エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海を歩く

トップページ > 空海を歩く > 四国八十八カ所遍路「空と海と風と」 > 空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第四十一回

空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第四十一回

大師のおわす高野山へ


★空海と水、空海の遺言

 新年度の塾の仕事は4月上旬まで猛烈に忙しい。冬期講習からそのまま翌年にかけて高校受験を控えている中3生の特訓が続く。おまけに2月は持ち上がり生徒の三者懇談や新規入塾者の面接、新学期のクラス編成やら受け入れ準備などが集中する。その間に私学の入試と合格発表。そして3月開講。同時に公立入試。中旬には合格発表があり、生徒や保護者が合格報告に来るので、その対応やら、確定申告やら、駆け込み入塾の受付やらで、ようやく落ち着くのが4月中旬である。

 昨年末以来ほとんど休みのなかった私たちはヘトヘトになっていた。それで5月の連休は和歌山の温泉に保養に出かけることにした。むろん第一の目的は高野山の空海に面会することである。

 まずは高野山に行き、帰りに大阪のS先生にお目にかかろうと思っていたが、先生の都合で先に会おうということになった。よって第一日目は大阪で泊まることにした。ホテルまで来て下さった先生といっしょに近くの「石切神社」に参詣。その後ホテルで夕食を共にしながら遅くまで話が弾んだ。

 翌日高野町に向かう。
昼過ぎに和歌山県橋本市に着く。正面に高野山が見えてきた。紀ノ川平野を愛車を走らせて神野々という所にある温泉センターを探す。温泉同好会の会長と早速ひと風呂浴びるためである。高野山の麓には「ゆの里」という良質の温泉センターがあることを最近知って、妻と是非寄ってみようと決めていたのだ。

 カラスの行水だった私は今ではすっかりオルグされてしまい、けっこう長風呂を楽しむようになった。というのも、男の悲しいところかもしれぬが、私は温泉道楽に「思想」をもってしまったのである。それは「水の空海」から教わった日本の文化思想である。どうして日本人はこうまで水に浸かるのが好きなのだろう。

 私は室戸以来「空海と海」や「空海と水」のつながりを考えてきたが、実は「海」と「水」との関連性がいま一つ説明できなかった。海洋民族が内陸化していく過程で、潮垢離という古代の信仰的行為が、水垢離という古神道の宗教的行為に変容していったという推測は前にも語ったが、「海水」と「真水」とのつながりが具体的にあと一つうまく解明できなかった。ところが、その謎を解く鍵が何とこの「ゆの里」にあったのである。

 高野山を正面にした郊外の丘の上に、白い四階建ての近代的な温泉センターがあった。「ゆの里」は大勢の温泉客で賑わっている。妻と別れて浴場に入り、数種の湯船に浸かったあとベランダの露天風呂に出てみると、目の前には台形の高野山が若葉に映えていた。(とうとう高野山まできたぞ。あの山で空海が待っているんだ)

 気のはやる私は一足先に風呂から上がってコーヒーサロンで妻を待っていると、「ゆの里」の男性職員が近づいてきて、「高橋さんですね」と言う。
「はあ、そうですが?」
「今専務を呼びますから、お待ち下さい」
 何のことかと考える間もなく、キチンとスーツに身を包んだ好青年が現れて名刺を差し出す。ここの専務だった。
「お待ちしていました。今、母がまいります」と言う。
 ますますキツネにつままれたような気分になっていると、間もなく品の良い初老の女性が現れた。
「初めまして。重岡と申します」
 いただいた名刺を見ると「ゆの里」の社長重岡寿美子さんだった。

 実はS先生は重岡社長と懇意であり、私たちが「ゆの里」に行くのを知って、ぜひ社長に紹介したいからいっしょに行こうと言って下さっていたが、車で移動するため私の方のスケジュールが合わず、私たちはただの温泉客として来たのだ。重岡社長は事前に私たちが来ることをS先生から連絡を受けており、こういう次第になったのである。(それにしても、大勢の客の中で初対面の私がどうしてわかったのか不思議だった)

 間もなく上がってきた妻に事情を話したあとで、私たちは社長と専務の昌吾さんから「ゆの里」と弘法大師にまつわる不思議な話を聞かされた。それは、空海が「後世、水で世の人々を救う」という伝説である。

