★空海と母性原理(仮説・仏母院)
私が、空海の感性の底流には、母親の多大な影響があったのではないかと直感したのは仏母院を訪れたときである。司馬が空海の生誕の地を重視しなかったように、空海を理解するのに生誕の地は善通寺でも海岸寺でも、どっちでもよさそうなものである。だが、幼少年期に人間の土台が形成されるならば、私はやはりその時期の彼に与えた家庭環境を無視できないと考える。
とはいうものの、空海の幼少年期を探ることは空海研究の中でも不可能な領域である。空海の年譜でハッキリしているのは15歳で入京し、母方の伯父阿刀大足(あとのおおたり)について受験勉強を始めた頃からである。それ以前の少年時代についてはほとんど不明である。わかっているのは宝亀四年(一説に宝亀5年)に讃岐国多度郡に生れたということだけである。まして幼少期は全く闇の中である。『御遺告』には幼いころ父母より貴物(とおともの)と呼ばれ大切に育てられたという話はあるが、歴史上の空海の幼少期を知るに堪える資料は見当たらないようである。
とすれば、残された方法は空海密教の特徴と、空海自身の述懐と、あとは伝説から浮かび上がる空海の特性がそれらとどういう場面でつながるのか、いわば状況証拠を集めながら彼の幼少期を想像するしかない。
さて、空海の生誕地は一応「屏風ヶ浦」となっている。だが、空海自身は、自分の生まれた場所が「屏風うヶ浦」であるとは明言していないのである。これがもとで海岸寺と善通寺との本家争いも生じたのだと思うが、彼は讃岐の国の「樟のおい繁る浦」としか言っていないのである。私が最終的に「空海の風景」を山岳の父性的イメージから海洋の母性的イメージに移したのは、空海の遺した「樟の繁る浦」と仏母院の歴史もその手がかりになった。
私は初めて仏母院を訪れたとき、空海が政界ではなく仏道に入った理由は、学問の家系である母方の血を引き継いだからではないかと語った。その中でも密教を選んだ理由は、母親の影響があったのではないかと書いた。それは、空海には母親にまつわる伝承の多さからであり、これも「水と空海」と同様、伝説から空海の本質に迫るという、直感的なアプローチなので、一つの仮説として聞いていただきたい。
さて、その仮説を仏母院で実見してみたい。もう一度現地に戻ってみよう。
仏母院の山号は「八幡山」である。その八幡山は仏母院の南前にあり(童塚のそばから登れる)、この地方では、原始時代より強烈な祖先崇拝の的となってきた墳墓の山である。八幡山には「荒魂神社」が祀られているのもそのためだろうと思われる。八幡神は古来この地の産土神(うぶすながみ)であった。
童塚は、ちょうど荒魂神社の登り口に当たり八幡山を拝する位置にある。この位置関係から推測されることは、真魚はここで祖先崇拝をしていたのではないかということである。空海の泥仏崇拝の話を、弘法大師はもともと仏の子であったという神格化説と解釈するよりも、日頃、大人たちから聞かされていた氏神様を慕って、その山の麓で「祀り遊びをしていた」と推理するほうが現実的であるように思える。
理由はそれだけではない。いかに神社が住まいの近くにあっても、子どもが神仏を崇拝するには家庭環境がそれに相応しいものでなければならぬ。つまり、母方の家系による影響である。
寺の北は瀬戸内海が開けている。寺から徒歩数分の海辺に「熊手八幡」がある。仏母院は、古来は熊手八幡の別当職にあったと伝えられているので、母方の生家は神事を司る家系であったと推される。司馬が言うように「物持ちではない」が「卑姓階級であるにしても庶民ではない」家系である。
とするなら、真魚にとって神仏は日常極めて身近な存在であったと考えられる。そうすると泥仏伝説は、母の実家に行くたびに氏神様を拝んで遊んでいたと考えれば、家庭の教育環境からも合理性を帯びてくる。
