今日も雨だろうと半分あきらめていたが、朝起きてみれば陽の光。にわかに元気づく。
「今日は晴れるぞ」
「よかったわね」
朝風呂を浴びたとき、大浴場からダムが見えていた。朝食後外に出てみると、たくさんの鯉のぼりが泳いでいる。ダムの下の川を、向かい側の山からこちらの
岸まで張られたロープに、100尾ほどの色とりどりの鯉のぼりが朝風に身を踊らせている。雲間には青空がのぞいている。こんなに多くの鯉のぼりを見るのは
何年ぶりのことだろう。そういえば今日は端午の節句だ。
ダムをめがけて身をくねらしている鯉を見ていたら、鯉は滝を昇って龍になるという中国の伝説が頭に浮かんだ。そんなことを考えていたら、ふと父親のこと
を思い出した。中国大陸から九死に一生を得て復員した私の父親は、しばらく頭がオカシクなっていた。その上、父を迎えるはずの実家は冷たく、戦後生家は
すっかり変わっていた。父は社会復帰の道を見つけぬまま、もの言わぬ人間になっていた。私は幼い頃、父親に可愛がられた記憶はほとんどない。
ただ一つ鯉のぼりにまつわる思い出がある。
7、8歳の頃だったろうか。あるとき、父はいつも一人で出かける滝行に私を連れて行った。父は私を抱き上げると、突然滝つぼの中へ投げ込んだ。水をたらふく飲まされてようやく近くの岩にしがみつくと、父の姿が見えない。
しばらくすると、垂水の上の方から父の声がした。
「ケン坊、登って来い。鯉は滝を登って龍になるのだ。おまえが鯉登りだ」
私は飛沫の飛び散る岩をつかむと、今にも滑りそうな足場に注意しながら必死になって登った。滝の上から私を見下ろしている褌姿の父は、いつになく笑顔であった。私はこのとき初めて父を身近に感じた。
端午の節句は男子の節句である。5月5日に私は生まれた。
旅に出ると妙なことを思い出すものである。鯉のぼりは母親の記憶も呼び起こしていた。
昭和20年代、戦災をまぬがれた日本の田舎はどこもそうではないかと思うが、私の育った村も男の子をもつ家はみな鯉のぼりを揚げて祝う習慣が残っていた。村には数多くの鯉のぼりが泳いでいた。しかし、私の家には一度も鯉のぼりは揚がらなかった。
私は、自分の誕生日にはいつも村を見下ろせる裏の山に駈け上がった。そして、山の上から鯉のぼりの数を数えた。家に帰ると「今年はこんなにたくさんの鯉が泳いでいたよ」と喜々として母親に報告したものだ。
幼い私は、端午の節句は村中が自分の誕生日を祝っているのだと思っていたのだ。
母はそんな私をいつもほほ笑みながら待っていてくれた。そして、折り上げたばかりの大きな紙のカブトを私の頭にかぶせてくれた。
そうしたある年のこと、母は黙って私を抱き寄せた。母については声が残っている。
「ケン坊、村の鯉のぼりはね。本当は少し違うのよ。それは、そうなんだけど......。少し違うのよ......」
そのとき、一抹の不安が暗雲のように私の胸を覆った。もはや真相は明白であった。あの立派な鯉のぼりは自分とは無縁の村の子どもたちのものだったのだ。そして、我が家にだけ鯉のぼりが揚がらない理由も察しのつく歳にもなっていた。贖う金がなかったのだ。
私は母がかぶせてくれた新聞紙のカブトを脱ぎ捨てると、裏山に駈け登って行った。村の屋根々々には鯉が晴れやかに泳いでいた。涙が込み上げた。