 昭和61年、重岡さんがここに温泉センターを造る計画を立てた動機は、「ここに井戸を掘りたくなったから」だという。その理由もこの場所を指定したわけも、重岡さん自身もよくわからないという。この周りにはそもそも水脈がなく、井戸水を欲しがっている近郊の病院や工場も、結局水道水を使用するしかない地域である。周囲の止めるのも聞かず、重岡さんは億を超す巨費を投じてしまった。

 掘削を始めたが、やはり水は出ない。しかしその夏、高野山付近に局地地震が発生し、その後、何と毎分400リットルもの無菌の水が湧き出たのある。「ゆの里」ではこれを「金水」と名づけた。専門家が水の波動(エネルギー)分析をした結果、極めて高い水準にあることがわかった。

 天然温泉センターの計画をもつ重岡さんはさらに掘削を続けた。ヤグラを立てた数日後、高野山にお参りに来た僧侶の一団がたまたま食事に立ち寄った。そのとき、別にお願いしたわけでもないのに大僧正たちがヤグラに向かって30分もお経を上げてくれたという。何百メートルも掘ったとき黒色片岩の岩盤に突き当たり、掘削師が「このような岩の下から温泉が出たためしはない」と言い出した。

 しかし重岡さんは、何故か「必ず出ると思った」そうである。
 一年半後、1187メートルの所で塩分を含む透明な水が湧いた。それを「銀水」と名づけた。こちらはさらに水の波動性は優れていた。こうして現在の「ゆの里」の名物「神秘の水」と「月のしずく」が開発されたそうである。かくして温泉は完成し、一級の健康飲料水、いや「命の水」が誕生した。

 京都大学の専門家は、この水は35億年前の原始海水が岩盤をカプセルにして今日まで温存されていたものであろうと推定したそうである。35億年前とは、まさに地球上に生命が誕生したときである。私はここに至って、ついに室戸以来の「海水」と「真水」にまつわる謎が解けたと思った。

 空海が後世水で人々を救うという伝説があることを重岡さんが知ったのは、金水が湧き出たあとのことで、もともと「空海の水」を掘り当てようと目論んだわけではなかった。ところがある日、弘法大師の特集番組をテレビで見ていたとき、空海の伝説的遺言を知って衝撃を受けたそうである。その遺言とは、「濁乱濁世なりとも、我が誓願に違わざれば、水金を湧かすべし」というものである。

 重岡さんはその水金とは、高野山の麓で湧出したこの金水のことではないかと思ったそうである。空海三千余の伝説の中には「後世、水で濁世を救う」という明確な意志が遺されていたのだ。驚いたのは重岡さんばかりでなく、海と水の伝説を追いかけてきた私も同様である。

 神野々の弘法大師の水は、その後不思議なことを続々と起こした。温泉センターが完成してからは、修験者や霊能者なども次々とやってくるようになった。露天風呂のテラスでは、入浴の合間に高野山に向かって毎日のように法螺貝を吹き鳴らす修験者も現れたりした。専務の昌吾さんは「ブォーブォーと大きな音に子どもたちは怖がるし、かといって断わるわけにもいかないし......」と苦笑していた。

 また、センターのサロンの南側の窓はもとはサッシの窓枠があったが、「これではせっかく高野山からまともに受ける弘法大師の気を遮ってしまうので、総ガラス張りにしなさい」と言われたりもした。しかし改装費用もままならぬと逡巡していたら、あろうことか一週間後に鉄のサッシがグニャリと歪んでしまった。原因を調査しても建築構造上何ら問題はなかったという。「それで結局、このようなガラス張りにしました」と寿美子さんも昌吾さんも目をパチクリして語る。聞いている私たちの方もパチクリである。

 ミネラルの豊富な波動の高い源泉を担保に出資しようという話(いわゆる商社がからんだ買収)が持ち上がったとき、今度は地下水の湧出量が急減した。(水が嫌がっている。お大師さんのご指示にちがいない)と思った重岡さんが話を打ち切ったところ、湧出量はまた元に戻った。

「金水」の噂を聞きつけた製薬会社や化粧品会社などが業務提携の儲け話を次々に持ちかけてくるが、重岡さんにとっては神野々の水はただの水ではなくなっていた。「弘法大師空海の水」である。これらは、彼女が私に話してくれたほんの一部である。

