◆しぶしぶ出かけた四国遍路
1996年5月3日、私と妻は広島発ひかり36号の車中にいた。目指すは徳島市である。第1回目の遍路旅行は4泊5日。第一番札所・霊山寺から第二十番札所・鶴林寺までの予定である。細かい旅行計画は妻が立ててくれた。
四国霊場巡りは全行程およそ1450キロメートル。徒歩だと40日から50日はかかるという。しかも平坦な道ばかりではなく、途中難所といわれる山岳地
帯がいくつもあり、その上荷物を背負って歩き通すのだ。男性が踏破するのにも相当な体力と意志が必要とされる。私にとってはそれこそが魅力であるが、現在
仕事を休んで50日間も「修行道楽」をする贅沢は望めない。
方法は三つある。一つは年に3回、4泊5日ほどの休みをとって少しずつ歩き繋ぐという方法である。このやり方だと一日30キロメートル歩けたとしても4
日で120キロ、年に3回で360キロメートル、4年もかかってしまう。妻の体力や各札所での所要時間を考えるとそれ以上の歳月がかかるだろう。
最も早く確実な手段はツアーに参加することである。団体バスで回れば10日ほどですむが、形ばかりの駈け足遍路でいかにも味気ない。残る手段はマイカーで自由に回る方法だ。
「私の計算だと、年に2回車でゆっくり回っても、1999年には結願できるわ。車を使うのになぜそんなに時間がかかるのかと思うでしょう。それはね、道草を食うからよ。この際、四国の主だった観光地は全部見てやろうと思うの。つまり、観光を兼ねた遍路旅なのよ」
「.........」
何か考え込んでいる私を見て、妻はおかしそうに
「あなたはいつも目的に向かって一直線に走りたがる癖があるの。人生って道草を食うから面白いって思わない?せっかく時間とお金をかけて旅行するんだったらうんと楽しまなくっちゃ」
私も真面目にひたすらお寺巡りをするつもりはなかった。弘法大師の信者でもなく、修行したいと思うほど切羽詰まった心境でもなかった。ただ二人とも仕事と最近の世の中にストレスが溜まり、何か気晴らしをしなければいけないという気持ちは頂点に達していた。
「そうだな......」
「そうよ。お大師さんも奥さんの言う通りだって言われるに決まっています」
妻は弘法大師と共謀した確信犯のような口振りである。しかし、気晴らし旅行ならもっと楽しい場所がありそうなもの、なぜ四国霊場なのか。
「そうだなあ。これまで仕事一辺倒だったし、それに君の計算だと西暦2000年は満願達成して迎えることができるな。この大きな節目に何かけじめをつけておくことには僕も賛成だ。じゃあ、八十八ヶ所巡りを新世紀の出発点とするか」
半分納得できなかったが、私は自分に理由をつけて、とりあえず「夫婦で愉しむ道草遍路」はスタートした。
遍路を思い立ってからの彼女は実に楽しそうだった。四国の旅行雑誌を何冊も買ってきて、毎晩観光地の研究を始めた。そのあまりの熱心さに、遍路が目的なのか、観光が目的なのか、私にはわからなくなってきた。
「ね、ね、霊場ルートを辿るとね。四国の観光名所は途中にほとんど点在しているのよ。少し寄り道すれば遍路しながらも観光できることがわかったわよ」
私に遍路を勧めておきながら、本人は観光旅行のような気分でいる。私は彼女ほどノーテンキにはちょっとなれなかった。遍路とは歩くものだと思っていたし、まして観光のついでに回るのは何か邪道のような感じがしたのである。
もう一つ気乗りがしなかったのは、遍路につきまとう暗いイメージである。四国遍路は一方で「死出の旅」ともいわれてきた。実際、昔は旅の途中で行き倒れてそのまま無縁仏となり、近くの寺に埋葬された人もいた。
妻にはそういうイメージはない。遍路ガイドブックまで買ってきてあれこれ私に教えるくせに、彼女にかかると「死出の旅」が「ハッピーの旅」に変わってしまうのだ。
私の中にある明暗分かちがたいものが、わずか三歳年下の妻にないのは、世代差であるわけもなく、たぶん性格の相違なのだろうと思った。だから、まあ妻が行きたいというのなら霊場巡りという気晴らしもいいかと軽く考えていた。