思えば父親の手荒い行為は、そんな私を滝つぼの中に放り込むことで洗い流したようである。以後、私は他人の鯉のぼりを数えることをやめた。
(鯉は滝を登って龍になるのだ。おまえが鯉登りだ)
その父も母もこの世を去って、はや20数年の歳月が過ぎた。私はこの日、49歳になっていた。
(ケン坊、お誕生日ね)
風の中でふと母の声が聞こえたような気がして振り向くと、妻がほほ笑みながら立っていた。
青雲に輝く100尾の鯉に見送られて、私たちは朝風の中を出発した。
●第八番札所・熊谷寺
白いカペラは、風薫る新緑の丘陵を駈け上がる。目指すは第八番熊谷寺である。
午前9時10分、迷うことなく到着。熊谷寺は小高い山の中腹にあった。晴れ渡った空のもと山の緑がまぶしい。遍路衣装に身を整えていると、すでに辺りに
は御詠歌が流れている。桜並木の参道を金剛杖の鈴の音とともに、私と妻はゆっくりと登っていく。参道の左手に建つ堂々たる方丈・二重塔を仰ぎ見ながら行く
と、右手には満々と水をたたえた池に弁財天が祀られている。その奧の中門をくぐった正面に本堂があった。
すでに参詣をすませた数人のお遍路さんと朝の挨拶を交わしつつ、本堂から大師堂へと向かう。途中の石段には「南無大師遍照金剛」と染め抜かれた奉納幟がずらりと並んで風にはためいている。大師堂で妻はいつもより長い祈りを捧げていた。
納経所の庭には見事な牡丹の花。藤棚には藤の花房がたわわに咲き誇っている。一匹のくまん蜂が花から花へ、ひたすら蜜集めに精を出している。自然の営みは昔も今も何ひとつ変わることはない。
《薪とり、水くま谷の寺にきて、難行するも後の世のため》
熊谷寺の御詠歌だった。
●第九番札所・法輪寺
広々とした田園の中をのんびりと行く。野道には人影も少ない。周囲の水田には植えたばかりの早苗がどこまでも青々と広がっている。その中を一人で歩いているお遍路さんの遠い姿。どこか懐かしい日本の風景である。
法輪寺の塔頭の甍がそんなのどかな風景に融け込むように見えている。風景もさりながら、寺もさっぱりとしていて閑静この上ない。簡素な山門を入ると、正面に本堂と大師堂がある。境内は隅々まで掃き清められ、塵ひとつない。
杖立てに杖を立てる(私たちは五番あたりから、本堂の前には必ず杖立てが用意されているのに気がついたのだ)。もはや杖を小脇に挟む必要はない。妻は灯
明と線香を上げる。合掌。二人はしだいにさまになってくる。しばしの黙想。たまゆら不思議な静けさを感じたとき、一陣の風が私の肌を擦過して行った。
●第十番札所・切幡寺
車のウインドウを下ろすと5月の風が頬に快い。散在する農家の屋根には吹き流し。左右に広がる徳島平野は昨日の慈雨でよみがえり、遠くの山脈まで若葉が鮮明である。カペラは二人を乗せて緑の風の中を疾走していく。陽の光は明るく万物を明澄にしていくようだ。
ほどなく山裾に着くと、切幡山に向かって道は急勾配となる。急坂を一気に上り、山門をくぐったので着いたのかと思ったら、さらに苔むした石段が足元からせり上がっている(寺は南斜面に位置するので参道は急坂、さらに本堂まで333段の石段あり)。
「オエッ、これ上るの?」
妻と私は顔を見合わす。半分覚悟を決めたとき、後から上がって来た乗用車が一、二台さらに山道に入って行く。お遍路さんが乗っている!