 ロビーのサロンには、銀水を金水で千倍に薄めた水だけで3年も生き生きと咲き香る蘭の鉢が所狭しと飾られている。寿美子さんと昌吾さんは、そこで「空海の水」にまつわる世にも不思議な話を2時間も話して下さった。これ以上続けるとオカルティックに聞こえるので割愛するが、結局重岡さんが私に伝えたかったことは、自分はお大師さんの遺言をお守りして「お大師さんの水」を世のために役立てたいということだった。

 重岡さんの決意を私は正しいと思った。私は降伏護摩で悪龍と戦う「三角寺」の空海伝説を思い出した。日本人の心を象徴する「菩薩の水」である。空海は「霊水」を守ろうとしたのである。人心の荒廃した現代に35億年の時を経てよみがえった水は、もしかしたら本当に弘法大師の「水金」なのかもしれない。

 重岡さんの話は迷信めいて聞こえるかもしれないが、霊水信仰は本来わが国の精神文化にあった知恵である。日本のナショナル・アイデンティティーであると同時に(こう言うと左派はすぐ馬鹿にするが)、グローバル・アイデンティティーなのである。なぜならば、インド人のガンジス川の沐浴や、ヨーロッパの「マリアの泉」や「ルルドの泉」にも見られるように、水信仰は民族を超えた普遍性をもつものだからだ。

 この思想は、やはり空海しか似合うまい。空海は優婆塞時代、四国で海水と真水の古代信仰に身を沈めたのち、世界の中心都市長安で国際的視野を広げた日本人だったからである。中国仏教界で今なお有名な日本の名僧は空海が筆頭である。空海は三国の師、恵果和尚が抜擢した一級の日本人であり、文化人であり、三ヶ国語を操る国際人でもあったからだ。

 私たちはもはや、水を使う灌頂を密教独特の神秘的な儀式としかイメージできなくなっているが、空海の水の思想は科学でもある。

 現在「ゆの里の水」は専門機関によって高く評価されている。和歌山県衛生公害研究センターやエーザイ生科研の分析では、類まれなるイオン成分が含まれていることが判明している。アトピーや糖尿病をはじめ、美容から老化防止、眼の疲労回復、癌の回復、精神安定にいたるまで、「ゆの里の水」の効能に全国から感謝の声が寄せられている。

 1981年、イギリスのライアル・ワトソンが世界の生命科学者の話題をさらった。植物学、人類学、化学、物理学、天体物理学、海洋生物学など、多方面の専門知識を身につけたワトソンは自書の中でこのように言っている。「体内にある液体は古代の海の完全な複製だ。土から開放された後、その海においてわれわれは結実した。血液中のナトリウム・カリウム、そして塩化物の濃度。組織中のコバルト・マグネシウム、これらはかつて原始の海におけるものと同じである。この大海をわれわれは今も体内にもって動きまわっている」

 生命の水研究所所長・松下和弘博士は、人体を流れる血液やリンパ液がミネラルウオーターであるのは、ミネラルが豊富に含まれた海水によって育まれてきたことを裏づけているものだろうという。だから、海こそが「命のふるさと」であるという。

 生命は35億年前、マグマ・オーシャン(原始海水)を羊水として誕生した。単細胞から多細胞生物へと進化し、やがて脊髄動物となって陸に上がってきたが、われわれの祖先である生命体が海を生命活動の場としていた期間は、何十億年という長い時間であったといわれている。故に人間の母胎の羊水は原始海水と同じ成分である。

 受精卵はその羊水に育まれて胎児に成長する過程で、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類など、35億年の生命の進化を一気に辿るともいわれている。初期の胎児にえらや水かきの痕跡のようなものが見られるのもそのためだといわれている。故に人体を構成する70パーセントは海水である。しかも脳はその一器官である。極論すれば、原始海水が、すなわち海がものを考えているのである。空海の水の思想の底流には「真魚の海水」があったのだ。

 DNAの記憶から宗教を考えてみると、海を拝む沖縄のニライ・カナイは、生命体の遠い記憶が祖霊の国へと誘う潜在的無意識なのかもしれない。古代日本人の海洋信仰や霊水信仰も、補陀落渡海の僧たちも、もしかすると妣なる海の呼び声を聞いたのかもしれぬ。