八幡神を祀るこの地方を古来屏風ヶ浦と呼称していたので、この寺のフルネームは「八幡山仏母院屏風ヶ浦三角寺」という。三角寺の由来は、一切の魔を降伏する護摩壇を示している。仏母院の縁起によると、唐から帰国した空海が母の住居近くに神の御霊が来臨される聖地を感見して、この地をそのまま仏母院を象徴する三角形の地として、後世のために残したとされている。母御前を祀る「御住屋敷」と呼ばれる御堂のある場所は、今も三角形の地形になっている。
事実、帰国後空海がこの地に足を入れたとすれば、ここは産土神の地である。神の御霊を感得したかどうかは別にしても、氏神様を信じて真心を込めて泥仏を祀った懐かしい母の里である。思い出の童塚はすぐ近くである。入唐求法を果たした空海が、神の加護によって無事帰国できたことを、郷里の氏神に報告したとしても不思議ではない。縁起の始まりは案外こういうところにあったのかもしれない。そのためには法を犯して帰国した空海を迎え入れることができるのは、地方行政官の父方ではなく母方でなければならない。これが、空海と母親のつながりを考える二つ目の理由である。
仏母院の建立は弘仁年間(9世紀)以後のことらしいが、寺伝によると、空海が母親の生家のことを嵯峨天皇に奉聞していたらしく、仏母院には嵯峨天皇勅筆と伝えられる「木額」が宝蔵されている。鳥居の上などに掲げられてある額縁である。ご住職が見せて下さったが、朽ちかけた木額は八幡大菩薩とかすかに読めた。
さて、熊手八幡の縁起は『紀伊続風土記』に見られる。
「巡寺八幡宮(熊手八幡)と奉るは、旧讃岐国多度郡屏風浦に御鎮座ありて、弘法大師の産土神なり。御神体は神功皇后征韓の日、用い給う所の御旗、長鈎(熊手)にして、皇后凱旋の時、屏風浦に至り殿を造りてこれを蔵め云々」とある。
神功(じんぐう)皇后といえば応神天皇の先帝気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(女帝)のことである。母方との関係は阿刀家も上代まで行くと全くわからない。ただ司馬によると、母方は物持ちではないが姓は空海の父方(佐伯)の直(あたい)より上の宿禰(すくね)であったという。空海の母方が熊手八幡の管理を務める家系であれば、この点も合点がいく。後年空海は天皇の血筋を引いていたなどといわれてきたが、実際は卑姓階級で身分的にはあまり高くない。むろん、皇族や貴族に連なる家系ではない。
次に物証であるが、仏母院にはもう一つの寺宝があった。熊手八幡の御神体として代々伝わっている「長鈎(熊手)」である。これも見せてもらった。あれやこれやでご住職と推理してみたが、やはり仏母院の先祖は、熊手八幡の別当ではなかったかということになった。現在、熊手八幡は道路や家が立て込んで狭い境内しか残されていないが、ご住職によると、仏母院を含むこの辺り一帯が、もとの熊手八幡の敷地ではなかったかということであった。
弘法大師の生誕地をめぐって、かつて善通寺と対立した海岸寺は熊手八幡からそう遠くない同じ海岸にある。つまり、熊手八幡と阿刀家の屋敷跡(仏母院)と海岸寺の三つは、徒歩で行ける距離に集中しているのである。
善通寺に取材に来た司馬も海岸寺のことは聞いていたらしく、
「空海がうまれたのは、善通寺からはずっと海岸のほうの、いま海岸寺といわれる寺の所在地だそうだともいわれているが、出産のとき海浜に産屋でも設けられたのがそういう伝承になったのかもしれない」と書いる。ただ、そのあと続けて「空海の生誕の地は、いまの善通寺の境内である」と述べている。出産のときに海浜に産屋を設けたとしておきながら、空海は5キロ以上内陸の善通寺の境内で生まれたと言う。何が言いたいのかわからぬが、おそらく、海岸寺は大師の産小屋だったという説をどこかで耳にして、双方紹介した上で、深く考えもせずに善通寺説をとったのであろう。司馬の歴史講義に散見する論述方法である。