周知のように、四国八十八ヶ所は今からおよそ1200年前に弘法大師が開かれたという由緒ある霊場である。遍路とは、弘法大師の足跡を訪ねて歩く修行の
道だといわれてきた。ガイドブックには「自己発見の旅」だとか、「癒しの旅」だとか、「心のよりどころを探す旅」だとか紹介されているが、どこかきれいご
とすぎて私の心にはそぐわない。
ただ一つ空海には以前から魅かれるものがあった。真言密教の開祖である空海が修行した霊場であるなら、四国から漂い昇る「暗部」は密教自体にあるのか、
それとも別の理由によるのか、ふとそのわけを知りたくなった。いずれにせよ、二人とも遍路の世界のことはよくわからないままに飛び出したというのが真相で
ある。
◆第1日目(1996年5月3日)−夢のかけ橋鳴門の虹−
岡山から「うずしお9号」に乗り換えて徳島に着いたのは午後2時だった。私は車で来ようと思っていたが、運転をしない妻にはとんでもない長距離に思われるらしく、「無理はいけない」とうるさいので徳島までの往復は列車にした。したがって、徳島市からが車である。
予約していた駅前レンタカーには白のカペラが待機していた。さあ道草遍路の開始である。といってもまずは「鳴門のうずしお」見物である。助手席の妻は早速市内の地図を広げてナビゲーターを務める。
徳島市街地から国道11号線を北へ30分ほど走ると、右前方の海上に鳴門大橋が見えてきた。鳴門公園のパーキングに駐車して、「大鳴門橋架橋記念エ
ディ」へ渡る陸橋から鳴門海峡を一望した。足下から淡路島へ向けて鳴門大橋が一直線に海峡を突っ切っている。大橋の下には白く泡立つうず潮がおちこちにう
ごめいている。
記念館でうず潮のでき方を大がかりな水槽内で学習したあと、さらに海峡の全景を見るべく「鳴門山展望台」に登った。山頂まで全長68メートルの屋外エス
カレーターで周囲の景色を眺めながら上がれるようになっている。山頂から見渡す瀬戸内海は素晴らしかった。やはり人間、たまには外に出るべきだ。
5時半ごろ波止場に下りて「うずしお汽船」に乗船。いよいよ鳴門のうず潮に対面。小型汽船は大橋の真下まで来ると、そこかしこに渦巻く巨大なうず潮にひるまずに接近する。妻も私も目の前で見る豪快な海流の乱舞に歓声を上げた。こりゃあ、寺巡りより面白い。
上陸後、今度は別会社「鳴門汽船」に乗ろうと言い合った。海上で見た大型観光船のことである。高いデッキの上から見下ろせば、渦の全貌がなおよく見える
だろうと思ったからである。根がオッチョコチョイなのか、うず潮のとりこになってしまい、大急ぎで鳴門汽船の桟橋へ車を走らせた。だが一足遅れで「本日の
出航は終了」。
「残念、もう一度乗りたかったのになあ」
「いいのよ。またいつか来ましょう」
妻はもう気分を切り換えている。
「あら、虹!」
西の空には、おとぎの国へ誘うような七色の大橋が架かっていた。
エスカヒル展望レストランで鳴門公園の東西に広がるたそがれの海峡と、煌めく砂つぶのような鳴門市街の灯を遠望しつつ夕食。いつしかすっかり暮れなずんだ東の空に満月。鳴門の海は天に金色の夢を掲げて眠りにつこうとしていた。
■発心の道場(阿波・徳島県)■
◆第2日(1996年5月4日)−遍路旅スタート・人間空海に逢いたい・大師堂にすがる人々の思い−
徳島市内のホテルを出発すると、午前中に阿波の人形浄瑠璃を見ることにした。これも妻のプランである。
阿波は人形浄瑠璃の国である。阿波の人形座は江戸時代の最盛期には50を数え、遠く京や大阪まで興行に出かけ好評を得たという。私たちが向かう「十郎兵衛
屋敷」は徳島市街地より北へ車で15分。吉野川大橋を渡ればすぐである。傾城阿波の鳴門の主人公、阿波の十郎兵衛こと坂東十郎兵衛の屋敷跡がここにある。
屋敷内には農村舞台が再現してあり、かねてより見たかった人形浄瑠璃を見た。演目は「傾城阿波の鳴門」の一幕「巡礼の段」で、あの有名な「とと様の名は〜阿波の十郎兵衛〜」のくだりである。
数人の黒子が一体の木偶人形を巧みに操る。人形が複数になると狭い舞台が黒子で混雑しそうだが、これが見事な連係プレーで人形の背後を整然と移動する。きっと舞踊のようなステップがあるにちがいない。