 私は弘法大師がなぜ1200年もの間庶民信仰として受け継がれてきたのか考えてきた。また、どうして空海は「海」と「水」がセットになって私の前に現れてくるのかを考えてきた。その謎が「原始海水」とともに今ベールを脱いだのである。

 重岡さんは一面識もない私に、まるで空海が彼女の口を借りて教えるかのように熱く語って下さった。それにしても私を高野山に呼び寄せて「水の謎」を解き明かしてみせるとは......私は空海の粋なはからいに感じ入った。そして、水と空海のテーマを追いかけていたことなど何も知らぬS先生が、私のためにこの日をセッティングして下さったことにも驚いた。

 たくさんのお土産までいただいた私たちは「ゆの里」を辞去する。空海が一瞬早からず、一瞬遅からず、姿を変えて現れてくるようだ。まるで計算されたかのごとく......S先生や寿美子さんや昌吾さんに心の中で合掌しながら、私は不思議な気持ちに駆られていた。


★高野山と私、父と子と母と

 私が高野山という名を最初に耳にしたのは、紙のカブトを母にかぶせてもらっていた幼少の頃である。母が自分の母親から聞かされたという昔話を、寝物語りに何度か語ってくれたときだった。一人の武家の少年が、生まれる前に消息を絶った父親を求めて高野山という山に登る話である。

 ある事情から妻子を捨てて出家した父は、今は高野山のお坊さんになっているらしい。少年は母から教えられた元武士の父親の名前と特徴を頼りに一人高野山の寺々をさがす。そして、あるお坊さんに出会って事情を話すと、お坊さんは少年の告げた名前が自分であることを知り、少年がわが子であることに驚く。
 お坊さんの風貌が母から聞いていた父親に似ていたので、少年はもしやあなたが私の父上ではありませぬかと問うのであるが、お坊さんは仏さまとの約束があるために父と名乗ることができず、お前の訪ねる人はすでに亡くなったと伝える。

 少年はならば墓はどこにあるかと詰め寄るので、お坊さんは「これがそなたの父上の墓ぞ」と他人の墓の前に連れていく。それが父親の墓であると信じた少年は、亡き父の墓にすがって号泣し、本当は父親であるお坊さんも胸張り裂ける思いで涙をこらえるのである。これが、母から聞いた話の一部始終である。

 私はこの物語を聞くたびに幼い心を悲しみで満たした。そのあと母は、いつも歌を唄ってくれた。やはり祖母から教わったというこの悲話にまつわる歌を子守唄代わりに唄った。
   月に村雲花に風。散りて儚き世のならい
という歌詞で始まるもの悲しい旋律であった。途中は途切れ途切れにしか覚えていないが(あるいは母がそう唄ったのかもしれないが)、私が今日まで記憶しているのはこのようなフレーズである。

   高野の山のおきてには、弘法大師のいましめに、
   女人はみ山にのぼられず、母はみ山にのぼられず......
   父は人より丈高く、左のまつ毛にほくろあり、
   加藤左衛門繁氏と、名のりて行きたや高野山

 高野山はそのとき以来、父を求める母子のもの悲しい山であり、墓の山であり、涙の山となって私の胸深く刻まれた。だから、高野山と聞くたびに父子の悲話が思い出され、あのもの悲しい調べとともに母を思い出す。

 母が語ってくれたのは「石童丸の物語」である。歌ってくれたのは「石童丸和讃」である。おそらく古い世代の日本人なら、みんな涙を流して聞いたであろう有名な「苅萱道心と石童丸」の物語を、戦後生まれの私は教養としてすら身についていなかった。空海を勉強しているうちにたまたま知ったのであるが、それがきっかけで胸の奥深く埋もれていた暗く切ない思いが母とともによみがえった。

 母は何故あのような悲しい歌を唄ったのだろう。私は父と心が通わなくなった母の心境を想像してみた。私の父親も、のちに在家のまま得度したが、「鯉のぼりの村」にいた頃から、父はもう母の心の中に住んでいなかったのかもしれない.