私の推理はこうである。善通寺の父の屋敷が、息子を出産するのにわざわざ5キロも離れた物淋しい海岸で産ませる理由は思いつかない。佐伯氏は地方行政官の家であり武門の家柄である。しかし母親が里の実家で産んだとすればどうか。実家は神に仕える家柄である。神道は血を不浄とするから、同じ敷地内としても血穢を嫌って少し離れた所(弘田川の向こう岸)に産屋を設けていたとしても不思議ではない。そう考えれば、海岸寺に「産湯の井戸」や「手拭掛けの松」などが手厚く祀られてる理由も納得がいく。
ところで、空海本人はどう言っているのだろう。『三教指帰』で登場する道教の師虚亡隠士(きょぶいんし)は、仮名乞児(かみょうこつじ)なる怪僧(空海)に「公はこれいずれの洲、いずれの県、誰が子、誰が資ぞ」と問う場面において、空海は自らの出生地を仄かに明かすのみである。
「しかれども頃日(このごろ)の間、刹那幻(しばらく、まぼろしののごとく)に南閻浮堤(なんえいぶだい)の陽谷、輪王所化の下、玉藻帰(たまもよる)所の島、橡樟(よしょう)日を蔽(かく)すの浦に住し、未だ思ふ所に就かざるに、忽(たちまち)ちに三八の春秋を経たり」
つまり、あえて現世の出身地をいうならば、仏の住む遥か南方にある州、天皇が統治される日本の玉藻帰る所の島(四国讃岐)の、「樟の木が日を隠すほど繁る浦」であるとしか答えていない。ちなみに「玉藻帰る」は古来讃岐の枕詞である。
善通寺は海岸から約5キロ以上入った内陸にあるので、「玉藻帰る所の島」でもなければ「橡樟日を蔽すの浦」でもない。それに対して、熊手八幡や海岸寺は文字通り玉藻も寄ってくるし樟の木も繁る浦である。つまり、仏母院を中心としたこの地域が出生に関与していることがうかがわれるのである。
ちなみに、先の空海の文は、道教に対して仏教の優位性を論証する場面に出てくるものである。虚亡隠士の「あなたはどこの誰か」との質問に対して、空海は人間どこで生まれたかなどと、それ自体愚問であると笑い飛ばす。時間には始めも終わりもなく、歴史的事実など虚仮であり、すべては転変無常なる轟々と流れる輪廻のなかにあるという仏教論が、この場面でのテーマである。出生地を語るのはいわば付け足しである。
にもかかわらず、彼がわずかに漏らした故郷の描写は奇妙に具体的である。空海独特の華麗な文体を差し引いても、どこか高らかに郷土を誇り、朗々とした響きを感じるのである。『三教指帰』が、言われるところの若き空海の苦悩と決意の書であるならば、彼が漏らした故郷の形容が「樟の繁る浦」に象徴されたのは何故だろうか。これを執筆したときの空海はまだ放浪を続ける一介の私度僧であった。一人「決意の書」に向かったとき、ふと幼い頃の原風景が脳裏をよぎったのではないだろうか。それは「樟の繁る浦」であった。心に宿す海辺の母の実家である。
文章はどこかで心の内を語るものである。『三教指帰』には、冒頭「文の起こり必ず由あり。天朗らかなるときはすなわち象を垂れ、人感ずるときはすなわち筆を含む」という彼の言葉で始まっている。この世で最初に神仏を拝んで泥仏遊びをした空海は、母の優しい眼差しに見守られていたような気がしてならない。
よく読むと空海はこのあと「未だ思ふ所に就かざるに忽ち三八の春秋を経たり」と言っている。三八とは24歳のことであるから、その頃まだ全容としての密教はつかんでいなかったことがわかる。久米寺で大日経(密教の根本教典)を発見して入唐を決意するのが30歳だから、このときは佐伯の家を捨てて放浪の身となりながらも道を極めてはいなかった。だからこそ空海はつらかった。だから『三教指帰』を著さねばならなかった。彼のその思いは母の里の描写のあとに続いている。豊かな母親の愛がどこかで空海密教の誕生を支えていたような気がしてならない。
密教思想とは生命の大肯定にある。それを感得する能力は原初の母胎内の記憶と、幼児期の母性愛以外に与えられないはずである。私が空海密教の底に母性原理を感じるゆえんはそこである。
★空海と弥勒菩薩、フェミニストは密教を学ぶべし
慈尊院の境内の奥に鳥居が見える。それをくぐって石段を登って行く。
