対照的に左右の金剛力士像は風雪に耐え抜いた年代を物語っている。古の姿勢をくずさず、白壁の中で忿怒の形相をして踏ん張った脚は、邪鬼を踏み締めてな お余りある力を感じさせる。赤い柵にはワラ草履が数足くくりつけられている。この草履は仁王の健脚にあやかりたいと願う人が奉納するそうだが、遍路とてこ れから1400キロの長旅である。思いは同じであったろう。
本降りになってきたので、私たちはビニールの雨ガッパを着て寺に入ることにした。雨しずくを垂らしながらフードをかぶっている奇妙な遍路ファッションの妻は、それでも溌溂と本堂を目指す。境内には雨に濡れた見事な庭園が広がる。
小高い丘の上にある本堂と大師堂で参詣をすませると、観音堂の手前の杉の巨木に驚いた。弘法大師手植えの「長命杉」である。樹齢千数百年の老木は注連縄で飾られており、それは1200年前の空海が突き差した巨大な錫杖を思わせた。
杖といえば、遍路の金剛杖は行き倒れたときの墓標代わりにされたといわれている。杖の上部には五つの刻みがほどこされてあるが、これは五輪の塔を象どっ ている。すなわち、宇宙を構成している地、水、火、風、空を意味し、また五智如来を表しているともいわれている。遍路にとっては弘法大師の分身といわれる 大切なもので、宿に泊まるときには必ず杖の先を洗って床の間に安置しなければならない。また歩くときは常に身に携えなければならない。極楽寺の私たちは 「とても大切なもの」というほどの認識はあったので、参拝するときでも、身から離さず小脇に挟んだままだった。かくして二人は雨のそぼ降る(極楽)を後に した。
●第三番札所・金泉寺
金泉寺はその名のとおり金の泉が湧き出たことに由来する。弘法大師が当地巡錫のみぎり、地元の住民が水不足を訴えたので大師が井戸を掘ると金泉が湧き出た。ために金泉寺と命名して諸堂を整えたと伝えられている。
山門は工事中だったために寺の脇から入って行った。山門左手に鐘楼、右手に鮮やかな色彩の六角観音堂がある。大師堂はそのそばにあった。大師堂を参詣し
た後、六角堂の前の小ぶりの大師像を眺めた。網代笠を目深にかぶり、右手に錫杖を立て、左手に鉄鉢を持つ雲水姿の大師は、諸国を巡錫する弘法大師の姿であ
る。四国霊場のシンボルで必ず各札所にある。
しとどに濡れ光る石畳の参道を雨に打たれながら、私たちは次の札所に向かった。
●第四番札所・大日寺
徳島県の一番札所から十番札所までは讃岐山脈の裾野に密集している。「足慣らしの道」ともいわれ、歩きの遍路でも早朝に出発すれば大半は回れる。
大日寺は金泉寺よりも山際にあり、田圃の広がる車道を15分ほど走るといきなり離合困難な山道に入った。遠くはないが着いたところは人里離れた山寺と
いった風情である。参道の古い築地塀の突き当たりに朱塗りの鐘楼門が忽然と姿を現した。三方を山に囲まれた森閑とした霊場である。
「やっと霊場らしいお寺にきたわね」
「うん、これまでは霊場というには何か人間臭かったものな」
山門の柱には右側に「四国霊場第四番」、左に「黒厳山大日寺」と大書きした看板が掲げてある。山門から本堂まで敷石の参道が伸びており、その奥まったところに、樹林に囲まれるように建つ本堂は、小さいながらも幽玄な趣きがある。
本堂は大師堂と廊下でつながる珍しい設計になっていて、廊下には三十三体の千手観音が安置されていた。優しい表情をした観音像を見て回っているうちに、いつしか慌ただしい日常を忘れていた。
帰り道、山門の土塀のそばに、五月雨に洗われた菖蒲が一群、清々しく咲いているのを見つけた。
●第五番札所・地蔵寺
山門脇の駐車場に車を置いて、風格のある仁王門に一礼して境内に入った。
遍路参拝には一応の手順がある。境内に入ればまず水屋の手水鉢で口をすすぎ手を洗う。鐘楼で鐘を撞く。参拝は、本堂、大師堂、その他の諸堂の順序で回
る。本堂、大師堂では納札を箱に入れ、灯明、線香を上げる。賽銭を入れ、本尊、宝号を念じて読経。あとは納経所で朱印を押してもらい、墨書してもらう。
鐘を撞くと殷々と響く梵鐘の音に心が沈静していく。境内の銀杏の大木がその大枝を雨空に広げ、その下に古色蒼然とした大師堂が建っている。御堂の柱や鴨
居や天井には、大小さまざまなお札が所狭しと貼られている。遍路講の赤い幟に囲われた扉の格子には、経文やら祈願文やら、赤や白の涎掛け、絵馬や千羽鶴や
人形など、さまざまなものが雑駁に奉納されている。
大師堂に取りすがるそれら夥しい想いが、風雪にさらされたまま古怪に息づいているようだ。幼児の写真は子どもを亡くした母親が悲嘆にくれて貼り付けたも
のだろうか。夫と死に別れた妻の悲しみの歌もある。格子の奥には、人々の底知れぬ情念が、今も出口のないままに赤い 燭の灯となって暗闇にこもっているよ
うだ。
方丈裏手にある羅漢堂に入って行った。