 父は居合抜きで滝の水が切れただの、風に舞って落ちてくる松葉を横には斬れるが、割箸を割くように縦には斬れぬなどと言う変人になっていた。戦前は夫婦仲も悪くはなかったようだが、剣の世界にだけは、母は立ち入ることを許されなかったそうである。父は全満州代表として昭和天覧試合に出場するほどの達人であった。剣道一筋のそんな男が、戦後一層頑なに心を閉ざしたために、母にとって父はもう手の届かぬ遠い存在になっていたのだろう。
   女人はみ山にのぼられず、母はみ山にのぼられず......
淋しそうな母の歌声がよみがえる。

 浮世を捨てた父を求めて高野山に登る石童丸は、四国遍路をしてきた私のようでもある。妻にこんな話をしたことはないのに、なぜか妻と高野山に登ることになった......その理由も空海に問いたい。

 もう一つ発見したことがある。石童丸の物語には、母が私に語っていない部分があった。後半である。実父の顔を見知らぬ悲しさに、父の死を信じた石童丸は、高野山麓の学問路の宿で自分を待っている母のもとに帰る。ところが戻ってみると、長旅で疲労していた母は亡くなっていたのだ。この部分を私の母は語っていなかった。人は愛するものとの別離を避けられないと釈迦は言う。母が後半を語らずとも、私の幼い心はどこかで「会別離苦」を予感していたように思えてならない。

 天涯の孤児となった石童丸は再び道心(実は父)を頼って高野に登り、そして道心の弟子となる。苅萱(かるがや)父子は、ついに40年ものあいだ親子を名乗らず、師弟として生涯を高野山の苅萱堂で修行したのである。

 私の胸の底にある高野山は、父と心通わせることなく死んだ母と、浮世離れしてしまった父とがオーバーラップする何か悲しい記憶につながる山である。妻と回った四国遍路の仕上げが、またこのような心の旅路になろうとは......。

 高野山は今も弘法大師の生きておわす山であるならば、四国の祖父・空海に会って尋ねたいことはいろいろとある。


★仏の真理を語る「理趣経」、結婚は神の秘蹟である

 空海が最澄の借覧要請を断った『理趣釈経』という経典がある。『理趣経』は真言密教の秘典ともいわれてきたもので、男女の性を賛美するような記述が露骨に書き連ねられたちょっと異様な経典である。高野大学の学長・松長有慶博士によると、「『理趣経』は文字通り表面的な意味で理解してしまうと、とんでもないことになり、誤解を恐れたために、古くから秘伝としてその内容を公開されなかった」との説明がなされている。(『理趣経』松長有慶著)

『空海の風景』をガイドにして、少しばかり『理趣経』を覗いてみよう。(以下抜粋)

(略)『理趣経』(『般若波羅密多理趣品』)というのはのちの空海の体系における根本経典ともいうべきものであった。他の経典に多い詩的粉飾などはなく、その冒頭のくだりにおいて、いきなりあられもないほどの率直さで本質をえぐり出している。
 妙適清浄の句、是れ菩薩の位なり
 欲箭清浄の句、是れ菩薩の位なり
 触清浄の句、是れ菩薩の位なり
 愛縛清浄の句、是れ菩薩の位なり
 妙適とは、唐語において男女が交媾して恍惚の境に入ることを言う。インド原文ではsurataという性交の一境地をあらわす語の訳語であるということは、高野山大学内・密教文化研究所から発行された栂尾祥雲博士の大著『理趣経の研究』以来、定説化された。筆者もそれにしたがう

と前置きした上で、前述の経文を紹介している。

 『空海の風景』をさらに抜粋する。

 (略)妙適清浄の句という句とは、文章の句ではなく、ごく軽い事というほどの意味であろう。「男女交媾の恍惚の境地は清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である」という意味である。以下、しつこく、似たような文章がならんでゆく。インド的執拗さと厳密さというものであろう。以下の各句は、性交の格段階をいちいち克明に「その段階もまた菩薩の位である」と言い重ねて行くのである

と述べ、「欲箭」とは男女が欲するのあまり、本能に向かって箭の飛ぶように気ぜわしく妙適の世界に入ろうとあがくこと。「触」とは男女が肉体に触れ合うこと。「愛縛」とは男女がたがいに四脚をもって離れがたく縛りあっていることであると解説する。

 そして、「それらは宇宙原理の一表現である以上、その生理的衝動のなかに宇宙が動き、宇宙がうごく以上清浄ではないはずがなく、そして清浄と観じた以上は菩薩の位である」と語っている。