登りつめると、そこは弘法大師創建の「丹生官省符神社」(にうかんしょうぶじんじゃ)があった。ちょうど慈尊院の奥の院といった感じである。ここが町石道(ちょういしみち)(国指定史跡)で名高い旧高野街道の起点であった。初めての高野詣りのために現地の地形がよくわからず、高野町の観光案内所で取り寄せていたパンフレットにも載っていなかった。
電話で問い合わせたとき、歩いて登りたいと言ったら、歩いたら大変な時間がかかるし、今はみんな車で来るからそうしたほうがよいと勧められて車で来たが、本当は歩いて登りたかった。だがこの寺に来てみて、高野詣りは慈尊院ら始めるのが正式のルートであることを知った。妻の言い出した道草のお蔭で、はからずも順打ちで金剛峯寺に登ることになった。
何事においてもさっさと目標に向かって進みたがる私は、日常大切なものを見落としていたのかもしれない。人生を楽しむという点においては妻よりもはるかに下手かもしれぬ。急がば廻れとはよく妻に言われる言葉である。急ぐ割には私の歩んできた道は遠廻りをしてきたようである。妻はのんびりしているようだが、確実に目標に向かって進んでいる。腹の据え方がどこか別のところにあるようで、それが女の主体性というものであれば、やはり男とは別の生の実感を知恵として生きているところがある。
再び慈尊院の境内に戻ると、御母堂との縁結びの「みろく石」を撫でる。傍らの柱には白い布で形作った乳型絵馬がいくつも奉納されていて、女人禁制の山には不釣合ななまめかしさを漂わせている。空海の母親である弥勒菩薩と縁を結んで高野山上へ登って行くのが本参りとされているそうだ。高野山の玄関とされている慈尊院は空海との「結縁寺」であった。
そういえば空海は弥勒菩薩を求めて仏道に入ったことを思い出した。『三教指帰』に描かれた仮名乞児空海は亀毛先生(儒教)と虚亡隠士(道教)の前にもの凄い風体で現れる。紙子を着、馬の尻管のような数珠を右手に懸け、その辺りの道祖神に供えられた粗末な草鞋をはき、駄馬の索を帯とし、食を乞うための木の鉢は五片に割れたものを接ぎ合わせて肘に懸け、茅で編んだござを抱え、鐶の落ちた錫杖を握り、口の欠けた水瓶をぶら下げ、縄を張った床几(椅子)などを背中にくくりつけている。
儒教道教二人の師は呆然としてこの乞食の若者をながめて質問する。
「あなたはどこの国のだれの子で、どこへ行こうとされているのか」
そのとき空海の口を突いて出たのが「我は玉藻帰る所の島(讃岐)の橡樟(くすのき)日を蔽すの浦に住せり」という言葉であったことはすでに書いた。次に、
「なぜあなたはそんなに数多くの道具をもっておられるのか」という質問に対して、
「私は仏陀の勅命を奉じて兜率天におわす弥勒菩薩に会いに行くのだ。これは急ぎの旅姿である」と空海は昂然と胸を張って答えるのである。(あとで調べると仮名乞児の持ち物は比丘十八物であった。空海にとって弥勒菩薩の説法に触れるための必需品である)
密教を知る前の若き空海の姿である。弥勒菩薩の待つ天に旅するのだと勇躍し、まるで足踏み鳴らして乞食旅をする空海は、健気でもあり痛々しくもある。誓いを貫くまでは恥を忍んで門口で行路の食を乞うとも言っている。その後に吐露された仏道への真情と、家名を捨てた自責の苦悩など、涙なくして私には読めなかった。
慈尊院は、弘法大師の御母公が弥勒菩薩になられた夢を見られたことが縁起となっている。出来すぎのように思うかもしれないが、弥勒信仰は早くから空海の中に認められる事実であり、空海の信仰にとって重要な機能を果たしている。弥勒菩薩は、仏滅後五十六億七千万年を経た暁に、天上の兜率天より一切衆生を救うために地上に生まれ出てくる慈愛の仏である。
これらが示唆するものも、やはり空海の母性に対する聖性信仰である。事実、空海の思想のどこを探しても女性罪業説はない。仏母院と同様、妻の言い出した慈尊院の道草でまた空海を考えさせられる。そういう妻も母性は聖性であると言う。