「上にまだパーキングがあるんだ。今日はスケジュールが詰まっているから、ここは行けるところまで車で行
け」
私たちは先の車を追って再び発進。結局境内付近まで来てしまった。
参詣後、境内を散策する。
「切り幡」とは「反物を切る」という意味である。その昔、この地を訪れた大師が破れた着物を繕う布を求めて一軒の家を訪れた。その家には若い娘が機を織っていた。娘は織り上げたばかりの反物を惜し気もなく切って差し出したという。切幡寺の由来はここから始まっている。
大師が「お礼をしたいが、何か望みはないか」と問うと、娘は「亡き父母のために観音様を彫ってください」と頼むので、大師は千手観音を一夜で彫り、娘を
得度させ灌頂を受けさせた。すると、彼女は瞬く間に七色の光明を放って千手観音になったという。切幡寺秘仏の本尊がそれである(一般には公開されていな
い)。
境内にはブロンズの観音像が織り上がった布を手にしてスラリと立っていた。ぼんやりと見上げていると妻の声がする。
「憲吾さん、こっち、こっち」
向こうの方から背伸びして私を呼んでいる。彼女のところに行ってみると、眼下に吉野川流域が広がっていた。遥か向こうにはかすかに海が見える。私たちは少し汗ばんだ肌に風を入れて眺めた。
一路阿波町へ。車の中。
「ところでそのドチュウっていうのは、いったい何だい?」
「だから土柱なのよ。土の柱」
「土の柱? そんなもの見に行くのかい?」
「いいからカアチャンに任せなさい。あんたは運転に専念して」
正午前に「土柱」に着く。結構、車や人が多い(ハハン、ここは景勝観光地だな)。それよりも腹ぺこ、土産物屋の食堂でトウチャンは卵どんぶりと冷や奴を、カアチャンは蕎麦を食べる。
さて、観光客に混じって遊歩道を登ると、ほどなく眼前にもの凄いものが現れた。自然が造った絶壁の巨大屏風が立ちはだかっているではないか。まさに奇景である。
「すっげーっ」
「土柱ってのはね、軟らかい砂礫が雨によって浸食されて土層が柱状になってできたんですって」
確かに、赤土の柱状になった土層がニョキニョキ林立している。六獄といわれる断崖をぐるり一周してみた。上から見下ろすと、これまた奇観。自然の力が彫りあげた前衛アートとでもいうべきか。
「ここはアルプスとロッキー山脈と並んで世界三大土柱に入るんだから、しっかり見学しましょう」
妻は自分の立てた旅行プランにしごく満足気である。トウチャンはそんな学術的な解説にはほとんど関心がない。崖のてっぺんから盛んに身を乗り出して下をのぞいてはカアチャンにシャツの裾を引っ張られる。
2時半頃、土柱を発つ。
吉野川の中流に昔の面影を残す町があるというので、一路「脇町」へと向かう。次なる道草は「うだつの町並み」散策だ。妻が旅行前に仕入れた知識を聞きながら10数分ほど走ると、脇町(うだつの町並)に到着した。
うだつとは、町屋の妻壁の横に張り出した袖壁のことで、江戸時代、隣家の火事の延焼を防ぐ火よけ壁として作られたものだそうだ。この地で成功した商人た
ちは、いつしか立派なうだつを競い合って作るようになった。そして、うだつは成功のシンボルとなったという。「うだつが上がらない」という言葉はここから
きている。
古い商家の二階の櫺窓を見上げて、さまざまに趣向を凝らしたうだつを見物しながら呑気に歩く。
「ところで、私たちはうだつが上がったのかしら」
「それはまだわからないよ。先は長いもの」
「そうね。人生はトータルですもの」
「何をもって人生のうだつとするかだな。かつてこの町の商人は財力を競ったのだろう」
「金銭は誰でも蓄積しようとするのよね。でも、もっと大切な貯金をつい忘れるのよね」
そんなことを話しながら、風情のある町をのんびり楽しんだ。
今日はここまで実にスムーズだ。この調子だと予定の焼山寺までゆとりをもって行けそうだ。
●第十一番札所・藤井寺
脇町から吉野川を渡って、下流の徳島市方面に東進。途中の鴨島町の田園地帯を抜けた山裾に藤井寺を見つける。再び遍路衣装に身を整える。結構忙しい。仁
王門には巨大な大草履。境内は寺号どおり藤棚があり、五色の藤がまっ盛りだ。ここはお遍路さんで賑わっている。藤棚の下で記念撮影などしたり、なかなか活
