場である。
想像するに、お遍路さんは何日も歩き続けてこの山深いお寺に辿り着き、山門を見上げたときのその感慨はひとしおであろう。信仰にはつきものの、苦行の末にある境地に辿り着くというプロセスの意味がわかる気がする。
世俗の苦労も修行には違いない。しかし、山岳修行がひたすら肉体的苦行を体験することにあるとすれば、肉体的苦行の純粋性が精神の純粋性に連動するとい
う心理的メカニズムがあるのかもしれない。娑婆も修行には違いないが、こちらの方は世俗のなかの負の感情、虚栄心や劣等感、嫉妬や憎悪などから自己を解放
することは難しい。
してみると、山岳修行には人間の負の感情や否定的な思考を、ひたすら念仏を唱えて苦行することによって洗い流すという作用があるのかもしれない。だが、そんな仙人のような生活をできない庶民はどうすればよいのか。この点について空海はどのように答えるのだろうか。
美しい華は汚泥の中から咲くのではないか。清らかな極楽浄土にばかり咲くのだろうか。もし娑婆こそが苦行の場であり、の華が咲く浄土でもあるとすれば、釈迦の言う「苦」の実相である生老病死は逆転せざるをえなくなる。
「今日はめずらしく真剣に読経していたのね。最後の札所だから?」
帰りの参道で妻が私に尋ねる
「うん。空海とディベートしてたんだ。いやお釈迦さんかな」
「あら、恐れ多いこと。何を言いたかったの?」
「人は生まれ得ずして事は為せず、愛する者との出会いもなし。老いることなくして心の成熟もなければ、病なくして死もまたなし。死なくば生からの解放もこれまたなし」
「まあ大変。お釈迦さんと真っ向から対立してるわ」
妻の笑い声がさわやかな杉木立の風を誘った。