同じ女性でもフェミニストは、母性とは男が作った神話であり、本来女性に母性本能は存在しないという。それは男性支配による権力構造(家父長制度)の中で、子を産む「性」として支配秩序に囲い込むために押しつけられた差別神話だと言うのである。つまり、歴史的、文化的、社会的に女性が搾取されてきた背景には、母性本能という捏造があるために、これを全面的に否定しなければならないと母性を攻撃するのだ。
言い出したのは、「第二波フェミニズム」といわれる1970年以後の女性活動家である。つまり、全共闘運動のなかから生まれた階級闘争思想である。日本国の破壊を狙ったコミュンテルンに洗脳された左翼知識人によって、これまた洗脳された大学人や日教組からしっかり左巻きにされた全共闘は、責任倫理を放棄しただけではなく、ついでにフェミニズムの害悪をたれ流すことによって、とうとう子育てまで放棄してきたようである。
母性本能が神話であれば人間は動物以下である。最も知能が低いとされている爬虫類でも育児能力はもっている。なかでも、ワニ類の育児行動は哺乳類や鳥類に匹敵するものであることが最近明らかになってきた。疋田努氏の『動物たちの地球』によれば、産卵を終えた母ワニは、子ワニたちが孵化するまで巣の近くに留まり、捕食者から巣を守るそうである。ナイルワニはその間80日から90日ほとんど餌も取らず育児に専念するという。
人間の母性本能を認めないフェミニストは、女性の育児能力は爬虫類以下であると言いたいのだろう。精神分析学者の岸田秀氏が言うように「人間は本能が壊れている存在」であるなら、文明以前の人類は育児行動をとらなかったはずである。しかし、原始人は育児をした。種族保存本能が働いたからこそ我々が存在しているのである。出産すれば母乳が出るのは男が創作した母性神話なのだろうか。学者の言うことは難しくてわからない。
母性が破壊されつつあるのは文明病である。生態系の外に出た人間の本能は確かに鈍くなっている。文明の構築は歴史的に見ても男の仕事であった。ならば、男は半分ビョーキである。E・フロムによると、愛とは不安の克服であるという。胎児が母体から切り離されるときの不安が、再び合一を渇望する潜在的欲求になるという意味のことを言っている。つまり誕生は失楽園なのだ。故に愛の本質は分離の克服であるという。
そして、蜜と乳に満たされたエデンの園を求めて人類は文明を築いてきた。文明や宗教を生み出してきたのが男性中心であったことを考えれば、本来男は完全なる愛を求め続ける「神経症」である。
男の精神病(文明病)を癒すことができるのは、生命を育む母性原理しかないが、母性を否定するフェミニストは「女の復権」と言いつつ、実は男並みにならんと欲しているのである。何故なら男には憎っくき母性本能がないからだ。母性は神話であると言いつのる彼女たちは、男性が独占してきた文明の支配権力を自分も所有したいのである。
妻は母性は"母聖"であるという。僧侶が霊性を守るのと同じように、これがなくなれば人類に智恵がなくなることだと言う。本来男性は女性の聖性を命がけで守るために存在したはずだが、またそれによって自らも救われる存在であったはずだが、文明という力を得たことによって自己を見失ってきた。文明が人間を支配し権力化したことが女性を虐げてきた原因でもある。だから、あのようなアマゾネスを作ってしまったと言う。
田嶋陽子はいとも簡単に「女なんかやってられない!」と言う。ならば「男なんかやってられない」という論理が成り立つ。女が権力によって女を押しつけられたのなら、男は男としての生き方を押しつけられたのである。女だけがつらいのではない。男も社会的性差の抑圧を受けてきたのは歴史的事実である。