『理趣経』は奥が深く難解ではあるが、以上のような司馬の簡潔な解説からも私たちはおおむね理解できる。また、空海にまつわる次のような司馬の感想からも想像がつく。

―三十二歳、大唐で『理趣経』を得たとき、この年齢のころ、空海はすでに性欲はいやしむべきものであるという地上の泥をはなれてはるかに飛翔してしまっている。それどころか性欲そのものもきらきらと光耀を放つほとけであるという、釈迦がきけば驚倒したかもしれない次元にまで転ずるにいたるのである-

―空海は万有に一点のむだというものがなくそこに存在するものは清浄―形而上へ高めること―としてみればすべては真理としていきいきと息づき、厳然として菩薩であると観じたのみである―

―空海は自分の体の中に満ちてきた性欲というこの厄介で甘美で、しかも生命そのものである自然力を、自己と同一化して襖悩したり陶酔したりすることはなく、「これは何だろう」と、自分以外の他者として観察するという奇妙な精神構造をもっていた―

―性欲はあくまで特定のその個人に属し、その個人そのものでありながら、しかし性欲は普遍そのもので何人の性欲も性欲であることにおいては姿もにおいも味も成分も寸分もかわりがない。それは万人に共通している。普遍である以上なぜ性欲という客観物として、それを一箇の物体として万人が観察する場にほうり出せないのであろうか。空海の関心と襖悩はそれであったにちがいない―

 これらの記述から司馬は空海の襖悩を性欲につなげて、『理趣経』を性の問題を中心にした密教の宇宙論に抽象化している。ただし、この経典の中で男女の交合を連想させる部分は初段の「清浄句」のところだけである。『理趣経』は本文全十七段ある少し長めのお経で、司馬が引用しているのは「大乗の法門」と呼ばれる初段に出てくる有名な部分である。といっても、司馬は『理趣経』はセックスのことが書かれているという世間的興味に応えるために引いたわけではなく、空海の人間的特異性を語りたいために「清浄句」を紹介しているのである。それは彼の次の言で表白されている。
 
―筆者は空海がなぜ大学をとびだしたかについてのなにごとかを知ろうとつとめている。かれの青春における変転を知るために、かりに、つまりは作業用の仮説として、かりにかれにおける性の課題を考えようとしている―(『空海の風景』)

 ただ、私にはこの経典が「釈迦がきけば驚倒したかもしれない」ほどの異次元のものであるとは思われなかった。司馬には『理趣経』が釈迦仏教の異流に見えたようだが、『理趣経』は正式には『般若波羅密多理趣品』といわれているように「空」の思想系列にある。

 であれば仏教を識る空海は、「妙適清浄の句是れ菩薩の位」という表現を、「性欲を一個の客観物として考えた」り、「自分以外の他者として考えた」のではないと推測すべきである。否、自己を包摂するところの、いわば「宇宙的交合」ともいうべき万物の生命の流れを感じ取ったのではないだろうか。そして、そこに「仏の意志」があるのなら、当然「妙適清浄は菩薩の位」となる。

 『舎利礼文』というお経には、「入我我入」という一句があるそうだ。「入我」とは、仏がわれの中に入ることであり「我入」とは、われが仏の中に入ることであると述べれれている。「我の中にもある神仏を通して、宇宙に遍在する神仏と一体化する」ほどの意味であろう。そのときの霊感が「妙適清浄は菩薩の位」である。空海が「性欲を一個の客観物」として考る感覚の持ち主ならば、生理学者にでもなったであろう。つまり、空海は「空の世界」と「色の世界」との融合を認識したわけで、釈尊と同じことをやったと考えられる。

 素人の私が何故こんなことを言うかというと、私には妙に納得できる経典だからである。『理趣経』は手強いお経だといわれ、研究者の間でも最も慎重に扱われてきたが、ある意味では『般若心経』よりも安心して聴き流すことができた。『般若心経』は弟子の舎利子に語っているから、人語としてのこちら側の国語力が試される。しかし『理趣経』は仏が仏に語ったものであるから、その点気楽であり、ある意味で無責任に聴くことができる。