薄暗い回廊の中に居並ぶ等身大の羅漢は300体。それぞれは悩み、悲しみ、怒り、笑い、また想い沈むあまたの感情を表している。その動かぬ表情と虚しく開けた口腔は、虚無の奈落がぽっかりと口を覗かせているように見えた。
●第六番札所・安楽寺
15分ほど走ればすぐに着いた。
この寺の山号は「温泉山」である。その名が示すように、昔は寺域から温泉が湧き出ていたそうである。温泉山の安楽寺とは保養地みたいな名称だと妻と話し
ながら来てみると、はたして諸堂は新しく、本堂は鉄筋コンクリート建てで内部は絢爛豪華である。宿坊を覗いてみると、ホテルのように広くてきれいだ。現代
人にはこのような近代設備の整った宿坊が好まれるのだろう、と話しながら参詣を終えて納経所に入った。
納経帳には札所番号と寺名が印刷してあるので、そのページを開いてカウンターに提出すればよい。あとはお寺さんが朱印を三つ、バン、バンと押して、その
和紙の上にたっぷりと墨を含んだ筆を走らせる。初めて見たときは大胆な筆さばきに、空海の雄渾な筆もかくあろうかと目を見張った。
「もう六つたまったわよ」、妻が嬉しそうに言う。
確かにスタンプが一つひとつ増えていくのは楽しいものである。
「誰がいつごろ考えたのか、うまいアイディアだなあ。何だかスタンプラリーのような気分になって、ついついその先に進みたくなるものな」
ドライバーの夫は相変わらず不信心なことを言う。それでも、二人は墨跡もみずみずしい納経帳を眺めすがめつしたあとで大切に頭陀袋の中に納めた。
だが、書かれた文字はサッパリわからないのである。達筆すぎるのか、あまりにも崩してあるのか、何と書いてもらったのかチンプンカンプンである。ただ最
初が梵字であることはわかった(納経帳には本尊と寺号とが書かれる。例えば、奉納・地蔵寺・地蔵菩という具合であるが、まず読めない。朱印は三つ。右上に
四国第何番、中央には梵字の入った寺の宝印、左下に寺印が捺される)。
「ね、霊場ルートをつなぎながら四国旅行するのって面白いでしょう」
敬虔なお遍路さんの顰蹙を買いそうなことを妻は平気で言う。遍路のついでに観光しているのか、観光ついでに遍路をしているのか......まあ、どっちでもよい。
●第七番札所・十楽寺
今日の予定は七番札所までとしていたが、すでに午後4時半を回っていた。急がなければならない。ともかく札所に来た証には朱印がいる。納経時間は午前7
時から午後5時までである。地図では車で10分で着くはずなのだが、どこかで道を間違えたのか、大回りをして寺に着いたのは5時ギリギリであった。
参拝もそこそこに納経所に入る。朱印をもらったあと改めて参拝。このへんも融通無碍というか、いいかげんな二人であった。だが、七番札所までとしていた
2日目の目標は、観光も含めて全て達成することができた。一つの霊場の所要時間を約40分とし、車の移動時間を大目に見積もっていた妻の計画が幸いしたよ
うだ。無駄なく、かといって追い立てられることもなく、適度に道草を楽しみながらも最終的には目標を達成していく。これが彼女流の遍路旅なのだ。
旅行プランは、人生設計にも通じるところがある。寄り道をせずにひたすら札所を打っていく(霊場順拝を札を打つという)遍路旅もあるだろう。いや、多く
のお遍路さんはそうである。目標達成のために一直線に突き進むのもひとつの生き方である。若いころの私はそういう生き方しかできなかった。その反対に、あ
まり目標を立てずに、むしろその時々のなりゆきを楽しむという生き方もあるかもしれない。
目標の達成はむろん高く評価するが、今の私は目標は達成されなければ無価値なものとも思わなくなった。もしかすると堕落なのかもしれない。いつの頃から
か、人生は夢に向かって胸ときめかせて生きることに価値があるように思い始めた。釈迦の言うように、人生はある意味では確かに「苦」である。苦からの解放
が釈迦の教える最終的な目標であるのなら、それは「死」ということになる。
人間は、「死」という輝かしき「苦」の解放を当初より等しく与えられていることになる。すなわち、目標はすでに達成されているのである。生きることは日
々確実に死に近づくことであれば、目標に最も近い今日という日が人生最良の日ということになる。であれば、それまでともかく「やり過ごす」ことである。
だから、夫婦で観光遍路を愉しむのもよい。私は四国で自己を探すことなどしたくもないが、何か心の中に未整理な部分があるような気はしていた。
陰欝な雨はまだ上がらない。十楽寺をあとにすると、10キロほど先の山中に入って行った。御所温泉が今夜の泊まりである。ホテルで出された名物の「たら
いうどん」を妻はおいしそうに食べていた。今日は久しぶりに寺巡りなどをやったせいか、私の方は年甲斐もなく人生論めいたことを考えてしまった。もうそん
なことは学生時代で終わったと思っていたのだが......。窓の外では山々がすっかり翳っていた。