では、男や女などという強制された生き方をやめよう。女性解放は男性解放でもあるという彼女らの言うとおりである。ならば、母親や父親などという強制された生き方もやめるべきである。結婚した男が父親という社会的役割に縛られるのは不自然である。社会的責任はなにがしかのしつけ強制を伴うが、「押しつけない。命令しない。強制しない」の「ないないづくし」が教育の原点だと主張するノーテンキな教育者(?)もいるくらいだ。そうやってみんなが役割を放棄し、気楽な個人主義を求めてきたのである。
人間関係は分裂し、社会は限りなくアトム化し、そして孤立社会が進行した。それが家庭崩壊であり、学校崩壊である。最早、核家族などというものではなく、現代は「単独家族」が広がりつつある。単独家族にとって、子どもはジャマモノは子でしかない。
その結果、しわ寄せは全て子どもにくる。子育て放棄や幼児虐待が増加する背景には、そういう自己中心的な生き方を容認する風潮があったのだ。強制イコール悪、すなわち国家権力は人民の抑圧装置であるというオピニオンリーダーのたれ流す左巻思想である。強制社会における弱者の救済と言いながら、根深いところで最も弱者を虐待しているのである。これが、母性を否定し、我一代の自己実現を望むフェミニズムの公害である。つまりはあさましいほどのエゴイズムの主張なのである。
慈尊院をあとにした。
目の前に流れる紀ノ川を見ながら妻が言った。有吉佐和子の描く女性は割と好きだそうだ。家や夫に従う一見古風な女性を描いているようだが、決して主体性を失わない女性の強さがあると言うのである。それは海へ海へと流れていく川のように、周囲を潤し、一つひとつを飲み込んで、気がつけば夫さえも妻の人生の流れに浮かべて運んでいく大河のような生き方であると。
★高野山の朝
九度山から国道480号を上って高野山の大門に着いたのは宿坊の門限の5時だった。
高野山は海抜約1000メートルの山上に東西約6キロ南北約3キロにわたる高峰盆地をもつ山である。八つの小峯が中央に開けた平地を囲んでいるさまは、ちょうど蓮台の八葉を思わせる山岳地形である。峰総面積110余ヘクタール(33万坪)の広大な山上盆地に、後世最盛時には数千ヶ寺を擁した一大宗教都市ができ今日に至っている。(現在117ヶ寺)
空海は都塵を避けた深山幽谷のこの地を、山岳修行に明け暮れていた優婆塞時代にすでに発見していたようである。
「空海少年の日(若い頃)好んで山水を渉覧(歩き廻る)せしに、吉野より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程(二日間)にして平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊の国、伊都郡の南に当たれり。四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり(訪れる人がいない)」と高野山の様子が書かれてある。
山頂に着くと高野山の結界のシンボルである褐色の総門は高さ25メートル。堂々たる風格で出迎えてくれた。(そうか。ここが空海のいる高野山か)
山門脇の観光案内所で道を尋ねると、感慨に耽る間もなくまっすぐに西禅院という宿坊寺院に飛び込んだ。
第三日目。
高野山の朝は冷え込む。
6時、朝の勤行に出るために広い院内の曲がりくねった廊下を渡って
本堂に行った。勤行に参加する人はもっと多いかと思っていたが、この
日は私たちの他にはもう一組の中年夫婦だけだった。輪袈裟を掛け、笈
摺を羽織った私と妻は、天井一面灯籠の吊り下がる暝暗たる祭壇の前に
座った。
僧侶たちの読経が流れるなか、昨夜たまたま寺院から勧められるまま
に申し込んでおいた両親の供養が始まる。正面の阿弥陀如来を仰いでい
ると、父親を求めて高野山に登った石童丸の物語と、もう戒名となって
しまった父母の笑顔が瞼に浮かんできた。
月に村雲花に風。散りて儚き世のならい......
(もう父と心ひとつに解け合っただろうか)
女人はみ山にのぼられず、母はみ山にのぼられず......