『理趣経』には人間は登場しない。あらかじめ序段に場面設定がなされている。そこに登場するのは金剛大毘盧遮那如来(大日如来)である。大日如来の「理趣」という大説法を聴こうと八十億の仏が集合し、彼らを代表する八大菩薩が、教主大日如来を囲んで語り合うというシチュエーションになっている。場所は他化自在天という天上にある美麗な宮殿である(だから八十億の仏でも一同に会することができる)。

 そこで大日如来はいきなりセックスのエクスタシーこそ菩薩の境地であるなどと説き始めるのだが、あくまでも仏の世界の「ほとけ語」であり人間語ではないから私には面白い。むしろ「仏の真理」をそのまま人語としてとらえるとおかしなことになる。男女の交わりをもって密とした中世の立川真言流のごとき邪教は、おそらくそうした誤解があったのではないか。

 第三段「降伏の法門」には一見殺人を認めるようなことまで書かれている。
「金剛手よ、もしこの理趣を聞きて受持し読誦することあらば、たとえ三界の有情を害すとも悪趣に堕せず」(金剛手、若有聞此理趣受持、読誦、設害三界一切有情、不堕悪趣)つまり三界の生きとし生けるものの命を奪っても地獄に落ちることはないと書かれてある。

 第五段にもそのような表現が出てくる。オウム真理教は雑密をやった形跡がある。彼らがもし『理趣経』を人間語で解釈したのだとすれば、殺人も肯定されることになるだろう。タントラバジュラヤーナという殺人教義のもとに地下鉄サリン事件を起こした彼らもまた、「仏の真理」を理詰めで考えた「科学者の集団」だったのではないだろうか。麻原の女性信者に対するイニシエーションとはセックスをすることだったらしい。(ちなみにアーチャリーとは阿闍梨を意味するサンスクリット語)

 彼らは「仏の真理」を頭のはからいでいじり、逆に仏から離脱した集団である。「理趣は相手を見て説け」といわれてきたゆえんである。親鸞の悪人正機説を「悪人ほど救われる」と勘違いして、すすんで悪事を働いた愚かな人間が増えたことがあったそうだ。宗教における言語理解は両刃の剣になることがある。だから、空海は『理趣経』を秘典とし、密教の筆授を禁じたのである。

 もし空海が生きていたら、麻原に対してこう一喝したであろう。「汝もしポアしたくば、宇宙の塵となったのちに行え、人間界にあるときは人間界の真理に従え」と。
 そう思って読めば、『理趣経』は「空の智慧」を語ったものだということがわかる。「空」に充満する仏の智恵を、ギリギリまで言語化することに苦心した祖師たちの労作であるように思う。

 さて大日如来を迎える八大菩薩の中に、唯一かつて人間であった金剛手という菩薩が登場するが、これがお釈迦さんの天上のお姿であるといわれている。大日如来は四障を克服して悟りを開いた金剛手を、仏の中で最も優れた菩薩であると褒めるのである。四障とは四つの障害の意であり、菩提樹の下で釈を襲った四匹の悪魔のことである。大日如来は、金剛手は三界の中で一番の難敵の悪魔(煩悩魔)を排撃したから一番偉いといって五智の宝冠をかぶせ、そのあたりの智慧を金剛手に説法させる。

 ここで「空」の世界に往かれたお釈迦さんが、仏語を語り、仏の智恵をさらに詳しく聴かせてくれるという機会が私たちに与えられているのである。だから、下界においてすでに「仏の真理」を語った釈尊が『理趣経』を聴いて驚倒するようなことはありえまい。真偽のほどは知らないが、『理趣経』の原作者は釈迦であるとさえもいわれている。もしそうであれば、お釈迦さんが法身大日如来から聴いた内容を。再び大日如来に語らせていることになる。(そこでご本人がボサツ学校の優等生になっているのは面白い)その主文が「妙適清浄の句是れ菩薩の位」である。

 つまり、『理趣経』とは万物を生み出す母大日如来の偉大なる生命賛歌なのである。
これを地上に降ろせば、人類には原始より仏の意志としての「結婚」があったということになりはしないか。これがすなわち菩薩の位である。人類は結婚によって結ばれ、結婚は「神の秘蹟」であると祝福したキリストの教えに近づいてくる。剣山の御来光を浴びたとき、妻が人類の結婚(四極構造)の象徴的な説法を聴いたようだと言ったのも、こういうことだったのかもしれない。

Copyright © 2009-2024 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.