私は黒子の見事な動きに妙に感心した。
主人公のモデルとなった坂東十郎兵衛は実在の人物である。彼は藩の信任も厚く仁侠心に富む人物であったが、米の不正輸入の冤罪によって、阿波藩存続のた
めに処刑された悲運の人である。体制を守るために個人をスケープゴートにする支配権力の手法は今も昔も同じである。権力とは非情なものである。
いや、権力をにぎった人間が非情と化すのであろう。私たち人間とは罪深いものなのだ。十郎兵衛の歴史展示室で私はやりきれない気持ちになった。
朝から懸念していた空模様は本曇りになっていた。屋敷の近くに十郎兵衛が処刑された十郎兵衛松がある。ひっそりとたたずむ老木は、いまだ無念の晴れやらぬ暗澹たる空を見上げていた。
●第一番札所・霊山寺
《霊山の釈迦のみ前に巡りきて、よろずの罪も消えうせにけり》
これは、四国霊場第一番、霊山寺の御詠歌である。十郎兵衛屋敷からそのまま国道11号を北にとり、途中迷いながらようやく見つけた一番札所は、霊場とい
うよりも寺町という風情である。山門付近は参詣者で結構な賑わいである。白衣のお遍路さんがかなり目立つ。ここから弘法大師のお導きによる「同行二人」の
旅が始まるのだ。「どうこう」ではない。「どうぎょう」と読ませるのは、弘法大師と共に修行するという意味だろうか。
ガイドブックによると、順拝者はここで装束をととのえ弘法大師の弟子となって旅立つとある。順拝用具は寺の中でも準備できるが(これはあとで知った)、
私たちは山門前の仏具店に入ってしまった。観光地の土産物店にでも立ち寄るような軽い気持ちで店内を一巡すると、順拝用具は種々さまざま整然と陳列してあ
り、見て回るだけでも物珍しい。日頃いかに仏さんと無縁な生活をしているかの証左である。
私たちには先達はいない。妻がガイドブックで仕入れていた知識と店の主人の説明だけで、にわかに遍路グッズを買いそろえてしまった。まずは納経帳(札所で墨書してもらい、朱印を頂く和綴じの帳面)を買った。
次に線香、ロウソク、納札200枚、経本1冊。それらを入れる小型のケースと白い頭陀袋。これらは順拝必需品である。念珠は持参してきたので買わなかった。
遍路装束は、本来、菅で編んだ遍路笠に手甲脚絆をつけた白装束が正しいそうである。丸い形の遍路笠は宇宙を象徴する大日如来を表している。笠には迷故三
界城(迷うが故に三界に城して)・悟故十方空(悟るが故に十方は空なり)・本来無東西(本来東西無し)・何処有南北(いずこに南北あらん)・同行二人など
と書かれてある。この笠をかぶることによって、大日如来の広大無辺なお力にすがることができるという。もちろん、道中の日差しや雨などをしのぐ実用品でも
あるが、車で回る私たちには必要ない。
店の主人に勧められて輪袈裟と御印集軸を買った。私は青紫の輪袈裟を、妻はきれいな赤紫色を選んだ。御印集軸は中央に弘法大師の座像が描かれていて、そ
の周囲を八十八ヶ所の札所で順番に墨書受印されるようになっている。結願のあかつきには立派に表装して家宝にするものだという。
納経帳があるので必要はないと一旦は断わった。それに、自分はいわゆる敬虔な大師信者ではない。床の間に飾って拝むようなことは生涯ないだろうと思ったからである。
ところが主人は「順拝途中できっと買っていてよかったと思います。軸が欲しくなっても、そのときは一番からもう一度回らなければなりません。絶対に記念
になるから」と熱心に勧める。確かに道中は長い。「途中で後悔してもそのときは遅い」、この殺し文句がきいて、何のことはない、結局値ごろな軸を一幅購入
してしまった。
店の主人はその勢いで衣装の陳列ケースへと案内する。筒袖の白ずくめは断わり、そのかわりに笈摺(一種の袖なし羽織)だけにした。背中には梵字の下に南無大師遍照金剛・同行二人と墨書きされている。
Tシャツの上に羽織ってみると、何か間が抜けている。妻がクスクス笑いながら輪袈裟を首に掛けてくれた。とたんに修験者にでもなったような気分である。こうなったら杖がなくてはサマにならない。結局、二人とも金剛杖まで購入した。