(母さん。ここは高野山だぞ)
母の淋しそうな歌声が、朗々と響きわたる『理趣経』の中にかき消えていった。
★結縁灌頂、胎蔵界大日如来と血脈す
高野山の宿坊寺院は50以上あるが、私たちの泊まった西禅院は金堂に近かった。5月3日から5日までの3日間、金堂において結縁灌頂(けちえんかんじょう)が催されることを知ったのは、観光案内所からパンフレットを取り寄せたつい先日のことだった。私は『空海の風景』で空海が唐の青龍寺で灌頂を受ける場面を読んでいたので興味はあったが、まさか観光客が灌頂を受けられるとは思っていなかった。だから高野山に来たせっかくのチャンスだから受けてみようと思って近くの宿坊を予約していたのだ。
高野はまだ桜が咲いていた。今朝の勤行ではからずも父母の供養ができたせいか、それとも清々しい朝の空気のせいか、もの悲しいはずの高野山は晴朗な気に満ちていた。
観光地図を確かめつつ辺りを散策しながら金堂に向かう。金剛峯寺の一角、大伽藍の建ち並ぶ境内の中央には、高さ41メートルの朱色の根本大塔が、朝の陽差しを浴びてひときわ鮮やかに目に飛び込んできた。その向かいには一山総本堂の大法会が行われる金堂(講堂)が重厚な屋根を支え、正面入り口には「結縁灌頂開壇中」と書かれた大きな幟が掲げられている。
申し込みをすませるとしばらく根本大塔の中で待たされた。内陣には胎蔵界大日如来を中心として、いずれも黄金の金剛界四仏が安置されている。それを取り囲む十六本の柱に描かれた色鮮やかな十六菩薩とともに曼荼羅の世界が表されている。
「ここで灌頂を受けるのかしら」
「さあ、一般参詣者向けだから、儀式もきっと簡略化されたものだろう」
本格的な灌頂は、まずその前に投花という儀式がある。灌頂を受ける者が目隠しをされて灌頂壇に上がり指に挟んだ花を投げるのである。灌頂壇は諸仏諸尊のひしめく曼荼羅の図表が広げられており、花の落ちたところの、いずれかの仏、菩薩がその人の生涯の念持仏となるそうだ。
灌頂の種類は多いが、最も代表的なものは結縁、受明、伝法の三種類だといわれている。空海は唐の青龍寺で密教を修行する行者としての学法灌頂をまず受けている。空海も儀式通り投花をやった。空海に灌頂を授けた密教第七祖の恵果阿闍梨は、彼の師である不空三蔵(第六祖)から灌頂を受けたとき、香花は転法輪菩薩の上に落ちたという。
空海が縁を結んだ仏は、胎蔵界曼荼羅四百九尊中、中央の主尊大日如来だった。この幸運に恵果阿闍梨は思わず「不思議、不思議」と叫んだという。そして一ヶ月後に金剛界の灌頂を授けたのであるが、このとき金剛界曼荼羅中、空海はまたもや大日如来の上に投花した。恵果はたび重なる宿縁に歓声を上げて賛嘆し、空海に金胎両部の大法をことごとく授けたあとで「遍照金剛」という号を与えた。遍照金剛とは大日如来の密号である。
恵果の師、不空三蔵がそのまた師である金剛智から灌頂を受けたとき、花は空海と同様、大日如来の上に落ちた。金剛智は大いに喜んで「不空は他日、大法を起こすであろう」と言ったそうである。恵果は偉大な師のその伝承を知っていたので、たび重なる空海の奇跡に過分な呼称を与えた。
恵果はこの東海の僧もまた不空と同様、他日大法を興すかと思い、歎声を上げたのではないかという司馬の感想はもっともである。私は恵果は空海を師の生れ変わりだと思ったのではないかと思う。それは恵果の遺言(我と汝と、久しく契約ありて、誓って密蔵を弘む。我東国に生れ変わって、必ず弟子とならん)という言葉にその思いが伝わるからだ。事実、空海は日本において大法を興した。密教法灯第八祖となった空海は、永遠不壊の金剛たる智恵の光を遍く照らす光明となったのである。
「最澄も空海から何度か灌頂を受けているんだけどさ」
「どんな仏様の上に落ちたの」
「どうもはしっこの方のあまり聞いたことのない菩薩の上に落ちたらしいよ。司馬さんは、最澄は何かへまな感じのする人だと言っているが、目隠しをする前に、何かこう、大日如来の場所を確認しておいてだな。あとは山勘でエイ、ヤっとやれなかったかなあ。空海は肝心なときにはストライクを決める人だな」