気に溢れている。
納経所では何種類もの金色の鈴が売られていた。手にとって鳴らしてみる。チリーンと実にいい音がする。聴き比べてみると自分の鈴より音色がいい。それに作りも立派である。"店の奥さんが付けてくれたサービス品だったからかなあ"などとアホなことを考える。
鈴はお遍路さんのアクセサリーではない。納経所で鈴の由来を尋ねてみると、このようだった。
遍路の鈴は金剛鈴という。頭部が五鈷杵を象り、その音の響きは煩悩を払い除けて清浄な心に導く。
また、山路や夜道では魔除けの役をはたすものである。
「お遍路さんが読経の前、中、後にそれぞれ振り、ご詠歌の時には節を合わせて振られますよ」
しかし、まだそのようなお遍路さんには出会わない。たぶん、みんな自己流でやっているのだろう。私たちもそうだが、心の旅はそれでよいのではないだろうか。
4時、藤井寺を出発。今日はあと焼山寺だけである。妻のナビゲートと道路標識を手がかりに一路焼山寺へ。第十二番焼山寺は標高830メートルの山中にあ
り、「遍路泣かせ」「遍路ころがし」の異名をとる険しい山道である。だから、門限の1時間前に藤井寺をスタートしたのである。
●第十二番札所・焼山寺
山道に入った。急坂、急カーブをどんどん山奥へ入って行く。「これは大変だ。こんな高い山にあるのか。歩き遍路だと1日かかるぞ」などと話しながら延々
と登って行く。やっと頂上に着いたと思ったらそこには寺はなく、また山を越えて着いたかと思えば再び「焼山寺まで12キロ」の標識。
「あと12キロだ。たいしたことはない」と再び標識をたよりに山中へ入る。ところが、行けども行けども目指す寺はない。時間は刻一刻と迫ってくる。納経所の門限は5時だ。杉木立の険しい山道を必死で運転する。
「ああ、4時55分だ」
「あれ見て、あと4キロの立札。急げ!」
「大変だ! まだ4キロもあるのか」
無我夢中で車を走らせ、やっと着いたのが5時1分。車を飛び出して二人で寺へ駈け上がったとき、シャッターが閉まるような音がした。帰りのお遍路さんの
オバサンが「すぐそこの右よ、急がなきゃ閉まりますよ」と言うので、右に曲がってキョロキョロしたがどこにもない。ないわけだ。私の見ていたのは閉められ
た納経所のシャッターだった。何とまあ、時間厳守なこと!
(ああ、こんなに苦労して登ってきたのにダメだったか)
そのとき妻が「そこのベル押してみて」と言うので、シャッターの横にある小さなボタンを押してみた。すると、奥で人の声。
「玄関に回りなさい」
大きな引き戸を引くと、庫裡の広い土間で住職が受け付けてくれた。
「ありがとうございます!」
私たちは45度の最敬礼をした。
焼山寺は四国霊場でも難所中の難所。急カーブと急勾配の続く山道を、エンジンを吹かせてあえぎながら登ってきた。歩けば健脚でも7、8時間はかかるという。遍路修行の厳しさを実感する秘境である。
先に納経をすませて改めて仁王門をくぐる。参道は杉の老木が立ち並び、うっそうとした山の霊気に思わず身が引き締まる。正面の石段を登ると本堂、大師堂、方丈などの諸堂が深い森の中の神域に佇んでいる。
その昔、この山に棲む大蛇を弘法大師が封じ込めたとき、大蛇が火を吹いて全山を火の海にしたので焼山というそうな。そんな伝説も何やら意味ありげな山岳寺院である。
たそがれゆく焼山寺を後に再び徳島市へ。午後7時40分、徳島駅のホテル着。チェックインをすませたあと、7時50分、すぐまたホテルを出る。今日のス
ケジュールはまだ終わっていないのである。駅前アミコ・ビルで阿波踊りの実演を見るというのが、妻の立てた道草遍路なのだ。
ホテル前のビルだが、入り口がわからずにあっちこっち迷う。開演は8時だ。二人はビルの周りを走り出す。
「また焼山寺だわ」
「急げ、急げ、入口はどこだ」
8時1分、やっと入り口を見つけて会場へ走り込んだ。とたんに実演開始、会場は鉦や太鼓の陽気な音楽が鳴りだす。何たる計画の正確さ。何たる無駄のない一日(人生無駄があるから面白いと言っていながら、さては無駄までも計算のうちに入れていたのだな)。
阿波踊りを堪能してホテルのラストオーダーにありついたときには、二人とも箸を持ったまま時々船を漕いでいた。