店の奥さんと思しき中年の女性がそれぞれの杖に鈴を結びつけてくれながら、「さあ、行ってらっしゃい」とほがらかに言う......。巡礼グッズ夫婦しめて2万9000とんで60円なり。私はそっと財布の中を覗いていた。
ともかく、これで二人は恰好だけは一人前のお遍路さんになった。何となく照れくさい。
つば広の日除け帽をかぶっている妻の胸の左右には赤紫の輪袈裟が垂れている。輪袈裟には「四国八十八ヶ所遍路旅」「南無大師遍照金剛」なる金文字が打っ
てある。後襟には同じく金の輪袈裟止め。赤いセーターの上に羽織った真っ白い笈摺。胸にはローソク入れの小箱を吊り、肩からはお軸を入れたビニールケース
を颯爽と下げ、腰にウエストポーチ、左手に念珠、右手には握り部分に錦袋のかぶせてある金剛杖を持つ妻の姿は、遍路というよりもニューファッションであ
る。死出の旅姿どころか、晴れやかな極楽への旅立ちのようである。
いや、本人も全くそのつもりでいるらしく、華やいだ声で「さあ、出発」と言って私を促した。私たちは遂に一番霊場の門をくぐった(あとで知ったことだが、寺内で旅装束を整えて門を出るのが正式だということ。私たちは張り切りすぎて逆をやってしまった)。
境内は広々として、ひっきりなしに行き交うお遍路さんや、普段着の家族連れやアベックなどで賑わっている。入るとすぐに錦鯉の泳ぐ池があって橋が架かっている。渡ろうとすると、妻が
「杖をついちゃダメよ。橋の下にはお大師さんがいるのだから」
とまるで先達みたいなことを言う。遍路心得でも読みかじっていたのだろう。
(鯉でもあるまいし、弘法大師が池の中にいるものか)と思ったが、彼女の極楽旅行に付き合って言う通りにした。
順拝中、金剛杖は橋の上ではついてはいけないということになっている。昔、弘法大師が宿を断わられ、橋の下で寝られたという言い伝えが理由である。現実と伝説が交差する世界、それが遍路旅なのである。
私たちはともかく本堂へと向かった。伽藍は古刹であり、重々しい風情を漂わせている。金堂の前で先ほど買ったばかりの納札を取り出して願文を書き、日付と住所氏名を書き添える。
さて、願文を何としたものやら。私はまことに不心得な遍路で、とりたてて願い事が浮かばないのである。妻のを覗き見ると、家業繁栄などと書いてある。全
く現実的である(私たちは小さな学習塾を営んでいる)。しかたがないので私は家内安全、健康長寿と書いた。この妻にしてこの夫。私たちは見事に俗物であっ
た。
とっさに切実な願望が浮かばないということは、とりあえず結構なことかもしれない。
本当にないのだろうか? いや、あるにはあるのだ。ただ私は、願文を書いて納めるという信仰上の行為と自分の思いの発露がまだ一致していなかったのである。
妻を見ると、目を閉じて一心に祈っている。彼女は昔から神社仏閣が好きである。というよりも、聖なる場所が彼女の意識空間には合っているようだ。だが、
彼女は信仰はしてはいない。たまたま遭遇した聖なる対象を通して自分に祈っているだけである。あえて言えば、彼女の中の神仏に祈っているのである。
同じような意味で、私も特定の宗教を信仰していない。弘法大師の弟子になるつもりもない。俗世間の生活者である自分が遍路になったとたんに弘法大師の弟子だと思うには、私はあまりにもこだわりの多い人間である。
大師信仰を否定しているのではない。むしろ逆である。そこには難しい理屈もこだわりもなく、庶民の素朴でおおまかで、かつ切実であろう感性が大師信仰を
支えているのだと思っている。そのような世界に自分もやすやすと入っていければと思う。何の躊躇もなく素直に弘法大師の弟子だと思える人間でいたかった。
菅笠をかぶり、自分を無にして純白の遍路となり、大師と共に同行二人の旅に出る。だがそれは、今の私にとっては美しい「嘘」だった。
大師堂に手を合わせた私は、しかし弘法大師を神仏と仰いではいなかった。私は空海に逢いたくて四国に来ていた。