「そりゃあ、空海は運動神経が発達してたのよ。だって猿のごとく山林を走り回っていたんですもの」
「そりゃそうだ。天狗の兄弟分みたいな人だったからな。君は空海の生まれ変りでも運動神経だけは引き継いでいないね」
「うん、これだけは駄目なのよ。きっと私もへまをするわね」
そんなことを話していると係のお坊さんに金堂へ案内された。いつの間に集まったのか、もう大勢の人たちが講堂へと導かれて行く。広い堂宇の内側は黒いまん幕に覆われて真っ暗である。懐中電灯を持った僧の指示に従って、二、三十人の一団といっしょになってうずくまり「南無大師遍照金剛」を合唱していると、まず阿闍梨が登壇して結縁灌頂の説明をする。暗いからまるで大師堂の奥の弘法大師像を見ているようである。
その後順次灌頂道場を移動しながら先へ進んでは順番を待つ。私たちはすでに二本の中指を立てて合掌している。この指の間に花を挟むそうである。道場に入る前にもらった鉢巻きのような長い和紙は両目を覆う目隠しに使われるものだとようやくわかった。(小説で読んだのと同じだ)
足元の行灯の薄明かりの中で、私と妻は互いに身を寄せ合ってほほ笑んだ。先の組と後の組と、そして自分たちのグループの唱える真言が真っ暗な堂内の天井にとどろく。
まもなく目隠しをされ、指先に花らしきものを挟まれた。同時に視界は暗黒となり、要所要所で聞こえる若い僧の声に従って数珠繋ぎになった。妻の指先が私の背中をつつきながらついてくる。後の方に立っている指導僧が大声で「もろもろの悪趣の門を閉じて、清浄の五眼を開かしめん!」と叫ぶと、真言の声々は一段と高まった。
「オン、サンマヤ、サトバン!、オン、サンマヤ、サトバン!」
修行で鍛えた学僧たちの張りのある声が混じって、信者たちの真言は一丸となって伽藍に弾け飛ぶ。道場全体が巨大な真言の塊と化した。
半分訳がわからぬままに、何やらぐるぐると闇の中を引き回されて、終点らしき所に着いたとき、これより投華得仏を行うという説明があったようだ。(なにしろ伽藍は真言の渦でよく聞き取れなかった)(こりゃあ、エイ、ヤっとはいかないぞ)
一瞬自信を失いかけたとき、「もっと腕を伸ばして」と指導僧が引っ張ってくれた。一か八かソレッとばかりに投げると、「大日如来の上に落ちた!」と言う指導僧の声。目隠しをはずされて見ると、花は曼荼羅の中央に落ちていた。隣の曼荼羅には妻がいて、今しがた投花を終えたところだった。やはり大日如来の上に落ちていた。(初めからこうなるようにされているんだ)そう気がついたがとても嬉しかった。
最後は阿闍梨が座しておられる薄暗い部屋に導かれた。指導僧の指示に従って両手を差しのべると、阿闍梨様より五鈷杵を握らせてもらった。空海が胸に握っているあの五杵である。私の手を包むようにして何度か握らせたあと、冠のようなものを頭に載せると五智の法水をチョイチョイと振り注いでもらった。そして、鏡で自分の顔を映し出された。生まれ変わった? 自分の顔は相変わらず不細工である。
次に密教の八祖相承血脈(大日如来、金剛サッタ、龍猛、龍智、金剛智、不空、恵果、弘法大師空海)の大きな肖像画のある部屋に通されると、順次焼香をしてようやく暗がりの中から出てきた。道場の出口で結縁灌頂血脈の証明印をもらった。私たちは大日如来と血脈したのである!
外に出ると五月晴れの空が眩しかった。
「面白かったなあ」
「本格的だったわね。お腹の中から出てきたみたい。私、へま
しなかったわよ」
「あれよ、あれよという間に二人とも大日如来と結縁しちゃっ
たぞ」
「今日は年に一度の胎蔵界結縁灌頂だったじゃない。グッドタ
イミングね。あら、そういえば今日はあなたの誕生日よ!」
「あっ、そうか。そうだったのか。また奇遇が重なったなあ。S先生の日程に合わせたから偶然こうなったんだな」
「ううん、偶然じゃないわ」
雲一つない日本晴れの空は高く澄み渡っていた。